桜毒

 広い場所はもうどこもいっぱいになってしまったので、最近は路上にまで桜が植わっているのだと姉は言った。ほんとうはいけないことだけれど遺族の気持ちをかんがえるとむげにはできない。じっさい、ぼくたちの両親であった桜も庭からすこしはみだしている。迷惑になるとわかっていても切り倒すことはためらわれたし、まわりのひともなにも言わなかった。

「桜はお骨より場所をとるものね」

 姉はベッドに腰かけ、高く結いあげた髪をゆびで梳いた。

「じぶんの死体を粗末にあつかわれたくないから他人の桜もていねいにあつかうのよ。死んだひとは桜として生きているなんてかんがえるひともいるし。たちが悪いわ」

 よこたわるぼくからは姉のきれいな生えぎわが見える。そのうなじはぼくとおなじようにむきだしですべすべとし、このあたりで桜を植えていないのはぼくと姉のふたりだけだと医者の言っていたことを思い出した。姉はともかく、ぼくはじぶんを親不孝者だと感じることがある。

 大きな音を立てて窓が揺れた。この時間はとくに風が強かった。腕をのばしカーテンをひらくとくろぐろとした夜闇が染み出し、頬に垂れ落ちた気さえした。空の高いところにまるでついばまれたようにいびつなかたちの月が見えた。

「もう休みなさい」

 姉の手がぼくの手をつつみ、カーテンを閉じる。


 世界の終わりが逃れられないものとわかったとき、繁殖は不道徳とされた。環境はきびしくなる一方であるし、ひとは桜を植えなければ水毒やその合併症で、植えたとしてもその負担で短命だった。それでも両親はぼくたちを生み、ぼくたちはこのあたりでさいごのこどもだった。そして同時に、このあたりでさいごの桜を植えていない人間だった。

 這えもしない頃から臥せることの多かったぼくに対し、姉には水毒の症状がいっさいなかった。それは非常にめずらしいことで、理由はだれにもわからなかった。ぼくの主治医は首をひねりながら言った。

「つまり、水の代謝が正常であるということです。かつての水毒は水分のとりすぎや内臓機能の低下が原因で、すべての病気とおなじように発症するひととそうでないひとがいました。しかしいまは違います。月の引力の低下はだれしも受ける影響であるのに、なぜ彼女にはそれがないのか……」

 医者がうなるたび頭上の桜がざわざわと揺れた。水分のとりすぎが原因だった頃から水毒には桜が効果的とされていたらしい。当時は観覧でじゅうぶんだったが、月が欠けてからは効きづらくなり、首のつけねに植えるようになった。

 その桜を植えていないせいでぼくはずっと水毒にさいなまれていた。とくに頭痛と関節痛がひどく、症状は年々悪化していた。処方される薬は月が欠けるよりまえにもちいられていたもので、桜の見物とおなじに気休めにしかならなかった。

「あたらしい薬が開発されることはありませんか」

 ぼくは薬袋の口を折る医者のゆびさきをながめながらたずねた。

「薬でなくても、たべものとか、姿勢とか、そうした研究はされないのでしょうか」

「それを必要とするひとがあまりにすくないものですから。そのうえ人類そのものがもうながくないので、あたらしい、時間のかかるものごとをはじめるひとはほとんどいません。桜の移植は世界の残りわずかな寿命をできるだけ苦しまずにあゆむためのものなのです」

 医者は月に一度、自転車に乗って家をおとずれる。風が強く危ないのだが、歩くには遠く、姉の言ったとおり路上の桜が増えているので車で来ることもできない。あたらしい桜が増えるたび、かれはその根にハンドルをとられる。ほんとうは踏みたくないがあまりに多いので避けきれないと嘆いていた。ぼくは木の根よりもかれの桜の枝が道の枝とからまりはしないかとひやひやしている。

 日がな一日ベッドで時間をつぶしているので、ぼくは窓から見える風景に桜がひとつでも増えればすぐにわかる。それどころか死んだばかりの人間が置き去りにされるところも、そのからだがうなじの桜にとりこまれてゆくところも見たことがある。

 いつだったか、医者があれらを墓標と呼んだことをいまでも忘れられずにいる。


 ぼくの部屋は生前祖父が使っていた部屋で、家でいちばん日あたりのよいためにかれの死後ぼくへゆずられた。かれは桜を植えていなかった。水毒とそれによって併発した腎炎や胸水に苦しめられていたが、比較的長命で、ぼくはじぶんたち姉弟がこうして生きながらえているのは祖父の血筋だからかもしれないとかんがえていた。

「おれのちいさい頃、月はもっとまるかった。こんなに風の強い日はめずらしかったし、桜の咲く季節も一年のわずか四分の一だった。それがいまや一年中だ」

 おさない時分、ぼくと姉はしばしばかれの部屋でひなたぼっこをした。ベッドの近くにはぼくたちのためのソファがあり、ふたりならんで座り祖父とおしゃべりをした。大きな窓を見下ろせば首に桜を生やしたひとびとのゆきかうのが見えた。おだやかな日射しは頭痛をやわらげ眠気をさそい、ぼくは姉と祖父の会話をにぶった思考の浅いところで聞いていた。

「どうして変わってしまったの?」

「月の引力が弱くなったからだ。隕石で欠けて、質量が減ったせいだ。だから地球はロープの切れた帆のようにかたむいたし、リードをゆるめた犬のようにたくさん回る」

「おじいちゃんはなぜ桜を植えなかったの」

「いつかすばらしいロケットがつくられて、みんなでどこかべつの星へゆくのだと思っていた。そのとき桜は邪魔になる。けれどそんな星は見つからなかったし、ロケットはついぞつくられなかった」

 桜を植えていない祖父は桜を植えるまえの風習にしたがって火葬された。骨は墓地におさめられたが桜もまた墓地へ植えられていたので、初盆でおとずれたとき祖父の墓石は他人の桜の根にとりこまれてしまっていた。

 生涯苦しみ、最後にはちいさなもろいかたまりにすがたを変えた祖父は両親の心を深く傷つけたようだった。桜を植えたくないと告げたとき、かれらはひどく悲しそうだった。

「お姉ちゃんはひとよりからだが丈夫なんだ。おまえは違う。おじいちゃんを見ていただろう? いまよりもっと苦しむことになるんだよ」

 父はかつてぼくと姉の座ったソファに腰かけ、ほとんどあきらめた声音でそう言った。

「わかってる」

「なにか不安なことでもあるのかい」

「そういうわけじゃないよ」

 父はぼくの目を見つめ、母はぼくの頬をなでた。両親は若く、そのうなじから生える桜もみずみずしかった。首を動かすたびにさらさらと枝が鳴り、うすもも色のはなびらを光が流れた。

「おそろいがいいのかしら。あなたたち、ほんとうに仲がいいわね」

 それだけ拒んでおきながら、父が桜になり、その近くで母もまた桜になったとき、ぼくはかれらの望みどおり桜を植えるべきだったと後悔した。道徳にさからい生み落とされたあかんぼうはぼくたちだけではなかった。たくさんの夫婦が奇跡を願いながらはぐくみ、しかしからだの未熟なうちは桜の負荷に耐えられず、移植できる年齢を待つうちにみんな水毒で死んでしまった。ぼくたちは幸運なこどもだった。両親はぼくに桜を植え、たとえ短くともやすらかな生を送ってほしかっただろう。それについてかんがえるといまでも罪悪感におそわれる。

 しかしどれだけ悔やみはしても桜を植えるつもりはなかった。ある昼さがり、うたたねからさめると床に座りこんだ姉がノートにペンを走らせていた。

「なにをしているの」

 姉はほほえみ、膝立ちになるとぼくの耳にくちびるを寄せた。

「人口がどのくらいのペースで減っているか調べているの」

 おだやかな日射しと不釣り合いに窓はがたがたとふるえていた。風は日に日に強くなっていた。ぼくは頭痛に障らないようゆっくりとまばたきをした。

「桜の増える頻度が高くなっていると思わない? 月はいまも欠けつづけていて、この星はますますひとに適さない環境になってゆくの。この調子だとあと十年くらいでほとんどのひとは桜になるか水毒で死んでいて、それから五十年も経たないうちにありとあらゆる生命がうしなわれるわ」

 姉はとろけるような笑みを浮かべ、恍惚とした口調で言った。

「ねえ、世界が桜の花束みたいになったらすごくすてきじゃない?」

 目のまえのつややかな黒髪に、まつげに、鎖骨のくぼみに光がはじける。ぼくはあの日ふれた母のてのひらのつめたさを思い出しながら、姉はぼくのことをそんなふうにはかんがえていないだろうと思った。ぼくは姉のもっともそばにいる、もっとも年の近い人間だ。ただそれだけなのだ。


 訪問診療の時間になっても医者が来ず、ようすを見に行った姉が路上にあたらしい桜を見つけた。桜の根もとには医者の愛用していた自転車がまきこまれていて、どうやら家に向かう道中で息絶えたようだった。姉は病院に電話をかけたがだれも出なかった。

 窓から見える景色はほとんど桜だけになっている。ぼこぼことした木肌とやわらかな花弁のすきまにべつの色が交じるていどだ。ぼくの症状も悪化するばかりで、最近は胃液ばかり吐いて嫌になっている。口をすすぎながら、桜と月は離れた場所から異なる方法でおなじ終着点を目指しているのだとかんがえる。

 それでもぼくには世界の終わる実感がなかった。その意味を正しく理解し、月とともに朽ちゆくからだを感じているのに、精神はそうした感覚の内部でぶあつい膜にへだてられ浮遊していた。その膜はこの家であり姉だった。両親が死んでからぼくの世界は姉になった。その姉は地球でもっとも健康な少女で、ゆいいつ膜に穴をあけおとずれていた医者は桜になってしまった。

「あんなに空の遠くにあって、太陽みたいな熱や光を持つわけでもない月が、地球にこれほどの影響をもたらしているというのはどうしても信じられないわ」

 ぼくのからだを拭きながら姉は言った。今日はとくに風が強く、ぱちぱちとたえまなく窓に砂がぶつかっていた。

「きっと、昼は太陽の明るさに呑まれてしまうし、ほんとうのすがたを見せる夜にわたしたちがねむっているからね。なによりわたしたちはいまの月と地球しか知らないんだもの。おだやかな風も、耐えがたい暑さや寒さも、はじめから縁のないものだわ」

 ぼくがこたえないので姉はひとりで喋っている。絵本を読み聞かせるようなやさしい抑揚で、ことばのひとつひとつにいつくしみがあふれている。

「昔、海へ連れていってもらったことをおぼえている? おじいさんがどうしてもと言うから家族みんなで行ったのよ。かれは潮の満ち干のはなしをしてくれたわ。月と太陽の引力によって海面が上がったり下がったりする現象のことで、潮汐とも言うのよ。満ち干より潮汐のほうがすてきよね。おじいさんはそれが見たかったのだけれど、ほとんど波と区別がつかなかった。月の引力が弱まったせいよ。とても残念そうだったわ。そういえば、人類が水毒におかされているのもおなじ理屈というわね。ひとの体液は海水の成分と近いから。地球と人間を構成するものが似ていて、だからこうしてともに滅びようとしているというのは、なんというか、運命的じゃない?」

 姉はぼくに語りかけるように、ひとりで喋りつづけている。


 ひどい耳鳴りにつつまれ、夢と現実のさかいめをさまようさなか、外界の大きな音がまどろみを引き裂いた。とびらのほうに首を向けると、外出していた姉がずんずんこちらに近づき、ぼくの手を握りしめ興奮をかくさずに言った。

「外に行くわよ」

 姉に背を支えられ、ぼくはどうにか立ち上がった。破裂しそうな頭痛と関節の痛みでいますぐ横になりたかったがそれはゆるされなかった。手を引かれ、もつれる足で階段を下り、ひさびさに見た玄関はなつかしいくらいだった。そしてぼくは十三年ぶりに外へ出た。

 がらすを介さない日射しが目を焼き、反射的に閉じたまぶたをもつらぬいた。吹き抜ける風が水毒でしめった皮膚を冷やす。ふたたびひらいた目に映るなにもかもは眼球をとりかえたかのようにあざやかで、輪郭のひとつひとつが浮きあがりぜんたいの把握を阻害した。それぞれの境界が薄れひとかたまりになったとき、ようやく桜をとらえた。

 あたりは桜で埋めつくされていた。部屋の窓はちょうど花の位置にあったので一面うすもも色だったが、こうして花弁の下にもぐりこむとたくましい幹や繊細な枝を見ることができた。しかし地面のほとんどは無数の根で覆いかくされていたし、迷路のように乱立する幹で向かいの家も見えず、色彩はかぎられていた。

 姉はぼくの手を離し、満面の笑みでふりむいた。

「もうおおよその人間は桜になるか水毒で死んでしまったはずよ。もしかしたらまだ何人か生きているかもしれないけれど、そんなにながくはかからないわ。すくなくともこの町にはわたしたちしかいない」

 ぼくたちは道だったものを歩いていった。かろやかに跳ねる姉を幹に手をつきぼくが追う。姉とぼくの距離はどんどんひらいてゆく。彼女はふと思い出したようにぼくを待つが、完全に追いつくまえに歩きだしてしまう。

 激しく揺れる頭上の枝に反して触れる風は幹に阻まれおだやかだった。ひとの気配はまるでなかった。しかし部屋よりずっとにぎやかで、それは鳴りやむことのない枝や、花を透過しふりそそぐ光や、肌で感じる空気のめぐりだった。姉は宙を舞う花びらをつかまえ、気に入ったものだけてのひらに残しているようだった。桜の花弁と姉の爪はおなじ色をしている。ぼくは桜の花に香りのないことを知った。

 慎重に歩いてはいたが、疲労のせいで足が上がらなくなりつまずくことが増えた。さきに帰っていようと思い、姉に声をかけるため顔をあげるとまたつまさきがひっかかった。それまでにない金属的な音がし、視線を落とすと根が自転車をまきこんでいた。

 とたんに足から力が抜け、ぼくはずるずると座りこんだ。頭痛が激しさを増し目を開けていられなくなる。おさまっていた耳鳴りがしだいに音量を上げ、頭蓋のなかで反響する。姉の声が水のなかで聞くようにくぐもる。

「どうしたの、ねむたいの? しかたのない子ね。わたしはもうすこし見てくるから、あなたはそこで休んでいなさい」

 懸命にもちあげたまぶたのすきまから姉の遠ざかってゆくのが見える。ざあざあと風が鳴り、花弁はますます爪のように白くひらめく。姉のなにものにもおかされないすこやかな肢体があわい光のなかに躍る。

 風景はまるで火にくべた写真のように黒くとろけてゆき、その暗がりへぼくの意識もまた吸いこまれてゆく。



2023.1

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