マザー

 しごとからの帰り道、商店街の占い師がわたしは母になることができると言った。わたしはあわてて帰宅すると腕時計もはずさないまま冷蔵庫のビールや戸棚のワインをシンクに流し、昆布と乾燥ひじきをひとまとめに捨て、棚にずらりと並べたスパイスの瓶をひとつずつ空けていった。あまり食べないようにしていたのでたくさん残っていたが母になることを思えばすこしも惜しくなかった。

 金目鯛をパックのままごみ袋に入れ、そこではっと気がつき歯医者に電話をかけた。歯のつめものにも水銀がふくまれる。セラミックに変えなければと思ってはいたものの歯に触れられることが苦手であとまわしにしていた。明日は午前の予約がいっぱいだと言うので、しごとは午後休をとることにして十五時に予約を入れた。

 それから胎児によくないものを調べなおし、リストのものをすべてごみ袋につめ、ようやくわたしは冷静になった。部屋の空気とじしんの手がつめたいことに気がつき暖房を入れた。エアコンの口がゆっくりとひらき、低いうなりとともに温風が吐き出された。

 乾いた風に手をかざしながら、わたしは母になることについてかんがえた。それはこれまでに数えきれないほどくりかえしてきた想像だった。わたしはむかしから母にあこがれをいだいていた。こどもへの愛に満ち、こどものすべてをゆるし、こどものためにじぶんのなにもかもをささげる。母とはそのような本能をたずさえた存在だと教わった。

 わたしはずっと母になりたかった。しかしそう言うとたいていのひとは冗談と受けとり、幾人かは不敬だと叱った。母は神話に棲み、わたしたちは母の恩恵を受けている。母はミルクの雨を降らし、あかんぼうのおむつをきれいに保ち、車道へ飛び出したこどもを透明な膜で阻む。母はなるものではなくあがめるものだ。それでもわたしは母になりたかった。

 翌日、わたしは予定通り歯医者へ行った。その日のうちにセラミックへ変えられるものと思っていたが今回は銀歯の除去と型どりだけだった。銀歯のあった箇所には一時的なつめものがされ、口に入れてしばらくはひどい刺激臭がした。銀歯よりも胎児に悪そうだったが医者は問題ないと言った。

 入浴のあと、わたしは白湯をすすりながら妊娠と出産の実用書を読みかえした。あかんぼうはわたしたちにんげんの女性から生まれるがかれらはわたしたちのこどもではない。それは蛇口から水が流れるようなもので、水道水の根源が蛇口でなく川であるように、母から生まれた命がわたしたちを介して世界にあらわれるのだ。かれらは、そしてわたしたちはみな母のこどもだ。

 わたしはこどもということばをふしぎに思う。おさないいきもののことをこどもというし、いきものからうまれたいきものはそのなにかにとってずっとこどもだ。だからわたしたちはいくつになろうと母のこどもで、わたしたちの母はひとりだ。ただあかんぼうを生むだけでは母になれない。わたしはこどもを生むゆいいつにならなければならない。

 わたしは今日もベッドのなかでナイフをにぎりしめ、母がわたしにあかんぼうをあずけにくるときを待っている。



2023.1

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