第一章①
一
ぱちりと、まばたきをする。
さらに一度、二度、ぱちぱちと目をしばたたかせる。
いとけない。
この娘がおてんばな気性であることは容易に想像がついた。なにしろ、肩口でかぶろに切りそろえた髪はぼさぼさで、頰は駆けずりまわったばかりのように赤く上気していたから。
年の頃は、七つばかりか。
(はて。この顔、どこかで見たような……)
首をかしげる。すると、
(む?)
ほっぺたをつまんでみる。やはり幼子も同じようにする。指に伝わる感触はふにっとやわらかく、心の奥がくるんくるんと躍った。
(むむ?)
じわりと動揺が広がる。今しがた頰をつまんだ己の手を顔の前に掲げた。
その手は、どことなく丸みを帯びていて、小さい。
(これは……私か!?)
菊乃は
「危ねえ! どきやがれ!」
はっと顔をあげると、目と鼻の先に屋根船の
その途端、
(ここは、いったい)
状況が
右往左往するうち、赤
菊乃は意を決して、口を開けた。
「ごしゅじん」
ごしゅじん! 仰天する。自分の声は驚くほど高くて、舌足らずな幼い声だったのだ。
両手で口をふさいで凍りつく菊乃に、主人が
「団子が食いてえんなら、お
「い、いや、おたずねしたいことが、あ、あるのだが……」
菊乃は耳を熱くし、物陰に身を隠したいのをこらえ、なんとか最後まで言いきる。
「ここは、いったい、どこだろうか」
主人は目を丸くし、
「どこって、あのたいそうな橋が
示されたほうに目を向けると、近くに途方もなく立派な橋が架かっていた。荷をたんと積んだ船が太い橋脚の間を通りぬけ、橋の上にも人があふれかえっていた。
両国橋。ということはつまり、ここは
(なぜだ。私は……死んだはず!)
若くして不治の病におかされ、最後は
(昔聞いた怪談に、死者が黄泉がえる話があったが、これがもしやそれだろうか)
人はこの世に未練を残して死ぬと、亡霊となってさまようという。幼い頃、夏になると、仲のよかった女中がこわごわと、それでいて楽しげに話をしてくれた。
菊乃自身はそれを信じるでも信じないでもなかったが、
病を恨まず、宿業を呪わず。ただ、水に沈むように、静かに逝きたかった。
そして、菊乃はそうした。
覚えているのは、障子の隙間から見えた雪の積もる庭。薄日が差す中、雪が音もなく舞いおちるさまはとても美しくて──そこで記憶がとぎれている。
(私には、なにか未練でもあったのか)
武家の女として、潔く死を受けいれた。未練など残しはしなかったはずだ。
「なんだ、迷子か? どっから来たんだい。橋のあっちか、こっちか」
あちらもあちら、黄泉から来たのだ。
と言えるわけもなく、困りはてたときだった。近くで悲鳴が聞こえた。
「誰か! ひったくり……!」
若い娘の声だ。両国橋のたもとで、人々が同じ方向を向くのが見えた。
その瞬間、菊乃はすべての疑問を忘れた。自分がなぜここにいるのかも、なぜ幼子の姿をしているのかも後回しにし、意識を声のほうへと集中させる。
「あ、おい、野次馬なんてよしときな!」
主人が止めるのも聞かず、
「まかせよ!」
軽い。なんて体が軽い。病がちだった生前とはまるでちがう。
橋の先には、人を押しのけながら走る男がふたり。花柄の
「どけ、どけい! 女犬
あれかと思うが、ただのひったくりにしては様子がおかしい。なにせ笑っている。意味のわからないことを叫びながら、荷物を放りあって、まるで遊んでいるようなのだ。
「ゆるせぬ……っ」
菊乃はいっそう足をはやめるが、なかなか思うように景色が進まない。
(子供の体だからか)
焦りに顔を曇らせた瞬間、菊乃の横を誰かが走りぬけていった。
それは着流し姿の男だった。一瞬だし、顔はろくに見えなかったにもかかわらず、それが誰か、菊乃にははっきりとわかった。
息子の善太郎だ。
菊乃はおもわず走る足をゆるめた。
(あんなに大きくなって)
死に別れたとき、善太郎は
「あ」
善太郎がずっこけた。「よもやそこまで」と絶句したくなる勢いで地面にへばりつき、めくれた裾からはふんどしが丸見えになり、周囲の人々から失笑が漏れた。
身を起こした善太郎はひったくりが遠ざかるのを見て、がくりと肩を落とした。どうするのかと思ったら、腕を
怒りの炎が身のうちにわいた。菊乃は無意識に腰に手を伸ばし、帯に差した棒状の「なにか」を
「しゃきっとせぬか、善太郎!」
ずばあん! 猛烈な
いきなり空を飛び、顔から地面に突っこんだ善太郎は、気を動転させて菊乃を振りかえる。その顔を改めて見て、菊乃はさらなる怒りがわきあがってくるのを感じた。
元服はとうに済んだ年頃のようだ。いいや、とうもとう、とっくのとう。顔つきからして三十より下ということはないだろう。立派な
浪人。そんな言葉が脳裏をよぎった。
「なんと情けない姿か。そこへなおれ、きたえなおしてくれる!」
幼子の堂々たる
「よッ、ご浪人。とんだ可愛い師範がいたもんだ!」
善太郎がぎろりと強烈な眼力で野次馬の男をにらむ。男はさあっと青ざめ、「いやあ、仕事仕事」とそそくさ逃げ去っていった。
「なんだ、娘」
立ちあがった善太郎が
「今、何食わぬ顔で立ち去ろうとはしなかったか。ひったくりはどうするのだ。あそこで泣いている娘は、どうす──これっ、どこへ行く!」
無言で去りかけた善太郎は足を止め、筋骨隆々たる肩越しに菊乃を振りかえった。
「いったい何者だ!」
「おぬしの母だ!」
善太郎は
「大人をからかうのはそこまでに──待て。さっき、俺を善太郎と呼んだか」
まじまじと菊乃を見下ろし、ぞっとした様子で身を震わせ、立ち去ろうとする。
「いかん。風邪をぶりかえしたようだ。はやく帰って布団にもぐろう……」
「な……っ、これ、止まるのだ、止まれ……止まらぬかあああ!」
棒状の「なにか」を地面に
菊乃はきょとんとし、人々はぽかんとして、地面に生じた亀裂を見下ろす。
「地割れが起きたぞ、てんぺんちいか! みな無事か!」
人々のそばに駆けよると、なぜだか一斉に後ずさる。さっきは応援してくれた人々が、恐ろしげに菊乃を遠巻きにした。
「天変地異って……おめえが、その竹刀でやったんじゃねえか」
行商人らしき男の言葉に、菊乃は「竹刀?」と首をかしげる。
「さっきだって、あの浪人の尻を打ったら、大の男がふっとんだじゃねえかよ」
野次馬たちは不気味そうにして、ばらばらと散っていった。その段に至って、ようやく握っていた「なにか」が
「わたしが、竹刀で……?」
わけがわからずに立ちつくす菊乃だが、はっと我にかえって身をひるがえした。考えるのはあとだ。今はそれよりも、ひったくりにあった娘のことが心配だった。
「だいじょうぶか」
娘のもとに取ってかえし、かたわらにしゃがむと、娘は驚いた様子で顔をあげた。
「ゆるしてくれ。ひったくりを捕まえることができなかった」
つぶらな
「追いかけてくれたの……?」
「追いかけたが、取り逃がした。
「……おぬし……」
はたと我にかえる。自分が幼子のなりであることを忘れていた。
「あっ、いやっ、そのっ……お、おねえさん!」
娘は
「危ないことをしてはだめよ。こんなに小さな子が。追いつかなくてよかったわ。もしも怒った相手と争いにでもなったらどうするの」
菊乃は目をぱちくりさせた。自分の荷が盗まれたというのにすぐに菊乃のことを思って優しく𠮟れる娘に、菊乃はほほえむ。
「うむ、わたしが不用心であった。すまぬ」
娘はなぜか頰を赤らめ、「なんだか男前な子ねえ」と目を白黒させた。
「あなたのお名前は? 私は、ちよ」
「菊乃ともーす」
「菊乃ちゃん」
おちよは春の花がほころぶように笑い、菊乃は
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