第6話

 市街のど真ん中に建てられた時計塔の針が頂点を指すまで続いた授与式からやっとの思いで解放されたハンスは、城下の露店を巡って束の間の休息を楽しんでいた。


 堅苦しい席が嫌いな彼はそれの象徴でもある王国騎士制服を脱ぎ捨て、旅人時代を彷彿とさせる革のブレーと腰下二インチほどの丈しか無い機動性重視のチュニックに着替え、平時だろうと片時も手放す気が無いのか、一つの鞘から柄が二本伸びる愛剣を例のベルトで吊るしている。


「んー……や~~~~っと、解放されたぁーっと」


 両肩に掛かる愛剣の重量も気にせず凝り固まった身体を思いっ切り伸ばし、様々な物と人で溢れ返る陽の下を行く。


 ハンスが今居る場所は、ほぼ円形になっているクヴェレンハイムの中心に座す王宮、その周囲に蜘蛛の巣のように複雑に張り巡らされた道路の南側、その中でも国の内外から多種多様な美食や美酒が集まる通称『絶品通り』だ。


 王宮と同じ敷地内にある騎士寄宿舎から離れて賑やかな街並みを巡る、これだけでも元旅人の彼にとっては十分な気晴らしになるが、防衛戦の報奨金のおかげで懐も豊かとなればやる事は一つだった。


「さぁてさて♪ 今日は何にしよっかなぁ~♪ っと」


 王宮を囲う城壁とボーデン湖の港を繋ぐその道路の入口に立ち、通りの左右に幾つも並ぶ食事処と数々の料理達を前に舌舐めずりするハンスの姿は、その特徴的な外見と相まって本物の狼のように見えた。


「――♪~~~~♪、♪……♪――」


 自身の威容に気付けないまま、ハンスは周りを歩く人々が若干退くほど強烈な貌で絶品通りへと踏み込み――その入口から数ヤードも歩かない内に足を止める事となった。


「お! 旦那じゃねえか! 随分御無沙汰じゃねえの!」


 活気溢れる通りに相応しい威勢のいい声は、熟成された肉と新鮮な野菜、そして芳しい香辛料が織りなす魅惑の香りを振り撒く露天屋台からだった。


「よぉ! 今日も旨そうな匂いさせてんじゃねぇか、オッチャン!」


 振り返ったハンスの応えに、屋台に立つ無精髭の青年は仏頂面になった。


「おいコラ、俺はまだピッチピチの二十代だ! それを間抜けた中年呼ばわりすんじゃねえ!」


 向けられた半眼を笑って受け流しながら、ハンスは滔々と流れる河のような足取りで人混みを歩き抜け、芳醇な匂いの元へと辿り着く。


 到着した所で彼が見たのは半世紀ほどの歴史を持つ老舗屋台『ゲヴュルツ・ブリット』の畜産肉や狩猟肉ジビエ、若しくは魚肉に野菜を刺し合わせ、トドメに西側の街外れに見える巨大な球体を模したガラス天井の温室で栽培された香辛料をふんだんに使った串焼き達だった。


 その串焼きが放つ暴力的で刺激的な香りを楽しみながら、屋台の前に立ったハンスは片頬を持ち上げるニヒルな笑みを浮かべた。


「なら、俺の事も『旦那』なんて、首筋がこそばゆくなるような呼名で呼ぶなよな。ああ、『騎士』ってのも無しだぜ? 今度は背筋が痒くなる」


「ハッ、それじゃあ呼名なんてねえだろ。こんなごった返しで『ハンス――日本語で太郎などに相当――』なんて呼べば、一体何人が振り返ると思ってんだ」


「良いじゃねぇか。客引きにはもってこいだ。折角この香りで客が寄って来ても、その顔で逃げられちまうんだから丁度良いだろ?」


「言ったなコンニャロウ。見てろよ……」


 そう言った店主は大きく胸を膨らませるほど大量の息を吸い込むと、


「さあさあ、野郎共に女郎共!! 今日の『ゲヴュルツ・ブリット』は一味違う!! なんと!! あの『闘技場の英雄ドゥエル・ズィーガー』ハンス・ヴィントシュトースを招いているぞ!!!!!!」


 看板メニューの『狩猟肉ジビエの香辛串』ではなく、いつも贔屓にしてくれている御得意様を大音声で売り飛ばした。


「何ィッ!??!!?」


 普段は飄々としているハンスの口から素っ頓狂な声が響くが、その大声が彼の首を絞めた。


 店主の大声は喧噪に包まれた通りにもよく響いていたが、だからと言ってそれを耳にした者達がその言葉を本気にするわけが無い。


 当然だ。

 この王都に住む民達にとって『ハンス・ヴィントシュトース』は二年前に開かれた王国主催の武闘大会『決闘祭典ドゥエルゼイゲン』で彗星のように現れ、国の内外を問わず集結した猛者達を薙ぎ倒して優勝を掴み取り、その活躍から見習い騎士エクスワイヤに取り立てられ、挙句は僅か半月後に参戦した戦場で武勲を挙げて騎士爵位の叙任を受け、本物の貴族――『騎士』は貴族階級の最下位で領地は無く、相続権も無い一世代限りの爵位ではあるが――にまで上り詰めた有名人なのだ。


 その英雄様がワザワザこんな庶民平民で溢れ返る雑多な通りに現れるわけが無い、そのような先入観があったが故に、店主の声は聞き流されていた――本人の声が響くまでは。


『この声……?』『まさか……本当に?』『いや、あり得ないでしょ?』と言った迷いが人々の先入観を覆い隠し、塞がれた視野は光を求めて彷徨う事になり、その結果『ゲヴュルツ・ブリット』に視線が束ねられてしまった。


 そして、程なく迷いは確信へと昇華し、塗り潰された先入観は何処かで置き去りにされた。


(オイ、見ろよ!! ハンスだ!!  ハンス・ヴィントシュトースだ!!)


(マジかよ!! 他人の空似じゃねえよな!?)


(間違いねえって!! 灰髪に傷顔、腰に吊るした柄二つの剣!! 聞いてた通りだ!!)


 ハンスにとって本日二度目となる潜め声は一度目と全く同じ内容で、しかし、言葉の節々に込められた感情は真逆のものだった。


「オイオイオイッ!! ふざけんなよオッチャン!! テメェ、人を客寄せに使う気か!?!!!!」


 だが、彼にしてみれば折角の休暇を潰され掛かっている状況でしかなく、必然的に語気も荒くなるわけだが、それも周囲の注目を集める要因にしか成り得なかった。


「まあ、そう怒るなよ。ホレ、一本奢ってやっから」


 そう言って、店主は眼前の少年がよく買っていく『豚バラと根菜の香辛串』を差し出した。


 串焼き同様こんがりと焼けている色黒店主に差し出された好物を舌打ちと共にひったくったハンスは、周りに群がり始めている群衆に視線を走らせる。


 それから殆ど間を置かず、ジリジリと詰め寄りつつある群衆に対して戦場で見せた視界を俯瞰的に把握する状況認識法を使用したハンスは、振り返りもせず両脚を撓めて重心を下げると、


「……次も奢れよ、オッチャン」


 そう言い残して屋台の前から姿を消した。


 その直後、絶品通り一帯に鼻を突き抜けるような香辛料と、芳ばしく焼けた肉と野菜が織り成す得も言われぬ香りを運ぶ疾風が駆け抜け、その匂いの源泉たる『ゲヴュルツ・ブリット』には評判の串焼きを求める者と、消えたハンスの行方を追う人々が殺到したのだった。

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