十二話

 ヒルデが案内されたのは、ヘルマンの部屋を出て廊下を突き進んだ最奥の扉の前だった。そこには警備をする魔法戦士が一人立っており、ヘルマンを見ると会釈をして挨拶をし、扉の前から離れた。


「ここに彼はいる。では入ろう」


「ええ。……レイさん、ここでしばらく待ってて」


「ああ。行ってらっしゃい」


 レイは片手を振り、残念そうな声で二人を見送った。


 中に入ると、様々な植物や薬品の臭いがヒルデの鼻を襲った。こういう臭いは家の研究部屋で慣れているはずだったが、それよりもさらに種類の多い臭いが混ざり合い、部屋の隅々に漂っていた。こんな中にいては身体に悪そうではあるが、見れば窓が半分ほど開けられ、一応換気はされているようだった。その窓からは王都の街並みの一部と色あせた冬の自然が遠くまで見える。


「……院長、何かご用ですか?」


 研究道具や積み重ねられた資料の間から茶色の頭がひょこっとのぞいた。


「まだお伝えできる目ぼしい成果は出てませんけど……」


「今日は様子を見に来たんじゃない。君の会いたがってた人を連れて来たんだ」


「僕の……? って、まさか……」


 ガタンと音を立てて椅子から立ち上がったレヴィンは、その姿を必死に捜すように見開いた目を向けた。そしてヘルマンの後ろに立つ帽子と厚着をした人物を見つける。


「君なのか? ヒルデ……」


 ヘルマンに背中を押されてヒルデはレヴィンに近付いた。


「ええ、そう……レヴィン、よかった。あなたが無事でいてくれて……!」


 声と姿を見た途端、ヒルデの胸には嬉しさと安堵が一気に込み上げてきた。そのせいで震えそうな声を懸命に保ちながら夫の顔を見つめる。無精ひげを生やし、疲れた様子も感じるが、それ以外は以前と何も変わっていない。数週間ぶりに見る夫だが、ヒルデの感覚では数年ぶりのように感じられていた。それだけ誘拐されたことは衝撃的で、ここまで来るのにも恐怖や苦労が多かったのだろう。


 レヴィンもヒルデに近付くと、目深にかぶった帽子に手を伸ばして言う。


「顔を、よく見せて……」


 つばをつかみ、レヴィンは恐る恐る帽子を上げた。そうして見えた妻の見えない顔に、ハッと息を呑む。


「本当に……薬を、飲んでたなんて……すまない。僕は……」


 表情を歪ませうつむくレヴィンの手をヒルデは優しく握った。


「話は全部聞いたわ。あなたのしたことも……。だけどこんな身体になったのはあなたのせいじゃないわ。薬は私の意思で飲んだんだから」


「でも僕が馬鹿な真似をしなきゃ、君は薬を飲むこともなかったんだ。全部、僕の責任だ」


「そんなこと言っても仕方のないことよ。私だって薬の作成を手伝ったわ。それに関しては責任がある。私に謝ることなんてない。そんなことする暇があるなら、解除薬の研究を進めましょう。ね?」


「ヒルデ……」


 レヴィンは優しい妻の言葉に泣きそうな笑顔を浮かべると、握られた手を強く握り返した。


「……僕が今何をしてるかも、聞いてるんだね」


「ええ。状況はどうなの?」


「あまり進んでない。魔法効果を打ち消す魔力と薬品の組み合わせが上手くいかなくて……」


「それは時間がかかりそうね。助手の私の出番かしら」


「それはありがたいけど、この問題はかなり繊細なもので、本当に時間がかかるんだ。試した組み合わせが正解なのかも定かじゃないし……」


 するとレヴィンは慎重な視線をヒルデに向けた。


「君は、その身体のままいたらどうなるかも聞いて……?」


「ええ……」


 ヒルデは静かに返事をする。レヴィンがその後ろのヘルマンに目をやると、その顔は硬く難しい表情で二人を見ていた。


「そうか……正直、今の状況だと、一年以内に解除薬を作るのは困難だ。君を悲しませるようなことを言って申し訳ないけど……」


「ううん。嘘を言われて変な期待を持つより、本当のことを言ってくれたほうが正しい状況を理解できていいわ。私も、覚悟ができるし」


「やめてくれ。覚悟だなんて……確かに先は見えないが、こういう研究は突然道が開けることもよくある。僕は絶対に諦めないし、君も諦めないでほしい。すべての力を注ぐから、一緒に力を合わせよう」


「私は最初から諦めてるわけじゃないわ。もちろん努力する。あなたと一緒に解除薬を作るまで」


「私は大いに期待してる。魔法薬を作り出した彼なら、解除薬作りもきっと成功するはずだ。揃った夫婦の力で、どうか頑張ってくれ」


 ヘルマンの励ましに、レヴィンは真っすぐ見て答える。


「はい。二人で頑張って、院長には明るい報告をしてみせます。……時間を無駄にできない。研究の続きを――」


 そう言って机に戻ろうとしたレヴィンだったが、足をもつれさせ、危うく転びそうになった。ヒルデは咄嗟に後ろから身体を支え、レヴィンの顔をのぞき込む。


「大丈夫? 気を付けて」


「あ、ああ、ごめん。気が急いて……」


 照れ笑いを浮かべたレヴィンだったが、ヒルデはその目の下にくまがあるのに気付き、聞いた。


「……ちゃんと眠れてるの? くまができてる」


「寝てても研究のことしか考えられなくて……最近は二、三時間しか寝てない」


「そんなの駄目よ! それじゃ体力が持たないわ」


「でも一分だって惜しいんだ。君の命が懸かってるのにいびきかいて寝てる場合じゃ――」


「ぼーっとした頭で研究が進むとでも思うの? 逆に遅くなって進まないわよ。家でもそうだったけど、あなたは放っておくと平気で何日も徹夜してた。集中し過ぎると自分のことなんかまったく考えないんだから。それ、悪い癖よ」


「でもこの研究は――」


「でもじゃない。私のためと思うなら、今日は休んでしっかり睡眠をとってちょうだい。十分休んだら、一緒に研究を頑張りましょう」


 少し不満そうなレヴィンの目が妻を、そして後ろのヘルマンを見る。


「奥方の言う通りだ。睡眠不足の頭で研究が捗るとは思えない。アカデミーの研究員にはしっかり休息をとるよう言ってる。君もそうするべきだ」


「……わかりました。院長もそう仰るなら」


「子供じゃないんだから、これからは人に言われる前に休むのよ?」


 レヴィンはわかったと笑って答えた。


「ヒルデ・レーワルト、君にはこれからここで研究に加わってもらうに当たり、いろいろ教えておくことがある。その説明をしておきたいんだが――」


「あの、それは後でもいい? 夫とやっと会えて、話したいことがあって、できたら二人きりになりたいんだけど……」


「ふむ……そうだな。夫婦で話したいこともあるか。じゃあ私は先ほどの部屋にいる。外の警備に言っておくから、終わったら訪ねて来てくれ」


「わかったわ。じゃあ後で」


 ヘルマンが部屋を出るのを見送ると、ヒルデはレヴィンに向き直る。


「……本当に、無事でよかった」


 両手を伸ばしたヒルデはレヴィンをギュッと抱き締め、その温もりを愛おしそうに感じる。


「家から連れ出されてから、いろいろな場所へ行って捜してたの。あなたの研究仲間のハンスさんに会ったり――」


「え? あいつに?」


「あの人、あなたが連れ出された翌日に……いえ、私と一緒にあなたを捜してくれたのよ。でも結局見つけられなくて、私、探偵を雇ったのよ。魔法使いのレイさんのおかげでここにたどり着けたの。それでそのレイさんって、さっきの院長の息子さんなのよ? 知った時は驚いたわ」


「そうか……苦労させたみたいだね……ごめん」


「私に謝らないでいいって言ったでしょ?」


 そう言って身を離したヒルデは、レヴィンを椅子に座らせ、自分も近くの椅子を引き寄せると、向かい合う形で座った。


「だけど、聞きたいことが一つあるの。研究に対していつも真面目に取り組んでたあなたが、どうしてアカデミーの禁術なんかを盗み見たの?」


「それは……」


 ばつが悪そうにうつむいたレヴィンは弱々しい声で答える。


「正直、焦ってたんだ。自分の現状に……」


「何を焦ることがあるの? 研究は時間がかかるものだけど、その中でもあなたはいろいろな技術を生んだり発見を――」


「僕が目指してるのはそういうものじゃない。魔法研究で新たな魔法を作ったり、誰もが驚く発見をすることなんだ。でも現状は遠い。小手先だけの成果なんかほとんど評価されない。一方でアカデミーでの研究発表会じゃ、何人もの研究者がすごい成果を披露してた。それはまさに僕がやりたいことだ。皆の目を輝かせるような素晴らしい研究成果……僕はそれをどうしても手にしたかった。どうすれば手にできるんだろうと考えた時、アカデミーの立ち入り禁止の書庫を見つけたんだ。あの中に禁術を記した書物があることは知ってた。頭じゃ悪いことだとわかってても、焦った気持ちが身体を止められなくて……」


「入ってしまったのね」


 ああ、とレヴィンは頷く。


「禁術であれば何でもよかった。だから適当に選んで内容を覚えて、見つかる前にすぐに書庫を出た。覚えたことは紙に書いて、それで家に帰ってから禁術を使った研究を思案した」


「そうして始めたのが、透明化薬の研究、作成だった……じゃあレヴィンは透明化にこだわってたわけじゃないのね」


「偶然手にした書物に透明化魔法が記されてただけだ。禁術は世間には知られてない、言わば存在しない魔法とも言える。それを使った研究で何かしら結果を出せば、必ず注目されるし評価もされる。こんなもの見たことないって……だけど今は馬鹿なことをしたとしか思えない。この魔法がなぜ禁術に指定されたのか、一番重要な部分を知ろうともしなかったんだからね。まさか、かけられた者を死に至らしめる魔法だったなんて……こんな自分が浅はかで、馬鹿過ぎて、後悔してもしきれないよ!」


 奥歯を噛み締め、表情を歪めたレヴィンは両手でその顔を覆った。


「こんな馬鹿な夫、気が済むまで殴ってくれ。千回殴っても殴り足りないかもしれないけど……」


 ヒルデは小さな溜息を吐くと、レヴィンの両手を下ろし、顔を上げさせた。


「殴って問題が解決するならそうするけど、そうはならないから殴ったりしない。それに千回も殴ったら、私の手がただじゃ済まないもの」


「でも、頭にきてるだろ? 僕のこと……」


「そんなことないわ。ちょっと不安ではあるけど、あなたのことは怒ってない。側で助手をしてきて、大きな成果を上げたいって思う気持ちは何となくわかるから。研究者なら多かれ少なかれ、誰もがそういう気持ちを持ってるものなんでしょ? だけど、話を聞いてて少し意外に感じたわ。あなたがそんなに周りから注目されたがってたなんて。学生時代はそこまで野心があるとは思えなかったけど」


 これにレヴィンはまたうつむき、小さな声で言った。


「君には、たくさん苦労をかけてるから……家事も、家計のやり繰りも、ヒルデに任せっぱなしで、何一つ喜ぶことをしてやれてない。食材は決まった安い物しか買えないし、服は年に一回買えればいいほうだ。君に貧乏暮らしを強いるのは、ずっと心苦しく思ってて……だから、研究で人目を引く成果を上げたかったんだ。そうすれば僕を有望視した後援者が現れるかもしれないし、アカデミーからも声がかかるかもしれないと思って。でも結果は真逆だ。僕は君を不幸に落としてしまった。こんなつもりじゃなかったのに……僕はただ、ヒルデを幸せにしたかったんだ。それなのに、ごめ――」


「だから謝らないで。それと、私を勝手に不幸にしないで」


 怪訝な顔がヒルデを見つめる。


「でも、僕のせいで君は苦労して、身体もそんなことに……」


「私を愛してるから、もっと幸せにしたかったから、こんなことをしてしまったんでしょ?」


「そうだけど……それを言い訳にはしたくない。悪いのは完全に僕だから」


「でも、愛してくれてるでしょ?」


「当たり前だ。最愛の人はヒルデしかいないよ」


 はっきり言ったレヴィンの手をヒルデは優しく握る。


「私もそう思ってる。だから心配しないで。私は幸せよ。あなたの側にいられるから」


 レヴィンは握られた手に自分の指を絡めながらヒルデを見つめた。


「……今、笑ってくれてる?」


「笑ってなきゃ泣いてるとでも思うの? だとしてもそれは嬉し泣きよ」


 明るく答えたヒルデの見えない頬にレヴィンは手を伸ばし、感触を確かめるように優しく撫でた。


「君の綺麗な顔を見たい。今すぐに……」


「大丈夫。あなたは透明になれるこんなすごい薬を作れたのよ? 元に戻る薬だって必ず作れるわ。それも近いうちに……私はそう信じてる。だから一緒に、焦らず、頑張りましょう」


「ああ。ヒルデ……ありがとう」


 レヴィンは妻を抱き寄せ、反省と感謝を伝えるように強く抱き締めた。再会できた夫婦は久しぶりに戻った二人の時間にしばし浸るのだった。

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