第一章⑤

 ぎょっとなったのは、菊乃も男も同じだ。鶴松は舌打ちし、男の背中を乱暴に押した。

「見世物は終わりだ、帰れ、おっさん!」

「えっ? おっさ……、で、ですが、お札がまだ」

「札ならぜんぶくれてやる。そら、駆け足! ねえさんたち守って、全力で走れ!」

 え、え、と歩きだす男の背中を、鶴松は「急げってんだよ!」とりとばした。

 ぽかんとしていると、鶴松はこちらに向きなおり、ふたたび両手に印を結んだ。

「オン・アモキヤ・ビロシヤナ・マカモダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン──」

 とっさに飛びのいた。一瞬、体をなにかが貫いた気がした。

(さっきの真言とまるでちがう)

 真言が繰りかえされるたび、静寂がこれ以上ないほどに深まっていく。

(怪しい男にはちがいない。だが、この力は本物)

 修験者には詳しくない。それでも、その真言が発する力はたしかに伝わってきた。

(待て。このまま真言を聞いていれば、成仏できるのではないか)

 はたと気づいて、いったんは引きかけた体をその場にとどめる。

 鶴松がなおも真言を唱える。体の中に光が生まれ、心が清まっていく。ああ、なんと深い声色だろう。心がすっとする。菊乃は目を閉じて、黄泉よみへと戻る瞬間を待つ──。

 鶴松が沈黙した。菊乃は目を開け、「これ」と鶴松をねめつけた。

「なぜやめる。せっかく心地よかったのに」

「亡者だつこうみようしんごんをうっとり聞くな! あんじゃねえんだぞ!」

「おおっ、たしかに按摩のような心地よさだった」

 鶴松が血相を変え、剣の切っ先を菊乃に向けてきた。

「もう容赦しねえ。そこになおって俱利伽羅剣の炎をその身に受けやがれ!」

 ふたたび真言が唱えられた瞬間、剣全体が火炎に包まれた。菊乃は目を見開き、振りおろされた炎の剣をとっさに身を低くしてかわした。

(しまった。よけてしまった!)

 俱利伽羅剣とやらがなにかはわからないが、あれに斬られれば、黄泉に戻れるのではないか。そう思ったが、炎への驚きと、武芸の心得とが邪魔をした。再度、剣を振りおろされるが、やはり体が勝手によけてしまう。

「ちょこまかするな、悪霊!」

「おぬしの腕が悪いのがいけない! よけてしまえるではないか!」

「はあ!?」

 鶴松は構えをとき、げんそうに菊乃を見つめた。

「おまえ……変だな。普通の亡者となにかちがう」

 そのとき、妙な臭いが鼻先をかすめた。菊乃は臭いのもとをたどり、鶴松の横手に伸びる通りに目をやり、どうもくした。

「ま、待て、鶴松とやら。う、うし……」

「……なんだよ、言い残したいことがあるなら、聞いてやっても──」

「うしろ!」

 鶴松が振りかえった先には、巨大ななにかがあった。

 なにか、としか表現できなかった。強いて言うなら、どろどろとした真っ黒な泥の塊。その高さは家の軒下に届くほどで、幅に至っては通りを覆わんばかりだった。

 ねちゃり、とでいかいの中央が横に割れた。まるで口のようだ。そう思った直後、

『オマエ、我ガあるじ、カ?』

 鶴松がはっとして俱利伽羅剣を振りあげた。だが、それよりもはやく泥の塊が鶴松に覆いかぶさった。僧衣の襟首にみついて、軽々と上空に持ちあげる。

(なんだ、これは)

 鶴松が体をよじって逃れようとするが、泥塊は獲物を捕らえた犬のように、ぶるんぶるんと身を振った。左右に揺さぶられた鶴松の手から剣が零れ、地面に落下する。

 まさからうつもりか、人間を。

「させるか……っ」

 菊乃は草履をしっかと地に食いこませ、腰帯に差していた袋竹刀を抜きはなった。

「菊乃、参る!」

 地面を蹴って駆けだす。袋竹刀を振りあげ、形の判然としない泥の塊めがけて──、

「よけろ!」

 鶴松の鋭い声がした。直後、泥の中から長い縄状の流体が伸びだし、意思を持った動きで袋竹刀をぎはらった。手からはなれた袋竹刀は夜闇の向こうに飛んでいく。

「なにしてる、馬鹿。逃げろ!」

 逃げろと言う鶴松に、一瞬、菊乃は感心した。

「逃げて、立てなおして、そして俺を助けろ!」

 感心して損した。

 あきれながらも、菊乃はふたたび走りだした。武器はないか。どこかに武器は──ふいに、鶴松の落とした俱利伽羅剣が目にとまった。駆けより、子供の身には巨大すぎる剣のつかを摑んだ。鶴松がなにかを叫ぶ。はっと顔をあげると、さっき袋竹刀を払った泥の縄がすぐそばまで迫っていた。

 菊乃は剣を持ちあげた。思いがけない軽さに勢いあまって後ろに転びそうになる。

(持てた。これならいける!)

 柄をしっかと握りなおし、上段に構える。すると、先ほど目にした炎が、いや、あれよりもはるかに淡い火が刀身をとりまいた。驚く間もなく、気合いつせん、縄を斬りにする。途端、それはただの泥となってべちゃべちゃ地面に飛び散った。

『ウオオォオオオン!』

 突然、泥の塊が体を揺さぶりながらえた。反動で、鶴松がどこかへと飛ばされる。

 泥塊の一部がぐにゃりと盛りあがった。中から、なにかが出てこようとしている。

 あれは──獣の鼻先?

 体が勝手に震えだした。歯の根が合わなくなる。これは、だ。そう悟った瞬間、横からなにかが衝突した。れた感触にぎょっとしたのも一瞬、視野が反転した。

「逃げるぞ!」

 鶴松だ。飛ばされた先に掘割でもあったのか、びしょ濡れの片腕で菊乃を小脇に抱え、全力で走る。

「はなせ! まだやれる、あの化け物、一刀のもとに斬り捨ててくれる!」

「うるせえ、素人が! 棒立ちになってたくせに、生意気言うんじゃねえ!」

 逃げる鶴松の背中側を向いた菊乃の視界には、まだあの泥塊の化け物がいた。

 追ってくる様子はない。ただ、悲しげにほうこうをあげている。

(なぜだ、どうしてだか無性に胸が痛む……)

 がくんと視界が傾いだ。菊乃はつまずきかけたらしい鶴松の背中をぺちっとたたく。

「これ、そうりよ! もっとなめらかに走ってくれ!」

「無理言うな。せつが濡れて滑るんだ!」

「ええい、どんくさい!」

「ちょ、暴れんな。放りおとすぞ、鬼娘がーっ」


 人家が途絶え、両脇を竹林に挟まれた真っ暗な坂まで逃げたところで、ようやく鶴松が足を止めた。菊乃をぞんざいに地面におろし、ぜえぜえと呼吸を整える。

「最悪だ。商売を邪魔されたあげく、なんでこんな鬼のガキを抱えて全力疾走を……」

「鶴松と言ったな。さっきのあれはいったいなんだ!?」

 勢いこんで問う。鶴松は濡れた僧衣のすそをぎゅっと絞りながら答えた。

「化け物。おんりよう。悪鬼。呼び方はいろいろだ。ていうか、おまえもあれのたぐいだろうが」

「わたしは化け物などではないぞ」

 むっとして返しつつ、菊乃は来た道を振りかえった。

「あれは放っておいてよいのか。倒せるなら、今からでも戻ったほうがいいのでは」

「いい、いい。誰かがあれに悩まされてて、俺に相談してきたならどうにかするが、そうでないならタダ働きはごめんだね。……うう、寒っ」

 報酬の有無で化け物退治のするしないを決めるとは、やはりまともな僧侶ではない。

「わたしは菊乃ともーす。おぬしは何者だ」

 鶴松は菊乃が抱えていたけんを乱暴に奪いとって、あごをそらす。

「江戸八百八町に名の知れた天下のごう師、鶴松さまを知らないとは幸せな鬼だ」

「ごうまし?」

「魔を降ろすと書く。台密の秘法を用いて、さっきみたいな化け物をはらうんだ」

 てんだい宗密教か。厳しい山岳修行を行うことで知られる宗派だが、あいにく詳しくない。

(それにしても「天下の降魔師」とは、徳川家の天下にあってなんとそんなことか)

 鶴松という名前といい、知れば知るほどに怪しむ気持ちが強まる。

「あのような化け物がこの世にいたとは驚いた。これまで見たことがなかった」

「普通はそうだ。さっきの化け物にしたって、ほかの人間には見えてなかったはずだぞ」

 たしかに、あれほど巨大な異物がいたのに、辺りの人が現れる様子はなかった。

「ということは、もし誰かが見ていたとしたら、あの化け物の口に捕らえられていた鶴松は空を飛んでいるように見え、わたしは剣舞でもやっているように見えたのか? それはたいそうこつけいな……あだっ」

 菊乃の鼻先を、鶴松が指で突いてくる。

「それより、おまえこそ何者だ。ただの子供じゃないだろ。外見と中身があべこべだ」

「わかるのか?」

「ああ。この俺の〈こんじきちようどう〉にかかればな」

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