春にさよなら
かしこまりこ
第1話
藤井さんと、オーストラリアのシドニーへ行く。
藤井さんは、三年調理師として働いたレストランの雇われ店長だ。シドニー店舗が出ることが決まったとき、シドニー店の店長として藤井さんが選ばれたらしい。
「ナッちゃん、一緒に来ない?」と誘われたのが半年前のこと。店長と一緒に調理師を一人、日本から連れて行くことが決まって、藤井さんは私を選んだ。
「独身で、そこそこ経験があるから」という理由だったら、内田さんのほうが相応しかったんじゃないか……とか。いやいや、もっと若いジョージくんのほうがよかったかも……とか。
もしかしたら、別に理由があるのかもしれない……とか。
ウジウジといろんなことを考えたけど、結局なにも聞かずに「行きます」と承諾してしまった。ビザもパスポートも無事に取れたし、荷造りも済んで、来週出発だ。英会話の練習も一応している。バカだから、全然頭に入らないんだけど。
(ねえ、ハル、どう思う?)
桜の木の前で、幼馴染のハルに話しかけている。どう思うもなにも、もう行くことは決まってるんだけど。この後に及んで、少し怖いのかもしれない。いや、実は内心ガクブルである。
ハルとはもう十五年も会ってない。この桜の木を見るのも十五年ぶりだ。
「ナツ」
急に名前を呼ばれた気がして、あたりを見回したけど、誰もいない。青々と茂る葉桜が眼に眩しい。こんなにきれいな場所だったのか、と改めて深呼吸をする。
桜の木がぐるりと敷地を囲んでいて、ブランコや滑り台などの遊具があり、奥のほうでは小川が流れている。
春はお花見で賑わったし、夏は夏祭りの屋台が並んだ。学校帰りに毎日のようにハルと遊んだ場所なのに、大人になって改めて訪ねてみると、まるで初めて来た場所のように感じる。
(ハル)
心の中で呼んで見た。子どものころ、毎日口にしていた名前。
昨晩、久しぶりにハルの夢を見た。小学校を卒業して以来会っていないので、当然のことながら、夢で見るハルも年を取らない。
夢から覚めたとき、十二歳まで住んでいた町を訪ねてみようと思い立った。一昨日で仕事納めで、シドニーに出発する日まで一週間のお休みがもらえたのだけど、引っ越しの準備はほぼ終わっているので、あまりやることがない。
生きていると、たまにこういうことがある。いろんなことが重なって、十五年ぶりに、故郷をふらりと訪ねに行くだとか、そういうことが。
来てみたのはいいけど、ハルの連絡先も知らない。ハルが住んでた場所は覚えているけど、今そこにハルが住んでいるかはわからない。
突然、訪ねて行ったら、ハルのご両親はどう思うだろう。クリーニング屋さんをしてたけど、今もあるのかな。ハルに会えたら、何て言えばいいんだろう。
桜の木についているキズを見ながら、またウジウジと考えている。ハルと私の身長を刻んだ跡。ハルは背が低いのが悩みで、私は小学生のころから160センチ以上あったから、並んで歩くと全くの凸凹コンビだった。
小学校一年生から、一年に一回刻んでいたその跡は、私のぶんは六年生のときで止まっている。
ハルの分を数える。一つ、二つ、三つ……。全部で十個、いや、十一? 身長がもう止まってしまったからか、同じ高さ場所に数個、重なるように刻んだ跡がある。
全身の肌がブワッと泡立った。
(ハル)
私がこの町を出てった後も、ハルはこの木に身長を刻み続けていたのか。
私は、ずっとハルのことを覚えていたけど、ハルは、私のことなんてすぐに忘れてしまうだろうと思っていた。
「ナツ!」
また私を呼ぶ声がした気がして、振り向くと、小柄な女性が立っていた。
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