14

「最近、妙だな」


 その日の練習が終了し、シャワーを浴びてドレッシングルームで着替えをしていると、先に終わっていたゲイリーが悪趣味なカウボーイブーツを高らかに鳴らして、私のそばに寄ってきた。


「なにが? 食堂のパンが美味しくなったことかい?」

「まったく、フランス人って野郎は、明日くたばるって時でも料理にケチつけるんだからな」


 頭を振りながら、舌のおかしいイングランド人がロッカーの扉に寄りかかって、私を指した。


「そうじゃなくて、お前だお前。随分と集中力が欠けてきたんじゃないのか? そろそろ三十男になるんで、その下準備でもしているのかよ?」

「私がぼけてきたとでも言う気かい?」

「怒るなよ。練習でも精彩がねえし、この間の試合でもミスっていただろ? 魂がどっかに抜け落ちている感じがするぜ。どこに落としてきたんだ?」

「別に」


 私は白いワイシャツに腕を通して、前ボタンを締めた。


「私だって普通の人間だ。調子の悪い日もある」

「へえ、初めて聞いたな。そんな殊勝な科白は」


 ゲイリーがわざとらしく口笛を吹いた。


「話はそれで終わりかい?」


 私は苛立たしい気分を押さえつけた。


「それなら、そこのドアを開けて消えてくれないか」

「おいおい、毛が逆立っているぜ? もしかしてご自慢の髪の毛が薄くなってきたのか?」


 ゲイリーは笑いながら下品なジョークを平気で飛ばしてきた。私は頭にきて思い切り鼻を鳴らした。


「君こそ、トイレに駆け込んで溜まっているものを吐き出してきたらどうだい? 私は君のオマルじゃないんだ」

「わかった、わかった。帰るって」


 両手を挙げて背を向けたゲイリーだが、その口はまだ帰り支度を終えてはいなかった。 


「妙といえば、あのジャパニーズも最近おかしいな」


 私はボタンを締めていた手をとめた。


「だれかれ構わず、噛みついているぜ。心配したレイン坊やにまで、俺に構うなって突っぱねたらしい。あんな奴だったか? まるで手負いの獣のようじゃないか、ヴィク」

「――アイだ」


 遮るように言った。


「アイ・イソザキだ。彼の名前はジャパニーズではない」


 何故か無性に腹立たしくなってきた。


「飼い犬のように素直で真面目だったアイが豹変したのは、私のせいだと君は言いたいのだろう?」


 急いでボタンを締め、黒いレザーのジャケットを羽織った。


「私が罵ったから、遠い地の果てからやって来た東洋のサムライは機嫌を悪くしたんだろう? 君はそう言いたいんだろう?」

「お前も自棄になっているな」


 ゲイリーは趣味の悪い鞄を担いで、ドアの取っ手に手をかけると、面白いものを見るかのように振り返った。


「ほんとに珍しいぜ。じゃあな、くそったれの友人。明日まで死ぬなよ」

「ああ、君も笑いすぎて死なないように祈っているよ」


 大きな笑い声が閉じたドアの向こうで聞こえた。私はその声に向かって叩きつけるようにロッカーの扉を閉めた。

 今日の練習は昼で終了した。明日は大切な第七節の試合がある。この前の第六節の試合が引き分けだったので、是が非でも勝利しなくてはならない。しかも相手は第二位につけているハイリーである。敗れれば順位が入れ替わる。絶対に落とせない一戦だ。

 私はロッカーの隅に置いてあるスタンドミラーの前に立ち、結っていた髪をほどいた。ゆるいウェーブのかかった黒髪は、肩や腕の線をなぞるように垂れ落ちる。クラブによっては長髪を禁止している場合もあるが、ノーザンプールは選手のプロ意識を信頼してくれている。

 しばらく鏡に映る自分の姿を眺めた。大昔、古代ローマ人を悩ませたというゲルマン人の頑強な体躯を、私は受け継いでいる。いやが上にも男の力を見せつけることのできる肉体を。 

 その時ドアが派手に開いた。ゲイリーが戻ってきたのかと思ったが、入ってきたのは小柄な影だった。

 アイだった。

 アイは顔の汗を手でぬぐいながら、息を切らしていた。だが私に気がつくなり、ハッとしたように足を止めた。


「今からシャワーを浴びるのかい?」


 チームメイトはみな帰ったと思っていた。アイが残っていたのは明日の試合のために違いない。


「そうです」


 アイは横を向いて、自分のロッカーをあけた。私へ向けられたのは小さな背中だ。

 苛立たしい気持ちが、燃え盛る炎のように私の心の中で熱くなった。


「居残って練習していたのは、今日の喧嘩の罰ゲームかい?」


 白いタオルを取った手が止まって、アイは肩越しに私を振り返った。強盗にでも出会ったかのように、険しい表情をしていた。


「違います」

「だが、君はチームメイトと言い争いをした。今日も昨日も一昨日も」

「俺のせいじゃないです」


 アイは噛みつくように言った。


「今日は、相手が思いっきりタックルをしてきた。だから俺は注意しただけです」

「ハッセルベイクはわざとではないと言っていた。私もそう思う。君はフォワードなんだ。ディフェンダーに削られて当然だろう」

「それで怪我をして試合に出られなくなったら、誰か責任をとってくれるんですか?」


 私はため息をついた。


「君がそういう態度をとっていれば、やがて居場所がなくなる。それでいいのかい?」 


 チームの雰囲気は以前にもまして険悪になってしまった。今日のハッセルベイクとの言い争いでも、チームメイトは冷ややかな眼差しをアイに向けていた。それは入団時にばら撒かれたウィルスとは違う。


「俺の居場所?」


 アイの目に暗い影が差し、上目遣いに私を睨みつける。


「俺の居場所なんて、最初からなかったじゃないですか」


 敵意を剥き出しにして、ドレッシングルームを出て行った。

 私はしばらくの間、その場を動けなかった。

 ――なぜ……

 唇にかるく手を触れる。

 ――なぜあのような行為をしてしまったんだ……

 深い悔恨が私を嘲笑う。

 ――彼を傷つけてしまった……

 私は再びため息をつき、うなだれた。暗澹たる気持ちに押し潰されそうになりながら、ドレッシングルームを出る。

 足が鉛を引き摺っているかのように重たかった。




 翌日、我々はバスでセント・ルイーズ・スタジアムへ向かった。

 試合開始まで、ドレッシングルームで静かに待った。慣れたスタジアムなので、どこよりも落ちつける。ここでモチベーションをあげるつもりだ。チームメイトもそれぞれの形で集中力を高めている。

 私は瞑想しているドュートルの隣に座って、自己の世界を高めていった。だがどうしても集中が続かない。

 やがてバーン監督が我々を集め、先発メンバーを発表した。


「ヴァレッティ、ポーティロ、ヨハンソン、ハッセルベイク、エヴァレット、ギル、ヴィクトール、バートン、ペレイラ、ゲイリー、アイ」


 チームメイトの間に、微妙な空気が流れた。私も内心驚き、そして心配になった。バーン監督が近頃の諍いを知らないはずがない。


「今日はハイリーが相手だ。この試合に負ければ、我々は首位の座を相手に与えてしまう。そのことを忘れずに戦って欲しい」


 監督は我々一同を見回しながら頷き、最後に言った。


「君たちならば、素晴らしい試合ができる」


 私はミーティングが終わってすぐに手洗いへ立った。急いで用を済ませ、潔癖なほどに磨かれた洗面所の鏡を眺めながら、手を洗った。夢中で指の間や爪の先まで洗ったが、まだ汚れがこびりついている気がする。

 不意に、背後でドアの開く音が聞こえた。肩越しに振り返ると、レインだった。

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