回転看板

吟野慶隆

回転看板

 青櫨あおはぜ呼一こいちが、そのサインポールから連想したものは、第一に、暴走したアナログ時計の長針、第二に、発狂したブレイクダンサーだった。

 サインポールの見た目は、よく理容店の前に設置されているような、一般的なものだ。下から、平たい正方形をした土台、短い円筒形をしたモーター格納スペース、天に向かって突き出ている赤・白・青のシリンダー、という構成である。それが、今は、直立しておらず、横倒しとなっていた。土台は、四隅に取りつけられているキャスター──三百六十度に回転するタイプの物──のうち、下辺の左右の端に位置している二個を介して、地面に乗っかっている。シリンダーは、外装が取り払われていて、縞模様の描かれている表面が、直接、地面に接触していた。

 現在、そのシリンダーは、超高速回転していた。そのせいで、サインポール全体も、時計回りに、土台を中心とする円を描くようにして、超高速回転している。さらには、その円軌道は、左へ、右へ、左斜め前へと、ランダムに移動していた。土台のキャスターがロックされていないことにより、シリンダーの勢いに引っ張られているのだ。

 呼一の左斜め前あたりにいる赤欅あかけやき丈治じょうじが、「ぼくは、エンジニアの職に就いてから、もう二年ですが、こんな場面に遭遇したのは、初めてです」と独白した。「もっと、ちゃんと確認しておくべきでしたね……まさか、間違って、フォーミュラレース用の電気自動車のモーターを取りつけてしまうなんて──」

 赤欅の台詞は、そこで打ち切られた。サインポールが、超高速で円運動しながら、彼めがけて突進し始めたためだ。

「……!?」

 赤欅は、驚愕の表情を浮かべた。だが、すぐに我を取り戻した顔になると、膝を軽く曲げた。ジャンプして回避しようと考えているに違いなかった。

 しかし、彼は、跳躍するよりも、突進してきたサインポールのシリンダーを足および脛で受け止めるほうが、早かった。

「ぎゃあっ!」

 猛進し続けるシリンダーにより、赤欅は、足を後ろへと払われた。地面に、どちゃっ、と俯せに倒れ、顔を、ごちん、とぶつけた。

「うぐぐ……」

 赤欅は、鼻血の出ている顔を上げた。立ち上がろうとして、地面に両手をつく。

 直後、ごきっ、という音が辺りに鳴り響いた。右方から突進してきたサインポールのシリンダーが、右側頭部に激突し、頸椎をへし折ったのだ。それは、赤欅の足を払った後、左にカーブし続けることで、大きな円弧を描くようにして、彼の所に戻ってきていた。

「あ、赤欅!?」思わず、甲高い声が出た。

 その後、サインポールは、赤欅から離れると、いずこへと移動していった。呼一は、だだだ、と彼に駆け寄ると、そばに片膝をついた。

「おい、大丈夫か!?」

 呼一は、赤欅の肩を掴んで、体を左右に揺さぶった。しかし、何の反応もなかった。口に手を当ててみたところ、呼吸もなく、胸に手を当ててみたところ、鼓動もなかった。

「な……なんてこと──」

 無意識的にそう呟いたところで、気がついた。右方からBGMのごとく聞こえてきている、サインポールのシリンダーが地面を転げ回る時の、ががががが、という音が、だんだん大きくなってきているのだ。そちらに、顔を向ける。

 サインポールが、超高速で円運動しながら、今度は、呼一めがけて突進してきていた。


 現在から三時間ほど前、午前十一時。

 ワンボックスカーの運転席にいる赤欅が、「あっ、見えてきましたよ。あそこが、今回のクライアントの店ですね」と言いながら、左手を、ハンドルから離し、フロントウインドウの左半分に向けた。助手席にいる呼一は、ゆらり、とそちらに視線を遣った。

 まっすぐに伸びている車道の左側には、歩道が設けられており、そのさらに左側には、飲食店やらコンビニやら、いろいろな施設が立ち並んでいる。二人の目的地は、現在位置の百メートルほど前方に位置している、理容店だった。屋根の上には、長方形の看板が据えつけられており、そこには「BARBAR TRANQUILITY」と描かれている。

「たしか、『バーバー・トランクイリティ』って読むんだったな」

 呼一は、その店を、じっ、と見つめた。歩道の左側に接するようにして、やや縦長の長方形をした駐車場が広がっている。それの、向こう側の縦辺に沿うようにして、縦長の直方体の形をした建物があった。外壁は、大部分がガラス張りとなっていて、中の様子が覗けるようになっている。

 歩道と駐車場の間には、地面が舗装されておらず、土が剥き出しとなっている地帯があった。幅は一メートルほどで、ところどころに、背の低い木々が植えてある。

 駐車場の出入口は、縦辺の手前の端あたりに位置していた。赤欅は、ワンボックスカーを左折させ、そこを通過した。すぐに、近くにある白線枠の中に停め、エンジンを切った。

 降車した呼一は、無意識的に、「風、少し冷たいな……もう十一月だからな」と呟いた。「……ま、このくらいが、ちょうどいいや。おれたちの作業服は、袖も裾も長いし、作業のために体を動かしていたら、体が火照るしな……」

 その後、彼は、赤欅を連れて、建物に向かった。ガラス張りの外壁を通して、屋内にいる女性──クライアントの様子を窺う。彼女は、すでに二人に気づいているようで、何からの準備でもしているのか、忙しなく動き回っていた。青い長袖ブラウスを着て、白いロングスカートを穿いていた。

 呼一たちが玄関の少し前あたりに着いたところで、女性が、それの扉を開けて出てきた。「ミーク広告の方たちですね。お待ちしておりました、店長の白檜しらひのきと申します。よろしくお願いしますね」ぺこり、と頭を下げた。

 白檜整羅せいらは、とても端麗な容姿をしていた。彼女がアイドル業を電撃引退したのは、約三年前のことだが、顔立ちもスタイルも肌の質も、当時とほとんど変わっていない。たしか、今は、三十代であるはずだが、仮に、二十代です、と言われても、まったく違和感を覚えないだろう。

 呼一は「はい、よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。その後、三人は、互いを簡単に紹介し合った。

 白檜が言う。「では、さっそくですが、依頼の件、始めてもらいますね。ついてきてください、問題のサインポールをお見せします」

 その後、三人は、建物の端に向かって、外壁と並行に移動し始めた。

 白檜が、黙って歩き続けるのも気まずいとでも思ったのか、「依頼の内容は、電話でお伝えしたとおりです」と喋りだした。「シリンダーを回転させるためのモーターが、動かなくなってしまって……それで、販売元──ミーク広告さんのサポートセンターに連絡して、修理を頼んだというわけです。よろしくお願いします」

 呼一は、「お任せください」と自信あり気に答えてみせた。「……ええと、その件と、あと、他にもありましたよね? サインポールの土台を固定する件……」

 白檜は、「あっ、そうでしたそうでした、そのとおりです」と言って、こくこく、と頷いた。「ご存知のとおり、あのサインポールは、土台にキャスターが付いていて、動かせるようになっているのですが……いちいち、納屋から出し入れするのが、面倒で。もう、いっそのこと、地面に据えつけてしまおう、と思った次第です」

「固定する地点は、歩道と駐車場の間──駐車場の出入口の付近、で合っていますよね?」

「はい。……ええと、もう今日じゅうには、モーターの修理も土台の据えつけも、すべて完了させられる、というお話でしたよね?」

 彼女が、そう言ったところで、三人は、建物の外壁の前、駐車場との間に設置されている石像の横を通り過ぎた。三角座りをして両手を腿の裏に回している天使、というような見た目をしている。高さは一メートルほどだ。

 呼一は、「そうです」と言って、首を縦に振った。「あのサインポールは、土台を地面に固定する場合も想定されていますからね。キャスターは、取り外せるようになっていますし、土台の四隅には、ボルト穴が設けられていますし……」

 十数秒後、三人は、建物の横に建っている納屋の前に着いた。白檜は、その中に入ると、五分ほどで、問題のサインポールを出してきた。

 呼一たちは、それを受け取り、彼女と別れた。サインポールを、設置予定場所の付近に移動させる。ワンボックスカーから、工具箱だのセメント袋だのを持ってきて、工事の準備を整えた。

「よし、それじゃあ、仕事を始めるとしよう。まずは、基礎ボードを地表に据えつけないとな……」

 基礎ボードとは、丈夫なプラスチックで出来ている、正方形の分厚い盤だ。四隅には、ボルト用の穴が開いている。この盤を、セメントを使って、地表に固定した後、サインポール土台の穴を、基礎ボードの穴と合わせて、ボルトを締める。それにより、サインポールが据えつけられる、というわけだ。

 作業は、小一時間が経過したところで、一段落ついた。基礎ボードを地表に配置し、セメントを流し込んだのだ。後は、それが固まるのを待たなければならない。

 呼一は、「ちょっと、疲れたな……」と呟いて、ふううー、と息を吐いた。「赤欅、小休憩をとろう。時間にも余裕があるしな」

 赤欅は、ほっ、としたような表情になった。「わかりました」

 その後、呼一は、店舗に行くと、白檜に会い、少し休憩する旨を伝えた。彼女からは、「お茶でも淹れましょうか」と言われたが、丁重に断った。仕事仲間ならまだしも、依頼人が一緒だと、どうしても緊張してしまう。

「それにしても、白檜さん、かなりの美人だよな……さすが、昔、大人気アイドルとして活動していただけのことはある」

 呼一は、赤欅に対し、そんな話を振った。二人は、駐車場内、基礎ボードを設けた場所の付近にて、休憩していた。それぞれ、簡素な見た目をした、折り畳み式の椅子に座っていた。

「本当、とんでもない人気でしたよね」赤欅は、うんうん、と頷いた。「ぼくは、芸能人の類いには、あまり興味はありませんが、それでも、当時、名前を知っていたほどですもん。テレビCMでも、よく見かけていましたし。ほら、あの、なんとかいうハンドクリームのやつとか、有名でしたよね」

「ああ……あのCMね。SNSで話題になったよな、白檜さんの手、肌がとても綺麗だって……」呼一は、数秒、沈黙した。「おれは、自分の手や腕の、肌の綺麗さには、かなりの自信を持っているが……それでも、羨んでしまうほど、素晴らしかったな。ま、今日、会った時に見た限りでは、さすがに、今となっては、手や腕の肌の綺麗さは、おれのほうが勝っているだろう、と思っているがな」

「はあ……」赤欅は曖昧な笑みを浮かべた。「手や腕の肌の綺麗さ、ですか?」

「ああ、そうか。お前には、言っていなかったよな。おれ、大学生の頃、モデルのアルバイトをやっていたことがあるんだよ。ああ、いや、全身を撮影に使うわけじゃない、手や腕だけだ。いわゆる、ハンドモデル、ってやつだな。

 けっこう、高く評価されていたんだぜ。いろいろな現場に呼ばれて……週刊誌に掲載する写真やら、テレビ番組内で放送するVTRやら、果ては、ハリウッド映画のチョイ役やら……」ふ、と諦観のような笑みを浮かべた。「ま、人間関係が上手く行かなくて、それで、大学卒業までの間に、辞めてしまったんだが」

「ハンドモデル、ですか……」赤欅は、呼一の手を、じっ、と見つめ始めた。「たしかに……言われてみれば、青櫨さんの手とか腕とかって、肌がとても綺麗ですよね。まったく荒れていないし、かさぶたや傷跡も……タコの類いすら、ありませんね」

「ああ、見事だろう?」ふんす、と自慢げに鼻息を出した。「今でも、手や腕の肌は、かなり気を使って手入れしているからな。化粧水とか、ハンドクリームとかも、高品質な物を使っていてね……あ、そうだ、ハンドクリームと言えば、昨日、おれの家が爆発した時に──」

 その後、しばらく雑談を交わした後、休憩を終了した。調べるまでもなく、まだ、セメントは、固まりきっていないだろう。そう考え、それを待つ間、モーターの修理のほうに着手することにした。サインポールの外装を外すと、問題の装置を、格納スペースから取り出す。アスファルトの上に置き、二人がかりで点検し始めた。

 数十分が経過したところで、呼一は、「うーん……」と唸った。「これは、もう、こいつを修理するより、新しい物に交換したほうが、いいな……」と呟く。「早いし、費用も抑えられる。よし、そうしよう」

「わかりました」赤欅は首を縦に振った。「新しいモーター、持ってきますね」やや離れた所の地面に置いてある、ポリプロピレン製のボックスの所に向かった。

 それは、ミーク広告の倉庫にてよく使用されている収納道具で、会社を出発する前、彼が取ってきた物だった。箱の正面には、ラベルが貼られており、そこには、「F029」と書かれていた。

 赤欅は、箱を持ち上げると、呼一の近くまで来てから、地面に置いた。彼が腰を伸ばしている間に、呼一は、それの蓋を、ぱかっ、と開けた。

 ボックスの中には、機械が一台、入っていた。大雑把に言えば、金属製の短い正七角柱、というような見た目をしている。初めて目にする物だったので、一瞬、戸惑ったが、各所に付いているパーツや、デザインの類似性などから、すぐに、これはモーターの一種だな、とわかった。

 それでも、我にもなく、「何だ、こりゃ?」という台詞が出た。「いつも、この手の作業を行う時に使っている製品とは、違うぞ……表面に描いてあるロゴも、知らない会社の物だ」赤欅のほうを向いた。「なあ、このモーターで、正しいのか? 誤って、別のやつを持ってきていないか?」

「大丈夫です、合っています」彼は、確固たる自信を持っている、というような表情で、こくり、と頷いた。「ちゃんと、黒樫くろがしさんに確認しましたから。今回の作業では、ぼくたちは、どのボックスを持って行けばいいですか、って。で、これを持って行ってくれ、と言われました」

 黒樫正男まさおとは、ミーク広告に勤めるエンジニアだ。いわゆるベテランであり、かなり高い技術力を有している。自分が実際に手を動かす仕事が好き、とのことで、数々の昇進の誘いを断り、今も現場で働いていた。

「そうか……なら、間違いないな。今回の作業で使うモーターの調達は、他でもない、黒樫さんにお願いしたからな」呼一は、再び、ボックスのほうを向いた。「しかし、初めて見るやつだからな……どう取りつけたらいいんだ? もちろん、今までの経験から、ある程度の見当はつくが……何か、特殊な手順やら注意点やら、ないだろうか?」

 そう呟きながら、装置を眺めていると、その外面とボックスの内面との間に、紙束が挟まっていることに気づいた。それを取り出す。正確には、約三十ページの文書が一冊、約十ページの文書が一冊の、合計、二冊だった。

 一冊目の文書の表紙には、外国語の文章が記述されていたため、一瞬、気圧された。数秒、眺めたところで、あっ、これはドイツ語だな、と気づいた。大学時代に学んだ経験があったからだ。

 表紙以降のページを、ぺらぺら、と捲ってみた。「どうやら、説明書のようだな……」と独白する。「このモーター、ドイツ製なんだろうか?」

 いくら、大学時代に学んでいたとは言え、その時の記憶および知識は、今となっては、かなり薄れている。呼一は、ひとまず、一冊目の文書の読解に取り組むのは後回しにして、二冊目の文書の表紙を見てみた。

 表紙の上部には、日本語で、「設置方法」「不明点は黒樫まで」と手書きされていた。表紙の下部、および、表紙以降のページには、このモーターの取りつけ方が書かれていた。図や写真の類いはないが、文章だけでも、じゅうぶん、わかりやすかった。

「これさえあれば、なんとかなりそうだな」呼一は、うんうん、と首を縦に振った。「よし、さっそく、やってみよう」

 その後、二人は、黒樫の文書に従って、モーターを、サインポールの格納スペースに設置した。そして、いつでも始動させられるような状態にしてから、それの上に、シリンダーを取りつけた。

「もう、そろそろ、基礎ボードのセメントは、固まりきっているだろう。動作テストが終わったら、そちらの作業に移るとしよう」呼一は、装置の始動ボタンを、かちっ、と押した。

 途端に、ぐいいいいん、という音を立てながら、シリンダーが、超高速で回転し始めた。

「……!?」

 呼一は、口を、あんぐり、と開けて、シリンダーを見つめた。それの超高速回転の勢いに釣られてか、サインポールは、駐車場の中を、がたがたがた、という音を立てながら、独りでに、ゆっくり移動し始めた。キャスターをロックしておくべきだったな、と他人事のように思った。

「ど……どうなっているんだ、これは?」

 呼一は、黒樫の文書を、その辺に放り捨てると、箱に戻しておいた、ドイツ語の文書を取り出した。薄れている記憶の中から、なんとか、その言語に関する記憶だの知識だのを引っ張り出してきて、読み始める。

 数分後、知らず知らず、「なんてことだ……」と、ぼそり、と呟いた。「こいつは、一般的に利用されるようなタイプのモーターじゃないぞ……フォーミュラレース用の電気自動車のモーターだ……!」

「そ、そんな……」赤欅は、呆然とした目つきのまま、呼一に視線を向けた。「ちゃんと、黒樫さんに言われたとおり、E029というラベルのボックスを持ってきたのですが……」

「E029だって!?」思わず、甲高い声が出た。「何を言っているんだ、あの箱には、F029と書かれているだろ!」問題のラベルを凝視した。「……たしかに、『F』の左下に、黒い横棒のような汚れが付いていて、一瞬、『E』のような印象を受けるが……それでも、よく見れば──」

 そこまで喚いた直後、後ろのほうから、がつっ、という音が聞こえてきた。台詞を打ち切り、無意識的に、そちらに視線を遣った。

 さきほどまで独りでに移動していたサインポールが、立ち止まっていた。土台の一辺が、アスファルト上に設置されている車止めブロックに衝突して、それ以上進めなくなっているためだ。

 相変わらず、シリンダーは、超高速回転している。にもかかわらず、土台は動かないうえ、しっかり固定されているわけでもない。そのため、遠心力により、サインポール全体が、ぐらり、ぐらりっ、と前後左右に揺れていた。

「不味いですね……とにかく、モーターを止めませんと……」赤欅が、それに近づいていき始めた。

 直後、サインポールが、ぐわっ、と大きく傾いた。その角度は、どんどん増大していき、ついには、九十度を超えた。シリンダー部分が、地面に、がんっ、と衝突した。

 直後、サインポールは、土台を中心とする円を描くようにして、時計回りに超高速回転し始めた。シリンダーは、今や、タイヤの役目を果たしており、ががががが、という音を立てながら、アスファルト上を転げ回り続けていた。

「なっ……!?」

 呼一は、顎を、がくん、と下げた。サインポールは、その後、超高速で円運動し続けながら、駐車場をうろつき始めた。彼は、ただ呆然として、その狂態を眺めていた。赤欅も、呼一の左斜め前あたりで立ち止まり、同じようにしていた。

 そして冒頭に至るというわけだ。


 現在、午後二時。

 赤欅の死を確認した直後の呼一めがけて、サインポールが、超高速で円運動しながら、突進してきていた。

「……!」

 呼一は、片膝をつくのをやめ、立ち上がった。サインポールに正対し、中腰になる。左右の手を前に出し、腕を軽く曲げて、構えた。

 数秒後、サインポールが、彼の一メートルほど前にまで迫ってきた。

「はっ!」

 呼一は、タイミングを見計らうと、サインポールに跳びかかった。土台の裏面めがけて、タックルする。同時に、それの上辺を両手で掴んで、しがみつくことに成功した。

「後は、モーターの緊急停止ボタンを押すだけだ……!」

 土台の裏面にしがみつき続けながら、呼一は、そう独白した。彼は、超高速で円運動し続けるサインポールに、ジャイアントスイングのごとく振り回されていた。最初のうちは、腰および膝を曲げていたが、体にかかる遠心力や、脛にかかる摩擦力などのせいで、次第に伸びていった。

 呼一は、行動を起こそうとしたが、そう簡単なことではなかった。両手でしっかり土台に掴まっていないと、遠心力により、あっという間に引き剥がされてしまうだろう、と直感していたためだ。最悪の場合、直後に、シリンダーの体当たりを食らって、負傷するかもしれなかった。

「ぬうううう……!」

 その後も、呼一は、土台の裏面にしがみつき続けた。そして、しばらくすると、なんとか、遠心力に慣れてきたり、手足への効率的な力の込め方を体得したりしたように感じられた。これなら、数秒だけであれば、右手を土台から離しても、引き剥がされずに済むだろう。

「……今だ……!」

 呼一は、右手を土台から離した。モーターの緊急停止ボタンめがけて、しゅばっ、と伸ばす。

 直後、シリンダーが、がたっ、という音を立てて、少しばかり跳ね上がった。アスファルトの凸凹か何かを踏みつけたに違いなかった。

「う……!」

 呼一は、慌てて、右手を止めようとした。しかし、間に合わなかった。それは、超高速で回転しているシリンダーの、モーターとの繋ぎ目部分に接触した。

 ざりざり、ばきばき、ぶちぶち、というような音が鳴った。

「ぎゃああっ!」

 爪が剥がれ、指がちぎれ、肌が破けた。あちこちの傷口から血が噴き出し始めた。激痛のあまり、気が遠くなりかけた。

 引き続き土台の裏面にしがみつくことなど、とうてい、できやしなかった。左手が、ずるっ、と滑った。

「あああ……!」

 呼一は、地面の上を、ごろんごろん、と転がった。数秒後、腹這いの姿勢となった時に、回転が止まった。

 いつの間にやら、彼は、駐車場から出ており、車道の真ん中あたりにいた。サインポールが、超高速で円運動しながら、出入口を通り、駐車場へと戻っていくのが、視界の端で捉えられた。

「ううう……」

 呼一は、唸り声を上げながら、右手に視線を遣った。中指と薬指と小指が、第二関節と第三関節の間で、ちぎれていた。我にもなく、辺りを見回したところ、それらは、付近のアスファルト上に転がっていた。

 彼は絶叫しようとした。しかし、できなかった。自動車のクラクションの音が、鼓膜をつんざいたからだ。

 ばっ、と後ろを振り返る。10tトラックが一台、呼一の背後、数メートル離れたあたりにまで、迫ってきていた。

「く……!」

 錯乱している場合ではなかった。呼一は、ひゅばっ、と立ち上がると、歩道めがけて、だだだっ、と全力疾走し始めた。

 全力疾走は二秒で終了した。右足を縁石にぶつけ、つまずいたからだ。

「う……!?」

 呼一は、前に向かって跳び込むような体勢で、宙を吹っ飛び始めた。靴底の数十センチ後ろを、さきほどのトラックが通過していった。

 一秒も経たないうちに、彼は、歩道の上に着地した。ヘッドスライディングのごとく、ずざざざざ、と滑る。左右の腕が、粗いアスファルトと擦れた。

「がああ……!」

 体が止まった後、呼一は、その場に急いであぐらをかいて、左右の腕の様子を確認した。いずれの肌にも、多数の、大小さまざまな擦り傷が出来ていた。血が流れ出している所も、少なくなかった。

「クソが……クソ……クソクソクソっ……」涙が、ぼろぼろりぼろり、とあふれ始め、止まらなくなった。「綺麗だったのに……せっかく……頑張って……綺麗にしていたのにっ……」

 本格的に号泣しようとしたところで、右方から、がしゃっ、という音が聞こえてきた。そちらに、視線を遣る。駐車場内にて、相変わらず超高速で円運動しているサインポールが、呼一たちの持ってきた工具箱に衝突し、それを横転させたところだった。中に入れていた、ハンマーだのボルトだのワイヤーだのが、辺りに散乱した。

 数秒後、シリンダーは、いくつかあるボルトのうち一個に衝突した。かあんっ、という音を立てて、それをはね飛ばした。

 数秒後、がちゃあんっ、という音が鳴った。吹っ飛んでいったボルトが、理容店の外壁のガラスを割ったのだ。

 白檜が正面玄関から飛び出してきた。「何事!? 何事ですか!?」駐車場の中央に向かって、ふらふら、と歩きだした。しかし、数歩後には、暴れ狂う赤・白・青の円筒体に気づいたらしく、ぴたっ、と立ち止まって、目を、ぱちくり、と瞬かせた。

 次の瞬間、それまで当てもなくうろついていたサインポールが、超高速で円運動しながら、彼女めがけて突進し始めた。

「……!」

 白檜は、一瞬、驚愕の表情を浮かべたが、すぐさま、意を決したような顔つきになった。ぐっ、と膝を軽く曲げる。おそらく、ジャンプして回避するつもりだろう。

 数秒後、サインポールは、白檜の一メートルほど前にまで迫った。土台は、彼女の左斜め前あたりに位置していて、シリンダーは、そこから右方へと突き出ていた。

 次の瞬間、がんっ、という、ひときわ大きな音が鳴った。同時に、シリンダーの先端が、地面から、ぐわっ、と浮き上がって、右斜め上を差した。アスファルトの凸凹を踏んづけ、跳ね上がったに違いなかった。

「なっ……!?」

 白檜は、目を見開いて、全身を硬直させた。すっかり、ジャンプして回避する気になっていたらしく、明らかに、状況の変化に対応できていなかった。

 〇・一秒後、シリンダーが、彼女の腹あたりに、どかっ、と衝突した。

「ぐはっ!」

 白檜は、後ろに倒れ、どかっ、と尻餅をついた。その勢いのまま、上半身も倒れた。後頭部が、地面に、ごちんっ、と衝突する。シリンダーが、彼女の体の上を通り過ぎていった。

「あが……」

 白檜は、そんな呻き声を上げた。シリンダーの先端は、彼女の頭のすぐ後ろに、がっ、と着地した。

 サインポールは、時計回りの円運動を再開した。しかし、今度のそれは、一秒も続かなかった。またしても、シリンダーの先端が、アスファルトの凸凹を、がんっ、と踏んづけ、ぐわっ、と宙に跳ね上がったからだ。

 それは、しばらくすると、放物線の頂点に達し、その後は、下降し始めた。そして、最終的には、仰向けに寝転がっている白檜の顔面に、どこっ、と衝突して、そのまま、そこに留まり続け始めた。

 じゃりじゃりじゃりじゃりじゃりじゃり。

「……!」

 超高速回転するシリンダーにより、白檜の顔面が研磨され始めた。血だの、毛だの、歯だのが、辺りに飛び散りだした。

 彼女は、サインポールをどけようとはしなかった。よく見ると、両腕が、ぴくり、ぴくりっ、と痙攣していた。後頭部を地面に打ちつけた時に、脳が損傷を受け、体が麻痺しているのかもしれなかった。

「し、白檜さん、大丈夫ですか……!?」

 呼一は、そう大声で呼びかけながら、あぐらを解除した。いったん、四つん這いの姿勢になってから、片膝をついて、立ち上がる。

 すぐさま、再び片膝をついた。足に力が入らないのだ。試しに、ズボンの上から皮膚を抓ってみると、ほとんど痛みを感じなかった。あぐらをかいていたせいで痺れたに違いなかった。

「ぬうう……!」

 それでも、じっとしていられやしなかった。呼一は、四つん這いの姿勢をとると、赤子のハイハイのようにして、白檜の所に向かい始めた。

 それから一分ほどかけて、白檜の数メートル手前にまで到達した。直後、サインポールのシリンダーの先端が、彼女の顔面の上を、ごりごりっ、と移動しだした。額の上を通り過ぎ、前頭部の上を通り過ぎた後、頭皮から滑り落ちて、地面に、がっ、と衝突する。その後は、以前と同じように、時計回りに円運動し始めた。そして、そのまま、その場を離れて、駐車場をうろつきだした。

「し……白檜さん……」

 足の痺れは、すでに、ほとんど治まっていた。呼一は、立ち上がると、だだっ、と彼女に駆け寄り、様子を確認した。

 顔には、眉から下唇までの間にわたって、大きな擦り傷が出来ていた。あちこちの肌が、べろん、と捲れ、筋肉や脂肪が露出していていた。鼻はぺちゃんこに潰れ、唇はずたずたに裂け、歯はぼろぼろに抜けていた。

「きゅ、救急車……!」

 呼一は、ズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。しかし、そこに入れていたはずの業務用スマートフォンは、姿を消していた。

「な……!?」

 呼一は、きょろきょろ、と辺りに視線を遣った。数秒後には、駐車場の出入口の近く、工具箱の手前あたりに、業務用スマートフォンが落ちているのを見つけた。少し前、サインポールの土台にしがみついて振り回されている時に、ポケットから飛び出したのだろう。

「く、面倒な……!」

 呼一は、業務用スマートフォンの所へ、早歩きで向かいだした。数秒後、右足首の裏側に、小さな石ころの破片か何かが、ぺち、と当たったのが感じられた。

 ちらり、と後ろを振り返る。サインポールが、超高速で円運動しながら、彼めがけて突進してきていた。

「……!」

 呼一は、顔を、ばっ、と素早く前に向けると、業務用スマートフォンめがけて、だだだだっ、と全力疾走し始めた。ががががが、という、サインポールのシリンダーが奏でるBGMは、じょじょに大きくなっていっていた。だんだん距離を詰められているに違いなかった。

「はっ、はっ、はっ……!」

 数秒後、呼一は、工具箱の三メートルほど手前にまで到達した。よし、この調子なら、なんとか、サインポールの体当たりを食らう前に、スマホを回収できそうだ。そう心中で呟いた。

 次の瞬間、地面から上げようとした左足が、がくっ、と下に引っ張られ、急停止した。

「う……!?」

 体のバランスが、ぐらりっ、と崩れることが、はっきりと感じられた。立て直すこともできず、どんどん、前傾していった。

 呼一は、一瞬だけ、顔を下に向けた。地面に、ワイヤーが一本、落ちていた。サインポールが、白檜を襲撃する前、工具箱を横転させた時に、その中から飛び出してきた物だ。

 ワイヤーの終端は、それの少し手前に結びつけられることで、直径二十センチ強の円を形成している。左足首が、その円の中を通っていた。始端は、円の結び目から三十センチほど離れた点に位置していて、右足に踏んづけられている。そのせいで、上げようとした左足が、途中で止まったのだ。

「ぐうっ……!」

 とっさに、呼一は、両手を前に出した。地面に、まず両膝をついてから、次に両掌をつく。四つん這いの姿勢になった。

 即座に、ばっ、と顔を上げた。業務用スマートフォンは、彼の右手の一メートルほど前方に位置していた。これでは、届かない。

「く……!」

 呼一は、右手を、ひゅばっ、と素早く伸ばした。付近の地面に転がっていたハンマーの柄を、がしっ、と掴む。工具箱が横転した時、ワイヤーと一緒に飛び出してきた物だ。

 即座に、体を、百八十度ほどターンさせた。サインポールは、彼の約一メートル手前にまで迫ってきていた。

「おりゃっ!」

 呼一は、掲げていた右手を、ぶんっ、と振り下ろした。ハンマーで、シリンダーを殴りつけようとする。

 がん、という音が鳴り響いた。ハンマー頭部の底面が、アスファルトに激突したのだ。その時、サインポールは、まだ、ハンマー頭部の十数センチ手前にいた。土台は、彼の左斜め前あたりに位置していて、シリンダーは、そこから右方へと突き出ていた。

 〇・一秒後、シリンダーの真ん中あたりが、ハンマー頭部に、がこっ、と衝突した。それの先端が、ぐわっ、と地面から跳ね上がって、右斜め上を差した。

「うおっ……!」

 呼一は、顔を左に向けつつ、しゅばっ、と素早く伏せた。シリンダーは、背の上を通過していった。

 サインポールの様子を、じっ、と観察する。シリンダーの、水平面に対する傾斜角は、どんどん増大していった。二十度を超え、四十度を超え、六十度を超えた。

「……!」

 悠長に様子を観察している場合ではなかった。呼一は、立ち上がるのもそこそこに、サインポールめがけて跳びかかった。左右の腕全体を使って、土台の表面を、下方向に、がしっ、と押さえ込んだ。

 サインポールは、直立した。

「やった、やったぞ……!」

 呼一は、顔を、ばっ、ばっ、と素早く動かして、周囲の様子を確認した。サインポールの設置予定場所──歩道と駐車場の間にある非舗装地帯、地表に基礎ボードが据えつけられている所──を見つける。少し遠いが、移動を諦めるほどの距離ではなかった。

「この機会、逃してなるものか……!」

 呼一は、サインポールを、土台を上から押さえ込みつつ、設定予定場所に向かって移動させていった。さいわいにも、その途中で、スパナやボルトなど、各種の道具を手に入れることができた。

 しばらくして、目的地に到着した。サインポールを、基礎ボードの真上に移動させる。

 その後は、目を見開き、歯を食い縛って、必死に作業した。土台からキャスターを外し、四隅に開いている穴の位置を、基礎ボードにある、対応する穴と合わせる。それらにボルトを通すと、スパナを使って、あらん限りの力を込め、ぎっちぎちに締めつけた。

「はっ、はっ、はっ……」

 呼一は、基礎ボードの付近、駐車場のアスファルトの上に、どちゃっ、と尻餅をついた。両脚を三角に曲げ、両腕を後ろの地面につけた。荒い呼吸を繰り返しながら、サインポールの様子を観察する。

 シリンダーは、相変わらず、超高速で回転していた。しかし、土台が地面に固定されているおかげで、今や、少しも揺れていなかった。これなら、もう、倒れることはないだろう。そう確信した。

「はあ……はあ……ふううー……」

 思わず、長い息が漏れた。しばらく、呼一は、地べたに座ったまま、放心し続けた。強風を浴び、それを涼しく感じた。

 次の瞬間、唐突に、左足首が、ぐいっ、と右斜め前へ引っ張られた。

「うおっ……!?」

 呼一は目を瞠った。反射的に、左脚を手前に動かそうとする。

 しかし、できなかった。左足首を右斜め前へと引っ張っていく力は、とても強かったのだ。一秒も経たないうちに、彼の体、左足首より上は、ずるずるずる、と引きずられていき始めた。上半身を起こし続けることもできず、すぐに、地面に仰向けに寝転ぶような格好となった。

「な、何だ……!?」

 呼一は、懸命に首を上げると、左足首の様子を確認した。それは、円の中を通っていた。数秒かけて、その円は、ワイヤーの終端に形作られているものだ、とわかった。前に、業務用スマートフォンを拾おうとした時、転倒した原因となった物だ。

 ワイヤーの始端は、サインポールのシリンダーの根元、モーターとの接続部分に挟まっていた。今までは、土台を基礎ボードに据えつけるのに必死だったため、気づかなかったのだ。さきほどの強風により、ワイヤーの始端が動かされ、その部分に挟まったのだろう。

「ぬうう……!」

 呼一の体は、サインポールを中心として、ジャイアントスイングのごとく、反時計回りに回転し始めた。その後、十数秒が経過する頃には、体が宙に浮いた。遠心力が重力を上回ったのだ。

「……!」

 背伸びのような姿勢のまま、呼一は、サインポールに振り回され続けた。どうすることもできなかった。強い遠心力のせいで、ワイヤーの円から左足首を抜こうとしてみることも、ワイヤーの終端の結び目を解こうとしてみることも、叶わなかった。そもそも、頭がくらくらしていて、四肢にろくな力が入らなかった。全身の血液が頭のほうに集まってきているためだろう。

 数分後、失いかけていた意識の底で、唐突に、ぼきゃあっ、という大きな音を聞いた。同時に、左足首にかかっていた向心力が、ぱっ、と消失した。体が、サインポールから離れ、地面と平行に、明後日の方向へ吹っ飛び始めた。

「う……!?」

 吹っ飛んでいきながらも、両目に渾身の力を込め、眼球を動かすことで、なんとか、一瞬だけ、サインポールの様子を確認することができた。シリンダーが、土台から外れ、地面に転がっていた。モーター格納スペースは、外装が大破していて、中が見えるようになっていた。モーターは、斧を振り下ろされた薪のごとく、真っ二つに割れていて、辺りには細かい部品が散乱していた。長時間の超高速回転に耐えられなかったのだろう。

 視認した内容をそこまで反芻したところで、背に、どしっ、という衝撃を受けた。しかし、体は、相変わらず吹っ飛び続けた。ぶつかったのは、何かしらの上り斜面だったのだ。そのまま、それの表面を滑っていった。

 呼一は、これの正体に心当たりがあった。おそらくは、店舗の外壁と駐車場の間に設置されていた、石像だろう。あれは、三角座りをして両手を腿の裏に回している天使、というような見た目をしていた。その両脚の上を滑っているわけだ。

 そこまで考えた直後、背中に受けていた感触が消失した。天使の膝から宙へと飛び出したに違いなかった。

 間髪入れずに、頭に、強烈な衝撃と鈍痛を味わった。「──」呻き声を上げるどころか、呼吸すらできなかった。

 がちゃあっ、という音が鼓膜をつんざいた。透明な多角形が、視界の中を飛び交った。ガラスを突き破ったのだ。

 壁だの天井だのが、目に飛び込んできた。「BARBAR TRANQUILITY」と書かれた横断幕が掲げられているのが見えた。ガラス張りの外壁を突き破り、理容店内に突っ込んだというわけだ。

「──」

 ものを考えていられた時間は、〇・一秒にも満たなかった。すぐさま、後頭部や肩甲骨、背中、尻、ふくらはぎ、かかとなどに衝撃を受けた。体が、奥の壁に激突したのだ。

 そこは、いくつかある理容席のうちの一つだった。呼一の足下には洗面台が位置しており、それの前にはチェアが据えられている。彼は、壁に備えつけられている鏡の表面に、大の字で磔にされたようになっていた。

「ぐはっ──」

 磔は、重力により、一秒も経たないうちに解除された。真下に向かって落ち、すぐさま、洗面台に衝突する。その拍子に、ハンドルが押し下げられた。蛇口から、水が、どぼどぼどぼ、と噴き出し始めた。

 その後、呼一は、洗面台からも落下すると、チェアの上に尻餅をついた。それにより、一瞬だけ、本来の用途どおりに腰かけたような格好になった。ただし、上半身は、背凭れに接しておらず、ほぼ直立していた。

 間髪入れずに、上半身が、重力に従って前傾し始めた。やがて、胸元が、洗面台の手前の端に、どしっ、と衝突した。

「げほっ……」

 呼一は、顔を下に向けた状態で、首から上を、洗面ボウル内に差し出した。そこで、彼は、蛇口から噴き出している水が、溜まっていることに気づいた。よく見ると、排水口の蓋が閉じられている。さきほど、洗面台の上に落ちた時、何らかのボタンが押されたかレバーが引かれたか、とにかく、閉栓されてしまったのだろう。

「……!」

 水位は、ぐんぐん上がってきていて、水面は、どんどん迫ってきていた。呼一は、首を洗面ボウルから離すため、上半身を起こそうとした。

 しかし、できなかった。力が入らないのだ。首から上は、とりあえずは自在に動かせるが、首から下は、ぴくりともしなかった。さきほど、ガラスを突き破った時、あるいは、壁の鏡に激突した時に、頭を強打したせいで、脳が損傷を受け、体が麻痺しているに違いなかった。

 数秒後、水面が鼻と口を覆った。しばらくの間、がぼっがぼっ、と咳き込んでいたが、やがて、水が、咳の塊を押し戻しながら、気道および食道に流れ込み始めた。数十秒後、気が狂いそうになるほどの息苦しさの中、肺が破裂した感触を味わい、ほぼ同時に意識が途切れた。


   〈了〉

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