第一章⑥
鶴松の左の眼球がぐるんと反転し、ふたたびあのふたつの
直後、全身の毛が逆立ち、体が石になったように動かなくなった。
夜の闇が消え
間近まで迫って、違和感を覚えた。鶴松の顔がわずかに下に見える。幼子となった自分と大人の鶴松とでは、視線が近くなるはずがないのに。
「宇佐見菊乃。旗本の奥様か。面構えからして、いかにもお武家さまって感じだな」
顎を
「堅苦しく、気位ばかり高い武家の女。と見せかけて、本当の姿は『男姫』と呼ばれた男勝りのお姫さま。──化け物の正体、見きわめたり」
生前のあだ名にぎょっとなる菊乃に、鶴松がにやりと笑った。
「にしても、女だてらに
まさか、もとの姿が見えているのか?
菊乃の動揺に気づいてか、鶴松ははっはっはっと憎らしいほど明るく笑って言った。
「知りたいなら教えてやろう。この重瞳は
菊乃はわなわなと震え、見えない力に
「この……っ破戒僧!」
一喝した瞬間、赤黒い世界が霧散し、夜半の坂に戻っていた。
「この重瞳の呪縛から逃れるとは、やはりただ者ではないな」
ふたたび背丈の縮まった菊乃は、道端の
「破戒僧! 恥知らず!
「破戒結構、女犯上等。それで減じる功徳など、最初から徳でなし。──そら、これでおまえの裸はもう見えない。安心して出てこい」
ぬけぬけと言い放つ鶴松の目は、もとの切れ長の目に戻っていた。菊乃は
「その目はいったいなんなのだ」
「重瞳。ひとつの眼球にふたつの瞳を持ち、片方は見たままの姿を、片方は隠された真の姿を見る。かの重瞳の高僧、
「密教の修行は厳しいものと聞く。おぬしのような軽薄な男がそのような苦行を行ってきたとは、とうてい信じられぬ。しかも女人の裸を平然と見て、冷やかしを言うなど、それが修験者のふるまいか」
「なら疑うか? 俺の力を」
「それは……。だが、さっきはなにをしていたのだ? 屋根の上に霊がいると言っていたが、本当に霊がいたのか。わたしにはなにも見えなかったが」
「いなかったよ」
堂々と答え、鶴松は鼻で笑った。
「心に不安を抱えてると、いもしないものを見た気になるのが人間だ。その不安を祓ってやるのが、俺の仕事。本物の化け物がいれば降魔するし、いないなら、客が満足するように大げさに、捕まらない程度にささやかに、降魔する『ふり』をする」
「それでは
騙りという言葉に、鶴松は意味ありげにほほえんだ。
「客が恐怖を抱いているのはたしかだろ。ありがたいお経を唱えりゃ、心の
「う……それは、たしかにそうかもしれぬが」
「そもそもさっきの客は、屋根の上になにもいないことなんて百も承知だ。芸者の
もはや返す言葉も見つからない菊乃の額を、鶴松は指でぱちんと
「っ、痛いではないか」
「それよりも、一応助けてもらった礼は言っておくぞ。どーもありがとーございました」
「礼を言う態度か、それは?」
「念仏ぐらいは唱えてやるから、ひとまずその子の体から出てやれ。かわいそうだ」
「──まさか、わたしは、どこかの娘に取り
鶴松は首をかしげ、腰を折って菊乃の幼い顔をしげしげと観察する。
「ちがうのか」
「わからぬ。もしそうなら、はやく出ていってやりたいが……」
菊乃はぺたぺたと両手で自分の顔に触れた。
「
いや、幼い頃の自分の顔など覚えてはいないが、他人の顔だとは露思わなかった。
「そうだ。さっきなくしたが、袋竹刀を持っていたのだ。生前、剣術の
「取り憑いてるわけじゃなくて、幼子の姿で
鶴松はいぶかしげに言って、菊乃の両頰をひっぱった。
「ひゃにおふうっ(なにをする)」
「まぎれもない生身だな。死んだのはいつ頃だ?」
鶴松が手をはなす。菊乃は頰をなでながら答える。
「たしか
「
「ほうえい……というのは」
「元禄の次だ。元禄は十七年で終わったから、あー……死んだのは、もう十五年も前ってことになるか?」
十五年前!
「十五年前に死んで、十五年後に子供の姿で黄泉がえった、か。ずいぶんけたいな……」
鶴松が首をひねる。どうやら尋常ではないことが起きたようだ。
「さっき、『普通の亡者とちがう』と言っていたな。それはどういう意味だったのだ」
鶴松は思案げにし、すっと
「そこの竹を斬る真似をしてみろ。本当に斬る必要はない。竹の手前の空を斬る感じで」
戸惑いながら受けとり、道脇に生えていた竹の手前で剣を振った。すると、振りきる直前、ふたたび剣が火に包まれ、ごうっと竹に燃えうつった。
まずい、火事になる。青ざめるが、鶴松は「落ちつけ」と冷静に言った。
「よく見ろ。燃えちゃいない。俱利伽羅剣の炎が斬れるのは化け物だけだ」
改めて竹林を見ると、そこには焦げ目ひとつなく竹がそびえていた。
「すごいな。どういう仕掛けだ」
「仕掛けで火が出るんじゃねえ。いいか、これは不動明王の加護を得た霊剣だ。使い手の験力に
「験力というのはなんだ。誰でも持っているものなのか」
「いや、厳しい修行を経た
「まさか!」
「じゃあ、その怪力はどうだ。生前からのものか」
鶴松は俱利伽羅剣をふたたび菊乃から奪いとり、背負っていた
「こいつは木剣だが、装飾の分だけかなり重い。子供の腕力で軽々振れる代物じゃない」
「軽かったぞ!?」と菊乃は驚いた。
「剣術指南は受けていたが、怪力も、験力とやらも、持ってなどいなかった……」
鶴松は途方に暮れる菊乃を眺め、「ま、俺には関わりのないことだ」と
「ともかく幽霊ってのは未練があるからこの世にとどまるもんだ。いや、おまえはとどまったんじゃなくて、出戻ってきたわけだが……害はなさそうだし、見逃してやるから、さっさと未練を晴らしにいって、さっさと黄泉に帰ることだ。そんじゃ」
そっけなく言い捨て、
「なんだよ! 俺ははやく帰って、この
「鶴松。助けた礼をしてくれると言うのなら、ここでわたしを斬ってくれ」
鶴松が目を丸くする。
「人心を惑わす騙りながら、どうやらおぬしの力は本物のようだ。頼む。死んでなお
「せっかく黄泉がえったってのに、やりたいことはなにもないって言うのか」
「未練はない。わたしはたいそう
「そりゃ、めったにないことで結構でござんすね」
鶴松は適当に受け答えをして立ち去りかけるが、ふと思いなおしたように足を止めた。
「まあいい。これ以上、面倒に巻きこまれるのも嫌だし。……試してみるのも悪くねえ」
試す? 首をかしげるうちに、鶴松が俱利伽羅剣を鞘から引きぬいた。
「感謝しろ。お望みどおりに成仏させてやる、菊乃姫」
ほっとした。菊乃は「かたじけない」と言って、目をつぶる。
(善太郎。達者でな)
頰に振りおろされた剣の風圧と、炎の熱さを感じる。痛みはなかった。菊乃は体が溶けていくのを感じ、安らぎの中、意識を手放した──。
──菊乃さま……。
泉下の水底に沈む身に、誰かの声が聞こえてくる。
──菊乃さま、どうかお助けください……。
菊乃はゆっくりと
状況が
鶴松がいなかった。もしや成仏させると言って噓をつき、逃げてしまったのだろうか。それならしかたないが、わずかでも自分を知る人間に見放されたのはすこし悲しい。
「おい、ふざけんなてめえーっ」
大声がした。きょとんとして、竹林の上のほうを見上げる。
「なにをしている? 鶴松」
「誰のせいだと思ってんだ、この……っ、いいからおろせ、怪力女ー!」
なぜか竹のてっぺんにしがみついて揺れている鶴松に、菊乃は目をぱちくりさせた。
***
ひと月前。
ねっとりとした夜の闇の中、男の絶叫が響きわたった。
やめろ、食うな。そう叫ぶ声に宿っていたのは、恐怖でも痛みでもなく、怒りだ。
捕食者を前にして、懇願ではなく命令を口にできるとは、神仏が見ていたら「なんと
だが、怒りに満ちたその声も、次第に弱くなっていった。叫ぶ声にかわり、やがて聞こえてきたのは、骨を砕き、肉を
若者は木の陰にへたりこみ、がくがくと身を震わせた。頰肉を
恐ろしかった。怖くてたまらなかった。あんな化け物、見たことがない。見つかったらおしまいだ。それを思うと、恐怖に目が潤んでくる。
──いいや、恐ろしいだけだろうか。
そうだ。これでやっと……ようやく、あの男から解放されたんだ──。
頰にぽたり、と生ぬるいものがかかった。
口をふさいでいた手をほどき、いぶかしんでそれを
指についたそれは夜目にも赤く、ぬめりを帯びていた。
『我ガ
頭上から、弾んだ声が降ってきた。
若者はおそるおそる顔をあげた。
獣は若者の顔を凝視すると、
『次ハ、誰、呪ウ?』
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この続きは角川文庫刊『菊乃、黄泉より参る! よみがえり少女と天下の降魔師』(翁まひろ・著)にてお楽しみください!
菊乃、黄泉より参る! よみがえり少女と天下の降魔師 翁 まひろ/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun
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