23

 私には長い静寂に感じられた。しかしスタジアムの咆哮に、我に返った。歌声が地を揺るがす叫びになっている。嵐のような大騒ぎのなか、サイモン主審のゴールを認定する笛の音が、確かに耳に入った。

 アイが飛びあがってガッツポーズをする。私はほとんど本能で駆け出した。ピッチの芝に足を取られながらも、まっさきに駆けつけて、力いっぱい抱きしめた。 


「アイ! ゴールだ!!」

「ヴュレルさん!!」


 アイも私に腕をまわして、抱きついてくる。


「シュートが決まった!!」

「ああ!! 素晴らしいシュートだ!! 君が蹴ったんだ!!」


 アイはとびきり頬を紅潮させて、興奮していた。これほど嬉しそうなアイは初めてだった。私も彼の頭を腕で抱えて、自分の胸に抱きしめた。


「良かったよ! おめでとう!!」


 プレミアリーグ、初ゴールだ。しかも逆転弾だ。これで、誰にも文句は言わせない。ポーティロにもギルにも、そして、クラブにも。


「本当に、おめでとう……」

「……ヴュレルさん」


 泣いているんですか? と、私の胸のなかでアイが呟いた。


「いいや……」


 涙など、とうに卒業してしまった感情だ。


「君のことが嬉しくて、感動しているんだ……」

「ヴュレルさん……」

「おいこら! いつまでラブシーンを続けるつもりだ!!」


 私は顔をあげた。アイもだ。訛声の無粋な侵入者は顔を見なくてもわかる。ゲイリーだ。呆れている。


「あとは、自分たちのベッドの上でやれ!」


 アイの顔が真っ赤になった。私は彼を放して、この無遠慮なストライカーを睨みつけた。


「妬いているのかい?」

「アホか!」


 ゲイリーは私を無視して、アイの頭を小突いた。


「良くやったな! いいシュートだったぜ!」


 エヴァレットも駆け寄ってきた。


「おめでとう! 素晴らしいゴールだ!」


 私は周囲を見渡した。いつのまにかチームメイトが汗で汚れた顔を揃えて立っている。みんな口々にアイを祝福した。そのなかにポーティロとギルもいたが、この二人だけはまるで傍観者のように遠まわしに眺めている。

 私は二人を睨みつけた。ポーティロは私の視線に気がつくと、やりにくそうに頭をかいて、アイの前に進み出た。


「グッドシュートだ」


 それだけ言うと、ぶっきらぼうに手を差し出した。まるで今しなければもう二度としないと言わんばかりに、表情が厳しい。アイはその汗に濡れた手を見つめて、ポーティロを仰いだ。


「ありがとうございます」


 その手をしっかりと握り返した。


「合宿の時よりはうまくなったな」


 ギルがポーティロの脇に立って、アイを見下ろした。


「もっと頑張れ」

「それだけかい?」


 私は非難を込めて聞き返した。ギルにこそ喉が潰れるぐらいソーリーと言ってもらわなければ、私の腹の虫がおさまらない。だがこの毒舌家は、自慢の鼻をふんと鳴らしただけだった。


「頑張ります」


 アイは不貞腐れるどころか、素直に応えた。

 ギルはちらりとアイに視線を投げて、また鼻を鳴らした。なぜか私の時と微妙に違っていた。


「やれやれ、ようやく終わったな」


 ゲイリーがくたくたになったユニフォームを脱いで、肩にかけた。私は急いで電光掲示板に目をやった。スコア表示は三対二。我々が勝利していた。

 スタジアム中がお祭り騒ぎになっている。アイのゴールしか目に入らなかったので、全く気がつかなかった。いつ審判は終了のホイッスルを鳴らしたのだろう? だがどうでもいい。ノーザンプールは勝利した。この瞬間、再び首位に返り咲いたのだ。

 我々は審判団と握手を交わし、アリーナの選手とも互いの健闘を讃えあった。

 サポーターの興奮がスタジアムを吹く風に交じって落ちてくる。私は両腕を伸ばして、頭の上で拍手をしながら歩いた。サポーターを讃えるためだ。随分前の話だが、一時期、ノーザンプールがプレミアリーグから消えたことがある。ライバルチームとの試合で、今ならフーリガンと呼ばれる熱すぎる魂の持ち主たちが大乱闘を起こし、相手サポーターに数十人単位の死者が出てしまったのだ。その責めを負ったのがクラブで、残り試合全て没収されてしまった。その結果、ノーザンプールは史上初の降格になり、その後数年、二部リーグで戦わなければならなくなった。長い歴史と格式を誇る名門クラブの降格事件は、サポーターにとってあってはならないことだったのだろう。精神的にも落ち込んだ選手たちを励ますために、誰かが歌いはじめ、いつのまにか全サポーターが大合唱するまでになっていた。サポーターの熱い魂が結晶したのが、あの歌なのだ。

 私と肩を並べて歩くアイも、サポーターの熱気に懸命に応えていた。他のチームメイトも手を叩きながら、ピッチを後にした。

 通路への入り口付近で、ローランとすれ違った。ローランは試合が終了しても、我々へ握手をしには来なかった。よほど悔しいのだろう。その高慢な顔立ちに浮かんでいるのは、激闘を物語る汗だけだが。


「その坊やには、うまい具合にやられたな」

「彼は、十九歳の青年だ。君とたった四歳しか違わない」


 ローランは腰に手をやり、わざとらしいため息をついた。


「名前は? 十九歳の坊や?」

「イソザキ・アイです」

「いいシュートだったぜ」


 アイはゆっくりと顔を輝かせた。嬉しげで柔らかい笑みが自然にこぼれた。


「ありがとうございます」


 次いで、何かを言いかけたが、我々のドレッシングルームがある通路から、ランドンコーチが手招きしながらアイを呼んだ。アイは名残惜しげに我々を見回すと、奥へ走っていった。私はその華奢な背中が小さくなるまで見つめた。

 隣で、くっくと笑う声がする。ローランがその悪党面に似合わない笑みを浮かべて、アイの消えた通路を親指で指した。


「可愛い奴だな」


 私は目を剥いた。しかしローランはそれだけ言って、アリーナのドレッシングルームへと向かってしまった。私はローランの髪の毛を掴まえても、その言葉の真意を聞きだしたかったが、チームのドレッシングルームへと先を急いだ。

 ドアは開いていて、室内では誰もが騒いでいた。みんな誰かれ構わず抱きあっている。まるでリーグ優勝でもしたような興奮ぶりだ。私はアイを探したが、いなかった。まだ帰ってきてはいないのだ。おそらく記者たちの質問でも受けているのだろう。バーン監督もいない。

 我々は笑いあい、互いの肩を叩きあった。今日の勝利はチームが一丸となったから得られたのだ。

 私はドアの真上にある円形の壁時計に目をやった。もうここへ着てから数十分は経過している。この場にいないのは、アイとバーン監督だけだ。

 ふいに、私の斜め向かいにあるベンチに座っているドュートルと視線があった。ドュートルも今日の勝利を喜んでいるとは思うのだが、周囲の喧騒には一線を引いて、静かにベンチにいた。私は近寄った。


「趣味の思索に耽っているのかい? ここはうるさいだろう?」


 するとドュートルは両腕を組んだ姿勢で、ゆっくりと首を横に振った。


「今日の試合が素晴らしかったので、その余韻を味わっている」


 まるで学術的な質問に答えるかのような、堅苦しい口調である。相も変わらないダルタニヤンだが、私は隣に腰掛けた。


「なるほど、その余韻はどんな味がするんだい?」

「それは勿論、極上のワインのように甘くてまろやかだ。このような美酒を味わえるなど、あまりないことだ。とても嬉しく思う」


 ドュートルもフランス人だった。私は苦笑して、しばらく彼の隣で同じ余韻を共有した。

 アイのことが頭にあった。

 私は彼のことをどう思っているのだろう?

 あの夜、キスをした。それは突然の衝動で、自分でも理解不能だ。その答えは心の奥底に芽生えているようなのだが、深海を覗き込んでそれを確かめる勇気がない。だが果たしてそれで良いのだろうか? いい加減に目を逸らさず、掴み取るべきではないのだろうか? 真実という名の種の実を。


「ヴィクトール」


 私は我に返った。ドレッシングルームはまだ騒がしい。


「ついさっきだが、エヴァンスマネージャーを見た」


 ドュートルの横顔に、暗い翳が差した。


「イソザキ君と何事かを話しあっていた」


 私は反射的に壁時計を見た。ドュートルもだ。だいぶ時間は経っている。


「遅い」


 まるで私の胸のうちを読んだかのように、ドュートルは短く呟いた。

 私は何かを思うよりも先に立ちあがった。黒い塊のような影が生じ、それはもの凄い速さで心の奥を侵食する。


「アイを探しにいくよ」


 その時だ。ドレッシングルームのドアが開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る