桜奏でる蒼天

@nepamaguro1192

第1話

 「お母さんの子どもの頃は、桜の時期はもっと遅かったのよ。ちょうど入学式に、ほら」

 アルバムに残されている着物の母と、体からはみ出る赤いランドセルを背負った私が、満開の桜と入学式と書かれた立て看板の前で笑っている。

「おじいちゃんは?」

「おじいちゃんはカメラマン。撮ってばかりで、一緒に写ってないのよ」

 えー、ダメじゃん、と一緒にアルバムを見ていた息子が不満を言う。僕の時は、ちゃんと撮ってよねと、私の方を向いてお願いをしてくる。

「そうね、忘れない様にしなくちゃ」

 だいぶ大きくなったお腹をさすりながら返事をする。4月から小学校に上がる息子は、お兄ちゃんになると分かると、急に背伸びした様な成長を見せる様になっていた。窓の外には、芽吹きだした桜が見えていた。


 解せぬ。

 思えば書店で並べられていた時に、悩むことなく手に取り、連れ帰ってきた、あの女。若いし、そこそこ可愛いし、ちょっとふっくらしてるけど健康そうな姿は、男子の好むタイプだった。一人暮らしだったりしてとか、一緒にお風呂にも入っちゃたりするのかなと、期待に胸をいつもより膨らませ、羨ましそうに見ている同志に対し、優越感に浸りまくって、いざ連れられてきたらどうだ。テレビ台の上に丁寧に飾られていた所までは良かった。小綺麗な、若い娘にしては広い部屋だなと観察していた。気づけば小さな手が体を掴み、あっという間にロボットと戦わされ、あちこち触った手を遠慮なく目の前に出す幼稚園児に、振り回されていた。

 20万人に登録される有名YouTubeチャンネルの人気は、俺あってこそだと自負していて、調子に乗った社員によって無計画に増殖させられても、大らかな目で見ていた。でも、今はダメだ。幼稚園に通う男児の相手はツライ。

 「今日もお疲れさま」

 息子と1日遊んでくれたブッコローに、感謝の気持ちを伝える。2人目を妊娠してから、思うように息子の相手が出来なくなっていた。悪阻や大きくなるお腹に息子のパワーを受け止められなくなり、息子が甘えたい時も、思うように抱っこもできない。お兄ちゃんになる事が分かるようになってからは、無理に我慢もしている姿があった。一緒に遊べず、好きな子供番組も無かった時に、息子が観ていたYouTubeで、図鑑のお兄さんと並んで映るオレンジ色の鳥を見つけた。話している事が、全部わかっている訳ではないだろうなと感じながらも、喋る鳥に夢中になり、笑い声が画面から聞こえると、一緒に笑っていた。

「ブッコローって面白いんだよ」

 仮面ライダーやレンジャーものも好きだったが、食卓ではブッコローの話が多くなった。時間を気にせず家族みんなでいつでも観られるし、時間もそう長くないので子供も飽きず、「この動画観たらに寝ようね」とか、声掛けもしやすくて良かった。そんな息子が、ブッコローのぬいぐるみが売られているのを知ると、「ブッコローと遊びたい」と言ってきた。これだけお世話になってるし、私も夫も好きになっていたしと購入に迷うことは無かった。

 自宅から有隣堂まで、息子が幼稚園に行っている間に行くことにした。夫に頼もうかと思ったが、夫の職場から有隣堂に寄って来るのは遠回りになってしまう。久しぶりに電車に乗って行こうと決めて、着いた時には体がちょっと辛くなってしまい、とにかく買うんだと並べられているブッコローの吟味をする事なく手に取って帰ってきた。そして、幼稚園から帰ってきた息子のはしゃぎぶりである。買ってきて良かったと息子を見て思っていた。


 今日は、新しい動画配信がされて1、2…、父親が起きてこないことからも休日だ。世の中の休日とは、その言葉通り休みであるはずなのに、休日が1番働かせられる。ここの息子の良いところは、休みの日も超早起きではないことだ。そして、無造作に玩具箱に入れずに、来た時と同じテレビ台の上に俺を置くところは「分かっているな」と感心している。そう思っていると、ドアの向こうから、タタタと軽い足音がする。さあ、今日も戦争だ。


 あっという間に日が暮れて、夕飯を囲む家族を見守りながら、今日1日を思い出していた。久しぶりに外の空気を吸った。埃も花粉も、きっと黄砂も吸った。空を飛んだ。枝の上に着地出来たらまだ良かったが。そうか、ご飯を終えた君たちは、俺を置いて風呂に行くのか。今日と言う今日は、一言ものを申したい。20万人のパワーを舐めるなよ。


 見慣れたリビングのテーブル。その上にブッコローが居た。でも、何というか気配を感じる。リビングのテーブルに乗っているだけなのに。よく見ると、テーブルはあるが、その周りは、ぼんやりとしていた。

「チョット、イイですか!?」

「うわっ!!」

 ブッコローが喋った。番組と同じ声で。困惑していると、茶色の翼でテーブルの前にある椅子に座るように促された。

「奥さん!僕は今まで、か・な・り!あなた方、家族に尽くしてきたつもりだ!」

凄い、番組を観ているそのままな感じで、ブッコローがこちらに向かって訴えてくる。

「しかし!こんなに尽くしてるのに、この家に来てから、お風呂の一つも入れて貰えないのは、おかしいと思う!」

上嘴が激しく動いている。翼も細かくパタパタ動かしている。そして

「お風呂に入りたいのね」

「そう!そうなんですよ!奥さん!」

 何でこんなにブッコローなんだろう。受け答えも、しっかりブッコロー。これは夢の世界だと状況から分かるのに、リアルに話しているようだ。その後、夫と息子で行った公園の顛末を聞かされ、止まることのない愚痴を聞かされることになった。

 朝起きてブッコローを確認すると、確かに砂埃によって薄汚れている状態だった。目の色も同じになっている。

「気づかなくて、ごめんなさいね」

ブッコローに声をかけると、ブッコローを手に取り洗面所に向かった。


 「…洗ってくれた事は、礼を言う」

昨日より、明るい色合いになったブッコローがテーブルの上に居た。綺麗になって良かったわ、と近づくと、ブッコローは語り出す。

「中性洗剤での優しい手洗い、薄めた柔軟剤までは良かった」

少し、下を向くブッコロー。

「しかし…、洗濯バサミで干すのはいただけない」

ぐっとブッコローが上を向くと、翼で、目の上にある耳を指す。

「ココは羽角!ただの飾り羽!耳羽とも言う場所なの!」

そうなんだと覗き込むと、確かに乾いた後も耳と思う厚みは無い。

「体の重さに負けて落ちちゃって…禿げちゃったらどうするつもりなの!?」

想像したら、思わず笑ってしまった。

「ちゃんと『有せか本』を買って、読んでくれないと困る!」

ちゃんと…載ってるからあ…と、笑ってしまった私に対し、最後は何とも言えない声になっていた。


 「ネットで買えたのね」

 ブッコローの言っていた本を購入しようとネットを調べていたら、ぬいぐるみの通販ページが出てきた。有隣堂まで行かなくても買えたのかと、その時のことを思い出すが、(今のブッコローに会えたか分からないしな)とスマホ画面をスクロールする。折角だしと、ついポチポチとカートに入れる。これからお金が掛かるのに、でも良いか、とやっているうちに、気づくと大きな金額になった。

「産休中で良かったわ」

夫に気付かれずに通販で買い物が出来るのも、買い過ぎてしまう理由になっていた。でも今回は自分のためだけじゃないしと、心で言い訳をしながら購入ボタンを押した。


 毎日ではないが、何かあるとブッコローは夢に出てくるようになっていた。自分が知らない夫や息子の話や、YouTube撮影の裏側を愚痴りながら教えてくれたり、すっかり友人と言うか、家族のようになっていた。息子と遊んでくれていることも含めて、お礼を言いたいと思っても、夢で会うブッコローは饒舌で、聞き役になってしまい、言いたいことを言えずに気づくと朝になっていた。

 もう産まれても問題ない週数を迎えた日、通販したものが届いた。本は産後に余裕があったら読もうかなと、お産セットに忍ばせる。今はまだ面会制限もあり、入院してしまうと出産日以外は面会が出来ない。経産婦だし、予定日より早く産まれるかもねと周りに言われ、少し早く出産準備をしていた。名前の候補も呼び方は決めているのに、どの漢字を当てようか夫と決めきれずにいた。

 一緒に届いた購入品を開封する。繊細な作りのガラスペン。青色に惹かれてインクも買った。ヨコハマインクと言うらしい。試し書きをしようと紙を探す。何て書こうかしらと取り出した広告の裏側に、ガラスペンに吸わせたインクを移していく。書き心地の良さに驚く。これで沢山の字を書いてみたいとワクワクした。


 桜の開花宣言が近づく頃、出産予定日まで1週間を切った。いつ産まれてもおかしくない事で夫も落ち着かず、職場から連絡が来る頻度も上がった。息子は毎日、時々動くお腹にビックリしながら、会えるのが楽しみとお腹の子に話しかけていた。卒園式も近いため、明日から母に来てもらうことにしていた。運動もしないとお産にも良くないからと、駅までは迎えに行くと約束して。お腹がいよいよ大きくなって、夜も眠りが浅くなることもあり、ブッコローと会う機会が減っていた。今日は会いたいなあと思いながら眠りについた。


 「呼ばれて、飛び出て、ブッコロー!」

 あれ?間違った?とこちらの顔を見る。表情は変わらないのに、表情豊かな感じの姿に笑ってしまう。最近、会えなくて寂しかったよと伝えると、「な、なんだよ急に」と照れていた。もう、産まれるんでしょ?と聞かれ、そうなのと返す。

「ブッコローにお願いがあって」

「このブッコローにお願い事なんて、高く付きますよ」

ふふふ、と声が漏れる。

「子どもの名前なんだけど」

ええっ!と仰け反るブッコローが面白い。まさか、決めてとか言わないよねと聞かれる。

「名前の漢字を決めて欲しいの」

「…漢字かあ、今は読めないのばっかですからね」

届かない両方の翼で、腕を組むような動作をする。

「で、男の子?女の子?」

「私似の可愛い子よ」

うーん、と悩んでいるブッコローに、夫と選んだ漢字を伝えていく。そこまで決まっているのねと、候補の漢字からブッコローは画数がとか、テストの時に自分の名前で時間取るのは勿体無いとかブツブツ言いながら選んでくれた。


 身軽だった頃は、最寄り駅までゆっくり歩いて15分位だったのに、今は時折、呼吸を整えないとたどり着けなくなっていた。30分位かかって駅のロータリーに着いた。早めに家を出て良かったと駅前のロータリーを進む。ちょっと階段は無理だわと、エスカレーターに乗り込む。ちょうど電車が着いた頃だろうか。母は何度か家に遊びにきた事はあるが、いつも父と車で来ており、電車で来るのは初めてだった。生まれ育った田舎とは違い、今住んでいる最寄り駅は、人口増によって改札の数も住み始めた頃より増えていた。(間違えずに出られると良いけど)と、エスカレーターを降りようと足を踏み出した時、パチンと弾けるような感覚が下半身に起こった。

「えっ」

 生暖かい液体が太ももの内側を伝う。まさか、これって。とにかく母と会わないと、そう思い改札口へ急ぐ。ちょうど改札口から、母が大荷物で出てきていた。

「桜」

母が私の名前を呼ぶと同時に

「お母さん、破水したみたい」

えっ!と母が大きな声をあげる。破水したみたいって、何?なんで分からないの?、だから家まで私が行くって言ったのにと、荷物を抱えたまま矢継ぎ早に言ってくる。

「しょうがないじゃん、奏の時は予定日過ぎて、病院で破水させたん…イタタっ」

「とにかく、あんたは病院行きなさい!」

荷物と私を抱える感じで、母はタクシー乗り場まで連れてきてくれた。奏の幼稚園バスの時間を伝え、家の鍵を母に渡した。

 タクシーに行き先を伝えると、痛みが強くなり座っていることも辛くなった。横になりながら痛みを堪える。運転手さんが色々声をかけてくれるが、返事もままならない。1人目もこんな感じだったっけと思い出そうとするが、何か子宮口を広げるものを入れられたり、陣痛促進剤使った事とかは思い出すが、その辛さや痛みは思い出せなかった。

 通っていた産婦人科に着いた時、タクシーから降りる事が出来ず、運転手さんが声をかけた後に、ドアの開閉する音が聞こえた所まで覚えているが、次に記憶に残っているのは「おめでとうございます」と言う声と遠くに聞こえた元気な鳴き声だった。


 桜の母から『おしるしがあったので、病院に行かせました』と連絡があった後、上司に了解を取って、夫の天は早退した。出産日の面会を逃すと、退院まで面会は出来ない。また寝不足の日々が戻ってくるが、赤ちゃんの可愛さは、そんな事を忘れさせる。ちょうど快速電車に乗れた事も、早く会いに行けと神様が言ってくれているようで、心が踊る。スーツの内ポケットに入れていたスマホが細かく揺れた。通知先を見ると、産婦人科からだった。間に合わずに、もう産まれてしまった?それとも入院の知らせかな?と思い、(電車の中だしな)と、電話を取らずにいると、留守電通知が入った。留守電なら大丈夫かと、スマホを操作する。留守電を確認すると、子どもが産まれたこと、出産後の妻の出血が止まらず、産婦人科では処置できないため救急搬送すると看護師の声で入っていた。

 訳がわからず、産婦人科に折り返しの電話をする。

「すみません、今連絡を頂いた…」

事務員から、看護師に代わりますと言われ、保留音がなる。保留音からガチャガチャと切り替わり、看護師が出る。家族である事を確認された後、本来なら医師から説明すべきだが、妻の処置から手が離せないため説明できない事、子どもは無事に産まれた事が説明された。そうした説明を聞いてると、後ろで会話する声がする。少し慌てた声で、

「奥様の搬送先が決まりました。西湘大学附属松田病院へ直接向かって下さい」

と告げられた。


 何で、電車でこんなにかかる職場を選んだんだろう?違う、あの街が良かったから家を買ったんだ。今日の朝はいつも通りに見送りをしてくれたじゃないか…何で、何で…。焦っても電車は思ったようには進まない。しかし車を使っても、ここからならもっと時間がかかる。車で通ったことのある、搬送先の病院の場所を表示したスマホの画面を見つめているが、頭の中は混乱していた。

 大学病院の最寄駅で降りて、タクシーで向かう。自分に起きている事が理解できないのに、手を見ると震えていた。タクシーから降りた後も、何処か体に力が入らず、浮いてるような、でも急いでいる足取りで病院の受け付けに行き、そこから救急の受付までの対応の遅さに焦りながら向かって行った。大きな両開きのドアに救急救命室と書かれた場所の前に着いた時は、慌ただしく人が出入りしているその場所で、自分がどうすれば良いか分からず立ちすくんでいた。

 事務員が声をかけてくれたが、妻がここに運ばれてと、扉を見つめたまま答えるのがやっとだった。事務員から中のスタッフへ声がかけられ、此方へどうぞと通された先は、小さな診察室だった。

「説明させていただく、救急の森田と言います」

 はい、と答える。産科からはどのように説明されてますか、と確認される。出血が多くて、ここに運ぶと連絡が来てと伝えると、医師からは、多分、急激に進んだお産の影響で子宮の何処かで出血を起こしている事、今は輸血をしているが、輸血した分、出血しているような状態で、意識も無いに等しいと言われた。その後、治療方法について説明されたが、医師の言葉が入ってこない。

「助けて下さい」

 そう言う自分の声が、頭に響いたと同時に涙が溢れた。ただ泣いて嗚咽して下を向いて肩に力を入れていた。桜を失うのは嫌だ。それだけは、はっきり思う。

「どんな方法でも良いから…助けて下さい」

 医師はその言葉を聞くと同時に、上着のポケットに入れていたPHSを手に取り、どこかに連絡を取る。言われるがままに、いくつかの書類にサインをすると、医師に呼ばれた看護師に肩を支えられ立ち上がる。促されるまま廊下に出ると、酸素マスクといくつかの医療機器を繋がれた妻が、輸血と見たこともない、点滴のようなものを繋がれてストレッチャーで運ばれてきた。朝は顔色が良かった妻が、酸素マスクをした姿で目の前を通る。顔色が蝋人形の様だった。

 「桜…桜!」

名前を呼ぶのが、精一杯だった。あっという間に妻は運ばれていった。


 淡いピンクの絨毯に、パステルカラーの青い空。春の匂いがする中に、桜は立っていた。後ろからは、小川が流れているような音。とても後ろが気になる。

「ちょっと!何で、こんな所にいるんですか!」

聞き慣れたブッコローの声がする。ピンクの絨毯の中に埋もれたオレンジ色が目立つ。何でと言われても、夢の中だし分からない。

「分からないけど、ここは良い所みたいじゃない」

「そんな訳ないでしょ!」

何故否定するのだろう。心地よい場所じゃないか。機嫌の悪いブッコローに機嫌を直して貰おうと、桜は声をかける。

「そうそう私、ブッコローに手紙書いたの。ブッコローといる時は、なかなか私の話が出来なかったから」

いつの間にか、手には書いた手紙があった。

「折角だから、読むね」

ブッコローは、イライラした感じの動きを止め、こちらをじっと見ている。

「ブッコローへ。

 いつも奏と遊んでくれてありがとう。

 私が2人目を妊娠してから、思いっきり遊んであげられなかったり、寂しい思いや我慢をさせる事の多かった奏が、ブッコローに出会ってから、とても毎日楽しく過ごせるようになりました。

 最初にブッコローに惹かれた奏だけではなく、ブッコローを知ってからの私たち家族は、ブッコローのおかげで共通の話題を持ち、家族としてまとまってきたと思います。

 そんなブッコローと、夢の中で繋がる事が出来た私はとても幸せです。これからも、私たち家族と一緒に楽しい思い出を作ってください。

 いつもありがとう、ブッコロー。 桜」


 読み終えて、ブッコローの方を見る。どうだった?と感想を聞くが、何か考えているのか返事をしてくれなかった。そうしている内に、後ろの方から呼ばれた気がして振り返る。後ろ側には、暖かな陽射しが降り注ぐ草原が広がっていた。

「綺麗」

 誘われるように歩き出す。もう少しで小川に差し掛かるところで

「行っちゃダメだ!行っちゃダメだ!行っちゃダメだ!」

珍しい、震えるようなブッコローの声。ブッコローの声の方を向くと、ブッコローの翼だけが桜の右手を握り、引き留めようとした。

なんか、こんなブッコローのセリフが動画にあったなと思いだそうとした時に、桜を眩しい光が包んだ。


 聴き慣れない、ピッピッピッ…という音と、何かの機械音。口の周りに強い風が当たっている違和感。少し息がしにくく、とにかく全身が重い。瞼も薄ら開けるのがやっとだった。うっすら開けた瞳に強い光。眩しいと開けた目を瞑る。右手が暖かいなと、そちらの方を向くと見馴れた頭があった。

 声を出そうにも、喉が痛くてうまく声が出せない。繋がれた右手に力を入れた。それに気づいた、目の周りや鼻の下を真っ赤にした夫が顔を上げ、強く手を握り返し、瞳から大粒の涙を流した。


 奏の卒園式も、約束していた入学式も出る事が出来なかった。最初は、卒園式に出られない事情を理解出来なかった奏が、私より先に帰ってきた弟を見て、何かを感じたのか、そこからは何も言わなかったと夫から聞いた。入院先で、子供にあげるおっぱいを絞りながら、奏にも産まれた子どもにも申し訳ない気持ちで一杯だった。お腹の傷が痛んでも、もう子どもは作れないんだなと思うとぽっかりとした気持ちが襲ってきた。


 「まったく、一時は、どうなるかと思いましたよ」

ブッコローが、久しぶりに出て来てくれた。思わず、駆け寄る。

「…ブッコロー、小さくなってない?」

駆け寄ったのに、いつも夢で会っていたブッコローより、半分くらいの大きさに見えた。

「そりゃあ、あなた。どれだけのパワーを使ったと思ってるんですか」

体は小さいが、いつものお喋りだ。

「そう言えば、あなた、自分に似た可愛い子って言うから、女の子だとばかり思っていたら、立派なモノが付いたサルみたいな子が出てきたじゃない」

「産まれたばっかの子は、みんなそうでしょ?」

「そりゃあ、そうですけど。女の子は可愛いじゃないですか。うちの娘も生まれた時から珠のようで…、次は、女の子がいいですよ」

「そうね。でも、もう子どもは産めなくなっちゃたから」

その言葉を聞いて、しまったと言う動きをする。

「気にしないで、息子たちが可愛い娘さんを連れてくるのを楽しみにしてるから」

ブッコローと話しをしていることで、気持ちの整理が出来た気がする。

「息子がブッコローの娘さんを連れてくるかもよ?」

そう言うと、ブッコローはえええっ!と声を上げ、娘は一生、誰にもやりませんからと言った。そんな風に話している内に、ブッコローの姿が少しまた小さく、色味が薄くなっていく。

「ブッコロー?」

ブッコローは、黙って私の方へ右の翼を差し出した。私も少し体を屈めて右手を出し、握手をする。そう言えば、握手は初めてだ。

「言っときますけど、別れる気は更々ないんで」

言おうとした事が、分かったように話し出す。

「もう、あなた方とは友人というか、家族みたいなものなので」

その言葉を聞いて、頷く。

「いいですか、戻るためにも、あなた方はチャンネル登録者数を100万人にするように普及活動をしなさい」

100万人?と驚くと、「それ位でないとやっていけない」と、どう言う意味で捉えたら良いのか分からないことを言った。

「またね。ブッコロー」

そう言うと、ブッコローの姿はいよいよ薄くなり

「良いですか!100万にー…」

と言う声と共に、消えてしまった。目が覚めると、久しぶりに帰ってきた自宅だった。


 滞在期間を延した母と、育休を予定以上に取ってくれた夫により、自宅に帰っても体に負担をかける事なく過ごす事が出来ていた。ブッコローに漢字を決めて貰った蒼は、家族みんなに可愛い可愛いと言われて、今のところ問題なく育っている。奏は弟は可愛いが、しばらくして会えなかった私にベッタリとくっ付いていたい気持ちが勝ち、弟と私の取り合いをすることも多々あった。夫も時々参戦するため、いよいよ困った時には、テレビ台で見守っているブッコローに登場してもらい、何とかしてもらう日々が続いた。

 体調が戻ったのを見計らって、撮れなかった入学式の家族写真を写真館で撮り、その後に奏が通う小学校に家族で行って、校門前で写真を撮った。桜も入学式の立て看板も無かったが、緑の中で撮る家族写真に奏も満足したようだった。

帰り道に、奏が私の方を振り返り

「そう言えば、昨日ブッコローが夢に出てきたよ」

と、言ってきた。私は、びっくりして聞き返す。

「ブッコロー出てきたの?」

奏は目を輝かせながら、「うん」と言い、ちいちゃいブッコローがね、僕には兄弟は仲良くしないといけないって言ってて、パパは泣き過ぎだって言ってて、…何だっけかな。「お母さんに言って」って、言われた事があって…と思い出そうとしていた。何か難しいことを言っていたと言いながら

「あっ、そう言えば、パワーが足りないって言ってたから、僕、ブッコローにパワー!!!って、やってあげたの」

「そうなんだ」

まだ、パワーが足りないんだと、夢での事を思い出す。

「思い出した!お母さんにね会うためには、パワーが足りないんだって」

うーんと、と奏が続ける。

「会うために、セイシン…セイイ?頑張っているので、約束した100万人のパワーをよろしくって」

 その言葉を聞いて、今までの出来事を確信する事になった。夢の中で、私は本当にブッコローと会っていたんだ。何とも言えない気持ちになった。家に帰り、ブッコローに宛てた手紙を探してみる。その手紙は何処にもなかった。


「100万人じゃないとダメ?」

 テレビ台の上に置かれたブッコローの初号機に語りかける。隣には、奏に「ブッコローにも兄弟が欲しい」と言われて迎えた、ブッコロー2号機がいた。

「ぬいぐるみなら、もう少し増やせそうなんだけどな」

意地悪く、ブッコロー初号機に話しかけると「ダメー!」と、ブッコローが叫んでいるような声が聞こえた気がした。案外、早いうちに会えるかもしれない。そう期待をしながら、ブッコローに会えた時に渡す手紙を、また書こうと思うのだった。





 

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