私を密輸しなさいよっ!

なで鯨

第1話 許可書なんて知らないし、拘束される理由も知らない

 空を越えて、海を越えて、俺はとうとうここにやってきた。

 世界最大の貿易施設があるこの場所に。

 長旅の疲れのせいか身体は重いが、心は浮き足立っていた。


 人々の交渉する声が飛び交うその場所は、異常なほどに熱く感じた。

 俺は一歩、その会場の中に足を踏み入れた。


「ちょっと、君。許可書持ってる?」


 踏み入れられなかった。

 代わりに地団太を踏んだ。


「お子様はお家に帰りな」


 ごつい警備員に猫を放り出すかのように、つまみ出された。

 文字通りつままれた。首根っこをがっしりと。

 がっしりとつまむというのも変な話だが、それでもその通りなのだから仕方ない。


 ってかお子様って。

 俺はもう三十五歳のいい大人だぞ。

 許可書の存在を知らないだけの、ピチピチのダンディーな大人だ。


 服についた汚れを払うと、俺は立ち上がって、後ろ髪を引かれながらホテルに向かった。


 とぼとぼと道を歩き、途中靴底についたガムと戦いながら、俺はようやくホテルにたどり着いた。


 俺が予約した部屋は333号室。

 なぜかこの部屋だけ、他の部屋の半分の値段だったのだ。

 気になったが、どうせ幽霊が出るとかなのだろうと思い、安さの理由は聞かなかった。

 電話に出た受付も、二度確認は取ってきたが、それ以上追求してこなかった。

 あいにく、俺は幽霊などは信じない。

 たとえその部屋で、過去に自殺者がいたとしても、今、泊まるときに死体がなければ問題ない。

 むしろ安くしてくれて、不謹慎ながらもありがたいくらいだ。


 その三階建てのホテルに入ると、なにやらフロントでめていた。

 ものすごい剣幕で怒っている客は、黒いパーカーに黒いズボンの小さめの人だった。

 後ろ姿では判別できなかったが、声を聞く限りでは女性のようだ。


 俺はその騒ぎを横目に、もう一人の受付からルームキーを受け取り、部屋へ向かった。

 とにかく、寝たい。

 身体の疲れはピークに達し、精神的にも疲弊していた。

 わざわざここまで来たのに、一枚の紙っぺらの有無だけで……はぁ。


 しかも、このホテルには運が悪いことにエレベーターがなかった。

 こんな時に階段で行くはめになるとは。

 つくづく嫌になるわ。


 一段一段階段を上る。

 一歩また一歩と足を踏み出す。

 踏み出すたびに、後悔があふれてくる。

 実家に帰りたい。家でだらだらとしていたい。

 働きたくない。動きたくない。力を使いたくない。

 二階の踊り場で、ついに俺は足を止めた。

 そこで深呼吸を三回。屈伸を三回。


「うらおらあああああしゃあああああああい!!!!」


 歯を食いしばって階段を駆け上がり、333号室へ突入する。

 勢いそのまま、荷物を投げ捨て、この身もベットへ投げる。

 ベッドは思いのほか柔らかく、優しく、俺の体を受け止めた。


 と感じている間に、俺は眠りに落ちた。

 の〇太もびっくりの速度で深い眠りに入った。


 ●●●


 時間は過ぎて夜――なのかどうかはわからない。

 とにかく暗い。寝起きの頭ではそれ以上の考えに至らない。

 なんで暗い? ああ、そうか。ルームキーを手に持っているからか。


 ん。手に持っているのか? 違う、問題はそこではない。

 なぜ俺は縛られている? 手と足を。どうして?


 脳が命の危険を感じて、一瞬にして意識を覚醒させる。


「動かないで。動いたら舌を引っこ抜くわよ」


 暗闇から突然声が。

 え、この部屋に俺以外の人間がいる!?


「助かったわ。ドアを全開にしておいてくれるなんて」


 なんかそんな気はしていた。

 ドアを閉めた記憶がない。

 ではなくて!


「あの、どちら様で……?」


 暗闇に向かって問いかける。


「まったく! 信じられないわよあのフロント!

 この部屋は私が予約しておいたのに!」

「あ、それはすみません……。

 ではなく! なんで俺、縛られているんですか!?」


 何者かの柔らかい手が、俺の舌を掴む。


「動かないで話さないで。次にそうしたら、本当に引っこ抜くわよ!」


 めちゃくちゃな! お前は閻魔えんま様か!

 でも、この間に少し冷静さを取り戻すことができたな。

 なぜかって? 相手が人間だとわかったからだ。

 別に、幽霊だと思って怖がっていたわけではない。

 断じて違う。絶対に。微塵も。


「よし……と」


 謎に否定している間に、俺の舌は自由になっていた。

 ベロベロベロベロ。


 ……馬鹿なことをやっている間に、何かを背負うような音が聞こえた。

 そして、すぐに何かにつまずいた音も聞こえた。


「べふぅ」


 可哀そうな声。

 あれ? 落ち着いて聞いてみると、この声はフロントで……?


「あの、もしかしてフロントで言い争っていた上下真っ黒の人ですか?」

「ひょーい!?」


 暗くてもわかるくらいに動揺している。

 そして、明るくなってもわかるくらいに動揺している。

 なぜ灯りをつけたんだ。動揺しすぎだろう。


 しかし、なんだか、全然怖くなくなってきたな。

 むしろ安心してきた。

 いや、決して俺が縛られているから安心しているわけではない。

 そんな趣味はまだ開拓していない。


 俺は肝が据わっている方ではないが、これならば誰でも安心するだろう。

 なんせ、俺の舌を引っ張った相手、フロントで言い合っていた女性は。


「まぶしいよー!」


 まだまだ幼い少女だったのだ。

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