リュクレース気象予報局のシエル ~うたたね空姫と冷徹王子の快答録~
倖月一嘉
侯爵夫人の花の病
第1話 猫とネズミは春に眠る
その機関は、王宮の敷地内の外れ。一年を通して色とりどりの花が咲き乱れる温室を抜けた先にある――
「おい、白ネズミはいるか」
その日、気象予報局に顔を出したアヴェルスを出迎えたのは、馴染みの女性局員だった。
「あら殿下、ご機嫌麗しゅう。シエルちゃんにご用ですか? ちょっとお待ち下さいね」
亜麻色の髪をきっちりと結い上げた女性局員・マリーは、スッと立ち上がると、白衣を軽く摘まんで会釈を一つ。慣れた様子で、部屋の奥――うずたかく積まれた本や資料の向こうへと呼びかける。
「シエルちゃーん、王太子殿下がいらっしゃいましたよー」
しかし、この部屋で一番日当たりがいい席からの返事はない。
予報現業室――彼ら気象予報官の仕事部屋は、たった三人という総員の少なさに比べて広い。いくつもの部屋の壁を抜いて作られた大部屋には執務用の机が数列に分けて並べられ、壁一面にはまだまだ中身の埋まりきっていない本棚やキャビネットが置かれている。一方で、机の上には整理されていない資料や、日々の業務で生まれた書類が山と成り、壁と成している。
将来的な組織の拡張を見越してのことだが、この物置と化している現状を鑑みると、なんとかしなくてはと、アヴェルスは思う。
「シエルちゃーん、シエルちゃーん。……あら?」
なおも返ってこない返事に、マリーが窓際に回り込む。しかしそこに、アヴェルスの尋ね人はいなかった。
「さっき見た時はここで明日の予報原稿を作っていたと思うのだけど。どこに行っちゃったのかしら」
頬に手を当てて嘆息するマリー。壁掛け時計を見ると、時刻は昼時を少し過ぎていた。
「うーんこの時間だと……応接室の方かしら? 今日は寮でサンドイッチを作ってもらってたみたいだし、そこでお昼にしてるんじゃないでしょうか」
「……屋上」
ぼそり。呟いたアヴェルスを振り返って、マリーが目を丸くする。
「屋上、悪いが鍵を開けて貰えるか」
言葉を足す。するとマリーはゆっくりと瞬きをし、それから的を射たとばかりに、ふわりと笑って頷いた。
「はい、お任せ下さい」
部屋を出て行くマリーに続いて、屋上へ向かう。
古くは客人だった離宮を改装して作った気象予報局の棟内には、その至る所に出入りを制限する扉が設けられている。古今東西、集められた気象や自然にまつわる資料を、火災や窃盗から守るためのもので、内側からは自由に開けることが出来るが、外側からは鍵がないと開けることが出来ない。開けられるのは、局員に支給される鍵だけだ。さすがのアヴェルスも簡単には立ち入りできない。
真鍮色の鍵で扉を開いていくマリーを追っていくと、やがて物見塔の入り口に辿り着く。開け放たれた扉の足下には、やはりこれも局員の鍵でしか外せないかんぬき錠が転がっていた。
「あら、正解。殿下、よくお分かりになりましたね」
「…………」
「シエルちゃーん、殿下がいらしてますよー。シエルちゃーん」
反響する呼びかけ声を聞きながら、無言で螺旋階段を昇る――と。
「あら。あらあらあら」
マリーが突然、立ち止まった。
「……? どうし――」
怪訝な顔をするアヴェルスを振り返り、マリーが人差し指を唇の前に立てる。静かに、の仕草に思わず口を噤むと彼女はにこりと笑って、アヴェルスに道を譲った。
眉を顰めて、登ること残り数段。目映い光に、目を細める。
そこに、白銀の髪の少女が眠っていた。
春だった。どこか霞がかった柔らかな蒼穹に、浮かぶ真白い雲。降り注ぐ日差しは温かく、頬を撫でる風は優しい。微かな葉擦れの音が細波のように響き、宙にはどこからか飛んできた白い花弁が舞い踊る。
そんな穏やかな春の中、胎児のように身体を丸め、少女が眠っていた。緩く編んだ二本の三つ編みは床に投げ出され、ずり上がったスカートの裾からはほっそりとした足が覗いている。
あまりにも無防備な。そんな少女の腕の中では、巨大な長毛の猫が同じように身体を丸めていた。
(いないと思ったら、こんなところに)
思わず呆れかえるアヴェルスの視線の先で、主の来訪に気付いた猫が目を覚ます。大きな欠伸を一つして、しかしまた少女の腕の中に潜り込んで寝てしまう。今度は少女の顔にお尻を向けていた。少女が起きる気配はない。
それを見て、アヴェルスは思う。
(――まったく、主を差し置いていい度胸だ)
アヴェルスはずんずんと少女に歩み寄ると、おもむろにその鼻を摘まみ上げた。
「う、むぐ……」
呼吸を止められた少女が、苦しそうな声を上げる。そのまま過ぎること、一秒、二秒、三秒――あと何秒持つかな。そう思ったところで、
「ぶはぁ!」
ようやく少女が飛び起きた。空色の瞳が、アヴェルスを見る。
「何してくれるんですか殿下! 鼻を摘まむのはやめて下さいと何度も言いましたよね!?」
「呑気に寝こけているお前が悪い。第一、今は就業時間だ。減給するぞ」
「えー」
淡々と追求するアヴェルスに不満げな声を零し、少女はふさふさの猫を顔の前に抱え上げる。
「気温、湿度、気圧、風速。どれをとっても最高なこんな日に、お昼寝しないなんて損ですよ、損。ねっ、メルキュール」
「なぁ~ん」
そう言って同意を求めると、猫――メルキュールは媚びた声を上げる。
アヴェルスは半眼で猫を掴み上げた。そのままポイッと放る。「んにゃ!」と抗議の声が聞こえた気がするが気にしない。
「知るか。それより仕事だ」
「今日の分の仕事は終えました。じゃなきゃ寝てません。さすがに」
「いいからツラを貸せ。支度をしろ。出かけるぞ」
矢継ぎ早に命じれば、「むー……」と渋りつつも、少女は頷くしかない。
「私の安眠を妨害した代償は高く付きますからね?」
少女は跳ねるように立ち上がり、胸を逸らして思いっきり伸びをする。スカートの埃を軽くはたいて、笑顔で歩み寄ってきたマリーに昼食のバスケットを預ける。
それを確認し、アヴェルスは踵を返す。その背を、少女が慌てて追う。
「それじゃあマリーさん、行ってきます」
「は~い」
「局長にちゃんと言っておいて下さいね! サボりじゃないって! 殿下に連行されたって!」
「はいはい」
「早くしろ。置いてくぞ」
「来いっていったのは殿下じゃないですかぁああああ」
そうして慌ただしく出て行く二人に向かって、マリーはひらひらと手を振る。
「行ってらっしゃ~い。夕飯までには戻ってくるのよ~」
春風と共に――
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