第7話
王宮内の第三執政室は主に内政へ関わる執務を取り扱う部屋として使われており、その責任者の名は『セフィロティア・フォン・エルレンブルク』となっていた。
城の一室と言うだけあってそれに相応しい広さを持つその部屋は、王都の南部に広がる青く美しいボーデン湖を一望できる大きな窓と左右の壁際に天井近くまで届く書棚を備え、寝台のような大きさの執務机がレースのカーテンを通して差し込む柔らかな日差しで照らされていた。
「――ハァ………………」
式典の後に昼休憩を挟んで職務に就いた第一王女は、机に積み上げられた書類を前に熱の籠った溜め息を吐いていた。
彼女の王位継承権は第三位。
この位階ならば王位を継ぐ事も夢ではない――カエルム教の影響で大陸中に一夫一婦制が根付いた為、女性への家督継承は大抵の国々で容認されている――のだが、第一位どころか第二位の継承権者までもが成人に達しており、現国王が既に長兄への王太子指名を済ませているとなれば話は変わってくる。
この場合、家督を継ぐ長子、及び、その者が怪我や疾病などで
現に国内外の貴族や他国の王族などはそういった対応を取っているのだが、その点、第三王位継承権者を王宮で行政運営の任に就かせている現エルレンブルク王家は、異例中の特例と言えるだろう。
その異例特例が通った理由としては、現王家の家族仲が上流階級らしからぬ――いっそ庶民的とも言える――ほどに良好である点や、現国王が
そして、王女が持つ外見、内面両方の政治能力の高さなどが主な要因である。
そんなわけで、彼女は今日も山のように積まれた報告書やら申請書やらの相手をしている最中なのだが、何故か心此処に在らずと言った調子になっており、作業効率は
「セフィー、そんな調子では今夜の祝勝会に間に合いませんよ。目が覚めぬようなら頬を抓って差し上げますが?」
「……ファルカ、貴女は私を満腹に微睡む幼子か何かだとでも思っているのですか?」
気安い御小言の主は王国騎士団第一部隊
式典用のドレスから着替えたセフィーと違い、彼女は式典でメダルを差し出していた時と同じ騎士制服のままだが、目尻の吊り上がった蒼い眼や鋭い輪郭の顔立ち、短く切り揃えられた茶髪などで醸し出される涼し気な印象と相まって『男装の麗人』『気高き貴公子』と化している。
その印象に恥じず、彼女は
今もセフィーへの書類を運び込んでいる最中で、小脇に抱えていた羊皮紙の束を机に積みつつ御小言を再開した。
「そんな事はありませんよ……ただ、貴女が
「なっ!? びょ、病人だなんて、そんな事はありません! 私は至って健康です!」
「――それなら良いのですがね……」
今にも溜め息を吐きそうなファルカを尻目に、セフィーは
だが、目の前の文字列に没頭しようと意識が切り替わりそうになる度に、
いや、掴み上げられるだけならまだしも、そこで何かもっと別の場所にまで羽搏いて戻れなくなりそうになってしまう為、セフィーはその飛翔を押し止めようとまたもや溜め息を吐きつつ再び書類に向かうのだった。
とは言え、それを何度も繰り返して目の前の執務が遅々として進まない現状は、彼女にとっても本意ではないし、秘書官にとっても歓迎できるものではない。
「……ファルカ……その、この病には……どう処置したら良いのでしょうか……?」
頬の朱色とは対照的に、セフィーの上目遣いと所在無さ気な表情は紛れも無い白旗だった。
見る者全てを魅了しかねない無自覚な表情に、ファルカは一瞬だけ言葉に詰まってしまったが、その
「――幾つか対処法はありますが、今すぐは無理ですから大人しく我慢して下さい……全く……此処でならまだ良いですが、教団の者達の前ではしっかりして下さいね? 国王様が臥せって仕舞われているこの機に乗じて、何かしら仕掛けてくる恐れがありますから」
我慢の結果、若干不自然に突き放しているような言い回しになってしまい、それを誤魔化そうとファルカは近況の懸案事項を持ち出した。
「分かっております。これ以上、下らない誇大妄想じみた薄っぺらな大義を掲げ、他者から財も命も奪い尽くして私腹を肥やすような者達の好きにさせるつもりはありません」
ファルカの苦し紛れにまんまと乗せられたらしい王女様は、やっと気持ちを切り替えられたのか、口元を引き結んだ真剣な表情で書類に挑みかかっていった。
セフィーが今度こそまともに書類と格闘し始めた事を確認したファルカは、彼女に悟られないよう密かに嘆息しつつ机を離れ、廊下に通じる扉へと向かう。
しかし、
「――ハァ………………」
もはや秒刻みで時を知らせるせっかちな時計かとさえ思える熱い――
「――セ~~~~フィ~~~~……?」
「いや、だって、その……」
赤い顔を俯けてモジモジと何かに耐えている様は、何か別の生理現象が原因であるかのように見えるが、騎士団長の娘として幼い頃から付き合いのあるファルカは、王女殿下が何を御所望しておられるのかすぐに思い至った。
優秀な近衛騎士兼秘書官殿は不治の病に侵されて俯く主の前まで戻ると、ワガママな妹の駄々に折れるような表情で口を開く。
「…………分かりました。あの不真面目な怠け者が欠席せぬよう、きちんと言い付けて来ますから、貴女はちゃんと集中してその書類を片付けておいて下さいね」
「――ッ!! ファルカ~~~~ッ!! ありがとう!! 愛しています!!」
歓喜の余り跳び上がったセフィーは、身を乗り出して向かい側に立つ幼馴染の親友を力強く抱き締める。
それによって机に積まれていた羊皮紙が周囲に舞い落ちるが、そんな些末事など目に入っていないのか王女様は手を緩めようとはせず、抱き締められているファルカも書類達など放って苦笑していた。
「全く、いつまで経っても甘えん坊ですね、セフィー。その振る舞いを一欠片で良いですから彼本人にぶつけてみては如何ですか? そもそも、『
陽溜まりのような笑顔で抱き付いていたセフィーだったが、一つ年上の姉貴分の言葉を耳にした途端に弾かれたように身体を離し、その反動で今まで座っていた椅子に躓いてオロオロと慌てながら腰を落とすが、不意打ちによる動揺からは抜け出せていなかった。
「えっ、はぁっ!? な、何を言っているのですか、ファルカ!! 私達は
イロイロ突っ込みどころの多いセリフだったが、特に最後の部分を自分で口にして勝手に落ち込みだしたセフィーにそろそろ付き合い切れなくなってきたファルカは、再び踵を返して扉を目指した。
「とにかく、彼の方は私がどうにかしますから、机と足元の書類の方は頼みますよ」
扉の前で振り返ったファルカは、そう言い残して執政室を後にした。
ファルカが部屋を出てからもブツブツと文句を口にしていたセフィーだったが、一度深く息を吐いて可憐な造形の御顔を引き締めると、足下に散らばった書類を一つ残らず回収してから改めて書類達へと挑み掛かっていった。
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