(18)覚悟

 ――化け物だ。

 俺の背筋に戦慄が走った。


 怪物がキョロキョロと周囲を見渡す。

 俺は見付からないよう、トイレの影に隠れた。


 みんなが戦っているのに、俺だけ逃げ隠れしているのは卑怯ではないのか、と、どこかで心が痛む。

 けれども、俺には正面切って戦う能力がないから、敵に見付れば一瞬で殺される。……いや、下手に怪我をして生き残れば、みんなの足手まといになる。

 俺は自分に言い聞かせた。


 ――それに、アニが言うように、俺には、俺の戦い方があるんだ。

 ただ、その活路が、未だに見い出せないだけで。


随分ずいぶんとやってくれたわね。まあいいわ。ワタクシたちの勝利は決まってるんですもの」

 化け物の後ろから低い声がした。

 俺はそっと目を覗かせる。


 破壊された塀の隙間から現れたのは、深紅の燕尾服えんびふくを着たせた男。同じく赤いシルクハットから、ヤギみたいにくるんと巻いた角が飛び出している。

 ――その顔がチラッとこちらを向いたから、俺は慌てて顔を引っ込めた。


 だが、その一瞬で脳裏に焼き付けられるほど、その風貌は特徴的だった。


 白い顔に細い眉、左目の周りにハートの模様が描かれている。

 尖った鼻の下には、おちょぼ口みたいな小さな唇。その赤く不自然な口がニッと笑ったから、俺の肌は総毛立った。


 ――邪悪なピエロ。

 そんな印象だ。


 ピエロは間延びした声で怪物にこう命じた。

「ファウストちゃん、とりあえずこのみすぼらしい小屋を叩き潰してちょうだい。ネズミが三匹隠れてるから」


 俺の心臓が凍り付く。

 この小屋――調理場には、負傷したエドとチョーさん、そしてニーナがいる!


 俺は無意識に駆け出そうとした。

 ……と、その肩を押さえられて、俺はようやく我に返った。


 肩に置かれた手は、ファイのものだった。

 彼は俺の耳元に顔を近付け囁く。

「君はまだ、奴らに存在を知られていない」

「…………」

「いいかい? バルサと僕で、エドたちは必ず助け出す。だから君は……」

 ファイの淡い色の目が鋭く光った。


「逃げるんだ」


「……え?」

 俺には、ファイの言葉の意味が理解できなかった。

「何で……?」

「君はまだ、この世界に来て間もない。だからきっと、女神の神殿エリューズニル辿たどり着ける」

「…………」

「僕はもう十分生きた。……そもそも僕は、この世界に転生する資格なんてなかったんだ。だから僕が、みんなを逃がす」

「そんな……」

 ファイはニコリと微笑んだ。

「僕の分まで生きて。お願い」


 ファイはそう言うと、中庭に出て行った。

 俺はそれを呆然と見送った後、ファイを追い掛けようとして、足を止めた。


 ……俺がこの村に来て何日だ? たった五日じゃないか。

 それも半分は、アニに連れられてグース狩りに行っていた。

 仲間意識も信頼も絆も、そんなものが、こんな短期間で芽生えるはずがないじゃないか。


 ファイの言った事は正しい。

 俺はここからコッソリ逃げて、自分のために生きるのが、一番賢い選択に決まっている。


 俺の足は、裏の畑に向かっていた。

 ここを通り過ぎ、ここに来た方法の逆で小川を渡れば、俺は自由だ。


 その途中、薪割り場を通りかかり、俺は思い出した。

 原稿用紙とボールペンが、切り株に置きっぱなしになっている。


 それを取りに向かい、薄緑の枠が描かれた紙面を見下ろす。

 ……何の役にも立たないゴミ武器だが、これを持っていなければ、俺はこの世界で生きていけない。


 取ろうと手を伸ばすと、ここで聞いたバルサの言葉が頭に浮かんだ。


 ――もしかしたら、おまえの能力スキルは、この世界で最強クラスかもしれない。


 ぬか喜びしたあの言葉。

 ……間違っていたのは、本当にバルサの認識の方だったのか。

 俺がまだ、能力を使いこなせていないだけじゃないのか。

 現に、あれだけの雨は降らせている。

 原稿用紙が言う事を聞かないのは、俺の方が役立たずだからではないのか。


 太陽は半ば地平線に埋もれ、今日最後の光が淡く原稿用紙を照らしていた。

 ……もう少しすれば、辺りは闇に包まれ、原稿用紙に文字を書く事はできなくなるだろう。


「…………」


 俺はボールペンを拾い上げた。

 ――底辺作家が、何を恐れる事があるんだ。

 どんな名作だって、書かなければ形にならない。

 たとえ読まれなくても、バカバカしいとさげすまれようとも、文字にしなければ、それはただの妄想でしかないのだ。

 それを一番分かってるのは、俺じゃないか。


 何のために、転生までしてここに来たんだ。


「うおおおおお!!」


 俺は膝を折り、原稿用紙に向き合った。



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 ――一方、中庭では……。


 柱をへし折られ、崩れ落ちる調理場から、三つの影が飛び出した。


「エド! チョーさん! ニーナ!」


 バルサが叫ぶ。

 チョーさんとニーナに支えられて出てきたエドが、彼の前で膝を折った。

「矢は何とか抜いたわ。でも傷が深くて、治癒魔法が追い付かないの」

 焦るニーナの腕の中で、エドが血の気を失った顔を見上げた。

「大丈夫……この程度で死にはしないわ……。後で追い掛けるから……先に逃げて……」

 そう言って傷を押さえる彼の手の隙間から、とめどなく血があふれている。


 バルサはエドの肩を叩き、励ました。

「エクスカリバーを振るのに邪魔だ。さっさと行け」

ひどい言い方」

 エドはそう笑い、顔を歪めながらも立ち上がった。


「大丈夫。バルサはコスモが守るから」

 しゃしゃり出てきたコスモを止めたのはファイだ。

「コスモは、ニーナを助けて欲しいな」


 ――その時だった。

 バリバリッと音を立て、異様な巨体が、崩れた屋根を踏み潰す。

 破壊の正体を前にして、さすがのバルサも肝が冷えた。


「こんにちは。あら、こんばんは、かしら。んー、しっくりこないわね」

 怪物の背後から、赤い服を着た痩せた男がやって来た。


 エクスカリバーを構えながらも、ゴクリと息を呑む。……ただの盗賊ではない。

 確実に皆殺しにする手段を持ってやって来ている。


 これまでにも、無惨に破壊された村を幾つも見てきた。

 そのどれもが、常人の仕業ではない無慈悲さで叩き潰されていた。


 ――今、目の前にあるモノは、その時の状況を再現させるに十分だ。


 夕日を浴びたシルクハットが、鮮血の色に映える。


「……あ、そうだわ」

 赤い服の男はパチンと手を打った。

「初めまして。この挨拶がピッタリね。――フフフ。自己紹介が遅れたわ。ワタクシ、アルファズ様の六賢ろっけんの一人で、メフィストフェレスっていうの。メフィちゃんと呼んで。で、この子が、パペットのファウストちゃん。武器を頂きに参上したの。ヨロシクね」

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