「第2章 有効に使ってほしい」

「第2章 有効に使ってほしい」(1-1)

(1-1)


 灰色の本を本棚に入れてから手に取る事は一度もなく、最初はあった違和感も年月の経過と共に綺麗に溶けんでいった。


 大樹は大学を卒業して、ケーブルテレビ通信の会社に就職した。特に入りたい訳ではなかったが、就活時に周りが次々に決まっていく事に耐えられなくなり、たまたま内定をもらった会社に就職した。


 就職を機に実家を出てワンルームマンションを借りた。学生時代は毎日会っていた友人とは、次第に会う頻度は減っていった。代わりに行きたくない飲み会や会社帰りにビールをコンビニで買うのが当たり前になった。


 金曜日の夜。


 駆け抜けるようにして終わった一週間を労う為に大樹は、コンビニへ入った。

 いつもと同じように乾き物のツマミを幾つかと、酒コーナーにあるビールとハイボールをカゴに入れていく。コーラみたいな甘いジュースはもう飲まなくなっていた。

 会社でも炭酸水かコーヒーだ。飲みたくない訳ではないが、カロリーとか糖分とか子供の時はまず考えなかった情報が頭にチラついて、手が伸びない。


 会計を済ませてコンビニを出る。駅前の定食屋で夕食を済ませているので、帰ってから晩酌をするだけだ。ゆっくりと酒を飲みながらAmazonプライムで映画を観ようと考えていた。


 大樹が信号を待っていると、トレンチコートのポケットの中でiphoneが鳴った。ビニール袋を持っていない手で慎重に取ると、LINEの着信で相手は母親だった。


 大樹が一人暮らしを始めた当初は料理や家事で母を電話をかけていたが、仕事が忙しくなり外食中心になると、それも無くなっていた。

 金曜日の夜にかかってくる電話にまず良い予感はない。何かの愚痴か世間話の類だろう。早い話、父がすぐに部屋に入ってしまうから寂しいのだ。


 取らない方が後から面倒そうだ。大樹は観念して電話を取る。


「はい、もしもし」


 声に面倒さが乗ってしまったからか、いつもならすぐに返ってくる母の返事が来ない。だが息遣いは聞こえるので間違いなく繋がっている。電波が悪そうでもない。大樹の中で面倒が少しずつ苛立ちへと変換されていく。


「母さん? 何か用?」


 少し強めに尋ねると、細く息を吸う音の後で、今にも消えてしまいそうな母の声が聞こえた。


「大樹、お父さんが脳卒中で倒れて……」


「えっ?」


 母の言った言葉を聞いた途端、全身の力が一瞬、抜けた錯覚に陥る。


「脳卒中って、え? 何で?」


「分かんない。寝る前におやすみを言いに行ったら、返事が無くて寝てるのかと思って、部屋に入ったらお父さんが倒れてて……、ろれつが回ってなくて、吐いてて」


 母の話から父があの部屋で倒れている姿が容易に目に浮かぶ。


「救急車は?」


「呼んだ。脳卒中の疑いがあるから、すぐ来るって。どうしよう……大樹」


 母がこんな声で自分を頼ってくるのは、初めてだった。そのせいか逆に自分の思考は冷静になっていく。


 大樹の知る母は強い人で、島津家はいつも母が引っ張っていた。その母がこれ程までに弱い声を出すとは……。


「今から俺もそっち行くよ。電車はまだ走ってるし」


「えっ? でも……」


「良いから。電車で向かうから、病院が分かったらLINEして。駅からタクシー使う」


「ありがとう。大樹」


「ああ。母さんはそのまま父さんに付いててあげて」


 大樹は母との通話を切ると、すぐにタクシーを拾う為、大通りに出た。駅までは歩いて二十分程度だが、今は少しでも時間が惜しい。金曜の夜の効果もあり手を上げると、すぐにタクシーが捕まった。


 開いたドアに吸い込まれるように乗って、最寄り駅を告げる。タクシーは何も言わずに最寄り駅へ。駅前のロータリーに到着して、タクシーを降りるとIC定期券を当てて改札を抜ける。ホームに駆け下りると、電車が丁度来たところだった。


 まるで自分を待っているかのように開いていたドアに大樹は乗り込む。適当に空いているシートに腰を落とした。座って初めてビジネスリュックをしたままである事に気付く。大樹はリュックを肩から外し膝の上に。


 そしてコンビニで買っていた晩酌用の酒とつまみが入ったビニール袋ごとビジネスリュックに詰め込んだ。


「ふぅ」


 小さく息を吐いた。大樹の知る限り、父はこれまで大きな病気にかかった事は無かったはずだ。だから体は丈夫な人なのだと、どこかで安心していたのかも知れない。

 同じ県内だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。その気持ちが大樹の中にはあった。


 今度の事でどういう結果になろうと、次からはマメに帰ろう。大樹は流れていく景色を見てそう決意した。

 駅に到着すると、母から父が搬送された病院名が書かれたLINEが届いた。大樹も知っている病院で家からも遠くはない。それだけで少しばかり希望が見えてくる。


 大樹は改札を出るとタクシーを止めて病院へと向かう。電話に出れるかは分からないので、タクシーで病院に向かっているメッセージをLINEで母に送った。

 しばらく画面を見つめても既読が付かなかったので、諦めてiPhoneをポケットに入れた。


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