十一人目 雨の旅館
その日はとても雨の酷い日だったそうだ。五月雨なんて、生易しいものではない。死者も出たという豪雨の日だった。
旅館には雨に濡れたお客様が駆け込み寺のように押しかけ、泊まっていった。とても忙しい夜だった。
お客様の食事の用意、お布団の用意、ひっきりなしにやってくるお客様の相手――。
部屋が空いていようと予約した人以外は入れない旅館であったが、女将は雨から逃げるように自分の旅館に来たお客様を追い出すようなことはしなかった。全てのお客様を受け入れた。顔も覚えられないほど、沢山のお客様が旅館に入ってきた。
その中でも一人。
たった一人だけ。
従業員全てが覚えていたお客様が居た。
そのお客様は、それは、それは、美しい容貌をしたお客様だったのだ。
この世ならざる美しさというものがあるのならば、そうなのだろう、と言われる程、美しい容貌をしたお客様だったらしい。
しかし、女将だけがそのお客様を覚えてはいなかった。
従業員達は自分の見たものを疑い始めた。
何故なら、女将は、一度見たら人の顔を忘れない人だったからだ。そんな女将が覚えていない。いや、見ていないと言う。
従業員の一人は嘘でしょう、と詰め寄った。あんなに美しい顔をした人を、覚えていないなんてありえない、と。女将は怪訝な顔をして、何を馬鹿なことを言っているの。さっさと次のお客様を案内する用意をしなさい、と叱るだけだった。
他の従業員が冗談だろうと女将に何度も確認したが、返ってくる答えが同じと知るや、とうとう、怖くなってしまった。
私たちだけしか見えていないのか――。
恐ろしくなった従業員の一人が、他のお客様に居場所を聞くつもりでそれとなく、確認した。すると、お客様は「ああ、あの美しい方。いらっしゃいましたよ。確か、大広間の方に」と返ってきた。
従業員は安堵したが、何故、女将が覚えていないのか、分からなかった。一人だけ、特別に覚えていないなんてことはないだろう。美しい容貌だから、尚更だ――。
そこで、美しい容貌をしたお客様の居ると思われる大広間に行くと、確かに居る。他のお客様と笑っている。
そこに女将が通りかかった。
「女将さん。あそこです。あそこにいる美青年ですよ」
従業員は先程、話題に出した美しい容貌をした人のことを女将に伝えた。
「……ああ。なんだい。まだ、先程の話をしていたのかい。美青年って騒ぐけどね、騒ぐほどでもないだろう。お客様はお客様だ。全く。そんなことをしている暇があったら、手を動かしな」
女将に叱られた従業員は安堵した。女将が覚えていなかったのではなく、認識が違うだけで覚えていたことに安堵したのだ。
幽霊ではない――。
安堵した従業員は他の人にこのことを伝えようと、駆け出した。
そして全員が安堵した。
「しっかし、あれだね。女将さん。お客様はあくまで、お客様なんだね。私達は見習わないとね」
従業員の一人が言って、全員が恥ずかしくなった。ひっきりなしにやって来るお客様。顔も名前も覚えられないほどやってくるお客様の中であのお客様だけを覚えていた。美しいという理由だけで。
いたたまれないほど、恥ずかしくなった。だけど、恥ずかしがる時間はないから、報告を聞くや全員、一斉に手を動かした。
ところが、その後のことである。
「ねえ。可笑しいと思わない? お客様の様子。いえ。お客様をけなしているわけではないのよ。先程、廊下でお客様と、すれ違ったのだけど……」
説明できない不気味な雰囲気が漂っている――。
それは一人だけではなかった。何人かのお客様の様子がどこかおかしい。
すれ違う時、挨拶をするのだが、返事が返って来ない。それだけなら、まだ、いい。すれ違ったお客様を訝しんで振り返った。それがいけなかったのかもしれない。
いないのだ。
それが何回もある。
お客様の話し声は襖の向こうで聞こえてくる。時折、笑い声が雨音に紛れて聞こえてくる。橙色の灯りの点る薄暗い廊下の奥で、すれ違ったお客様の姿が見えない。
しかし、忙しい今、足を止めるわけにはいかないと前を向くと、すれ違った筈のお客様の姿がある。
――やあ。こんばんは。すいませんね。突然の雨で困っていた所、助かりましたよ。
そう言って、お客様は廊下を歩く。振り返る。今度は確かにすれ違ったお客様の姿がある。
膳を持つ手に震えが走る。
それが何度もあった。
先程、すれ違って挨拶をしたお客様が、前方から現れて挨拶をしてすれ違う。
充分におかしいのだが、それが何なのか分からない。
姿形の似ているお客様を間違えたのだろうと思ったが、違う。流石に、先程すれ違ったお客様の顔は覚えていたからだ。
挨拶をする。
返事がない。
従業員が振り返る。
薄暗い廊下の先には誰も居ない。
前を向く。
するとそのお客様が居る。
挨拶を返して、すれ違う――。
いやな恐ろしさだった。
得体の知れない恐ろしさが足元から満ちていく。
だが、その話はそこで終わった。
忙しかったからだ。
忙しいのは救いだ。
雨は日付が変わっても朝方まで降り続けていた。
激しい豪雨の日から幾日が過ぎて、従業員の一人が新聞を見て、あっ、と声を上げた。
「どうしたの?」
「こ……これ……」
死者十一人――。
あの大雨の日。死者が十一人出たと写真と共にあった。
しかし、従業員達が声を上げたのはそこではない。その十一人はあの豪雨の日にすれ違った筈のお客様だったのだ。
途端、全員が青ざめた。
なら、あそこですれ違った者達は――。
その場が恐怖に満たされた時、手を叩く音がした。
女将である。
「忘れな」
たった一言。それで十分だった。そうしてこのお話はこれでおしまい、の筈だった。
誰もが忘れかけた頃、また雨の日は来た。あの頃とは違うが、六人程の雨宿りのお客様を女将は受け入れた。
そして、その中の美しい容貌をしたお客様に従業員の目は釘つけになった。
しかし、女将は覚えていない。
ちょっと待って、と従業員の一人は言った。
前もこんなこと、なかったか、と。
その後のことである。
廊下でお客様とすれ違う。
挨拶をする。
返事は返ってこない。
思わず振り返ると姿はない。
そこで思い出してしまった。やはり、前を向くと先程、すれ違ったお客様がにこやかに声をかける。
それが従業員全員合わせると五人であった。
あまりにも不気味なので女将に相談したかったが、その日も忙しくなり、話は終わってしまった。
勿論、その日は何も起きなかった。
だから女将に相談するのを忘れてしまった。
だが、数日後、新聞を見て従業員の一人が声をあげた。
近くで事故が起きたらしい。死者五人とある。従業員達はおそるおそる写真を見た。
それはやはり、あの日、すれ違ったお客様であった。
青ざめていると女将が手を叩きながらこちらに近づいてきた。
そして問いかけた。
「あんた達、この間の雨の日、予約なしで受け入れたお客様の中でこの世のものではない程に美しい容貌をしたお客様のこと、見えているかい?」
従業員達は驚いたが全員、頷いた。
すると女将はぽつりと言った。
「なら、もう雨の日は駄目だね」
以来、女将は雨の日の旅館に雨宿りに来た人を受け入れることはなくなった。
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