わたしの創作論

畳縁(タタミベリ)

汝、闇の軍勢となれ

 その昔、小説が書けなくて困っていた。書き出しが大事だというので、最初の一行を無意味に練り続けたり、二日経つと何を書こうとしていたのか熱意が失われたりして、とにかく全く進まなかった。そして、書いたものがつまらなく思えて白紙にすることを何度も繰り返していた。


 原因は幾つか考えられるが、一言で現してみるなら。


 ――「善人」を書こうと足掻いていたから。


 これに尽きるのだ。


 大変月並みな題材ではあるが、“光の戦士”と“闇の軍勢”の戦いを書かなければならないとしよう。そして突然、小説ではなく絵の話になるが、光というものはどうやって描くのだろうか。


 いきなり虹のプリズムを描き始める人もいるかもしれないが、小さな子供だったら白の鉛筆を握って失敗するだろうし、ちょっと大人なら、影を描こうとするだろう。そう、光を描くには影を描くのが正解だ。


 文学は人間性の光を書くものだとよく言われている。気がする。


 では、その光はどうやって書かれるのか。それはやはり、悪を書くことによって成されるのだ。


 善行というものを考えてみる。慈善活動とか政治とかスケールの大きなものは善かれと思って行うものかもしれないが、素朴な善い行いというのは自覚的に為されないものだと思う。


 良い奴は自分のことを「良い奴」だとは思っていないのである。だから、主人公に据えたくなる「善人」というのは、善である自覚が無いのだ。


 善というものは、光を影で描くように、外堀を埋めることでしか表現できないものだと(現時点では)思っている。影を描く、外堀を埋めることでしか書けない“光の戦士”を白鉛筆で直接的に描こうとしていたから、書けなかったのだ。


 誰にでも好かれる魅力的な人間……そんなものを、直接的に描写することは難しい。誰もが手をつけがちなメアリー・スーを書くのは、実は難題である。


 だから悪を書く!


 圧倒的な悪が、“光の戦士”をより光らせるのである。悪ければ悪いほど基本的には良いのだが、それでも世の中は複雑になってきた。もうひとつの正義を標榜できるくらい、理屈が完成された悪が望ましい。


 物語の中に善いものを残したいと思うなら、悪に寄り添っていこう。誰にでも好かれ、愛される主人公は光っていて、書けない。善に比べると悪は自覚的だ。偏っていて、間違っていて、思い込んでいる。そういう奴こそ筆が乗る。著者のメッセージは悪役に宿る気さえする。


 そんな風に悪に染まって考え続けていると、いつか主人公の思わぬことばに敗れる日が来る。俺を壊してくれ、打ち砕いてくれ、ガリィ! ああ、やっとほんとうの望みが、叶うのだな……というわけである。

 そこに辿り着くと、やったという思いがする。


 ……というわけで悪役とか悪徳とか障害、問題を丁寧に書くのが主人公を書く道だと思っています。

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