「第4章 目をつむってただけだから」(5-1)

(5-1)


 高木はそれから順調に仕事に慣れて、簡単な打ち合わせなら一人で行けるまでに成長してくれた。内容はテープレコーダーに録音して、客先用の議事録を作成する。

 途中で分からない質問がされたら一度、持ち帰ると言って、そこで回答をしない。教えた通りの事をやってくれている。


 全てが灰色の本の通り、スムーズに進行していたとある日の事。


 いつものように金曜日の夜に大樹は、灰色の本を開く。

 すると、木曜日に美咲がインフルエンザになると書かれていた。火曜日に熱が出て、水曜日は市販薬で寝ていたが、治らず木曜日に病院に行くと、インフルエンザと判明するらしい。


 インフルエンザと最初から分かっているなら、すぐに病院に行った方がいい。

 来週から分かる事なので、現状の美咲には何も変化はない。灰色の本に書かれているのは、最適化された未来。どう捉えるかは、自分自身だ。


 今回書かれているのは、受動的なもの。

 それは流石に最適化でも何でもないだろう。


 動いても問題はないに決まっている。事実、このパターンは今までに何回かあった。変えた結果、最適化がより最適化になるのならそれに越した事はない。


 大樹は、そう思って金曜日の夜を過ごした。


 灰色の本に書かれている通り、火曜日の夜に会社から帰ると、美咲はマスクをして洗い物をしていた。美咲と由香は既に夕食を食べ終えて、ソファでテレビを観ている。二人共、大樹が帰ってきたと分かると、こちらの方を向いて


「「おかえりー」」と迎えた。


「風邪? 大丈夫?」


 知っているけど、それを知らない体で話しかける。


「うん。夕方ぐらいから微熱が出て……。明日、一日様子見て治らなかったら、病院行くよ」


「いや。明日の時点で病院に行った方がいい。ご飯とかは何も気にしなくていいから。ってか、洗い物ももういいよ、俺がやっておく。今日はもう寝なさい」


 洗い場に立っている美咲の肩を持って、彼女を台所からリビングへ出そうとする。


「ありがとう。でも大きい洗い物は由香が手伝ってくれて、もう終わってるから」


「あ、そうなんだ」


 由香が洗い物をした事実を大樹は知らない。灰色の本にそこまでは書かれていなかったからだ。美咲が彼女の名前を出すと、彼女はテレビを消して、こちらに振り向いた。その顔は褒めてと言わんばかりでウズウズしていた。


「偉いぞ由香。ちゃんとお手伝いが出来るんだな」


「もう中二だし。お手伝いぐらいは出来るって。晩御飯も作るって言ったけど、それはダメだって言われた」


「でも、お手伝いはしてくれたから。それでじゅーぶん」


 口を尖らせる由香に美咲がそうフォローする。


「その辺は、またおいおいお母さんに習えばいいさ。それより明日は、ちゃんと病院に行く事。最近、インフルエンザとか流行ってるから、検査とかもしてもらって」


「えっ? いいよ、そんな大袈裟な」


 まだ微熱の段階でインフルエンザの検査まで受けるのは、美咲からしたらあり得ないのだろう。手を振ってそれを否定する。

 その否定を大樹は首を左右に振って、更に否定する。


「ダメだ。先手で出来る事はやっておいた方がいい。予防接種、今年はまだ受けてないんだから」


「もぅー、了解」


 大樹の言葉を受け取った美咲は、少し照れた様子で頷くと、着ていたエプロンを脱いで、冷蔵庫横に掛ける。


「じゃあ、悪いけどもう寝るね。夕食はビーフシチュー。お皿はテーブルに出してあるから、温めて自分でよそって」


「ああ。おやすみ」


「おやすみー」


 美咲がリビングを離れた。夫婦の寝室は別にしているので、寝る前に一度、様子を見に行こうと大樹は思った。テレビに飽きたのか、ソファに座ってiPhoneを触る由香に話しかける。


「お母さんは、夕方から比べて今は悪化してる?」


「うーん。ずっと同じかな。ご飯だって作らなくていいって言ったのに微熱だから作れるって」


「そっか。最近流行ってるからな。由香もまだワクチン打ってないだろ? 今週末にでも一緒に行くか」


「うん」


 大樹の申し出に由香は何て事ない顔で頷く。自分の部屋に帰らずテレビも点けずにソファに座っているのは、話し相手になってくれているのだろう。


「部屋で着替えて来る。由香は? 何か見たいテレビとかあったら、このまま見てて良いんだぞ?」


「本当? じゃあ、ドラマ観ていい?」


 由香の言葉に大樹は頷く。


「勿論」


「やった〜」


 大樹の了承を得て、由香はiPhoneを置いてテレビを点ける。その様子を見ながらも彼は、一度リビングを出て手洗いうがいと着替えを済ませて、まだ戻った。リビングに戻ると、置かれた夕食のビーフシチューから湯気が出ていた。


 さっき見た時は空の皿が置かれているだけだった。美咲が部屋から出た様子はない。つまり、今出来るのは一人しかいない。


「由香が温め直してくれたのか」


「うん。これぐらいはね。ビールも出しておいたよ」


 由香が指差す先には空のビールグラスとビール缶が一缶置かれていた。娘の気配りに感謝して、大樹は席に座る。


「ありがとう。では、いただきます」


 出来上がったビーフシチューをパクパクと口に運ぶ。舌がすっかり覚えている美咲のビーフシチュー。たとえ、灰色の本にメニューが書かれたとしても美味しい。


 由香が観ているドラマを横目で流しつつ、大樹はビーフシチューを口に運ぶ。

 途中、iPhoneでニュースを軽くチェックしながらだ。

 世界情勢や交通事故、殺人事件。自分の知らない範囲で世界はどんどん変化していく。

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