くようばこ ひとつめ
狩人タヌキ
第1話
麓から見上げた時の神々しさすら感じる雄大さや人の侵入を阻む険しい環境から、地元民に霊峰と崇められる深い山の中腹、その山肌にできた風雨を凌ぐに丁度良い大きさと深さを持つ窪みの中に、眩い輝きを放つ金色があった。
よく見るとそれは、枝葉の隙間から差し込んだ朝日に照らし出される艶やかな金髪だった。
「――――ン……、ハ……ハン……ス……」
顔に当たる柔らかな光で目が覚めたのか、金糸の持ち主である少女は同伴者の名前を呼んだ。
しかし、その声に反応する者は窪みの中にはいない。
鳥達の囀りしか返ってこない窪みの中で、未だに覚醒し切っていないのか宝石のような翠眼を瞬かせながら、一流の人形職人が持てる技術の全てを費やして造り上げたかのような相貌の少女は、被せられていたコートの下で上体を起こした。
その動作で滑り落ちた厚革の下から現れた身体は、その煌びやかな容姿とは比べるのも失礼なほど貧相な安い男物のチュニックと革製の頑丈なブレーを纏っている。
同伴者が山の中でも動きやすいようにと少女に貸した代物だが、普段着よりも一回り以上大きい所為で所々折り曲げたり縛ったりして丈を調節してあり、それで逆に彼女の女性らしい起伏が強調され、身動きする度に衣の隙間から透けるような肌が見え隠れしてしまっていた。
最初は彼女にも乙女に相応しい羞恥心があったのだが、それ以上に普段から飄々として生意気な印象を覚える同伴者の『顔を赤くして狼狽える』という可愛らしい表情を見られた嬉しさが勝り、その彼が上に着るようにと太腿丈のハーフコートを貸してくれた――彼女にとってはロングだが――事もあってかなり薄くなっていたのだ。
少女がけぶるような金の睫毛に縁取られた目元を擦りつつ辺りを見回すと、ついさっき誰かが灯したと思われる篝火といつの間にか頭の下に置かれていた革のバッグを発見した。
だが、
「…………? ハンス……? 何処……ですか?」
再度の問いにも返事は無く、それで自分が見知らぬ土地で独りになったのだと理解した少女は途端に跳ね起き、足元に広がる彼の匂いが染み付いたコートを心細そうに抱き上げる。
それでも自分達が追われる身である事を忘れてはいなかったらしく、取り乱して絶叫してしまうような愚は犯さなかった。
(ハンス、何処にいるの!? 早く戻って来て!!)
突然の孤立により、つい数日前に体験したばかりの恐怖と絶望が悪夢のように思い起こされてパニックになりかけながら、それでも何とかコートで押さえ込むようにして口を噤む少女。
だが、真夜中の留守番を任されて家に一人で取り残された子供のように両眼を瞑って震えている様子から、彼女の我慢も時間の問題だという事が窺える。
と、そんな彼女の無音の叫びが届いたのか、
「――セフィー? 起きたのか?」
年相応な音程を容姿に相応しからざる柔らで優し気な語調で紡ぎ、少女と御揃いのチュニックとブレーを身に纏う灰色の髪と琥珀色の瞳を持つ傷顔の少年が窪みの入口から顔を出した。
その見慣れた傷顔を見た瞬間、彼女を襲っていたあらゆる重圧が消え去り、少女は思わず虚脱して座り込みそうになるが、寸前の所で堪えつつ目元や頬を赤く染めて少年を睨んだ。
「ハンス! 離れるなら一声掛けなさい! 姿が見えないから心配したのですよ!」
先程までの反動と寝起きというタイミングの所為か、愛称で呼ばれた少女は自分達が置かれている状況も忘れ、梢の小鳥が驚いて飛び去るような大声で叱責してしまっていた。
しかし、彼女同様逃亡者である筈の少年は苦笑を浮かべつつ、普段の彼を知る者なら別人じゃないかと疑うほど素直に謝罪した。
「ごめんな、不安にさせちまって。でも、王女様があんまり気持ち良さそうに眠ってたもんだから、起こしちまうのも悪いかと思っちまったんだよ。朝メシの準備もあったし」
『王女』と呼んでおきながら気安過ぎる言葉遣いで軽く頭を下げるハンスに、セフィーの方はまだまだ御立腹だった……
と言うより、更に表情を険しくしている。
「王女だなんて呼ばないでください!! 私の事は名前で呼ぶようにと、今までも散々申し付けたではありませんか!!」
「あ~っと、いや、別に忘れてたってワケじゃねぇんだ。許してくれよ、な? セフィー」
「知りません!!」
断りも無く姿を消した事にでも敬意に欠ける無礼な謝罪にでもなく、他人行儀な呼名を使った事だ《、》
そんな愛らしい仕草に思わず頬が緩みそうになるハンスだったが、ここで笑えば彼女の機嫌を更に損ねる事は目に見えていたので、上がる口角をなんとか下げつつ謝罪の言葉を重ねる。
「頼むって、この通りだから」
「ダ・メ・で・す!!」
真摯な謝罪も虚しくセフィーは全く耳を貸してくれず、そっぽどころか完全にハンスに背を向けてしまった。
軽い気持ちで揶揄おうとしたが為に逆鱗へ触れてしまった――と言う割に、彼女の所作は可愛過ぎるが――事を後悔しつつ、なんとか許して貰おうとハンスは更に謝意を上乗せする。
「そぉ言わずにさ。埋め合わせなら何でもするぜ?」
「……
彼の言葉の一部がセフィーの琴線を掠めたのか、先程までの頑なな態度が少しだけ軟化した。
ハンスもそれに気付き、彼女が反応を示した部分を重点的に攻める。
「あぁ、『何でも』だ。まぁ、俺ができる範囲でだけどな」
「……………………そう、ですか……」
怒りとは異なる別の
少年の立ち位置からでは彼女の表情を窺い知る事はできなかったが、それでも機嫌が直りつつある事は感じ取れたので、ハンスは悟られないよう気を付けながらも胸を撫で下ろして彼女の言葉を待った。
そんな彼の絶対服従的権利を獲得したセフィーは、御命令を決め終えたらしく、背を向けたまま要求を口にする。
「で、でしたら……あの、さ、寒いので……あた、暖めて下さい」
「…………は? コートなら渡してあるし、焚火だって点けといたじゃねぇか?」
意味が分からず、反射的に思ったまま質問してしまったハンス。
確かにメイド達が暖炉に火を入れて部屋を暖めてくれる王宮の朝と違い、人の手が届かず木々が鬱蒼と生い茂った山奥で迎える朝は大層冷え込んでいる。
だが、微妙に恥ずかしそうにしている彼女の様子を見ている内に、少年は彼女がコートや焚火などという即物的で無粋な物ではない別の何かを要求しているのだと理解してしまった。
「ですからっ! そ、その……寝起きで、か、身体が冷えていますから……ち、ちょ、
そう言って、セフィーは振り返りつつ抱えていたコートを彼に押し付け、赤く染まった顔をハンスの目に触れさせぬよう、間を置かず再び背を向けた。
「――ぅ、ぇ……ぁ、えええぇぇぇっ!?」
とんでもなく可愛らしい要求を突きつけ、尚且つそれに対して悶絶寸前といった表情でチラチラと彼の方へ視線を向けるセフィーを前に、ハンスも顔を真っ赤にして左頬の傷痕を掻く。
だが、『何でもする』と言ってしまった上に、そもそも、彼は立場的にも心情的にもセフィーの要求を跳ね除ける事など不可能なのだ。
仮に此処で惚けたり誤魔化したりなどしたら、今度こそ日を跨ぐレベルで怒りを買うだろう。
熱で鈍る頭で漸くそこまで至ったハンスは戦や決闘時以上の覚悟を決めると、渡されたコートを昨夜椅子代わりに使っていた小さな岩の上に放り投げてから、セフィーの元へと歩み寄り、
「わ、分かった。――これでいいか?」
上擦りそうな声を押し込めて、自分より一回り小さい華奢な身体を背後から抱き締めた。
「――――ッッッ~~~~!!!!!!」
自分から要求した筈のセフィーは、回された両腕や押し当てられた胸板の感触や温度が嬉しいやら恥ずかしいやらで、無音の悲鳴を上げていたが、やっぱり、何処からどう見ても幸せそうにしか見えなかった。
ハンスの方も、寒いと言っていた筈のセフィーの存外温かな感触に熱を上げている。
「ゴ、ゴメンな。俺が悪かったよ、セフィー」
セフィーは耳元で聞こえる声に全身に赤色を上らせるが、すっかりご機嫌になったようで、子犬や子猫がじゃれつくように後ろの彼へと体重を預けた。
「わ、私の方こそ、声を荒らげてしまい、申し訳ありません」
「あぁ、確かに。これでも一応追われてんだから、もぉ少し静かにしないとなぁ」
「そ、それは、でも……貴方が私に断りも無く居なくなるから――
「ん、それは俺が悪かったよ。でもまぁ、もう連中は完全に撒いてあるから、取り敢えず暫くは気にしなくて良いさ。だから、好きなだけ怒鳴ってくれて構わねぇよ?」
「……もう、イジワルなのですから」
蜂蜜に砂糖を煮溶かしたような空気を撒き散らしながら互いの体温を伝え合う二人だったが、そろそろ気恥ずかしさに耐えられなくなってきたハンスが、ガラス細工のようの華奢な身体から離れようとする。
「えぇっと、もぉ良いだろ? あんまグズグズしてっと、今日中に峠越えられなくなるし……」
「ム~~~~、まだ良いではありませんか。これは罰なのですからね」
しかし、セフィーの方はハンスと完全に二人っきりである状況や、度重なった凶事に気を張らせ続けていた反動の所為か、頬を膨らませながら肩に回された腕を捕まえて離そうとしない。
ハンスの方もセフィーが甘えてくる事に悪い気はしないので、表面上は渋々といった表情を保ちつつ彼女を抱く腕に力を籠めている。
「分かったよ、セフィー。だけど、もぉ少しだけだからな」
「ええ、今日はそれで許して差し上げます♪ そう言えば、これから何処に向かうのですか? 今後の旅路に向けた準備をするという話でしたが、この辺りには町も村も無い筈ですが……?」
「あぁ、それなら、山の反対側に旅人時代の知り合いが住んでる隠れ里があるんだよ。そこならちゃんと身体を休められるし、この先必要なモンも調達できるからな。それに、いつまでもそんな男物着てんのは嫌だろ?」
「そ、そんな事はありませんっ。寧ろ……貴方に包まれているようで……」
「…………セフィーさん? それは……一体、どう言う……?」
「い、いえ。ですから……貴方が望むなら、私はどんな格好でも平気です。だから――
ハンスの腕の中でクルリと振り向いた彼女は、彼の身体を抱き締めつつ顔を寄せていく。
「これからも、ずっと一緒に居て下さいね?」
身長差を埋める為に背伸びしたセフィーは、彼の耳元でそう囁くと頬に口付けした。
「――――~~~~ッッッ!!!!!!」
突然の接吻にハンスは顔のみならず全身を燃え上がらせてしまうが、彼女の方からも柔らかな身体を通して、少し不安を覚えるほど速い鼓動が伝わってきていた。
セフィーの方もハンスと顔を合わせていられなかったのか、彼の胸に額を押し付けるようにして俯いてしまうが、元々の肌が白い為に朱色というよりも薄紅に染まった耳と首筋から、どんな心境なのかが窺える。
「その……なにか……言って、下さいっ……」
閊えながら消え入りそうな声で言葉を紡いだセフィーは、無意識ながら彼の背に回した腕に力を込めた。
対するハンスの方もやっとの事で凍結状態から復帰するが、またもや訪れた精神的窮地に自分を奮い立たせると、セフィーの耳元に唇を寄せる。
「あぁ。いつだって傍に居て、何が来ようと守り抜く――約束だ」
ハンスはまるで誓を立てるように、桃色な熱を極力排した口調でハッキリと応えた。
その言葉にセフィーは弾かれたように顔を上げるが、そこでハンスがさっきの仕返しとばかりに彼女の頬へと唇を触れさせる。
「さぁ、そろそろ準備しようぜ。今朝は鱒と山菜が獲れたから、それで飯にしよう」
彫刻のように時を止めたセフィーの腕からすり抜けるようにして脱出したハンスは、早起きして採ってきた川魚や山菜を窪みの入口へと取りに行った。
セフィーは頬に手を伸ばして、彼が触れた場所を愛おしそうになぞりつつ、
「……もう、イジワルなのですから」
いつもの文句を口遊みながら、朝日に照らされた暖かな背中を追い掛けた。
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