二十人目 騒音
こつ、こつ、こつ、と何かを叩くような、杖をつくような音が聞こえてくる。
それは上下左右から聞こえてくるのだそうだ。
最初のうちは気にならなかったが、何日か続くと気になってしまう。その人は管理会社に相談したが、改善は見られなかった。
どうやら音のありかが全く分からないらしい。
その人の住むところは集合住宅であるが、上下左右の部屋に人が住んでいないのだ。それを聞いた時、その人は管理会社からの説明に幽霊ではないか、と青ざめたが、続く言葉を聞いて安堵した。
集合住宅は予期せぬ場所から音が伝わることがあるのだそうだ。
上の階の騒音がうるさいと思えば、実際の騒音の元は下の階だった、斜め向かいの2階上だった、とか上の階の人ではないことも多いらしい。
また、配管から外の音を拾い、伝って届くこともあるらしく、集合住宅の中の人とは一概に言えないとのことだった。
その人はそういった説明を聞いて安堵したものの、根本的な解決はしていないと嘆いた。
こつ、こつ、こつ、と何かを叩き、杖をつくような音は絶えず、聞こえてくるからだ。
物音というのは一瞬だから、その時だから、お互い様だね、で許せるのであって、ずっと聞こえるのでは気が変になる、とその人は言った。
どうにかしてやりたかったが、慰めることしかできない。その人の気を紛らわす為にノイズキャンセリングイヤフォンをプレゼントした。
それでもやはり一度気になってしまった音はどうにもならないらしく、一時的な解決にしかならなかったらしい。ただ、その気持ちが嬉しい、とその人は顔色の悪いまま、微笑んだ。
だが、ある時から聞こえなくなったらしい。
上下左右に人が住み始めた時からだそうだ。
それはもう、不気味な程にぴたりと止んだらしい。だから上の階の子供の夜泣きも気にならなかった。むしろ、あの謎の音よりはいい、と喜んでいた。
しばらくは穏やかな日々が続いていたそうだ。
そこから何年経っただろうか。
私もその人の話をすっかりと忘れていた。その人に久々に会わないか、と言われて私はとある喫茶店で待ち合わせをした。
久々に会ったその人は綺麗な身なりであったが、どこか色彩がくすんでいるような、異様な雰囲気をまとっていた。
話を聞くと、ここの所、騒音に悩まされているらしい。
それは以前、聞いた音と同じであるらしい。それも上から聞こえる為に上の階の住人だと思っていたが、どうやら違う。管理会社に苦情を入れた所、音が聞こえている時間帯に上の人は不在とのことであった。その人は顔を覆って、参ったよ、と呟いた。
管理会社も困っている様子らしい。何故かというと、その音がその人の部屋から聞こえてくるという苦情が前々からあったのだそうだ。
しかし、その人は音の出る心当たりが全くない。むしろこちらが騒音に悩まされているのに、音の出所だと疑われている。たまったものではない、とその人は項垂れている。
私は気になってその人の家にお邪魔した。
日当たりのいい部屋だった。
それでいて、不思議と音のよく通る部屋だった。
私はその人の部屋をしばらく眺めていた。
すると、こつ、こつ、こつ、と音が聞こえてきた。
この音だよ、とその人は言った。
この音がずっと聞こえてくるのだと言うその人の顔を、私は見ることが出来なかった。
何故、誰も気づかなかったのか、分からなかった。
音は、その人の部屋から聞こえている。
そして。
私はその後、その人に引っ越しをすすめた。
だが、その人は引っ越すことを考えていないのだと言う。
あれだけ音に悩まされても、あの部屋がいいと言うのだ。
それなら、と私はそれ以上、引っ越すことをすすめなかった。
帰り際、私はその人の住む集合住宅を見た。その人は、これからも音に悩まされるのだろう。
私はその人の部屋の片隅にうごめく黒いものを見た。それは小さな手を伸ばして壁を叩いた。
こつ、こつ、こつ、と音が聞こえる。
家を揺らすことも鳴らすこともない。ただ、爪で家を密かに叩いている。
あれらがいる限り、この集合住宅の音はずっと、消えることはない。
こつ、こつ、こつ。
あれは住人の顔色を伺いながら、おそるおそる叩くような音だった。
それは、家鳴のひそかな気遣いのように私は思われた。
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