残香

 目をさますと周囲に音はなく、設定した時計のアラームはまだ鳴っていなかった。もうずっとこのような生活をしていて、ここ二か月は音よりさきに目ざめないことは一度もなく、それでもひとつの儀式のように毎夜ねむるまえアラームのスイッチを入れるのだった。

 からだを起こす途中、ほのかにあまい匂いがした。ねむるまえに焚いたあじさいのお香だった。香皿には棒状の灰が残っている。その香りはたしかに雨に濡れたうす青いはなびらと大きな葉を思わせるが、じっさいのあじさいは香りのないものがほとんどらしい。このお香が香りのある品種のものなのか、あじさいの花を表象したものなのかはわからない。

 時計のアラームが鳴りはじめた。僕は裏面のスイッチを切り、そのとなりの携帯電話をポケットに入れた。この時間に外出することは決まっているので、いつからか普段着のままねむるようになっていた。

 ドアを開けるとなまぬるい空気で耳がつまった。外廊下の明かりは手の届く範囲しか照らさず、手すりのむこうにはぽつぽつと街灯があったが、すべては夜の底に沈みぬりむらのようなうっすらとしたおうとつがわかるだけだった。ひとりカプセルにつつまれ深海に飛びこめばこのような感じなのだろうかと思った。だれの気配もなかった。

 僕はところどころの街灯をたよりに深夜の町を歩いていった。ガソリンスタンドをふたつとおりすぎ、国道から分岐した市道をくだってゆくと、高架下に白く発光するものがあった。電話ボックスだ。夜のさらに暗がりにぽつんと浮かび、そのなかのみどりの電話機だけがあざやかで、まるでべつの世界から送りこまれてきたもののように見える。

 僕は電話機の正面が見える場所で足を止め、携帯電話を取り出した。すっかりゆびになじんだ番号を打ち込み耳に当てる。鼓膜をふるわせる呼び出し音に応じ、電話ボックスから澄んだベルの音が漏れる。

 交互に発せられるふたつの音を背景に、僕は昼間、母とも電話をしたことを思い出す。簡単な近況報告のあと、母は鹿の食害がひどく、庭のあじさいも花芽をすべて食べられてしまったと言っていた。庭のあじさいは僕のおさない頃からずっとあったのですこしさみしい気持ちになった。そうかんがえると、僕にとってあじさいはもっとも親しみ深い花なのかもしれなかった。

 呼び出し音が三回鳴り、六回鳴り、十二回鳴り、二十四回目が鳴り終えたところで、目のまえの電話機が受話器のかかったまま、受話器を手にしたときのようにフックが上がった。

「もうやめてよ」

 苦しそうな声だった。怒っているようでもあったし悲しんでいるようでもあった。たったの六文字に波があり、いまにもちぎれてしまいそうに揺らいでいた。僕はこたえた。

「だめ」

 目のまえの受話器がもとの位置へ下がり、通話は切れた。断続的な電子音にこたえる音はどこにもなかった。携帯電話を持つ手を下ろしたとき、動作に遅れて煙の匂いがふわりと舞った。あじさいも雨も想起しない、ただなにかの燃えた匂いだった。



2023.4

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