15

 レインはトイレの中を見回して、誰もいないことを確認すると、まっすぐに私のところへ来た。


「どうしたんだい?」


 レインとは最近口を聞いていない。


「ヴィク、アイに謝ったんだって?」


 レインは相変わらずの赤い髪を後ろへ撫でながら、私を上目遣いに見た。


「オレ、知らなかった。さっき、聞いてさ」

「誰に聞いたんだい?」

「アイだよ」


 私は小さく息を吐いた。


「オレさ、てっきりヴィクがあんなこと言ったから、アイの様子がおかしくなったんだと思っていたんだ。けれど、謝ったんなら、ヴィクは関係ないよね」


 手で髪を撫でつける仕草がとまらない。気恥ずかしい時のレインの癖だ。


「ごめん、ヴィク。ヴィクはもう立派な大人なのにさ」

「それはいいんだが……」


 私は口ごもった。レインは何を言いたいのだろう。


「だから、最近、アイがおかしいだろ?」


 レインは以前のように気安く私に話しかけてくる。


「刺々しいっていうか……オレには傷ついているように見えるんだよね。どうしてだと思う? ヴィク?」


 私のことを心から信頼している眼差し。

 かすかに、サポーターの歌声が聞こえてきた。……お前は王者だ……


「ねえ……何があったんだろう? ヴィク?」





 試合が始まった。

 センターサークルから魔法にかけられたかのようにボールが飛び出た。ボールはハイリー側だ。

 ゲイリーとアイは相手陣営へと走っていった。アイの小柄な姿は、みるまに遠ざかって見えなくなってしまう。私は強い意思でアイから目を引き剥がした。試合に集中しなくてはいけない。

 向かってくる相手のフォワードは、ノルウェー人とスウェーデン人のバイキング連合である。ノルウェー人のヤンは、私がボールを奪いに走ると、黒い髯で埋まった口元が好敵手を見つけたかのように白い歯を見せた。ボールを奪おうとタックルをする私に、ヤンはジャンプをして応える。バスケットボール選手のように飛びあがるのと同時に、シューズの底でボールを蹴って後ろへまわす。

 ボールは、背後から走りこんできたハイリ―の選手であるモーリスに渡った。私はむなしくピッチを滑った。

 モーリスは自他共に認めるイングランド一のミッドフィルダーで、巧みにボールを操ってゆく。ノーザンプールの下部組織出身で、本来ならば私のポジションを務めるはずだった選手と聞いている。しかしなんらかの理由で緑色のユニフォームに袖を通し、今はクラブの若きキャプテンでもある。

 モーリスをとめようと、バートンにギル、まだ怪我が完治していないケリーに代わって、すっかりレギュラーを獲得したペレイラたちが詰めよるが、相手はうまく味方へボールを回し、我々を撹乱する。右サイドバックにいるポーティロが長身をいかしてボールを奪うが、すぐにハイリーの選手が前方から攻めてきたので、ゴールを守るヴァレッティにおくった。

 私は中盤のセンターサークルの後方からそれらを眺めた。やはりハイリーは手ごわい。動きが下位のチームとまるで違う。一瞬でも集中力をなくしたほうが負ける。 

 ヴァレッティはグローブをはめた手で、ボールをエヴァレットへ投げた。

 キャプテンマークをつけたエヴァレットは、足下でボールを転がしながら、ピッチ上を見渡し、勢いよく蹴った。

 ボールは高く長く飛び、私の元へやってくる。

 いつものように、ボールを受けとめようとした。しかしボールは私の足首にあたり、反対側にはね返って、そばにいた青色のユニフォームに渡ってしまった。

 ヴューランジェはフランス人で、代表チームでは私の有能なパートナーだが、クラブチームでは侮りがたい敵というやっかない選手である。私がミスしたボールをすぐさま奪い取ると、挨拶もなしにドリブルしていった。バートンがタックルを仕掛けるが、それを交わしてモーリスへおくる。

 モーリスはハッセルベイクをフェイントで交わし、ゴール前へボールを蹴った。そこにはヤンがいて、大きく足を持ちあげ、振り向きざまにシュートした。

 ヴァレッティが横に飛び出し、パンチングでボールをピッチ外に出した。ハイリーのコーナーキックである。

 スタジアム中がブーイングに包まれる。

 我々のゴール付近に両選手が集まり、いくつもの人間の壁ができた。小競り合い、小突きあいは定番の場面である。私も下がって、ヤンの背後でボールを狙う。


「よお、色男。久しぶりだな」


 ヤンが肩越しに私を振り返ってきた。コーナーに立ったモーリスがボールを蹴ろうとしている。あいにく、旧知の親交をあたためる時間はない。


「あとにしてくれないか」

「つれねえなあ」


 青色のユニフォームを着たバイキングは、のんびりと呟いた。


「いやさ、最近お前、ちょいと調子が悪いんじゃねえかと思って……」


 私は半分聞いていなかった。前方に、アイがいた。その俊足でゴール前に戻って来たらしい。だが長身揃いの中で、半ば埋もれている。

 ボールが飛んできた。さすがにチームの司令塔はお喋りなストライカーをあてにはしなかったようだ。ヘディングシュートをしたのは、ヴューランジェである。だがハッセルベイクが邪魔をして、ボールはクロスバーを越えた。

 アイはボールの軌跡を確かめて、再び相手エリアへと走っていく。

 ボールはヴァレッティから右サイドバックにいるポーティロにわたり、そのまま縦パスでギルにゆく。


「もっと散らばれ!」


 ギルが珍しく腕を振りあげて怒鳴った。


「ヴィク! もっとスペースを広げろ!」


 私は周囲を確かめた。ギルの指摘どおり、ハイリーの選手に挟まれている。迂闊だった。急いで走り出した。

 ギルは右サイドのピッチライン際をドリブルした。相手ディフェンダーが止めに向かい、攻防がはじまった。ギルは背中をまわして相手の動きを封じながら、足で自在にボールを操っている。私は彼を助けようとそばまで走った。

 だがギルは私の姿が見えたにもかかわらず、後方にいたバートンにパスをした。怪訝に思ったが、後ろを振り返ると、すぐ背後に私をマークしていた選手がいた。気がつかなかった。

 バートンはペレイラにパスをし、ペレイラは切れ味鋭いドリブルで左サイドを切り裂き、相手ゴール前へクロスをあげた。

 駆け込んだのはゲイリーである。しかし、相手のゴールキーパーは赤子の手をひねるようにあっさりと止めた。

 ハイリ―のキーパーであるルネは、我らフランス代表チームの正ゴールキーパーで、その守備範囲の強さは私もよくわかっている。

 ルネはピッチにボールをおくと、思いきり蹴った。ボールは空高く飛び、センターサークルを越え、モーリスに渡る。

 モーリスは芝生を蹴って振り向きざまに受けとると、猛然とドリブルをした。獲物を狙う隼のように速い。私も短距離選手のように走り、エヴァレットよりも速く脇からボールを奪おうとした。だがその私を追い越して、モーリスに回り込んだ選手がいた。

 アイだ。

 アイは獲物に襲いかかる闘犬のように、モーリスに迫った。モーリスはボールを自在に動かして、アイを突破しようとしている。

 私も追いついて、横合いからタックルを仕掛けた。アイが一瞬私を振り返った。

 目があった。

 夜空色の瞳が不思議な光を湛えていた。思わず私は怯んでしまった。その隙を突かれた。

 モーリスが私たちの間をボールと共に駆けて行った。私とアイは素早く振り返ったが、青色のユニフォームに縫いつけられた十番の背番号を見送るしかなかった。

 アイは非難するように私を睨んだ。まるで私の存在が邪魔をしたと言わんばかりに。私も負けずに睨み返した。するとアイは悔しげに唇を引き結び、ボールの後を追って行った。

 私は顔を両手でぬぐった。まだ汗をかく時間帯には早いのに、もう全身が濡れていた。

 試合は、一進一退の攻防戦になった。 

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