「第2章 有効に使ってほしい」(2-2)

 (2-2)


 またしばらく沈黙が漂う。番組では先日賞を受賞した若い女性の小説家が受賞作について、インタビューを受けていた。その女性小説家は話を聞いていると、同じ歳だと分かった。


 彼女は今の自分はどこから違ったのだろう。自分のやりたい事が出来ていて、沢山のお金を稼いで、周りからチヤホヤされて……。


 やりたい訳ではない仕事をして、貯金だって別にそんなに貯まっていない。周りからチヤホヤされる程の人望もない。


 比較してみると、全てが正反対だった。彼女は生まれた時から今、テレビに映るまで選択肢を間違えなかった人間なのだろう。


 選択肢を間違えない。たったそれだけでこうも違う。そんなのあんまりじゃないか。醜いと承知の上でそんな事すら思えてしまう。


 ブックランキングが終わると、大樹も朝食を食べて終えていた。そろそろ今日に向けて動けなければならない。


 大樹がそう考えていると、母は「あのさ……」と口を開いた。


「お父さんの部屋、あのまま一年ぐらいは残しておきたいんだけど……いい?」


「……そりゃあ」


「良かった」


 大樹が了承したのを知って母は、満足したように頷いてから「よーし、やるか」と座ったまま背伸びをして気合を入れていた。大樹はそんな母の姿を見て、声をかけようと思ったが、何を言っていいか分からなかったので、台所に自分の食器を置いた。


「昨日も言ったけど、一度マンション戻るから。また帰ってくるけど、必要な物とかあったら買ってくるから連絡して」


「はいはい」


 母の返事が返ってきたのを確認してから部屋に戻る。


 部屋に戻る際、父の部屋が気になった。昨夜からタクシーで父が倒れた時から、母と救急隊員しか入っておらず、そのままにしてあると聞いた。


 大樹は吸い寄せられるかのように階段を上がり、廊下奥にある父の部屋の前に立った。ドアノブに手を掛けて、そっと部屋に入る。


 部屋に入ると、大樹が知っている父の部屋がそこにはあった。最後に入ったのはいつだろうか? そうだ、確か実家を出て行く相談をした時に入ったんだ。父のシングルモルトウイスキーを一口飲んだのを思い出す。それまで好んで飲んでいたレモンサワーとは違い過ぎて、喉が熱くなったのを覚えている。


 ガラス戸が付いた棚に目をやると、シングルモルトウイスキーが何本か並んでいる。どれを飲んだのかは覚えていない。新品はないようだが、どれも空にはなっていない。


 母は一年は残したいと言っていたが、おそらく一年以上残す。自分自身にリミットの意味を込めて、一年と言ったに過ぎない。


 ガラス戸は一番下がシングルモルトウイスキーで上段には、本が並んでいた。全部小説で単行本や文庫本が並んでいる。教科書に載っている作家のタイトルが何冊かある。中には大樹も知っている作家もいるが、読んだ事はない。他人の宝物を覗いているような気分になっていると、並んでいる本で見覚えのある一冊があった。


 それは、背表紙に何も書かれていない深緑の本。


 かつて父が見せた未来の選択肢が書かれている本だ。その本を見つけた時、大樹は心臓の鼓動が大きくなったのを感じた。


 心臓が鳴って体が小さく震える中、大樹はそっとガラス戸に手をやった。


 カチャ。


 観音開きのガラス戸が開く音が、やけに大きく感じて、一階にいる母に聞こえないかと不安になってしまう。息をするのも忘れるくらい、緊張した大樹は、深緑の本に手を伸ばし音を立てず引き抜いた。


 かつて触れた重みは、まだ大学生の頃の自分を想起させる。そうだ、この本を自分は開いたのだ。当時と同じように大樹はページを開いた。


 書かれている内容は、主に会社での出来事が中心だった。パラパラとページを捲り続けて最後のページに辿り着く。


【夕食後、いつものウイスキーを手に取り、読みかけの小説を手に取る。それから一時間後、頭に強い痛みを感じて、その場に倒れ込む。助けを呼べないまま、時間だけが過ぎていき、紗代子が見つける頃には既に死んでしまう】


 書かれていた内容を読んで、脳が揺さぶられて気を失いそうになる。足元がフラつき、その場に倒れ込みそうになるが、何とか堪えた。それでも耳鳴りは防げず、両耳をキーンとした甲高い音に塞がれた。


 父は、死ぬ事を分かっていた。


 タクシーの車内で僅かに考えていた可能性。それがこの本を読んだ事で現実のものとなってしまった。そうか、父はやはり分かっていたのか。


 本に書かれている未来は常に最適化されたものが書かれている。その選択肢から意図的に外れた場合には、そこから最適化された未来に修正される。


 確か、父はそう言っていた。


 だからなのか? 自分が死ぬと分かっていてもそれが最適化された結果だから、受け入れて大人しく死んだのか?


 大樹の頭の中で混乱が続く。理屈は分かっても理解が出来ない。だって、死ぬって。死ぬ事が最適化された未来なんてあるのか。


 大樹にはそれがどうしても理解出来ない。彼の混乱が手に伝わりまたも震え始めた時、本の隙間から一通の封筒が落ちてきた。本を閉じてデスクに置き、封筒を拾う。


【大樹へ】


 封筒の表紙にはそう書かれていた。大樹は深緑の本を棚にしまうと、封筒を手に取り、急いで父の部屋から出て自分の部屋へと帰った。自分の部屋で見る事が何よりも安全で安心出来ると判断した為だ。


 ドアを背にしゃがみ込み、深呼吸。


 呼吸を整えてから、封筒を開けた。中には一枚の便箋が入っていた。


【大樹がこの手紙を読んでいる時、俺が死んだ後になる。突然、死んでしまって本当にすまなかった。深緑の本に書かれている通り、俺は死んだのだろう。最初は、紗代子にも手紙を残そうかと思ったんだが、アイツは元から何も知らないから、手紙を残すのは止めた。代わりお前に残す。


 残している財産は二人に渡るようにある程度の調整はしている。決して大した額ではないが、受け取ってくれ。


 それから銀行の暗証番号、俺のノートパソコンのログインパスワードが書かれているメモが引き出しに入っている。他にも幾つかのサイトのパスワードをまとめて書いているので、遺品整理の時に役立つはずだ。


 大樹はきっと混乱していると思う。


 いくら本に書いてあったとしても本当に死ぬ必要はないだろうって。気持ちは分かる。実際、今回ばかりは俺も回避しようか考えた。それでも、もしもの事を考えて受け入れる事にした。


 あの本の選択肢を無視した又は別の選択肢をした場合についての危険性を考えたからだ。覚えておいてくれ。あの本の選択肢に従わなかった場合の選択肢は、次の最適化された未来へと修正されるが、その過程で自分以外の人間をも巻き込む可能性がある。最適化される対象は自分のみだからだ。


 過去に俺の父親から聞いた事だし、若い頃にわざと選択肢に逆らった事があって、紗代子を巻き込んだ事故を起こしてしまった。だから逆らえなかった。


 大樹に渡した灰色の本は、どう使ってくれても構わない。


 もう今の時点で開いてしまったのなら、有効に使ってほしい。


 まだ開いていないのなら、開くかどうかは任せる。


 紗代子の夫と大樹の父になれて、心から楽しい人生だった】


 書かれていたのは便箋4枚程の手紙。全て深緑の本に関する事だった。


「ふぅ」


 大樹の口から自然と息が漏れる。今の自分が疑問に思っていた事は父の手紙に書かれていた。本音は違う事も書いてほしかったが、残念ながら書かれていなかった。


 三分程経過してから大樹は立ち上がり、本棚に目を向ける。二十歳の時に父から受け取った灰色の本。あれから一度も手に取った事はなく、今ではすっかり本棚に馴染んでいる。


 大樹はそっと手に取った。父の深緑の本と重さは同じだったが、埃が舞った為、その場で咳き込んだ。その雑な扱いに思わず笑ってしまう。父の書かれていた手紙には、まだ開いていないのなら、開くかどうかは任せると書かれていた。


 任された手前、申し訳ないがこれを開く勇気は大樹にはない。


 最適化された未来が書かれている灰色の本。


 それはつまり、開かなければ最適化されず、誰にも分からない未来のまま。


 万が一、どうしても開かないといけない状況下に陥ってしまった時を想定して、手元には置いておきたい。しかし、それだけだ。


 大樹は自分自身にそう誓いを立てて、灰色の本をビジネスリュックに入れた。

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