箱庭大系

…………


 からになっていたグラスを片付け部屋に戻ると、詩織は既に窓から離れ、姿見の前で口紅を引いていた。

「テーブルでやれば良いのに」

「手鏡を忘れたのよ。それより、この姿見を掃除した方が良いわ。ほこりまみれよ」

「あまり使わないから」

「腐るわよ」

「腐るのか」

「そうよ。鏡は放っておくと酸化して、腐食するのよ」

 化粧を終えると、詩織はレースに縁どられたミュールを履き、また学校でと手を振った。ドアから滑り込んだ熱気が彼女と入れ替わり玄関に留まる。遠のくヒールの音に耳をすませ、錠を下ろした。

 部屋にはバニラの香りが残っていた。詩織の愛用するハンドクリームの匂い。密度の低下した部屋は異様に広く、どこに立っても落ち着かない。株価を放送していたテレビがバラエティ番組に変わる。その歓声もよそよそしいものに思え、電源を切った。

 生ぬるい風が吹き込んだ。はためくカーテンの裾に導かれ、窓が開いていることに気がつく。詩織が閉め忘れたのだろう。そう思いながら踏み出した足が姿見を蹴る。倒れないよう枠をつかんだ途端、小川に足を浸けたときのような涼しい感覚が全身を巡った。

 まばたきを終えると、そこは部屋ではなかった。飛び込んできたのは群青とくれない。その二色は上下で綺麗に分かれ、境目だけ指でこすったようにぼやけている。夜と朝のはざまの空だ。建物も草木も何もなく、その鮮烈な色彩だけが遮るものなく広がっている。

 辺りを見回しながら足の位置を変える。踵を下ろすと同時に水音がし、水面に細い輪が開く。足許には朝焼けが映りこんでいる。水深は一センチにも満たないが、鏡に水を張っているかのように底が見えない。

 静止した空に囲われ、唇の結ばれた口内のように穏やかな閉塞がたゆたう。どこを向いても同じ色で、近いのか遠いのか、自分がどこを向いているのかも分からない。その場で様子を窺っていると、上か、前か、右か左か、どこかの雲の隙間から、ふわりと二頭の蝶がこぼれ落ちた。しとやかな紫は交錯し、戯れ、まろぶような危うさで上へ上へと昇っていく。まだらな空を翅が透かす。入り組んだ階調を目で追っていると、ぬめるように意識の芯がずれた。

 ピースの嵌まる音がする。薄いもやが晴れ、終えたはずのまばたきを終える。手に硬い木枠の感触が戻り、立ち尽くす自分と目が合う。今日はこれで三度目だ。短く息を吐き、窓へと視線を滑らせる。その端に揺らぐ鏡面が映り込んだ。

 目にごみが入ったのだと思った。そのせいで視界がにじんだのだと。しかし両の目には痛みも違和感もなく、触れてみても水気はない。いぶかるうちに、また鈍色の波紋が広がる。見間違いではない。呆然と見つめる先で、血の気の失せた唇が歪んだ。

「良い夜だな」

 奇妙にねじれた、平たい、不快な声だった。自分で聞く自分の声はろくなものではないといつか誰かが言っていた。左足がうしろに下がる。彼は喉の奥で笑い、口端をさらにつり上げた。

「そう怖がるなよ。どうせ夢なんだから」

「夢……」

「でないと、ありえないだろう。こんなこと」

 明晰夢。引き出しの奥に眠っていた言葉が浮かぶ。確か、そのようなものがあったはずだ。夢であることを自覚して見る夢。海馬か、前頭葉か、脳のどこかの半覚醒が原因で起こる。

 鏡に映る僕は笑みを浮かべ、こちらを眺めている。虫かごを覗くような目つき。僕は慎重に口を開く。

「あいにく、自分と向き合う必要のあるほど深刻な悩みは抱えていない」

「知っている。君は僕だから。……感傷に浸りに来たんだ。僕の世界はだいぶ変わってしまったから」

 僕だと言う彼は重心を変える。右肩が異常に下がっている。左の親指の爪に噛んだ跡がある。僕は巻き肩で左肩が下がっていて、右の親指の爪を噛む癖がある。

「君は小説を読むか」

「いいや」

「そうだろうな。僕も読まない。……小説、すなわち物語というのは、もとは全て現実だったんだ」

 事実を語るような、冷静で乾いた口調だった。それこそ小説のような話だったが、夢であればこれくらい突飛でも許されるだろうと思った。彼は続ける。

「現実が文字に起こされ、再構成されたもの。それが物語だ。綴られた現実は次元を失い、紙の上だけの存在となる。そこに自由意志はない。文字以上のことは起こらないし、文字以下のことも起こらない。僕の世界は、今、その物語になろうとしている」

「もとに戻すことはできないのか」

「紙からインクを分離できはしないだろう。消すならまだしも、文字のまま引き剥がすなんて不可能だ」

「進行を止めることは? 世の中には未完の作品だってあるだろう」

「確かにそうだが、それは書き手の自由であって僕たちの意思ではない。何よりそんなことはめったに起こらないだろう。始めてしまえば終わりまで綴られるべきが物語だ。そもそも、今更止まったところでもう遅い。残っているのは僕と、この街のほんの一部だけだ」

「君は僕の潜在意識だろうか」

「だとしたら、僕は随分と恐ろしいことを望んでいる」

 彼は薄く笑い、僕の背後に目をやった。視線の先には目覚まし時計があった。針は六時五十分を指している。彼は「時間だな」と言った。

「だから、まあ、僕が感傷に浸る手助けをしてくれよ。迷惑はかけない。ただ、この夢で少しばかり話に付き合ってくれれば良いんだ」

 構わないだろう、と彼は僕の顔で、別人のように笑う。


…………



2017.7

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