チョコがあんこに置き換わった世界に転移してしまったので、どうにかして元の世界に帰りたいです
翡翠琥珀
何かがおかしいプロローグその一
–––朝、良い匂いで目が覚める。この匂いは、恐らくトーストだろう。母さんが
焼いてくれたんだ。眠い目を擦りながら、なんとか起きて、居間に向かう。
「おはよう、母さん」
俺はそう言って母さんに朝の挨拶をする。
「あら、もう起きたの? 今日は早いじゃない」
母さんは花柄のエプロンの紐を結びながら言う。これから朝食の支度をするのか。
俺がそう思っていると、母さんは悪戯そうに笑いながら
「あっ、分かった! もしかして、今日がバレンタインだから、張り切ってるんじゃ
ないの?」
と言った。
「いつも大量にチョコ、貰ってくるもんね」
母さんはフライパンに卵を割りながら言う。
「それはないよ。バレンタインデーにチョコなんて、毎年飽きるほど貰ってるし……」
俺は苦笑しながら言う。自分で言うのも変な話なのだが、俺はそこそこモテる方だ。
小学生の頃から毎年二月の十四日には、机の中にびっしりチョコレートが入っていた事なんて、俺にとっては別に珍しい光景でも無い。まぁ、貰えない奴からは妬まれていたかもしれないが……。
「ほら、毎朝寒いでしょう。だから、今日は特別に身体が温まる飲み物を、母さんが
用意してあげるわ」
母さんが嬉しそうに言った。
おお、それは何だろう。やっぱり、あの濃厚な飲み物しかないだろう。寒い日に
飲むからこそ、充実感に満たされる飲み物–––そう、ココアだ。
何を隠そう、俺はチョコが大好物なんだ。先ほどは母さんに、チョコなんて毎年
飽きるほど貰っている、と言ったが、チョコ自体は別に嫌いではない。
だからココアも好きなのである。
むしろ、この寒い日に、わざわざココアを用意してくれる母さんに感謝である。
「おまたせ、朝ご飯できたわよ」
おぉ、早速できたのか。俺は、ココアが自分の喉を通って身体中を芯から
温めてくれるイメージを想像し、胸を高鳴らせて席に着いた。
食卓にはベーコンエッグとチーズトースト、そして–––
「今日はちょっと良い小豆を使ってみたのよ」
マグカップには、ごろごろと小豆の粒がペースト状になって入っていた。
え、何これ。ココアじゃないの? 俺の思考は一瞬ショートする。
「え、ちょっと母さん、これ何?」
俺は母さんを慌てて呼び止める。
「何って、あんココアじゃない。あなた好きじゃなかったっけ?」
いや、なんだそのネーミングセンス……。これって、ココアなのか……?
とりあえず、一口飲んでみる。いや、これはあんこだ。紛れもなくあんこそのものでしかない。小豆の香りで鼻腔が満たされる。っていうか、そもそもココアの要素
どこだよ。
「ねぇ母さん。悪いんだけど、俺普通のココアが飲みたいな……」
俺は母さんに言う。
「普通のココア? 何言ってるのよ、これが普通のココアじゃない」
母さんが首をかしげて、変な生き物でも見るかのような目つきで俺を見た。
「普通のココアって……」
「あんた、まだ寝ぼけてるんじゃないの?」
「いや、そんなこと無いはずだけど……」
むしろ寝ぼけているのは母さんの方ではないか?これが普通のココアな訳がない。
俺はそう思いながら、このマグカップに入っている液体(?)を睨め付ける。
「ふぁ〜、おはよう……。まだ眠い……」
ふと居間の入り口を見ると、姉さんが立っていた。眠い目を擦りながら、あくびをしている。
「あっ、姉さん! ちょうど良かった! これ見てよ!」
俺は姉さんに縋るようにマグカップを差し出す。
「あれ? いい匂いがするなって思ったら、あんココアじゃん! ずるいよ、
タイチだけ! 私にもちょうだい!」
しかし俺の『違和感に気づいてくれ』という熱視線も虚しかった。姉さんはマグカップの中身を一目見るなり、眠気が吹っ飛んだように歓喜の声を挙げて、母さんに
あんココアとやらをねだっている。
なんだ、姉さんもおかしいとは思わないのか……?
「あんココアって何だよ……。普通のココアじゃないのか……?」
俺は椅子にぐったりと座りながらそう呟いた。
「何言ってんのタイチ。あんココアが普通じゃん。ねっ、お母さん」
「そうよ、まだ寝ぼけてるんじゃないの? 顔を洗ってきなさい」
しかし姉さんと母さんは何食わぬ顔で朝食を食べている。
な、なんだこの家族たち……。俺がおかしいのか? いや、そんなはずは
ない……。チョコを知らないなんて、そんな馬鹿な話があるわけ……。
「タイチ、これ飲まないの? じゃ、私が代わりに貰っちゃうよ〜」
姉さんがトーストを咀嚼しながら俺に聞く。
「あぁ、お好きにどうぞ……」
俺はそう言い残し、極度の疲労と脱力感を覚えながら、居間を出た。
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