第219話 星那沙夜は意外と年相応っぽさもある

「こう見えて家柄的にそれなりに背負うものがある立場でな。幼少期からさまざまなものを叩き込まれたのだ」

「こう見えてって言うか、普通にそう見えますけどね」

「そして君も知っての通り、その頃の私は自分の気持ち一つすらまともに言えない気弱な女だった」


 そこについては否定できなかった。


 俺の記憶の中にある星那紗夜は、本当に今とは正反対の少女だった。


 ずっと俯いている。ぼそぼそ話して聞き取れない。線も細くとても儚げ。


 例えるなら有木に近いタイプだったはずなのだが、今ではこんなに大人っぽく立派な女性へと成長している。


 分かっているとはいえ、やはり違和感は拭えない。


 まさかこんな、ナイスバディのボスキャラ系お姉さんにまで進化するとは……。


「ある日、己にのしかかる重みに耐えられなくなった私は思わず家から飛び出したことがある。情けなく……逃げ出してしまったのだ」

「小さかったんだし仕方ないでしょ。少なくとも、俺らなんかよりよっぽど大変だったんだろうし」


 以前に別荘で星那さんから話を聞いた感じでは、会長さんたち星那家は相当優秀な人間が揃った家系で、何事も相応のレベルを求められる。


 それに応えるために会長さんなりに努力し続けていたに違いない。


 しかし、誰にだって限界というのは存在する。


 例え『青葉昴』と出会って、あの馬鹿オレに憧れ、自分に自信を持てるようになったとしても、その点は変わらないだろう。


 しんどいものはしんどい。疲れるものは疲れる。つらいものはつらい。それらは不変なのだ。


 周囲からの期待や希望といった『重荷』に耐えることができず、会長さんは逃げ出してしまった…ということか。


 俺の軽いフォローに「ありがとう」と返し、話を続ける。


「なにも考えずにただ歩いて、辿り着いたのは……小さな公園だった。そこで私は──」

「司と出会った、と」


 こくりと会長さんは頷く。


 それが二人の出会い。


 俺も知らない、彼らの出会い。


「彼は私の様子を見てすぐに気が付いたのだろう。目の前の少女は悩んでいるのだと。挫けているのだと」

「まぁ……アイツですからね。小さい頃から他者を見抜く目がとんでもなかったっす」

「細かい事情を一切聞こうとせず、彼は私にそっと寄り添ってくれた」


 まーた知らないところでラブコメしてる……。


 と、言いたいところだが──


 今回ばかりはそうとはいかない。


「彼にだって、があるはずなのに。なにかから逃げ出してきたはずなのに。それらを一切表に出さず、ただ優しく私を気にかけてくれた」


 ……そうだ。それこそが、この話で重要な部分なのだ。

 

 その頃の司は、毎日のように母親から暴力を振るわれていた。


 安息の場所なんて存在しない、地獄のような日々を送っていた。


 もしかしたら、アイツも……会長さんと同じように家から飛び出してきたのかもしれない。少しでも、あの母親から離れるために。


 心も身体もボロボロで、アイツは公園で一人なにを思っていたのだろう。

 

 弱音を吐きたかったのかもしれない。

 誰かの助けを待っていたのかもしれない。


 それでも、アイツは悩むことなく目の前に現れた少女を助ける道を選んだ。


 自分の救済よりも、初対面の相手を救済することを選んだ。


 なにもない振りをして、痛くないふりをして。


 そうして朝陽司は──みんなを助け、支え続けてきた。


 俺はそれを……よく知っている。


 痛みを──与えてきた側なのだから。


「気が付けば私は、名前も知らない男の子に弱音を吐いていた。つらい。逃げ出したい。そんな弱音を」

「……弱音か。目の前の会長さんを見てると、そんな姿全然想像できないすね」

「フフ、そうだろう?」


 とは言ったものの、最初から強い人間なんて存在しない。


 さまざまな経験を経て、揺らぎない自己を形成していく。


 あの会長さんに弱かった時期があったとしても、なにも不思議な話ではなかった。


 というか俺の場合、その姿を実際に見ているわけだし。


「そんな私に彼は言ってくれたよ。逃げたいときは逃げてもいいんだよ──と」

「……」

「言葉だけ聞けば、当たり障りのないことかもしれない。その場しのぎの言葉に聞こえるかもしれない。だが──」


 逃げたいときは、逃げてもいい……。


 会長さんの俺を見る目は……真剣だった。



「他でもないがその言葉を口にする重さを──キミには理解できるだろう?」



 思わずグッと歯を噛みしめる。段ボールを抱える手に力が入る。


 司──


 お前は……逃げたくても逃げられなかった側だろうが。


 逃げることを許されなかった側だろうが。


 自分が我慢すればいい。

 自分が言わなければいい。

 自分が抑えれば誰も悲しまない。


 誰にも明かすことなく、すべて自分だけで抱え込んで。溜め込んで。


 逃げ出すという選択をしなかった。いや、できなかった。


 そんな司が『逃げてもいい』なんて、並の感情で言えるわけがない。


 本気で会長さんを助けたかったのだ。救いたかったのだ。


 それに司は……会長さんに言うと同時に、自分自身にも言っていたのかもしれない。


「続いて彼は約束してくれた。私が本当に逃げ出したくなったら助けてくれる、と」

「……んなラブコメみたいな」

「子供同士の薄っぺらい約束だろう? それでも、その約束があったから私はどんなにつらくても前を向けた。歩き続けることができた」


 それが……幼き星那紗夜を支えていた大切な約束。


 互いに名も知らない少年と少女が交わした、薄く……それでいてなによりも固い約束。


「落ち込む私を元気付けるために、彼なりに精一杯考えたのだろう。近くに咲いていた花を摘み、私にくれたのだ」

「……そんなことがあったんですね。初耳です」


 当時のことを知らない俺には、会長さんの気持ちは深く理解することはできないけれど。


 それでも会長さんにとって、今でも忘れられない大切な思い出だということは分かる。


 このことを──司は覚えているのだろうか。

 

 アイツはそのとき、これまでの人生でもっともつらかった時期だ。もっとも痛みを抱えていた時期だ。


 嫌な記憶とともに忘れていても……なにもおかしくはない。


 俺としては、あの頃の記憶なんてとっとと消して楽になってほしい気持ちもある。


 自分だって逃げ出したくなるくらい、苦しい毎日を送っていたのに。


 初対面の女の子一人を励ますためにそんなことをするとは――


 やはり、朝陽司はどこまでいっても朝陽司というわけだ。


 だからこそ俺は……アイツが心の底から笑えているこの現実いまが本当に嬉しい。嬉しくてたまらない。


「私はその花を栞にして、宝物にした。栞を見れば、いつでも彼を思い出せる。私を励まし、私に逃げる選択肢を与えくれた彼を」

「そりゃ宝物になるわけだわ」


 俺がその栞に触ろうとしたときに拒絶したのも頷ける。


 彼女にとって『本物』の宝物を『紛い物』の俺なんかに触られたくないわな。


 俺がこの人の立場でも同じような反応をするだろう。


「──それに、怖い気持ちや不安な気持ちに支配されそうになったときは……キミのことを思い出した。胸を打たれ、憧れたキミを」


 優しく、穏やかな声音。


 俺たちのことを話す会長さんの表情は、楽しそうで……そして幸せそうだった。


「キミを思い出せば、堂々と胸を張れる。足の震えが止まる。恐れずに一歩前に踏み出せる」

「いやはや……司はともかく、そっちの男は忘れてもいいんじゃないですかね」

「いいや忘れない。きっと、永遠に覚えているだろう。……フフ、重いだろう?」


 あぁ、重いよ。

 とんでもなく、な。


 真っ直ぐで、純粋で、眩しくて──


 あんたは、どうしようもなく重い。


 俺みたいな人間が背負うには……あまりにも大きすぎる想いだよ。


青葉昴キミは私に大切な『言葉』を、朝陽司は私に大切な『物』をくれた。優劣なんて付けられない、私にとってどちらも大切なプレゼントだよ」


 最後まで星那紗夜らしく、自信げにフフっと笑って会長さんは視線を前に戻した。


 長々と語ることなく、ただ事実だけを残して。


 ……どうして、会長さんはここまで話してくれたのだろう。


 自分にとって大切な話を、壊したいと思っている俺に。あの頃の『オレ』じゃない『俺』に。


 この人の目指すべき場所。この人の道。この人の感情。


 まだまだ分からないことばかりで――


 どこか、もどかしかった。


「少し話が逸れたな。つまり、キミがあげたいと思ったものをあげればいい。それこそが、彼女にとって一番のプレゼントになるはずだ」


 俺があげたいと思ったもの……。


 司が子供なりに必死に悩んで、会長さんに花をあげたように。


 自分があげたい。


 ただ、そんな一心。


「勝手に思って、勝手にあげる。『勝手』はキミの得意分野だろう?」

「……そっすね」


 一人の女子から深く想いを寄せられることなんて、これまで経験したことがなかった。

 

 だからこそ、余計に考えてしまった部分はある。


 俺はあの子の気持ちに応えることはできないから。


 同じ場所に立つことはできないから。


 そういった気持ちも邪魔していたのかもしれない。


 ……そう、だよな。

 それこそ勝手でいいんだよな。


 なぜならそれが……俺なのだから。


 最後まで、俺らしくいこうじゃないの。


「助かりました、会長さん。あんたに相談してよかったっす」

「気にするな。言っただろう? 後輩の頼みを聞くのも先輩の務めだとな」

「頼りになる先輩っすよマジで。今日、会長さんと話せて良かったです」

「……そ、そうか」


 ふいっと会長さんが顔を背けた。


「いきなりそう素直になられるのも……恥ずかしいというか……照れるというか……変な感じがするな」

「おっ? なんすか照れてるんですか~? 照れる星那ちゃんも可愛いね~!」

「――昴」

「はいマジですんません調子に乗りましたぁ!」


 やべぇからかい過ぎたか?


 会長さんはこちら勢いよく顔を向け、真剣な表情を浮かべる。


 その迫真さに、思わず足を止めてしまった。


 立ち止まり、向かい合う俺たち。




「――もう一度、星那ちゃんと呼んでくれ」




 一瞬、時が止まった。



「は……?」

「キミは私を『会長さん』と呼ぶから、それ以外の呼び方が新鮮なのだ……! さぁ、呼ぶのだ! 星那ちゃんと! あるいは沙夜ちゃんか沙夜さんと!」

「おい。しれっと自分の欲望混ぜてんじゃねぇよ」

「む。呼ばなきゃキミの成績を落とす。生徒会長権限でな」

「だから生徒会長の権限強すぎるだろ。アニメじゃねぇんだぞ」


 欲望だだ洩れの要求にツッコミを入れるものの、会長さんは引く気ゼロの様子。


 ただジッとこちらを見つめ、俺を逃がす気は一切ないようで……。


 ……え、てかマジで成績落とされんの俺? いやいや流石に現実の生徒会長にそんな権限はあるわけないって分かってるけどさ……。


 えぇ……。


 『早く私を名前で呼べ!』とその表情がしっかり物語っている。


 なんならゴゴゴゴと威圧感さえ放っている。まるでどこかの妹様を彷彿とさせる。


 なにも知らない人が見れば、生徒会長が後輩を恐喝してる現場だぞこれ。


「丁重にお断りいたします」


 俺は視線を外し、気にせずに歩き出す。


「昴……」


 後ろから聞こえてくるのは、会長さんの落ち込んだ声。


 本当にしょんぼりしているのか、声に元気がなかった。


 なかなか聞くことのない、会長さんの声。


 ……。


 ――あぁ、もう! めんどくせぇ!


 俺は大きくため息をついて、後ろを振り返った。


 視線の先には残念そうに肩を落とす会長さんの姿。


「ほら、なにしてんすか。段ボール重いんですからさっさと行きますよ」


 ……この人には今日、結果的に相談に乗ってもらったからな。


 それに、司との話も聞かせてもらった。


 その『借り』を返すためだと思えば……。









 そう、借りを返すだけだ。他意はない。



「……!!!!」


 驚いたように顔を上げた会長さんの表情は、パァっと花が咲くかのようにとても明るいもので――


「ああ! そうだな! 早く運ぶとしよう!」


 声も足取りも、途端に上機嫌になった。


 呼び方ひとつでこんなに変わるものなのかね……。


「フフ……フフフ……」


 ……なんか、うん。


 クールで大人っぽい、どんなときにも冷静な頼れるお姉さんキャラ。


 それこそが星那沙夜だったはずなのに……。


 いつからかそれが崩れていってしまっていた。悲しいぜ……ぐすんぐすん。


 ……まぁ、今のこの人も十分面白いからこれはこれでいいけどさ。怖いけど。マジで怖いけど。


「昴」

「今度はなんすか」

「……も、もう一回沙夜さんと――」

「却下。ほら行くぞ、会長さん」

「くっ……! 録音して目覚ましに設定する計画が……!」

「漏れてる漏れてる。計画漏れまくってるから。怖いわ」


 なんだかんだで、この人も年相応の姿を見せることがある。


 ほかの生徒に見せない姿や、普段は抑えている感情を俺たちには見せてくれることが多い。


 そういう意味では、特別感を感じるかもしれないな。


 お互いの道。お互いの夢。

 お互いの望むこと。お互いに向ける感情。


 それら『細かしい事情』をすべて取っ払ったとして――


 ただの青葉昴と、ただの星那沙夜で考えたとき。


 もっとも気が合う相手は――




「私が生徒会長じゃなくなったらどう呼ぶのだ?」

「さぁ。元会長さん、とかじゃないですかね」

「………………」

「コラ。あからさまに不満げにしない。そっぽ向かない。表情に出まくってますからね?」





 多分、この人なんだろうなって。




 なんとなく、思ったんだ。

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