ブッコロー這う這うの体

おへそサイボーグ

ブッコロー這う這うの体

 ブッコローは逃げていた。後ろを振り返る余裕もなく、ひたすらこの場から離れることだけを考え、いや、もはやそれすらも頭の中にはなく、ただただ恐怖に導かれるままに遮二無二羽を動かしていた。鮮やかな羽角はしなだれ、目は焦点が定まらず、自分がどの方向に進んでいるのかも分からない。ひょっとしたら目をつぶって飛んでいたのかもしれない。その証拠に正面から何かにぶつかり、勢いそのまま壁にしたたかに頭を打ちつけ、そこで意識が、途絶えた。


 一体何が彼をここまでの恐怖に陥れたのかを説明するには、話を1時間ほどさかのぼる必要がある。

 某月某日。その日は「有隣堂しか知らない世界」の撮影日だった。指定された集合時間より少し早めに、撮影場所である有隣堂伊勢佐木町本店に到着したブッコローは、時間つぶしのために、さしたる目的もなく店内をぶらついていた。

 

 それはよく見る光景だった。各フロアを練り歩き、本や雑誌を抱えて忙しく動き回るスタッフに声をかけ、「今、汗水流して働くことは後々君の財産になるからね。俺も昔は苦労した」など社長さながらのアドバイスを授けては、満足げに去っていく。YouTubeの人気者と話せて嬉しそうなアルバイトスタッフもいるが、多忙な業務を中断させられて困惑する者も多い。

 

 ちなみにブッコローがどこからどのように撮影にやってくるかについては、「野毛山動物園に住んでいて、そこから飛んできてるんだって」「駐車場によく停まっている高級車、あれブッコローのらしいよ」「関内駅のホームで缶コーヒーを買っているところを見た」など、噂が絶えない。どこからともなくやってきて、たまに近場で酒を飲み、どこへと知れず帰っていく。謎に包まれたブッコローの生態である。

 

 そんなブッコロー、今日は地下へ向かった。地階はコミックや学習参考書などが並んでいるフロアだ。特に気になる本があったわけではない。「そういえば地下って行ったことなかったな」というそれだけの理由である。未踏の場所には行ってみる。この好奇心がなければYouTube界のアイドルマスコットは務まらない。


 小学生向けの図鑑コーナーに向かい、近々行われる予定の「何も見ないで30秒お絵描き対決」に備えるため、出題されそうな動物や恐竜の姿かたちを目に焼きつける。チャンネル内で「ぜってー勝つし」とうそぶいてしまったからには、間仁田に負けるわけにはいかない。負けたら罰ゲームが待っている。もちろん物真似だ。


 間仁田にどんな物真似をさせてやろうかと考えながら周囲を見回すと、ふと、フロアの隅に目が留まった。備え付けの書棚が並ぶ壁面に、うすぼんやりと〝何か〟がある。いや、むしろ「何もない」のか。そこだけ暗闇がぽっかりと口を開けているように見える。恐る恐る近づいてみると、暗闇だと思ったそこには、下へと降りる階段が続いていた。


 おかしい。店内のフロアガイドには地下は1階しか記載がない。さらに下があるなんて聞いたこともない。倉庫にでもなっているのだろうか。階段はどこまで続いているのか、覗いてみても先はまったく見えなかった。


 果てのない暗闇に吞まれそうな予感がして、ブッコローは思わず身を引いた。これが「何か嫌な感じがした」というやつだろうか。しかし繰り返すようだが、ここで好奇心が恐怖に負けてしまうようでは、YouTubeという魔界でのし上がっていくことなど望めまい。ホラー映画でも動画配信者は真っ先に心霊スポットに乗り込むものと相場が決まっている。撮影開始までまだ少し時間もある。ブッコローは「探検、たんけん……」とわざと軽い口調で自分を奮い立たせ、階段を一歩一歩降り始めた。


 しかし暗い。光源が上のフロアから届く明かりしかないため、足元を確かめながら少しずつ足を進める。「こういう時に蓄光文具が役に立つんですよ」と、この場に岡崎さんがいたらドヤ顔で言うのだろうな、などと考えていたら、ふと、足元の段差が途切れて平面が広がっていることに気づいた。どうやら地下2階に到着したらしい。

どのくらいの広さなのか、やはり暗くて分からないが、足音の反響具合からそこまで広い空間ではなさそうだ。数歩足を踏み出して手探りで奥へ進んでみたが、特に何が置いてあるわけでもなさそうだ。やはり倉庫か何かで、入れ替え作業の途中だったりするのだろうか。


 大して面白いこともなさそうだ、と上へ戻ろうとしたブッコローの耳に、その〝音〟は聞こえた。衣擦れのような、何かが地面を這っているような、ともすると聞き逃してしまいそうな、でも確かに聞こえたかすかな物音。そして、〝それ〟は少しずつこちらに近づいてきている。ここが倉庫で、作業中だったスタッフにたまたま出くわしてしまった(そして蓄光文具を持っているので暗闇でも仕事ができる状態にあった)だけであることを祈りながら、ブッコローは口を開いた。


「……すみません、ちょっと迷っちゃって。ここって何の部屋ですかね?」

「————————」


 突然耳に風を感じブッコローは思わずのけぞった。何が起こったのか理解が追いつくのに数瞬の間。今のは、まさか吐息か? ということは〝それ〟はすぐ真横にいるというわけで、でもいくら真っ暗闇とはいえ、そんなに近くにいて姿が見えないわけがない、いやそれ以前にどうしてそんなに近寄ってきたのか、一体自分はいま〝何〟と一緒にいるというのか。混乱する頭で必死に考えを巡らせるが、思考はまとまりをもたず、逆に体は石になったかのように動かない。蛇ににらまれた蛙とはこのことか。俺ミミズクだけど。


 何かが這うような音はブッコローの周りをグルグルと回っているようだった。獣が獲物を品定めしているような動きに感じられ、ブッコローは固く目を閉じる。何度目かの周回を終え、音はブッコローの真正面でぴたりと止まった。そして、何事かを、つぶやいた。




「ブッコローさん、大丈夫ですか?」

 目を覚ますとそこは、見慣れた有隣堂伊勢佐木町本店1階の会計カウンターだった。どうやら無我夢中で逃げているうちに、ここまで戻ってきたらしい。さっきぶつかったのは話題書の棚だったようだ。気を失ったブッコローをスタッフがカウンター内に運んでくれたらしい。尋常ではない様子にスタッフが心配して何があったのか問いかけたが、彼は首を振るばかりで何も語ろうとはしなかった。


 だがいつからか、有隣堂伊勢佐木町本店では一つの怪談が語られるようになる。曰く、存在しないはずの地下2階には姿の見えない何者かが棲んでいて、行き合った者に近づいては数字をつぶやくという。その数字は、新刊本の返品率であるとか、年間の書店の減少率であるとか、はたまた一日に入荷する書籍の点数であるとか、とにかくそれを聞いた者はその現状に恐れおののくという。


 ブッコローがその日、一体何を聞いたのかは誰も知らぬところだが、以降、彼が書店スタッフにアドバイスという名の説教をすることはなくなったという。

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ブッコロー這う這うの体 おへそサイボーグ @mopo1624

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