第一章①


 ぱちりと、まばたきをする。

 さらに一度、二度、ぱちぱちと目をしばたたかせる。

 いとけない。かわに映ったその顔を見て、菊乃は思った。

 この娘がおてんばな気性であることは容易に想像がついた。なにしろ、肩口でかぶろに切りそろえた髪はぼさぼさで、頰は駆けずりまわったばかりのように赤く上気していたから。

 年の頃は、七つばかりか。

(はて。この顔、どこかで見たような……)

 首をかしげる。すると、みなの幼子も小さな頭を同じほうに傾けた。

(む?)

 ほっぺたをつまんでみる。やはり幼子も同じようにする。指に伝わる感触はふにっとやわらかく、心の奥がくるんくるんと躍った。

(むむ?)

 じわりと動揺が広がる。今しがた頰をつまんだ己の手を顔の前に掲げた。

 その手は、どことなく丸みを帯びていて、小さい。

(これは……私か!?)

 菊乃はがくぜんとして、よろめき立つ。

「危ねえ! どきやがれ!」

 はっと顔をあげると、目と鼻の先に屋根船のさきが迫っていた。慌てて跳びのき、周囲を見まわしてみてようやく、自分がどこかの船着き場にいることを自覚した。

 その途端、けんそうがどっと耳に押しよせてきた。人の声。波音。船のきしむ音。着いたばかりの屋根船から客が下り、船頭がすぐさま新たな客を呼びこみはじめる、その口上。

(ここは、いったい)

 状況がみこめないまま、ふらふらと石段をのぼって船着き場を離れる。のぼった先もすごい人だった。低い視界を人の足が無数に行き来し、今にもりとばされそうだ。

 右往左往するうち、赤もうせんを敷いたしようが目に入った。団子のくしが残った皿が置いてあり、店の主人らしき初老の男が片づけにかかっている。団子屋のようだ。

 菊乃は意を決して、口を開けた。

「ごしゅじん」

 ごしゅじん! 仰天する。自分の声は驚くほど高くて、舌足らずな幼い声だったのだ。

 両手で口をふさいで凍りつく菊乃に、主人がまゆをあげた。

「団子が食いてえんなら、おっつぁんか、おっさんを連れてきな」

「い、いや、おたずねしたいことが、あ、あるのだが……」

 菊乃は耳を熱くし、物陰に身を隠したいのをこらえ、なんとか最後まで言いきる。

「ここは、いったい、どこだろうか」

 主人は目を丸くし、あごで人の群れの向こうを示した。

「どこって、あのたいそうな橋がりようごくばしでないってんなら、なんだってんだい?」

 示されたほうに目を向けると、近くに途方もなく立派な橋が架かっていた。荷をたんと積んだ船が太い橋脚の間を通りぬけ、橋の上にも人があふれかえっていた。

 両国橋。ということはつまり、ここはだ。

(なぜだ。私は……死んだはず!)

 菊乃。享年二十八。

 若くして不治の病におかされ、最後は流行はやり風邪をこじらせて、死んだ。

(昔聞いた怪談に、死者が黄泉がえる話があったが、これがもしやそれだろうか)

 人はこの世に未練を残して死ぬと、亡霊となってさまようという。幼い頃、夏になると、仲のよかった女中がこわごわと、それでいて楽しげに話をしてくれた。

 菊乃自身はそれを信じるでも信じないでもなかったが、だいに伝わる幽霊画をはじめて目にしたときには「死んでなお、みじめな姿はさらしたくないものだ」と思った。

 病を恨まず、宿業を呪わず。ただ、水に沈むように、静かに逝きたかった。

 そして、菊乃はそうした。

 覚えているのは、障子の隙間から見えた雪の積もる庭。薄日が差す中、雪が音もなく舞いおちるさまはとても美しくて──そこで記憶がとぎれている。

(私には、なにか未練でもあったのか)

 武家の女として、潔く死を受けいれた。未練など残しはしなかったはずだ。

「なんだ、迷子か? どっから来たんだい。橋のあっちか、こっちか」

 あちらもあちら、黄泉から来たのだ。

 と言えるわけもなく、困りはてたときだった。近くで悲鳴が聞こえた。

「誰か! ひったくり……!」

 若い娘の声だ。両国橋のたもとで、人々が同じ方向を向くのが見えた。

 その瞬間、菊乃はすべての疑問を忘れた。自分がなぜここにいるのかも、なぜ幼子の姿をしているのかも後回しにし、意識を声のほうへと集中させる。

「あ、おい、野次馬なんてよしときな!」

 主人が止めるのも聞かず、そですそを割って、低い姿勢で駆けだした。

「まかせよ!」

 しりもちをついた娘の脇を走りぬけざまに叫ぶ。娘は驚いて振りかえるが、そのときにはもう菊乃の小さな体は両国橋を跳ぶように渡りはじめていた。

 軽い。なんて体が軽い。病がちだった生前とはまるでちがう。

 橋の先には、人を押しのけながら走る男がふたり。花柄のしき包みを抱えている。

「どけ、どけい! 女犬ぼうさまのお荷物だぞ! いぬびようになっても知らねえぞ!」

 あれかと思うが、ただのひったくりにしては様子がおかしい。なにせ笑っている。意味のわからないことを叫びながら、荷物を放りあって、まるで遊んでいるようなのだ。

「ゆるせぬ……っ」

 菊乃はいっそう足をはやめるが、なかなか思うように景色が進まない。

(子供の体だからか)

 焦りに顔を曇らせた瞬間、菊乃の横を誰かが走りぬけていった。

 それは着流し姿の男だった。一瞬だし、顔はろくに見えなかったにもかかわらず、それが誰か、菊乃にははっきりとわかった。

 息子の善太郎だ。

 菊乃はおもわず走る足をゆるめた。

(あんなに大きくなって)

 死に別れたとき、善太郎はげんぷく前だった。気弱で、武芸よりも勉学を好むおとなしい子だった。だが今、盗人を追いかける姿は力強く、菊乃は頼もしい気持ちになる──

「あ」

 善太郎がずっこけた。「よもやそこまで」と絶句したくなる勢いで地面にへばりつき、めくれた裾からはふんどしが丸見えになり、周囲の人々から失笑が漏れた。

 身を起こした善太郎はひったくりが遠ざかるのを見て、がくりと肩を落とした。どうするのかと思ったら、腕をそでから抜いてふところにし、そのまま猫背になって歩きだす。

 怒りの炎が身のうちにわいた。菊乃は無意識に腰に手を伸ばし、帯に差した棒状の「なにか」をつかんだ。ぱっと駆けだし、去りゆく息子の尻めがけてひと振りにする。

「しゃきっとせぬか、善太郎!」

 ずばあん! 猛烈なさくれつ音とともに、善太郎が前方にふっとんだ。

 いきなり空を飛び、顔から地面に突っこんだ善太郎は、気を動転させて菊乃を振りかえる。その顔を改めて見て、菊乃はさらなる怒りがわきあがってくるのを感じた。

 元服はとうに済んだ年頃のようだ。いいや、とうもとう、とっくのとう。顔つきからして三十より下ということはないだろう。立派なたいに、鬼のごときこわもて。そこにかつての愛らしさはない。だが、それより気にかかったのはだらしのなさだ。月代さかやきはかろうじて整えてあるものの、ひげが伸び、頰はこけている。とくに悪いのはすさみきった目だ。

 浪人。そんな言葉が脳裏をよぎった。

「なんと情けない姿か。そこへなおれ、きたえなおしてくれる!」

 幼子の堂々たる𠮟しつせきに、周囲の人々からどっと笑いが起こるが、菊乃としては恥じらうどころではない。今の善太郎の姿こそが恥。武士の名折れだ。

「よッ、ご浪人。とんだ可愛い師範がいたもんだ!」

 善太郎がぎろりと強烈な眼力で野次馬の男をにらむ。男はさあっと青ざめ、「いやあ、仕事仕事」とそそくさ逃げ去っていった。

「なんだ、娘」

 立ちあがった善太郎がどうかつめいた声色で菊乃に問う。柄が悪いにもほどがある!

「今、何食わぬ顔で立ち去ろうとはしなかったか。ひったくりはどうするのだ。あそこで泣いている娘は、どうす──これっ、どこへ行く!」

 無言で去りかけた善太郎は足を止め、筋骨隆々たる肩越しに菊乃を振りかえった。

「いったい何者だ!」

「おぬしの母だ!」

 善太郎はぼうぜんとし、しかしすぐにその目をふんに細めた。

「大人をからかうのはそこまでに──待て。さっき、俺を善太郎と呼んだか」

 まじまじと菊乃を見下ろし、ぞっとした様子で身を震わせ、立ち去ろうとする。

「いかん。風邪をぶりかえしたようだ。はやく帰って布団にもぐろう……」

「な……っ、これ、止まるのだ、止まれ……止まらぬかあああ!」

 棒状の「なにか」を地面にたたきつけた直後、どわあっとつちぼこりが舞った。

 菊乃はきょとんとし、人々はぽかんとして、地面に生じた亀裂を見下ろす。

「地割れが起きたぞ、てんぺんちいか! みな無事か!」

 人々のそばに駆けよると、なぜだか一斉に後ずさる。さっきは応援してくれた人々が、恐ろしげに菊乃を遠巻きにした。

「天変地異って……おめえが、その竹刀でやったんじゃねえか」

 行商人らしき男の言葉に、菊乃は「竹刀?」と首をかしげる。

「さっきだって、あの浪人の尻を打ったら、大の男がふっとんだじゃねえかよ」

 野次馬たちは不気味そうにして、ばらばらと散っていった。その段に至って、ようやく握っていた「なにか」がしんかげ流の竹製模擬刀、ふくろ竹刀しないであることに気づいた。

「わたしが、竹刀で……?」

 わけがわからずに立ちつくす菊乃だが、はっと我にかえって身をひるがえした。考えるのはあとだ。今はそれよりも、ひったくりにあった娘のことが心配だった。

「だいじょうぶか」

 娘のもとに取ってかえし、かたわらにしゃがむと、娘は驚いた様子で顔をあげた。

「ゆるしてくれ。ひったくりを捕まえることができなかった」

 つぶらなひとみの愛らしい娘だった。年頃にしては、まげに挿したくしも、柿渋色の小袖も地味ではあったが、素朴で印象がよい。

「追いかけてくれたの……?」

「追いかけたが、取り逃がした。ない。おぬしには気の毒なことをした」

「……おぬし……」

 はたと我にかえる。自分が幼子のなりであることを忘れていた。

「あっ、いやっ、そのっ……お、おねえさん!」

 娘はあつにとられていたが、まゆをキッとつりあげると、「いけません」と声を強くした。

「危ないことをしてはだめよ。こんなに小さな子が。追いつかなくてよかったわ。もしも怒った相手と争いにでもなったらどうするの」

 菊乃は目をぱちくりさせた。自分の荷が盗まれたというのにすぐに菊乃のことを思って優しく𠮟れる娘に、菊乃はほほえむ。

「うむ、わたしが不用心であった。すまぬ」

 娘はなぜか頰を赤らめ、「なんだか男前な子ねえ」と目を白黒させた。

「あなたのお名前は? 私は、ちよ」

「菊乃ともーす」

「菊乃ちゃん」

 おちよは春の花がほころぶように笑い、菊乃はまぶしい思いで目を細めた。

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