第3話 登校
ピロピロピロ
「ん…」
俺は耳元で流れる聞き馴染みの深く、それでいて不快な音をストップさせるため、眠りから目を覚ました。
もう月曜日か。
学生のみならず、日々社会生活を営んでいる者なら誰でも思い浮かぶであろう感想に少し虚しさを感じながら、大きく伸びをした後、ベッドから起き上がる。
そして、バサッとカーテンを開けた。
「うっ」
寝起きで上手く機能していないであろう視界に、強い太陽の光が差し込む事によって、俺は多少の苦悶の表情を浮かべる。
正直、まだ眠い。
例に漏れず何の変哲も無い一般男子高校生である俺は、月曜から金曜まで毎朝決まった時間に起床し、毎朝同じようなルーティンをこなさ無ければならない。
何年間もこなしているタスクではあるが、休み明けであるこの日は、普段よりいっそう動作一つ一つが重くなり、怠くなる。
それは、様々な理由があるとしても、やはり一番の大きな原因として俺があまり学校が好きで無いからだろう。
まぁ、だからといって、嫌いというほどでも無い。
「学校が嫌いだ」なんてのは、学生生活を送っている者なら誰でも当たり前のように浮かんでくるであろう感想に違いないと思うが、俺は高校に入ってからそういう特別な感情を抱いた事が無い。
俺は、別に勉強が苦手なわけじゃ無い。むしろ、他人よりも割と出来る方に位置しているはずだ。
自分の通っている高校は頭が悪い方じゃ無いが、テストで悪い点を取った事は無いし、何なら比較的上位の方にいつも名を連ねている。
かと言ってトップの成績というわけでは無い。
俺は、部活に所属してい無い。
学生で部活に所属してい無い事がどういう事か、つまり、俗に言うボッチという奴だ。
クラス内でも必要な情報や行事については喋るが、特に私的なコミュニケーションを取る事は無い。
つまり、ただ単に学校へ行って何か面白いだとか、心身の躍動だとか、そういったそこでしか味わえないはずの青春のページ一枚一枚が、俺には欠落しているという事だ。
ただ生真面目に授業を受け、そこそこにテストをこなし、教室で一人椅子に座っているだけの生活。
俺は、そういう部類の人間になったんだ。
だから、学校を好きになれという方が難しい。
小学生の頃のあいつらに今の俺を見せたら、どんな反応するのかな…。
そもそも、学校だけじゃ無く、私生活だって特に何も
ザー
「うわっ!」
そこから先は深く考えないように、寝癖直しのために出したシャワーを勢いよく被ったが、まだ少し冷たいままだった。
とりあえず、さっさと学校に行く支度を整え、玄関を飛び出す。
俺はいつも通り、学校へと向かうための、あの桜並木の通学路へと入った。
良く晴れた空から降り注ぐ太陽に少し目を細めながら、コツコツとアスファルトの音を立てて歩く。
気楽そうな春風が、時折地面の花びらを掬い上げて飛ばしては、同時に新しい花びらを落とす。
そんな光景を、ただボーッと眺めていた。
ゆっくりと、ゆっくりと時間が進む。
退屈な時間。
「おはよう」
突然、桜の木にもたれ掛かって、一人でぽつんと立っているうちと同じ学校の制服を着た女子生徒が俺に声をかける。
その生徒に気付いてから、少し驚いた。
それは、そこに立っている生徒が、普段見慣れない、見る事が出来なかった人物であるはずなのに、強烈に俺の海馬を刺激させたから。
「絵里…」
それと、驚いたのにはもう一つ理由がある。
俺は桜の木が特別綺麗だと思ったことは無い。
なのに、この光景だけは目に焼き付けておいて損が無いと、そのぐらい純粋に美しいと思えたからだ。
俺がきょとんとしている間に、その少女がにっこりと微笑んでいたことに気付いた。
「…なんでここに居るんだ?」
「それ、ちょっと失礼な質問じゃない?」
「いや、普通気になるだろ」
絵里がここで桜の木にもたれ掛かっている理由。
「なんで?」
「なんでって…」
それはつまり…多分。
「そもそも、ここは私も普通に通る道なわけだし」
「いや、明らかに誰か待ってる様子だっただろ」
そのはずだ。
そして、その相手というのは俺…のはずだろ。
「もしかして、私が凛の事を待ってたんじゃ無いかと期待してた?」
……。
「……」
「フフッ、図星かね」
「…で、結局のところどうなんだよ」
少し顔が熱い。
このままだと不味いと思った俺は、強引に答えを聞く。
「凛を待ってたんだよ」
そうか…。
「…そうだったんだな」
「勘付いてたでしょ?今更平然を装っても遅いよ」
やっぱり、絵里は悪戯に笑った。
にしても、よくこんな気恥ずかしいセリフをサラッと言えるものだ。
俺は約5年のブランク、そして心にずっと仕舞ったままだったあの恥ずかしくて、虚しくて、少し寂しい手紙が脳裏にチラつくせいで、会話も上手く出来ていないとまごついているのに。
「とりあえず、行こうよ。このままだと遅れちゃうよ?」
絵里は木にもたれ掛かっていた上半身をひょいと勢い良く戻し、地面に置いていた鞄を手に取る。
「…はぁ、そうだな。行こう」
「そう来なくっちゃね」
今は色々と考えることを一旦中断し、絵里の誘いに素直に乗り、一緒に学校へ向かう事を決意して歩き出した。
この桜並木に入ってからは、ほぼ一本道で、片道十分ほどで学校まで行ける。
通学路としては長くも無く、短くも無い距離だと思うが、桜並木としては割と長めの距離だろう。
通学時、学校に着くまでずっとこの光景が続くのは、他の学生からしたら嬉しい事かも知れない。
「凛っていつも遅めに出るの?」
そんな歩き慣れた通学路を二人でスタスタ進む。
やっぱり、あまり現実味が湧かない。
「まぁいつも遅めではあるんだが、今日はちょっと身体が動かなくて、出るのが遅くなった。土日明けはどうも気分が落ち込んでいけないんだよ」
「確かに、月曜の朝は週で一番辛い時だよね。アラーム音が聞こえてくると、これから学校が始まっちゃうー!ってそのままベットの上でジタバタしちゃうぐらい辛いひと時だよ」
その様子を少し頭で想像しつつ、共感する。
「お前の場合この学校に通い始めて、いや、この街に来てから日も浅いだろ。色々大変なんじゃないのか?」
「本当にそう。まだ越してきてちょっとしか経ってないから、家の支度も終わってなくて、帰ったら帰ったで色々とやらなきゃいけない事が多いんだよね。心休まる時が欲しい…」
「そうか…そうだよな」
その気持ちは、俺が一番よく分かるはずだ。
なぜなら、俺もそれと同じ経験をしたから。
俺は、生まれ、育ち、ずっと生活してきたあの思い出の故郷から、なんの心の準備も付けられないままここへと引っ越してきた。
親の仕事先が変わってしまったから。
もちろん、仕方の無い理由だったと理解しているつもりだ。
あの日から、もうかなり時間も経っているし、俺だって年齢を重ねた。
でも…だとしても、今でもやっぱり、あの日々を思い出すよ。
学校で毎日会うのを楽しみにしていた友達、優しくて暖かかった住人のみんな。
あの駄菓子屋のお爺ちゃんも、まるで親戚みたいにお節介焼きで心配性だった隣のおばさんも、よく友達とふざけて叱られた先生もみんな大好きだった。
田舎という閉鎖されていた空間だったからこその充実感だったのだろうか。
会う人みんな顔見知りで、その全員がいつも当たり前に笑顔をくれた。
だから、俺も笑顔を返すことが出来たんだ。
思い返すと、こっちに来てからは、そんな経験味わった事なかったな。
良くも悪くも、こっちは他人との距離が遠い。
みんな、家族以外はあくまでも”他人”だと割り切っている感覚がする。
その感覚は、あの心地良い環境に慣れてしまった俺にはどうにも合わなかった。
俺は、取り残されたままだった。
「絵里は、こっちでも友達作れそうか?」
何気なく聞いてみた。
「どうだろ、あっちではクラスメイトみんな最初から友達って感じだったし、友達を作ろうっていう感覚も無かった気がするから、あんまり分からないかな」
『最初から友達』
俺は、いつまでもそんな感覚を探していた。
今だって、ずるずると。
何年経ってもそれを求めてしまうのは、やはり俺がただ強情で、わがままなだけなんだろうか?
「まぁ、話せる人はちゃんと欲しいけどね。凛は、どうやって友達作ったの?」
ドキッ
何気なく会話の発端として聞いてみただけの質問だったが、まさか自分に返って来るとは…。
いや、話の流れ的に当たり前か。
「………」
「…もしかして凛って友達居ないの?」
絵里の少し申し訳なさそうな口調が俺の胸に突き刺さる。
「中学の時は居たんだぞ?中学の時は…な」
自然と視線が地面に偏る。
「…なんだか意外、凛に友達が出来なかったなんて」
「…うん」
そうこうしている間に、桜並木も終わりを告げ、校門が見え始める。
【流ヶ崎学園高等学校】
略して流ヶ崎高校、更に略すなら流高と、この学校の生徒なら、後者の名前で呼ぶことが大半だろう。
もちろん、俺たちの通っている学校だ。
大きめの校門に、大きめの校舎と広い敷地。
割と新しめに建てられた学校なので、外観も綺麗だし、中身の設備もかなりしっかりしている。
「私が慣れてないのもあるだろうけど、やっぱり大きいよねこの学校」
「改めて見ると、そうだな」
だが、俺はもう慣れたから、一々登校してくる度にそんな感想は浮かばない。
「これから楽しく過ごせるかな?」
絵里は、真顔で言った。
「俺には分からない。でも、お前ならきっとなんとかなるだろ。それに…」
「それに?」
「…女子はコミュニケーション能力高いじゃん」
「それは人によるでしょ」
「そうか」
絵里は笑ってくれた。
だから、俺も少し安心して、笑うことができた。
『お前には少なくとも、俺がいるから』
その言葉は、まるで吐き出す事の出来ない魚の小骨の様に、喉に突っかかっていたままだった。
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