パチパチ

桐崎浪漫


「ねぇ。何か、雰囲気 違わない?」


「そう?

最近、忙しかったからかな?」


ウイカ... は、俺の返事に

「そうみたいね」と、目蓋まぶたを臥せて

「先週は ロクに会えなかったわ。

メッセージの返事だって、一言 二言で... 」と、拗ねた顔をして見せた。


「ごめん。マジで仕事が、さ」


「そう... 」


そう。久しぶりなんだよな。

部屋で会うのも、ソファーに並んで飲むのも。


凍らせたライムが入ったベルモットのグラスを傾けると、口の中に流し込んだものを 一息に飲み込んだ。

まだ 味に慣れないな。普通のワインなら まだしも。何だって 家で こんなものを飲むんだろう?


ウイカ は、手にしたグラスに眼を向けたまま

「私のこと、もう 好きじゃなくなったのかな... とか、思ってた」と、融けていくライムを ハーブ酒の中で揺らした。

ふうん... こうやって拗ねても かわいいんだな。


「そんな訳ないって... 」


そう返しながら、話して みようか... と、ふと 思った。

飲み慣れない味の酒のせいかもしれない。

本当のことを話したら、どうなるだろう?... と。


でも、俺は “俺” だ。

笑い飛ばされるのが関の山だろうな。


「ウイカ」


名前を呼ぶと、顔を俺に向けた。

緑がかった琥珀色の虹彩。日本人なのにな。

すっと細く伸びた鼻筋に 整った小鼻の下に、柔らかい厚みを持つ唇。

白い肌には手入れが行き届いている。

まだ拗ねた表情かおのままだけど 美人だ。


「実は、怖い事があってさ」


「え?... なに? 急に」


「いや、いいから 聞けって」


グラスを傾けている間に、ウイカは

「そういう話、信じてなくなかった?」と 不思議そうに聞いたが、“信じてなかった俺が話し出す” という事には 興味を持ち出している。


「うん。でも体験しちまったら、信じるしかなくなるだろ?

肯定派になった訳じゃないぜ。

でも少なくとも、俺が体験した事だけは」


「なによ、“肯定派” って... 」


やっと笑ったな。拗ねた顔も良かったけど。

空けたグラスに 緑色のビンを傾けて注ぎ、テーブルに瓶を戻すと

「半月前... いや、まだ先月の終わりくらいだったかな?」と 話してみることにした。


半月前だったか、先月の終わり頃だったか。

いつから それが起こったのかは、よく覚えていない。

パチパチ と、音が聞こえる様になったんだ。


最初に気づいたのは、仕事中だった。

ファイルに書き込んでいる時で、いつになく集中していたにも関わらず、パチ、パチ... という音が耳に入ってきた。

小さな音なのに、やけにハッキリと。


キーボードの音じゃない。

梱包資材のプチプチを潰すような音でもないし、もちろん 拍手でもない。泡が弾ける音でも。

聞いたことがない音だった。


でも その音を擬音にするなら、やっぱり パチパチだ。

何の音だ?... と 周りを見回しても、あんな音を発する様なものは何も無い。


「... 疲れてたし、空耳か? とか思ってさ。

まぁ、その時は そこまで気にならなかったし、仕事に戻ったんだよ」


ウイカに「その音って、何に近い音なの?」と 聞かれたから

「さぁ。実際には無い音、かな」と 返して、続きを話した。

つい、組んでいる足に沿ったスカートのラインに落とした視線を、また顔まで戻しながら。


パチパチ という音は、帰宅途中に寄った コンビニから出た時にも聞こえた。

会社で聞いた音と同じ音だったけど、違ったのは 音がした方向だった。


会社では、どこから音がしたのか分からなかった。前の方からでは なかった... という事しか。

コンビニから出た時は、右側からした。

でもやっぱり、音の発信源になるようなものは見当たらない。


部屋に帰ると、普通に テレビを観ながら 弁当 食って、シャワー 済ませて。

寝る前に、ベッドで スマホゲームしてる時にも聞こえたんだ。

今 居るリビングてはなく、寝室で。

ベッドの、俺の すぐ近くで。


耳の病気なのか? 変な耳鳴りかもしれない... と疑って、耳鼻科に行ってみようか とも考えたけど、その考えが変わったのは、アレを見てからだった。


「... 朝も 音が聞こえたんだよ。

ヒゲ剃った後に、すぐ隣で。

で、鏡の中に見つけちゃってさ」


それは、両目だった。


「やだ!」と、ウイカが 目を見開いた。

グラスを手にしたままだという事も忘れているようで、結露のしずくが スカートに小さな水の染みを作っている。

でも、本当の事だ。


「それがさ、丸い眼球なんじゃなくて。

んー、どう言えばいいかな?

透明人間の目だけが見える... って感じかな」


パチパチ という音は、それがまばたきをする音だった。


瞬きに音はない。自分でしても聞こえない。

でも、宙に浮く両目が目蓋を下ろすと、一瞬その目が見えなくなって、また開かれた時に、パチ... と音が聞こえるんだ。


アレを見た時は、これまでの人生で 一番 ゾッとした。

シェーバーを投げ捨てて 飛び退ずさったくらいだ。


飛び退っても、鏡に映る両目の視線は 俺を追っている。

こんな事 ある訳ない... これは幻覚だ。疲れ過ぎてる... と、鏡が映す両目の方向に、恐る恐る振り返ってみると、そこに両目があった。


鏡の中に居る訳じゃない。

こいつ、会社でも コンビニでも、寝室でも...

とにかく離れたくて、開けっ放しにしていた背後のドアから リビングへと逃げ込んだ。

両手も膝も震えていて、鼓動が狂ってせたりもしながら。


それでも何とか、寝室のクローゼットを開けて 部屋着を脱ぎ散らかしながら着替えると、スマホとカバンと、ネクタイを引っ掴んで 外へ出た。

引っ掛けていただけだった靴のかかとに 自分の踵を収めながら、まだ震えてる手で 鍵を掛けて、会社に向かった。


「... 自転車通学や通勤の人たちと ぶつかりそうになりながら 早足で歩いて、大通りに出たら、やっと 少し落ち着いたんだけど」


話を聞いている内に、眉をひそめて 嫌そうな表情になっていた ウイカは

「でも... 先々週に会った時は、そんな話 してなかったよね?

あの時には もう、その目を見てたんでしょ?」と 寝室の方に視線を向けている。

目が居やしないか と、不安なのかもしれない。


「そう、だな。

“疲れてるからだ” って思い込むようにしてたんだよ」


だけど、一度 両目を見てからというもの、両目そいつは頻繁に現れるようになった。

電車の中でも、仕事中も。外で飯を食っていても、部屋でテレビを観ていても。

パチパチという瞬きの音で気付く時もあれば、浮いている目に気付く時もあった。


両目は いつも、俺を じっと見ていた。

そして 両目は、他の誰にも見えていないようだ。


... 俺が、おかしくなってしまったんだろうか?

幻覚や幻聴なんて、よっぽどじゃないのか?


両目は、ソファーに座っている俺の隣から 見下ろしている。

両目の 床からの高さは、いつも同じくらいだ。

立っている俺の目より 少し低い位置。

見つめる以外に 何をしてくる訳でもないけど、気味が悪い。


目が覚めると、両目が見下みおろしている。

病院へ行こう。

慣れては きた。でも いつかきっと耐えられなくなって、本当に狂う。


今すぐに... と、会社に 体調不良を理由に欠勤の連絡をし、着替えを済ませると、顔を洗った。

タオルで吹いて洗面台の鏡を見ると、俺の目に重なるように 両目が映っていて、ふつりと 目の前が暗くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る