遺書と白昼夢

平野 斎

遺書と白昼夢

――なやむ仔猫がおまえだし みじめな犬がこのわたし 思えばふたりのこころには

なんだかくらいかげがある―― (ハイネ「はすの花」より抜粋)


 私はしがない中年作家で、もう四十にもなる。

 妻も子も無く、たまに小説などを書いては父がのこしたこの家で、細々ながら生活

していた。これでも、昔は新進気鋭の作家として文壇ぶんだんをにぎわせた事もあったが、

今では見る影すら無い。

 そんな天涯孤独の自分の前に、静かに雪の舞散る日、奇妙な客が訪れた。

 その珍客は黒の深い帽子を被り、白い毛皮のコートを羽織はおる格好で、玄関先に

立っていた。

 私は丁度、郵便受けに何か入ってはいないかと外に出た時なので、朝の七時位

だったと覚えている。

 「森村もりむら孝三郎こうざぶろう先生でございますか?」

 りんとした口調ではあるが、その中に妖しい響きを含んだ声は、口を聞いた途端

私の名を呼んだ。

 「確かに私は森村孝三郎ですが、あなたのような方がこんな老いぼれに何の御用

ですかな?」

 「そんなにご謙遜けんそんをなさらないで下さい。申し遅れましたが、私は萩尾はぎおあおい

申します」

  彼は一言そう言うと深々と頭を下げた。

 「こんな所で立ち話をしていたら風邪を引いてしまう。 詳しい事は中で聞くと

して、とりあえず中に入りなさい」

 私は、寒さのせいで紫を帯びた彼の唇を見ると、すぐさま家に上がるように

促した。

 「今からすぐ風呂を沸かそう、服も着替えたほうが良い。 私の物ですまないが

これを使ってくれないか」

 私は、奥の部屋から持って来たタオルと洋服を彼に渡した。

 「申し訳ありません。ではお言葉に甘えさせて頂きます」

そう言うと、彼は被っていた帽子をゆっくり取った。そこには、稲穂の如く鮮やかな金色の髪が、彼の秀麗な顔を縁取っていた。

 「君は・・・・・・!異国の人間なのか?」

 私は彼の髪に驚きの眼差しを向けた。

 「いいえ、私はこの国の者です。 生まれつき色素が薄いので、そう思われても

仕方の無い事ですけれど」

 少し淋しそうな表情を浮かべ、タオルを手に取り髪を拭いている彼と目が合った

瞬間、私は身体中の力が抜けていくのを感じた。

 そうして静かに服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になった彼を見て、私は美しさの余り

軽い目眩を覚えた。

 何と美しいのだ、彼こそが天使と呼ばれるべき者なのだろう。

 先程から凝視している私の目に耐えられなくなったのか、彼は恥ずかしそうに

うつむくとその身をかがめて洋服で白い肌を隠した。

 その姿は、得も言われぬ程の妖艶さに満ちていて、私の奥底にある欲望を刺激するには充分すぎた。

 「もう風呂が沸いているかもしれないな」

 気まずさの余り私は大袈裟おおげさに咳払いを一つすると、互いに沈黙の続くこの場から

すぐ様風呂場に向かった。

 きっと呆けた顔をしていたのだろうな・・・・。

 ゆっくりと湯をかき混ぜながら、彼を見ていた時の自分の顔を思い浮かべた。

 あの様な滑稽こっけいな姿はもう二度とさらすものか。

 そう心に決めた私は、一段と顔を引き締めると足早にきびすを返した。

 「君が先に入りなさい、早くしないと風邪を引いてしまう」

 「あの・・・・、先生も・・・・・・!」

 「私の事は良いから・・・・。君はあの雪の中、長い間立っていたんだからね」

 まだ言いたげな彼の言葉をさえぎり、私は彼に一人で風呂に入る様、少し強引に

説得を試みる。もし共に入る事になれば、私は自分の本能を抑え付けられるか

どうか、正直自信が無かったからだ。

 私は、嫌がる相手に無理強いをする程愚かでは無いが、欲望を犠牲にする程の

清らかさは持ち合わせてはいない。

 そんな私の思いを知る由も無く、彼は今にも泣きだしそうな顔をしてこちらを

見ている。

 「それならば先生も同じです。私に心配をさせて下さい・・・・」

 ここまで言われて、平静を装える者がいるのなら見てみたいと思いながら、

自分の身を案じてくれる彼の優しさの前に、結局私が折れる形となった。

 だがその代わりに、絶対に本能を抑え付けるという新たな決意を胸に刻んで、

風呂場へ向かった。

 そして私達は、ゆとりのある大きな湯船に隣り合わせに浸かった。

 

 「こんなに広い浴槽だと、まるで旅館にいる様です」

 彼はそう言うと、華奢な身体を猫の様に伸ばした。

 「昔取った杵柄きねづかに物を言わせて造らせたのだよ。独り身には勿体無いひのき風呂

だが、今日君が来てくれたお陰で無駄にはならない様だ」

 「どうやら、私はお役に立てた様ですね」

 私達はそんな事を談笑しながら、ゆっくりと風呂場を後にした。

 風呂から上がり着替えを終えた私達は、色々な事を語り合った。好きな戦国時代の武将は誰かとか、今の日本の政治家をどう思うかなどを延々と話していたのだが、

私はいつもと違う雰囲気に違和感を覚えた。それが猫がいないという事に気づく

まで、さして時間はかからなかった。

 「そう言えば、一緒にいる猫が今日は姿を見せなくてね。 どうやら、私は猫にも愛想を尽かされてしまったらしい」

 そう言って笑う私の顔に憂いを感じたのか、彼は優しく慰めの言葉をかけて

くれた。

 「・・・・きっとその猫は近くで、先生を見ていると思います」

 私達がそんな事を話し込んでいる間に、すっかり日が暮れていた事に気づき、

布団を隣り合わせに二つ並べると腰を降ろした。すると、寒さのせいでしかめ面を

している私の顔を、彼は不意に真剣な眼差しで見つめ、こう言った。

 「・・・・もし良ければ、私をここに置いてはもらえないでしょうか?」

 「何を言ってるんだ君は・・・・・・!」

 私は、言葉とは裏腹の思いを抱きながらも、儀礼的に突き返した。

 「自分でも非常識で馬鹿げている事位分かっています。でも、私の帰る場所はもうどこにも無いのです・・・・」

 身体中が脈打つのを感じた、まるで私達の出会いが運命づけられていたのかと錯覚してしまう程に。

 「・・・・・・本当に良いんだね?」

  彼は無言でうなずいた。

 「では、君の気がすむまでここにいなさい。 私は絶対に君を追い出したりしないから」

 私はそう言うと明かりを消し、布団に潜り込んだ。そして、少しすると彼の寝息が聞こえて来た。余程疲れていたのだろうと思いながら、私も静かに眠りについた。

 そうして次第に夜は更けてゆき、私達の新たな生活が始まった。


 彼がやって来たあの日から数えて、もう七日になる。私は今、原稿用紙と向かい

合っている。自分にもう一度書くという情熱を与えてくれた彼の為、学生時代に

書いた処女作『忘却の春』が一番好きだと言った彼の為に、初心に戻りただひたすらに書き続けていた。 すると急に玄関の戸を叩く音がした後、大柄な男が大きな足音をたてて入って来た。そして私の横にある原稿を手に取り、おもむろに読み始めた。

 「やっとお前らしさが戻ってきた様だな」

 しばらくして、彼は読み終わった原稿を元の位置に戻すと不敵に笑った。

 真崎まざき慎司しんじ、彼とは学生時代からの付き合いで、今は文秀社と言う出版社の編集長をしている。

 「先生、真崎さん、お茶をどうぞ」

 向こう側から葵君が急須と二つの湯飲みを持って来た。 私達二人は、和みながら茶を酌み交わしていたのだが、慎司がいきなり口を開いた。

 「それにしても、萩尾君が来てくれたお陰で孝三郎が生き返ったんだからな。

改めて言う必要も無いが、ここ十数年のお前の作品は死んでいた」

 「確かに慎司の言う通りだ。君がここに来てくれなかったら、私は未だに駄作を

この世に送り出していたのだからね。葵君、本当にありがとう」

 「私には・・・・勿体無いお言葉です・・・・」

 葵君は耳まで赤くなりながら、しきりに感謝の言葉を述べていた。

 「さてと、俺はおいとまするかな」

 慎司はすっと立ち上がると、玄関まで颯爽さっそうと歩いて行く。そして別れ際に

締め切りの期日を告げると、疾風はやての様に去って行った。

 「締め切りまであと十日か、早く書き上げなければいけないな」

 私は、白銀に輝く庭を見ながら気持ちを整える様に、深く息を吐いた。

 「ですが、くれぐれもお体を壊されない程度になさって下さいね」

 こうした彼の心遣いに幾度、自分は救われた事か・・・・。

 「ああ、無論だよ。君に余計な心配はかけられないからね」

 そう言うと、私は快調に筆を滑らせた。


 外がやけに静かだな・・・・・・。

 あの後、私はいつの間にかうたた寝をしていたらしく、目覚めた時にはどっぷり

日が暮れていた。肩には葵君が押し入れから出してくれた毛布が掛けられている。

 葵君を探そうと思った瞬間、不意に彼の声が庭の方から聞こえて来た。内容は

分からなかったが、必死に何かを頼み込んでいるらしく、その口ぶりからかなり

いているのが感じられた。

 私は気配を悟られぬ様に、障子しょうじのわずかな隙間から庭をのぞく。 すると黒い

コートを着た男と話している葵君の姿があった。

 「約束が違うではありませんか!」

  約束・・・・?何の約束なのだろう?

 「俺が律義りちぎに約束を守ると思ったのか?誓いなど、破る為にあるものだろう」

 いかにも傍若無人ほうじゃくぶじんそうなその男は、そう言うと鼻で笑った。

 「では、・・あと十日だけ待って下さい!」

 「・・・・・・いいだろう、ただしそれ以上は待たないからな」

 次の瞬間、黒いコートをひるがえし、男は忽然こつぜんと姿を消した。

 「葵君、今のは・・・・・・!」

 私は、月明かりの下で呆然と立ち尽くす彼の顔を見た途端、言葉を失った。

彼は泣いていた。 叫ぶわけでも子供の様に泣きじゃくるわけでも無く、ただその

頬に一筋の憂いを流していた。

 私は彼の肩を引き寄せると、家に上がり布団を敷いて無言のまま眠りについた。

 私には何も言えなかった。

 それからしばらくして、おぼろげな自分の頭の中に彼の言葉が響いた。

 「・・・・・・もう、終わりだ・・」


 今まで生きてきた中で、この日は私にとって一番忘れられない日となった。

原稿をすべて書き終えた私に、彼は静かに真実を語り始めた。

 「先生・・・・、私は人間ではありません」

 驚きの余り、絶句している私を見ながら彼はなおも続ける。

 「私は先生のお役に立とうと思い、人間になる決意をしました。 その為に悪魔にこの身を委ねたのです」

 「やはり、君はあの猫なんだね?」

 彼は首を縦に振った。

 「ただ一夜身体を重ねるだけで人間にしてやると彼は言いました。

しかし十日前、急に約束を破り私を連れて行くと言い出して・・・・」

 端正な顔を苦しそうに歪めながら、自分のすべてをさらけ出していた。そんな彼をいつしか私はきつく抱き締めていた。

 「行かないでくれ!君がいなくなってしまったら・・・・私はきっと壊れてしまう。 後生ごしょうだからずっとそばにいてくれないか」

 私の服の胸の部分が濡れている。だが彼の言葉は少しも乱れる事は無かった。

 「もし私を愛していないのならこのまま行かせて下さい。でも私を愛しているの

なら・・・・この場で殺して下さい」

 私は彼の瞳を見つめた。 意志は固く、覚悟はもう出来ていた。 悪魔にどこかへ

連れて行かれる位なら死んだ方が良いとその瞳が私に訴えかけていた。

 「葵君、私は・・君を愛している。例え肉体が滅びても、ずっと一緒だ」

 「先生、私はもうあなたのお側を離れません。これからは二人きりで永遠の時を

過ごしましょう」

 『君が為 例え我が身が 果てるとも 切に守りし 君の心を』

 私は原稿の終わりにこの言葉を書いた後、隣の部屋から家宝の短刀を持って来た。

 彼は物音も立てずに静かに座っていた。私は目の前に座ると、彼をこの手に抱く

格好で静かに心臓を一突きした。彼の熱く赤い血が刃を伝って私の手に流れ込んで

来る。

 「私は今一番幸せです、愛しい人の腕の中で死ねるのだから。 先生ありがとう

ございました」

 急に彼の身体が重くなり、鼓動もしなくなった。私は彼を殺し、そして彼はたった今死んだ。

 「孝三郎、原稿は出来たか?」

 慎司の声が聞こえる。焦りながら私は短刀を手に取ると、一思いに自分の腹を

裂く。辺り一面に血の海が広がり、意識が遠のいていくのが分かる。

 「孝三郎!萩尾君!・・・・」

 慎司は私達を見つけるや否や必死に私達の名を呼ぶ。 だがその声も徐々に聞こえなくなる。

 「慎司、私の・・最後の・・・・作品は私のすべてだ。これだけは絶対に世に出して

くれ」

 「当たり前だ!何があっても俺の所から出してやる。だから・・・・死ぬな!」

 「・・・・・・これで安心して彼の元へ逝ける。後は頼んだぞ・・・・」

 私は痛い程の慎司の慟哭どうこくを聞きながら、静かに息を止めた。


 「夢か・・・・妙にリアルで切ない夢だったな」

  講義中に昼寝をしていた俺は、授業終了と同時に急ぎ足で本屋へ直行した。

やはりあんな夢を見たせいで森村孝三郎という作家が実在していたのかが気になったからだ。だが、そんな問題は本屋に足を踏み入れた途端、すぐに解決した。

なぜなら、入ってすぐ目立つ所に森村孝三郎の本が平積みされているのを目撃したからだ。そこで、俺はそこに置いてあった『遺書』と言う本を手に取り、レジに

並んだ。その帰り道に雪が降り出した、二人が初めて会った時の様に。二人は幸せなのだろうか、そんな事を考えていると捨て猫を見つけた。名前は葵と書いてあった。きっと彼もこんな感じだったのだろうと思いながら、連れて帰った。家に着いたら、早速読んでみよう。それにしても不思議な夢だった。

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遺書と白昼夢 平野 斎 @hiranoitsuki

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