間者たちの暗躍、始まる
エッサン診療所の襲撃事件。
建物にも他の患者にも被害はなく、ただ一点、意識が戻らず入院したままの男爵令嬢が攫われたという事実以降、ヘンリク侯爵家に対する疑惑を問う声は日に日に増していた。
「やれやれ、どこの新聞もその話題で持ちきりだな」
「あの伯爵、記事にさせるのにどんだけ金積んだんすかね」
アンツォやサイゾが各紙を広げながら、どこも変わり映えしない紙面だと苦笑する。
「その点、ウチはスクープっす」
イタリー新聞も事件の続報は追いたいところだが、他紙と同じでは誰も読まない。そこで打ち出したのが、診療所には警備隊の護衛が付いていたという独自情報。
対象者は守られていたにもかかわらず、この失態はいかなることかと、表立ってではないが、王家、とりわけ王太子の責任を問うている。
「これ見たらシュパーンの旦那がブチ切れて怒鳴り込んで来るかと思ったっすけど……」
「旦那もそれどころじゃねえだろ」
警備責任者として子爵の責任は免れないところであり、今頃謹慎処分じゃないのかなと、アンツォが遠い目をして死者を弔うかのような仕草を見せた。
「お頭……まだ死んでないから。そうそう、謹慎と言えばリーゼ嬢も」
「そっちは自主的にだな」
あの日以来、リーゼは邸に籠ったまま学園にも姿を見せていない。
侯爵家は正式に無関係だと声明を発表しているが、ほとぼりが冷めるまでは出歩かないほうが無難と判断したのであろう。
「だけど夜会は明後日っすよ?」
「だな」
王太子主催の夜会には多くの貴族を招いている。中止にしてしまうと下衆の勘繰りが大量発生するから、疑惑の渦中であっても開催は強行せざるを得ない。
「王太子殿下はパートナー抜きっすね」
「まさか。リーゼ嬢には出てもらうさ。お前が迎えに行け」
「俺っすか……で、何をするんで?」
変なことを言い出したぞこのオッサン……という目をサイゾがしたのは言うまでもないが、同時にだからこそ何かを仕掛けるのだなとも気付いたようだ。
「あら、貴方はたしか……」
「覚えていただいていたようで光栄です」
その日の夜、アンツォの命を受け、サイゾは秘かにリーゼのもとを訪れていた。
「あまり驚かれていないようですね」
「ええ。お父様に言われましたのでね」
彼女はイタリー新聞を訪れた夜、邸に戻ってきた父に事の次第を話したところ、侯爵は「会いに行っちゃったのね……」と頭を抱えたらしい。そして、詳細こそ明かされなかったものの、この先何があっても動じてはならぬと言い含められたそうだ。
「きっと私を利用するために、そのうちまた接触があるだろうと」
「ご慧眼恐れ入る。信用はしていただけているのですね」
「一介の男爵がアレを持っているということは、そういう立場の方なのでしょう」
あの日、アンツォの手に乗っていた家紋は王家のものであった。
これはある意味、影たちの身分を保障する最終手段。シュパーン子爵のように身分がそれほど高くない相手だと、それは何だ? となってしまうので普段使うことはまずあり得ないが、相手が侯爵令嬢で、かつ王太子の婚約者となれば、自身にそれを見せたということが何を意味するのか理解出来ないわけがない。
「少々蚊帳の外に置かれているのが不服ではありますが、殿下の御為になると言うのなら喜んで協力しましょう」
「では……」
◆
「明日の夜会の準備はどうなっているかしら?」
サイゾが接触した翌日、出席を自粛するはずだったリーゼがそのようなことを言い出したものだから、侯爵家の者たちは困惑した。
「何をしているの? ドレスなら殿下から贈られたものがあるでしょ。手抜かりの無いようにして頂戴ね」
「お、お嬢様、明日はご欠席では……」
「事情が変わりました。あの者をこれへ」
使用人がどういうことかと尋ねると、リーゼは殿下に大事な話があるのだと言って、待機させていた使用人にある者を連れてくるよう指示を出した。
「お嬢様、お連れいたしました」
「ご苦労様。お入りなさい」
呼ばれて現れたのはサイゾ……ではあるが、今日は執事のような格好をしている。どうやら侯爵家の別邸から、そのとある人物を連れてやってきた使用人という体になっているようだ。
「さ、入りなさい」
「失礼します……」
その瞬間、部屋の中が一気に静まり返った。
「お目覚めの気分はいかがかしら?」
入ってきたのはユリアーナだった。これまで侯爵家の別邸に隠して拘束していたとリーゼが言えば、周囲の者が一堂に驚きの表情を見せている。
別邸とはいえ、侯爵家の使用人が誰1人としてその事実を知らなかったのだ。驚くのも無理はない。もっとも……診療所から連れ出して以降、イタリー組が保護しており、侯爵家で拘束していた事実など無いのだから、当然と言えば当然なのだが……
だがこの場でそのことを知っているのは、リーゼとサイゾ、そしてユリアーナ本人だけ。
意識が戻り次第尋問する予定であったが、運よく目が覚めたようなので、事の真偽をはっきりさせるために、明日の夜会へ連れて行くとリーゼが言えば、使用人たちはそれを否定する必要も無いから、「そうだったのか」と納得していた。
その場にいた者のうち、ただ1人を除いては……
「ユリアーナさん、お覚悟はよろしくて」
「何の覚悟でしょうか。侯爵家といえど、このようなことをしてただで済むとお思いで?」
「強がりを言っていられるのも今のうちよ」
それ以上言葉を発することなく、リーゼがサイゾに向けて目くばせすると、まるで罪人かのようにユリアーナが引き連れられていく。
「うふふ、明日が楽しみだわ」
ほくそ笑むリーゼの後ろで、1人の侍女が場を離れてゆく。他の者に気付かれぬよう、そっと。
その動きを見張る2つの目が自身に向けられていることも知らずに……
◆
<その夜、伯爵邸>
「あの小娘はまだ見つからんのか! 役に立たん奴らだ!」
役立たずなのはどっちだよと心の中で舌打ちするブルート族の男。彼らは協力者であるが、それは彼らの主の命によるものであり、決して目の前で怒鳴りつけてくる男爵の家来になったわけではない。
「だからさっさと襲いに行けと言えばいいものを」
「やかましい。こちらにも順序というものがあるのだ」
そうやって勿体ぶっているうちに、正体不明の誰かに先を越される始末なのだから、それだけでも憤懣やる方ないのに、行方を追えなどと見当違いの命令をされれば面白くはない。嫌味の一つも言いたくなる。
「とにかく、あの小娘を一刻も早く探し出すのだ」
「悪いが俺たちは探索とかそういうのは苦手でな」
「口だけは達者なようだな……」
「男爵殿、それくらいにしておけ。彼らも最善を尽くしているのだ。引き続きよろしく頼むよ」
「そう言っていただけるとありがたい」
ハウエヴァー伯爵が男爵を宥めに入る。
その物腰の柔らかさと、自身たちに対して礼を失わない姿勢。それが掴みどころの無さであるが、男にとっても取引相手と揉めるような事態は避けたいので、伯爵の言葉にありがたいと一礼してその場を後にするのであった。
「今日は遅いな……」
隠れ家に戻った男は、監視者たちの定例報告を待っていた。
人質にした養護院の担当からは変わり無しと報告があったが、侯爵家に潜入した女からの連絡が来ない。
「何かあったか……」
思案していた男が気配を感じて振り返ると、そこには蝋燭の火に照らされ、女の影が立っていた。
「直接来るとは、何が……」
「う……あ……(ドサッ……)」
いつもなら文書でやりとりで済ませるのに、姿を見せたのは何事かあったのかと思い、男が言葉をかける。
しかし、女は言葉にならぬ声を上げると、そのまま倒れ込み、男の言葉が最後まで語られぬことはなかった。
「……何者だ」
「潜入者の監視者と言えば分かるかしら」
女が倒れた先に見えたもう1つの影に向かい男が声をかけると、その正体はシルヴィアであった。
女が侯爵邸を抜け出し、ユリアーナの所在を連絡に向かうところを捕え、隠れ家まで案内させたのだ。
「お前らも間者か」
「ら、って……自分たちが間者みたいな言い方ね。動きが分かりやすくて、とても隠密行動とは呼べないわ」
「おまけに忠誠心も薄いのか、薬を嗅がせたらすぐに白状したしな。その程度で間者を気取られるのは気分が悪いぜ」
シルヴィアが小馬鹿にしたような言い方をしたのに続いてアンツォも姿を現すと、男もさすがに事態が見えてきたようで、焦りの色を見せ始めた。
「お前は……あのときの……」
「おう、こりゃ森で矢を射かけてくれた兄さんじゃねえか」
「貴様、何者だ」
「俺の名は敏腕新聞記者、アンツォ・イタリーさ」
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