夕蝉
宇海巴
夕蝉
夕蝉
夕暮れの廊下に足音が響く。
夏の蝉の声を聴く余裕もなく、健二は走っている。
廊下の一番奥の扉の前で立ち止まり、膝に両手を置いて息を整えた。汗が床にぽたぽたと落ちた。
背筋を整えて深呼吸。蝉が鳴いている。
キシキシと鳴る古い扉を開けると、もわっと絵の具の匂いが彼を包んだ。
「あ、ご苦労様」
健二は返事を忘れて思わず見惚れていた。毎度のことだ。
「明日花さん、これで合ってますか」
「うん。それ。よく見つけたね」
手に持っていたキャンバスを明日花さんに見せると、彼女はゆっくりと微笑んで隣
に座るよう促した。
健二は胸が躍るような気持ちで新しいキャンバスを部屋の隅に置き、恐る恐る隣のパイプ椅子に腰掛けて色の塗られていくキャンバスを見た。レモンイエローにライト グリーンをまだらにまぜて、起伏を残しながら白いキャンバスに落としていく。 彼女は向日葵を描いているらしかった。「向日葵ですか?」と尋ねると、「ヒマワ リ!」と嬉しそうに答えてくれた。絵の具を乗せる彼女の茶髪が夕日を反射して光っ ている。輪郭がぼやけてなんとなく儚い。すっと伸びた鼻の先にどうやってついたの かわからない茶色の絵の具がついていて、健二は笑いそうになるのを必死にこらえた。
彼女の絵が完成されていくのを見ているこの時間が好きだ。 美術室は去年美術部が廃部になってから使い手がいなくなった。明日花さんはこの 学校のOGだが、絵を描く“アトリエ”を探していたところに元美術部顧問から「使ってくれないか」と話があったそうだ。
部屋は作品で埋め尽くされていて、窓を開けるとメモやら道具やらが飛び交うので 締め切られており、そのせいで圧迫感を感じる散らかった空間になってしまった。け れど健二にとっては別の意味で呼吸が苦しい場所でもあった。
「できた!見て、見て!けんじ!」
明日花さんがキャンバスを持って立ち上がり、満面の笑みをこちらに向けた。窓を背に立っている彼女は、夕空に浮かぶオレンジ色の雲を背中に生やした天使のように思われた。
満足げな顔は、健二が最も好きな彼女の表情だ。
「すごいです...素敵です」
「ほんとか!」
「はい。とても」
動悸が鳴り止まない健二は、彼女に悟られないように顔の全筋肉を駆使して落ち着いた笑顔を浮かべた。
彼女は鼻歌を歌いながらその「ヒマワリ」の絵を部屋の隅の棚まで持っていき、一 番上に立て掛けた。まるで花瓶に花を飾ったように、その絵はお淑やかな存在感を持っ ていた。くっきりと色彩を放つ黄色の花びらが、落ちようとしている太陽のオレンジ
とよく似合っていた。
「けんじ、おいで」
明日花さんが窓辺からこちらを手招きしたので、健二は引っ張られるように彼女の隣に立った。
彼女はゆっくりと深呼吸をして、窓を開けた。
一瞬のことだった。
大きく風が鳴って、二人は夏の風に包まれた。 その風は力強く二人の髪をなび かせ、部屋に押し入り、作品たちも道具たちも全てを乗せて巻き込んで、部屋をめちゃくちゃにした後外へと帰っていった。
開いた窓から外を見ていた健二は、後ろを振り返ることが恐ろしかった。それに、 なぜ彼女が突然窓を開けたのか分からず、茫然としていた。 答えを求める気持ちで彼女の方を見ると、彼女はまだ外を見たまま、静かに涙を流していた。
「最期の作品なんだ」
夕日が落ちた。
蝉はもう鳴いていなかった。
健二は耳を疑った。
「どういうことですか」
「明日から、入院するんだ。手術がある」
そう言って彼女はこちらに笑顔を見せた。安心させようとしたのだろう。絵と違って下手すぎる笑顔だった。
彼女には高2の時に発症した持病があった。国内では症例が少ない稀な病気であっ たが、前向きな彼女は懸命に闘病し、ここ2年は症状が落ち着いていた。健二は出会った頃にこの話を聞いていた。
「最期って...駄目ですよ...そんなこと言っちゃあ。手術が失敗するって決まったわけではないじゃないですか...」
明日花さんはにこにこと笑顔を薄く浮かべるだけだった。健二にも本当はわかって いた。この手術はきっと“賭け”だ。うまくいく保証は少ないのだろう。それくらい重たい病気だ。
彼女は涙をぬぐって窓を閉めた。
「あ〜あ、片付け大変だな、こりゃあ」
散らかした当人が何を言ってるんですか、と言う余裕もなく、健二は覚悟を決めたらしい彼女にかける言葉を探していた。
「けんじ、ありがとね」
「...え?」
「これ、キャンバス」
「ああ...はい...全然」
新しいキャンバスなんか必要なかったはずだ。ではなぜ買いに行かせたのだろうか。
もう考える余裕もなかった。
片付けをする様子もない彼女の背中を見て覚悟を決めた。考えたって仕方がない。
彼女は覚悟を決めた。ならば、成功を応援する他に何をすることがあろうか。
「上手くいきますよ」
「そうか?あの医者、顔まっさおだったけど」
健二が笑うと、彼女も笑った。
上手くいくといいな、と思った。 「ほら、片付けしますよ。明日にはもう入院なんでしょう。あっ、入院の準備は終わってるんですか?」
「んん、終わってない...」
「こら!」
ごめんごめん、と彼女は笑った。
部屋の隅では、せっかく完成したヒマワリの絵の上に茶色の絵の具がどっぷりと落ちていた。
これが明日花さんと過ごした最後の夏だった。
夕蝉 宇海巴 @umitomoe
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