擒の記
坂本梧朗
第 1 部
1 朝の拷問 断章―1
これはやはり年の功なのかもしれない。起床すると、体は自動的に動いて準備を終え、幹生は家を出て鉄道の駅に向かった。若い頃のように心が重く沈んで、体の動きがのろくなるようなことはなくなった。それだけ心理的にタフになったのか、鈍くなったのだろう。ただし、気持に明るいものはなにもない。苦痛だけが待っている場所に行こうとしているのだ。明るい気持になるはずがない。ただそれをあまり悩まなくなったのだ。
駅の跨線橋はホームの端にある。本当はホームの中央に位置していたのだが、ホームの跨線橋より北側の半分が使用されなくなった。それで跨線橋がホームの端と認識されるのだ。列車は南半分のホームに停車する。だから上り列車の先頭車両は跨線橋を下りてすぐの位置に停まっている。改札を出て、跨線橋まで歩き、それを渡り終えるまでに通常二分かかる。改札から列車に乗り込むまでの距離を最短にするには先頭車両に乗ることになる。
列車の到着を告げるアナウンスが始まった時点で、まだ跨線橋に達していなければ走らなければならない。アナウンスの始まりから列車の到着停止まで四十秒足らずの時間がある。最悪なのはまだ改札にいる時にアナウンスが始まる場合だ。肩掛け鞄を押さえて走る。跨線橋の階段を一段抜かしに駆け上がる。息が切れる。その日の苦痛の始まりだ。階段を駆け下り、先頭車両の最も手前の扉に走る。目の前で扉が閉まり、列車が動き始めることも何度も経験していた。とにかく幹生は最短距離の先頭車両に長い間乗ってきた。しかし、尼崎で百余名が死亡した電車の脱線衝突事故があってから、一両目にのることはやめ、二両目にした。
車内に入ると、素早く空席を探す。新聞紙を広げている男の隣は空いていても避ける。ゆったりと座れるスペースがあるのが一番だが、それは望むべくもない。きっちりと尻の幅だけ空いている隙間に腰を落す。この時不快なのは隣の乗客が全く動かないことだ。普通尻を少しずらすなど微調整をするものだが、全く動かず、お前など関係ないという対応を示す。拡げた両膝を少し
幹生は電車の中で読書をするのを習慣にしている。この習慣も二十年近くになる。これでかなりの量の本を読んできた。近頃、この読書にどうも集中できない。内容が頭に入らない。眠くなって目を閉じてしまっていることも多くなった。これも年のせいなのか。
列車が突然停止する。「信号停止」というアナウンス。一分以内に動き出せば問題はないが、何が起きたのか、五分経っても動かない。苛立ちが幹生の気持を圧迫する。これには遅刻を憂慮する思いの他に特殊な理由がある。それは職員室での幹生の座席の位置に関係がある。幹生の机は本田と頃末の机に挟まれている。椅子の後ろにはロッカーがあり、椅子との間隔が狭い。本田と頃末が着席していると、幹生はどちらかの背後を通って自席に達しなければならない。その際、彼らの椅子の位置によって、動かしてもらわないと通れない場合がある。本田も頃末も幹生とは因縁のある教員で、どちらかと言えば敵対的関係にあった。だから幹生は「すいません」などとは言いたくなかった。特に年下の本田には。電車が遅れると彼らより先に自席に座っていることが不可能になる。その焦慮が幹生の気持を重苦しくするのだった。
鉄道というものもよく遅れる。天候、事故、車両故障など原因は様々だが、その度に幹生は焦燥に囚われてしまう。本田が隣席にきて、その背後を通らないと自席に着けないという状況も二年目になる。今では重苦しい焦燥も条件反射化し、より強いものになっていた。幹生はこれを自ら「朝の拷問」と名付けていた。
列車が無事に目的の駅に着けば、それで拷問の可能性が無くなるというわけではない。次の関門はスクールバスだ。駅の前から今度はスクールバスに乗る。最も望ましいのは待っているバスが、幹生が乗り込むとすぐに発車することだ。ごく稀にそういうこともある。しかし、もちろんそうはいかないことが圧倒的だ。まず、駅前に出てもバスが来ていない。三台のバスが学校と駅の間をピストンしているのだが、五分待っても来ない。十分待っても来ない。これは最悪だ。あるいは、バスは来ていて乗ったとしても、なかなか発車しないこともある。生徒を満杯になるまで詰め込むのだ。既に乗車してから五分が経過した。腕時計を覗く幹生を焦燥がどす黒く覆う。これ以上乗せられないだろうと思うのだが、乗車指導係の教師がなかなか発車の指示を出さない。これも苦しい。幹生は焦燥を懸命に抑えて待っている。列車は定刻に駅に着いたのに、朝礼五分前に職員室に入ることは難しくなってきた。着いた時には自席の両サイドは二人によって固められているだろう。〈早くしろ! 〉幹生の心が
去年の年度始め、本田が幹生の隣に座った。それまで二人は所属学年が異なり、従って座席も隔たっていた。ほとんど接触することはなかった。それがいきなりの急接近だった。本田が幹生の学年に移ってくると知って、幹生は嫌な気がしたが、席が隣になるとは思っていなかった。幹生と本田は殴り合いにはならなかったが、その寸前までいく口論をし、それ以後口をきかない関係になっていた。その二人が
座席移動の日にちょっとした事件が起きた。朝、松木という教師が幹生に席を替わってくれないかと言ってきた。松木は幹生と考え方に合うところがあり、職員室で幹生が話を交わす数少ない教師の一人だった。松木の席は幹生の斜め前で、ブロックの端にあった。隣が頃末の席だった。松木は頃末が嫌いだと率直に打ち明けた。隣から自分の日常を見られて、周囲に何を告げ口されるか気味が悪いと言った。また、席が窓に面していて、日光が眩しいとも言った。幹生は応諾した。幹生も頃末は嫌だったが、本田の隣の挟まれた席よりはましと思われた。幹生は教頭に座席の変更を申し出るべきではないかとちらりと思った。しかしそれは言い出した松木がすべきことだった。また、当事者二人が合意しており、その方が過ごしやすいのであれば、それでいいではないかとも思った。それに反対するどんな理由があるのか。いちいち許可を求めるようなことではあるまいと思った。その思いの底には教頭その人への反発の気持があった。二人は座席の変更を実行した。それを知った教頭の蜂須賀が幹生に文句を言ってきた。「勝手に席を替わらないでください。冗談じゃないですよ」と蜂須賀は憤慨の表情で言った。なぜ自分に言ってくるのだろうと幹生は思った。幹生は苦笑して、「私はいいんだけど、松木先生が替わってくれと言ってきたから」と応じた。「私に許可を求めるのが筋でしょう」と蜂須賀は語気を強めて言った。やはり、と幹生は思った。その後、蜂須賀と松木は話し合っていたが、結局座席の変更は認められなかった。
職員室の机の配列は、向き合った三対の机が一ブロックを作り、そのブロックが四つ縦に並んで一学年の列を作っている。ブロックの片側の三つの机の真ん中が幹生の机に指定されていた。本田と若い常勤講師の机が幹生の机を挟んだ。幹生が圧迫を感じるのは自席に着くのに本田という関門をクリアしなければならないことだった。初対面に近い常勤講師に「ちょっとすいません」と声をかけるのは何ともなかった。またそんなことを言わなくても動いてくれるはずだった。だが本田はそうはいかない。幹生は喧嘩相手の本田に「ちょっとすいません」などとは言いたくなかった。自分の席に座るのにいちいちそんなことを言っていては仕事などできない。何も言わなくても椅子をずらして通すのが当たり前だと考えた。しかも態度は大きいが本田は年下なのだ。幹生は何も言わず座っている本田に近づく。本田が椅子をずらして通してくれればいいが、動かなかったらどうするか。言葉をかけるか。「ちょっとごめん」「いいかな」ぐらいか。「すいません」とか「すまん」とかは絶対言いたくなかった。そして本田がうるさそうな表情で自分を見上げたら、あるいは舌打ちでもしたら、冷静な気持ではいられなくなる自分を幹生は感じていた。幹生が
本田と隣席になって半年が過ぎた。本田は幹生が背後を通ろうとすると椅子をずらした。言葉をかける必要はなかった。この男もトラブルを避けようと思っているのだと幹生は思った。しかし気分次第で対応を変えてくる男だ。幹生の緊張は解けなかった。このままトラブルを起こさず、一年をやり過ごせば、また席替えがある。幹生には一年を平穏に乗り切ることが至上の課題のように意識された。それで彼は朝礼時、本田より確実に早く席に着いているために、出勤の電車を一つ早いものに変えた。
一年が過ぎた。新しい座席配置が示された。幹生の席はブロックの端にあり、隣のブロックの端にある本田の席とは通路で隔てられていた。幹生はホッとし、一年間我慢した甲斐があったと思った。ところが、座席移動のその日、朝礼で教頭が配置の変更を告げた。野球部監督の席を作るので、該当の列は席が一つずれることになったのだ。その結果、幹生は再びブロックの真ん中の席にはめ込まれ、左隣にはまた本田がきた。しかも悪いことには頃末が直接の右隣となった。変更前には幹生と頃末との間には空席が一つ挟まり、それが緩衝の役割をするはずだった。その空席をつぶす形で変更が行われたのだ。幹生は謀略に嵌められたような気持になった。職員室に顔を出したこともない野球部監督の席など作る必要はないはずだった。野球部顧問の教師が、パソコンや野球部関連の資料を置くための机を自分の隣に一つ確保しようとする、あるいは、隣にきた厄介な本田を遠ざけるための口実ではないか、と幹生は疑った。
状況は昨年より悪くなった。自分の席の両側を、噛みつく牙を持った獣に囲まれたような感じだった。
幹生は出勤の電車を元に戻した。十分早く起きるという負担を、もう一年延長することが馬鹿らしくなった。なるようになれ、という気持だった。その代償が「朝の拷問」であり、狂おしい焦燥だった。
断章―1
この男はロマンチストである。この男を特徴づけるにはロマンチストという語が最適だろう。ロマンチストは真・善・美に憧れる。彼の場合は特に真・善への希求が強かった。小学生の頃から、究極的に真なるもの、善なるものを常に求め、それに憧れていた。
そんな彼が中学生の頃、真に偉大な人物と見なして尊敬していたのは釈迦・キリスト・そして孔子だった。彼は宗教的・哲学的な思索にふける少年となっていた。親が、特に母親が新興宗教を信仰しており、彼もその宗教にその頃入信した。その新興宗教の教祖は明治半ばの生れで、たくさんの著述をした。その著書には仏教・キリスト教・イスラム教など主要な世界的宗教の経典が引用されていた。彼は自分が覚知した真理はそれらのどの宗教にも共通する普遍的なものだという立場をとった。その教祖の著書の殆どを幹生は読み、彼の宗教的知識は豊富なものとなった。幹生は他にもその方面の文献を多く読んだ。彼は信仰と宗教的・哲学的思索を続けながら、いかに生きるべきかを模索していた。
大学に入学した幹生はマルクス主義に触れることになった。浪人時代を含めた受験勉強の重圧がもたらした被抑圧意識が、社会に対する批判意識を培い、マルクス主義・共産主義を人類に解放をもたらすものととらえさせることになった。
いったん、それが真理だと考えると、それを絶対視して他を見なくなってしまうのもロマンチストに通有の性情だ。幹生は今までとは正反対の唯物論の立場に立ち、宗教を否定することになった。また、人間を搾取する資本主義を悪として否定し、その変革を志向することになった。共産主義の実現が新たな彼の理想になったのだ。方向は百八十度転回したが、理想を追い求めるロマンチストとしての彼の心性に変化はなかった。彼は共産主義の実現を目的とする組織にも加わり活動した。資本主義社会はマルクス主義の真理によって廃絶すべき悪と見なされた。幹生はそんな社会の中で出世していこうとする志向を唾棄すべきものと考えた。マルクス主義を至高の真理と考えるロマンチストの彼にとってそれは当然の態度であり、彼はそれで十分満足だった。
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