第五話 親友の傷跡

 美香の十四回目の誕生日は、廉斗にとっても忘れられない日になった。

 当時、誕生日ケーキが準備されていないにもかかわらず、消えた炎があった。廉斗はその炎を目にしていない。代わりに耳で確認できたのは、炎が轟々ごうごうと燃える大きな音と、すすり泣く家族と親戚たちの声だった。

 どうしたって忘れられない。閉じられた大きな扉の向こうでは母親の棺が燃えているのだから。

 市の公営斎場は雪で薄化粧した山のふもとにあった。火葬場が併設された建物の内部は広々としていて、壁も床も優美な総大理石仕上げとなっていた。自然豊かなこの地にふさわしい荘厳な雰囲気は、天に還る人々の見送りに申し分ない。

 さらに感嘆すべきは、斎場が埃の一つも残っていないほど綺麗だったことだ。廉斗たちが斎場の中に入ってからすぐ目の前に現れた空間もそうだった。しかし、この時の廉斗がそんなことで心を動かすはずもなかった。むしろその洗練された美しさは、廉斗が胸の奥で感じていた悲しみをより際立たせ、ただでさえ人前で心を殺していた彼を追い詰めるようなものだった。

 ここには何もない。この場所にいると、まるでこれまで母親と積み重ねてきた思い出まで、あの見えない炎の中で全て燃やされて消えていくような気がした。この場で押し黙るしかなかった廉斗は父親に促されるままに渡された箸を持ち、ただの骨となった母親を見つめて空虚感にさいなまれる。

 まさかそんな大きな喪失感を彼が二度も味わうことになるとは、この時斎場にいた誰もが思いもしなかった。


 翌年の秋、廉斗の姿は再び斎場にあった。

 やはり夫婦の繫がりは特別なのだろう。残念ながら、廉斗の父親は母親の後を追うように脳卒中を発症して亡くなった。医者の診断では、乱れた生活で持病の高血圧が悪化したことが原因だそうだ。さらに不運なことに、父親が職場で倒れたため、またしても廉斗は家族の最期を看取ることができなかった。

 こうなるともう、未来に何の希望も抱けない。それでも、廉斗は自分と同じように取り残された美香のため、歯を食いしばってでも前を向かねばならなかった。それが、せめてもの兄のつとめだと思っていた。



「冬季休業中は閉寮期間か。じゃあ、廉斗は今日も伯父さんたちがいるに帰るんだな?」

「ああ。そうするしかないからな」

「美香ちゃんは?」

「同じく実家にいる。今年は例の感染症で母方の祖母の家に行けなかったから、渋々って感じらしい。美香とは、なるべく顔を合わせないようにしないとな」

 年末年始の居酒屋で、一年半ぶりに再会を果たした廉斗と恭平は交互に近況を語っていた。

 秋田に帰省していた恭平は自分の番が終わり、大きな口に唐揚げを運ぼうとしていたところで、他人事のように家庭の事情を淡々と話す廉斗に一瞬動きを止めた。

「廉斗、また喉を引っ掻いてるぞ」

「え? ああ……悪い。気が付かなかった」

「謝らなくていいけどさ。それ、早く治るといいな」

「……そうだな」

 多感な時期に両親を立て続けに亡くし、家にいるのは仲違いした兄妹だけ。当時の廉斗はそんな家にいるだけでも、耐え難い孤独感と激しい後悔にさいなまれていた。それは、人知れず廉斗の身体に影響を及ぼしていく。

 学校にいる間は平気なのだが、家にいれば見慣れた場所ごとに家族の思い出がよみがえり、そのたびにむなしさで心が押しつぶされてしまいそうになる。胸苦しさで酸素を求めて呼吸をしても、喉がギュッと締め付けられて浅い呼吸しかできない。

 両親をうしなった頃から、廉斗は強いストレスを感じると無意識で自分の喉をつねったり、爪を立てたりするようになっていた。

 恭平が廉斗の異常な癖に気付いたのは、高校の体育の授業で指定の体育着に着替えている時だった。なんの気なしに見つめた先、廉斗の鎖骨に近い喉元には、濃い痣と瘡蓋かさぶたがあったのだ。普段から制服をきっちり着こなす廉斗だからこそ、その日まで恭平は苦悩の証に気付けなかった。

 友の秘密を知ってしまった恭平は、それを誰かに明かすことはしなかった。彼は廉斗を一番心配していた佐奈にさえ、その事実を伝えていない。それは、廉斗本人が自分たちに何も話さないからだった。

 察しのいい恭平は、見つけてしまった痣の存在を自分の中だけに仕舞い込み、廉斗には「そこ痒いの? あせも?」とだけ言って、さり気なく喉を触る癖を自覚させた。廉斗は「……そんなとこ」と笑って誤魔化したが、その作り笑いは友人を安心させるためのものではなかった。この時の彼は、心の痛みを身体に向けることで、自分自身をあざむいている最中だった。

 恭平の気付かないフリが、廉斗に心の限界が来ていることを知らせた。だが、廉斗は恭平のそんな優しい忠告にも目を逸らした。

 ──良ければ僕たちを君たちの家に住まわせてくれないかな。ご両親の代わりに、これからは僕らが君たちを支えるよ。

 高校生だった廉斗にとって、遠方に住んでいた伯父夫婦の申し出はこの上なくありがたかった。姉の成海は専門学校を卒業したばかりで、すでに東京に生活基盤がある。今さら、こちらに来るのは難しいだろう。何より廉斗が巻き込みたくなかった。

 しかし、廉斗はまだ学生の身だ。それぞれ大学受験と高校受験を控えた廉斗と美香には、経済面でも大人の助けが必要だった。

 それでもなお、妹の美香は伯父夫婦が家に来ることに難色を示した。美香は親戚とはいえ、あくまで他人に両親の部屋を踏み荒らされるのが嫌だったのだ。その点だけは廉斗も複雑な思いだったが、それでも残された選択肢よりも幾分マシだった。

 慣れ親しんだ家を出て遠方に行ったとしても、後悔の念は一生消えやしないだろう。ましてや、通っている高校や中学校から伯父夫婦の家はあまりに遠すぎたため、思い出が詰まった家の他にも失うものが大きすぎる。恭平や佐奈とは、どうしても離れたくない。

 叶うのなら、逃れられない心の痛みから今すぐ解放されたい。それが十八歳の廉斗の本音だった。けれども代償を考えると、廉斗の選択肢は一つしかなかった。

 自分の心にできた傷は、新しい家族との生活で塞いでしまえばいい。それが廉斗の出した答えだった。

「にしても、この時期に営業時間を短縮って、店側も客も機会損失だよな」

「感染症が流行ってるんだ。こればっかりは仕方ないさ」

「そうかな……。廉斗、もし良かったら二軒目の代わりに俺の家に来いよ。今年はうちの兄貴が来れなかったから、母さんが寂しがってるんだ。お前なら、みんなきっと喜ぶぜ」

 八重歯を見せるように笑った恭平が、ビールを軽く掲げた。恭平からの嬉しい誘いに、廉斗は彼の目的を悟る。

「誘ってくれてありがとう。でも今回は遠慮するよ。ご家族とも久しぶりの再会だろ? 僕が恭平の大切な時間を邪魔する訳にはいかないよ」

「邪魔なもんか。お前と話したいのは俺だけじゃないぞ」

「それに、僕とみのる伯父さんたちの関係は今でも良好だよ」

 不意を突かれた恭平は面食らった表情を見せた。

「なんだ。実家に居づらいかと思って誘ったのに。心配してたのは気付かれちまってたか。相変わらず廉斗には敵わないな」

 恭平は気持ちよく負けたかのように爽やかな笑顔で愚痴をこぼす。たしかに廉斗は恭平よりも一枚上手うわてだったが、廉斗もまた、恭平の自然な気遣いに人間として負けていると、高校の時からずっと思っていた。

 ──僕も恭平のように振る舞えていたのなら……。そうしたら、もっと違う形で家族を護れたのかもしれない。

 廉斗は事故があった日から、ずっと過去の行動を悔やんでいた。そんな己を呪ってしまうほどの強い後悔が、幼かった廉斗と佐奈をのちに結びつける。

 もちろん恭平も廉斗の支えになったが、悲しみで破裂しそうな廉斗の心をギリギリの力加減で抑えていたのは、佐奈の力が大きい。

 その時に使われた鎖の名を、人は愛と呼ぶ。

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