十八人目 雪女
――私が雪国に嫁いだ時のことです。あの頃の私はなにも分からなくて、ただ、夫の言うことをはいはい聞きながら日々を過ごしておりました。
でも嫁いだ家の人たちは意地悪で……。一度もお腹いっぱい食べたことも、熱いお風呂に入れたこともありません。
夫は他に好いた人がいたのに反対され別れさせられ、私のことを好いていませんでしたから……。
ことあることにその人の名を出すのです。あれは良い女だった、と何度も私を詰るのです。
褒められたことなんて一度もありませんでしたよ。
夫からも義父母からも、ただ、ただ、責められるばかりの日々を過ごしておりました。
その年は雪の深い日で……薪が足りなかったのですね。取ってこい、と家から追い出されたのです。
薪を使う人なら分かるけども、雪の降る中で薪を取っても湿気って使い物にならないの。
ただ、意地悪の為に私は追い出されました。
上着と手袋もないまま追い出されて……このまま、死んでしまおうかと山に入りました。
膝まである雪の道を歩くんです。靴も普通の靴でしたから、中にどんどん雪が入って、足の感覚はなくなりました。
目の前は淡くぼやけて、視界が狭まって、息をする度に肺に突き刺すような痛みを感じながら、私はここで死ぬのだと思いました。
でも、ああ、やっと死ねる。そう思ったのです。
その時のことでした。
冷たくも柔い風が頬を撫でたかと思えば、まるで、母親が幼い子どもの頬を包むように、私は冷たい何かに頬を包み込まれていました。
目の前はただ白い雪が吹雪いていて、私は不思議な感覚を前にゆっくりと目を閉じたんです。
次に目が覚めた時、そこは暖かい部屋の中でした。囲炉裏の近くの、畳に敷かれた布団の上に私は寝かされていて、上半身を起こすと、いつもの服ではなく上等な着物を身につけておりました。
私は訳も分からず周囲を見回しました。
すると、開け放たれたままの障子の外、縁側に女性が座っていたんです。ゆっくりと降る雪を背景に正座する女性の横姿はまるで、一枚の絵画のようでした。
その横顔が息を呑むほどに美しかった……。
私が見惚れていると女性は顔をこちらに向けて、微笑みました。
起きましたか? 囲炉裏に鍋がある。食べると良い、とその人は言いました。
私は驚きながらも布団から出て囲炉裏の鍋の蓋を、布巾を使って取りました。
……綺麗な鍋でした。雪の積もった具沢山の鍋でした。
私はいつの間にか傍にある器とお玉を手にして、鍋の中身をよそいました。
そしてこれまたいつの間にか手にしていた箸で具材をつかむと、口に入れて食べました。
あまりの熱さに火傷しましたけど……美味しかった。それからは無我夢中で食べました。
あんなに温かくて、あんなに美味しい鍋を、久方ぶりに食べましたから……。
目の前がじわじわと滲んで、嗚咽を漏らしながら食べたあの日の鍋が、私が死ぬ前に食べたいものになりました。
私はそれから、女性と共に過ごしました。
掃除に洗濯、料理……決して一緒には食べられませんでしたけど……本当に幸せな日々でした。
そんな日々を一年過ごしたのでしょうね。
その日も雪の深い日で、女性は私に家で待つように言って出掛けたのです。
私は女性の帰りを待つ間、お風呂を用意して、お料理をして……女性の着物を繕いました。
そうして夜近くなる頃、表でがなる声が聞こえたのです。
夫と、その村の人たちでした。
私は、青ざめました。
部屋に勝手に入った夫は冷たくなった料理を前にしばらく立ち尽くしたかと思えば、私の髪をつかんで、外に引きずり出しました。
そうして私を何度も殴りました。白い雪の上に落とされた血を眺めながら……引きずられるようにして村に連れ戻されました。
夫と村の人たちの罵声を聞きながら、ああ、夢は終わったのだ、と思いました。
村に戻った私は、監禁されました。
こんなことならあの日、死んでしまえたら良かった。そう思ったのです。
その日の夜でした。
断末魔の声で私は目が覚めました。
でも閉じ込められていたので何が起きていたのか分かりませんでした。ただ、村人の悲鳴と泣き声、木材が割れて爆ぜる音だけが狭い部屋の中に響いておりました。
やがて消え入るような声が聞こえたとき、部屋の鍵が開く音がしました。
扉が開いて、中に入ってきたのは、血だらけの夫でした。肩は爪で裂かれ、左手首から下がなくなっていました。
夫は私を見て、歯のなくなった口で言いました。
――お前を、嫁に貰わなきゃ良かった。
夫はその場に崩れ落ち、息絶えました。
私は死んだ夫を前に安堵していました。
酷いと思われても良い。もう二度と私は……殴られずに済むのだと、心から安堵しました。
顔をあげると、女性が立っていました。
美しい顔を苦痛に歪ませた女性は私を見てふう、と息を吐くと、冷たく柔い手で私の頬を包みました。それはあの日、私の頬を包んだ冷たい何かと同じでした。
そうして女性は私を抱き締めて、幼子のように泣きました。その声を聞いて私は、辛かったあの日々が報われた気がして、女性の背中に手を回して、同じように泣きました。
女性の冷たく柔らかい手に頭を何度も撫でられて、寒さに意識が遠退き始めた頃、女性は耳元でささやきました。
――これで、さようならね。
私は首を降っていました。
行かないで。傍にいて。ひとりにしないでと何度も口にしたのを覚えています。
でも女性は私を最後に強く抱き締めると、そうっと頬に触れました。
――このことは、他言無用。あなたは、どうか、生きて。
そうして笑んだ女性の顔は、とても美しいものでした。
美しい笑みを前に意識を失った私が目を冷ました時は、隣町の病院のベッドの上でした。
……村は壊滅だったそうです。原因は熊でした。冬眠しそこねた熊の獲物を取って帰ってしまった為に、熊が村に来て、村の人たちを襲ったのだろうということでした。
本当に酷いあり様だったようです。白い雪を染めた赤が目に焼き付く程の……。
私は夫を目の前で亡くしたことによる記憶喪失と診断されて、病院の紹介でとある建設の事務所で働くことになりました。
それで、今の夫に会って、子に恵まれて……そして、孫に恵まれました。
本当に幸せな日々を過ごせました。
ええ。幸せよ。本当に幸せな日々を過ごせたの……。そのことに偽りはないわ。本当に……。
だから、もう、良いかしら……。
私、生きたわ。十分に生きたわ……。この体、もう動かないのよ。外があんなに深い雪になっても……あの人を探しに外に行けないの。
そうね。そうなの。ごめんなさい。本当にごめんなさい。あの人は他言無用と確かに言いました。
言えばどうなるか……分かっているの。
でも、もう良いでしょう。
娘と息子は手を離れ、夫を見送った。だから、もう良いでしょう。
私、待っているの……。あの人のことを。
今度はきっと、私を連れて行ってくれるでしょう。そうしたら、もう、ひとりにしないで。冷たく柔い手で……どうか、私に触れて。最後まで、ずっと……。
その日、病院で一人の女性が行方不明になった。
ベッドの上には冷たく小さな氷がひとつ残され、それはいつまでも溶けずに残ったという。
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