第15話 コケモモの宣戦布告

 日本 恐山・中腹 八月十三日


 好奇心は猫をも殺す。

 よく聞く言葉だし、煌夜自身よく身に染みていることだ。

 好奇心だけでなにも考えずに動けばロクなことにならない。

 煌夜はため息を吐きたいのを我慢して身を固くした。

 煌夜の同年代に比べても細い首筋に当てられたそれは、赤い月に照らされているというのに青白く、鈍く光っていた。

 視線だけでそれを確認し、辿っていくとそれが両刃の西洋剣だとわかる。

 分かる。が、解らない。

 なんでそんなものを持った人間がこんなところにいるんだ。

 今度は舌打ちしたいのをぐっとこらえてそれを持つ人物を見上げる。

 

 真っ赤な瞳の、冷たい空気を纏った男だった。

 

  ☆


 そもそもの間違いはやはり、風呂上りにまだ時間があるからといって旅館の周囲を見てまわろうとしたことだろう。

 第二に、荷物を置いてきたこと。

 そして最後に第三、聞き慣れない獣の呻き声が聞こえたからとそちらに足を向けたこと。

 唯一の幸運といえば、日が落ちては寒いからと愛用のロングコートを羽織って出てきたことだろうか。

 というか何故そんな危なそうな音が聞こえた方向に顔を出したのだろう、煌夜は数分前の迂闊な自分を殴り飛ばしたくなりながら目の前の光景を眺めていた。

 

 痛みに呻くその獣はゆうに三メートルは超えるだろう巨体を二本足だけで持ち上げて立っていた。

 本州にいるはずもないヒグマかなにかかと一瞬焦ったものの、そいつは四つの緑に光る目をギラギラさせて、熊の類にしても大き過ぎるほどの爪がついた丸太のような腕を振り上げている。

 その全身には鋭いなにかで無残に切り刻まれた痕と、そこから滴るどす黒く粘り気のある血液。

 よく見ると四つだと思っていた目らしき光は、元は六つだったようで、二つは全身と同じように傷付けられ閉じられていた。

 時折吹く強い山風に晒されても微動だにしない剛毛は、黒とも赤ともいえない色に染まっていた。

 

 その獣に対するように立つ二つの影もまた、強い風などないかのようにゆったりとそこに存在していた。

 片方は男のようだ。

 ただ随分と長い髪に細いシルエットをしていて、遠目には一瞬どちらか迷う。

 銀色の髪が月明かりに白く光り、煌夜も最初は場所が場所なだけに山姥かなにかかとも思ったが、それが美しい絹糸の如き銀髪だと気付いて息をのんだ。

 片手には西洋型の剣が握られていて、ますます彼を浮世離れして見せていた。

 そしてその横に並び立つのは大の大人がひょいと乗れそうなほどに大きな赤い狼だ。

 対する獣よりは小さいとはいえ、随分と大きい。

 金色に輝く双眸が獣を睨めつけている。

 大きさだけでも十二分に異様さが察せるが、その体躯に絡まるように刻まれた濃い赤の文様も、それが普通の生き物ではないことを示しているようだった。

 大狼の喉が楽しそうにぐるぐると鳴る。狼なのにまるで猫のようだ。

 だが、幼い頃に連れて行ってもらった動物園で見た狼とはまるで違う、野性の獣然とした立ち方はいっそ一枚の絵画のようで、煌夜は目が離せなくなっていた。

 

 ふ、と、赤い狼がちらりと煌夜を見た。

 視線が一瞬だけ絡む。

 ぎょっとして思わず後退る。

 だが煌夜の意に反して、大狼は興味ないとばかりに再び正面の、自分より更に大きな獣へと飛びかかっていた。まるで怪獣映画だ。

 先程までの絵画のような空気は一瞬で消え去っていた。

 その時の煌夜の頭にはもう、何故こんなに大きな生き物がこんなところにいるのだろう、だとか、こんなに大きな遠吠えや騒ぎ声を上げて争っているのにどうして誰もこないのだろう、だとかいう疑問は浮かんでこなかった。

 ただただ目の前の光景を眺めているだけで、なにか考えるだとか行動するだとかいうことも思いつかなかった。

 轟っ。

 強い山風があたりを駆け抜けた。

 木々が揺れて小さな枝木がメシメシと音を立てる。

 あまり体重が重い方ではない煌夜は足に力を入れなければ身体を持っていかれるかと思ったほどだ。

 大狼が一際大きな遠吠えを発する。

 大狼の金色の双眸が、ただ立っていた銀髪の男に向けられた。

 そこでようやく煌夜もそこにもう一人、登場人物がいることを思い出した。


 男は相変わらずそこに立っていた。

 目の前で、ほんの鼻先と言ってもいいほどに間近で、怪獣映画じみた光景が繰り広げられているというのに、微動だにせず立っていた。

 けして恐れから動けずにいるのではない。

 そう、背を向けたままのその人影が臆することなくフィクションに出てくるような獣に対峙しているのだと察するのは簡単だった。

 ばさりばさりと山風に揺れる髪と服、そしてその風に乗って聞こえてくる聴いたこともない美しい旋律。

  口笛かと思ったが、違う。

 歌だ。

 楽しげなメロディーが風と轟音の間に漏れ聞こえている。


(どこか、懐かしい……?)


 そんなはずはないのに、胸が苦しくなるような。

 そんなことを考えていたのが悪かったのだろう。

 目の前の殊更に大きな轟音にはっと目を見開く。

 

 轟っ。

 再びの山風。

 風に乗ったかのように男の体がふわりと宙を舞った。

 月光に髪が、剣が、キラキラと光る。

 男の腕が一閃。白銀の刃が獣の太い腕を切り裂く。

 耳をつんざく獣の慟哭。おおう、おおう、と、木々に響く。

 横合いから再び大狼が獣へ飛びかかる。

 喉元に食らいついたまま離れない。

 ずしんと大きな音を立てて獣が地に伏した。

 牙にこびりついた肉片が、口の周りの血が邪魔だとばかりに大狼が首を振る。

 動きはまるでただの大きな犬のようだ。

 ――と、彼等に見惚れていたのが悪かったのだろう。

 煌夜のすぐ目の前に、男が音もなく立っていた。


「――っ!」


 ぎらりと光る西洋剣が首筋に当てられている。

 冷たい感触があるものの、痛みは感じない。加減されているのか。

 今まで轟々と啼いていた山風が止んでいることに気付いた。

 ぱきんっ。

 小さくなにかが割れた音。

 少し視線を下げると、男の剣を握らない左手から緑色に光る欠片がこぼれ落ちていった。

 それは静かに輝きを失いながらさらさらと地に落ちて見えなくなる。

 なんの欠片だったのだろう。なにかの宝石だろうか。

 男は感情の読み取れない瞳を左手に向けたまま、だが煌夜の首に当てた刃はぴくりとも動かない。


「アリャー、もウ寿命ダったカ。マぁ、さスガ【キダイの魔術師】ノトコカラ持ッてきタだケアるよナ、ヨク今まデモッテタ」


 ぐるぐると楽しそうに喉を鳴らしながら近付いてくる大狼が、少年のような声で言う。

 完全な少年の声とは言えず、少々聞き取りづらいのは人間じゃないからだろうか、なんてどうでもいいことばかりが頭を過る。

 まだあるの、と大狼が男に問う。


「もう、ない。これが最後だった」


 男がそう言うと、大狼は残念そうに、そうかー、とだけ言った。

 まるでこちらが見えていないかのように、先ほどの異様な戦闘がなかったかのように、平和な会話風景だ。

 煌夜も首筋に未だ当てられている冷たい感触さえなければ先ほどのことが夢だったかとさえ思うだろう。


「ソんデサァ、ガル……じゃナかッタ、相棒。ソいツ、ドウすル?」


 突然両者な和やかな会話が終わり、大狼の双眸が煌夜へ向けられた。

 どきりと小さく心臓が跳ねる。

 どうする、とはどういうことだろう。なんて、そんなおめでたい思考はしていない。

 そういうことだろう。

 じりと動けば男の剣はぴったりと煌夜の首の薄皮一枚のところで静止する。

 ただし大きく動けばどうなるか。

 男の目は煌夜の目を離さない。

 どうしようか。

 旅館まで戻れれば体勢を立て直すなり、なにか策を講じられるだろう。

 旅館までは背後に真っ直ぐ走っても少し距離がある。

 そもそもこの剣を躱せたとして、奴らに背を向けることはできるのか。

 ぐるぐると思考を巡らせているときだった。

 

 ぐおおおんっ。

 突如起き上がった大熊が遠吠える。


――生きていたのか。


 反射的に袖口からデリンジャーを取り出す。手に馴染んだしっかりとした感触。

 構えるのもそこそこに引き金を弾く。小さい割に腕に響く反動を残して銃弾が飛び出す。

 ぱすんと情けない音を立てて銃弾は大熊の見開いた目に突き刺さった。

 黒血を上げながら弾は熊の脳めがけて眼球をえぐる。

 おおう。おおう。

 獣の大きな悲鳴が響く。

 隙ができた。刹那、煌夜の横で白い影が飛び上がった。あの男だ。

 おおよそ人間とは思えないほどの跳躍力を見せた男は手にした西洋剣で獣の頭を横薙ぎに払う。頭は音もなくぽぉんと宙を舞い、どしゃりと湿った音を立てて地に落ちた。

 遅れて首を失った大熊の巨体がゆっくりと倒れる。

 今度こそ、ぴくりとも動かない。


「……ジューとーほーイハん?」

「ただのトイガンだ。…………………………確かに、ちょっとはいじったけど」


 首を傾げた大狼に思わず返す。

 そう、ただのトイガンだ。本当にほんのちょっと、ほんのすこーしだけ中身をいじってはいるが。

 手の中のおもちゃのような(いや、実際元々は本当におもちゃなのだが)デリンジャーを弄びながら小さく息を吐く。

 さて、どうやってこいつらに追われぬように逃げるか。

 考えながら男と大狼らと自分の位置関係を確認しようと顔を上げたときだ。

 ふわり、風が煌夜の頬を、大狼の背毛を撫ぜた。

 とん、と、重さを感じさせない音で男が地を踏む。

 遅れて重力に逆らわず背中を流れた銀髪が月に反射して、この世のものとは思えないほどに美しい。

 男の薄く赤い唇が小さく弧を描いている。

 獣の黒血でしっとりと濡れた袖も、裾も気にする様子もない。

 ふと、煌夜は自分の手が、身体が震えていることに気付いた。

 夏とは思えないほどに寒い山の気温のせいだけではない。

 ――恐怖、とは、思えなかった。


(ああ、そうか)


 これが恐ろしいほどに、震えるほどに美しいというものか。

 強く、強く、脳の中心を揺さぶられるような衝撃を受ける美しさだ。

 初めて生物に銃口を向けたことなどどうでもいいとさえ思えるほどに。

 瞬きを忘れ、呼吸を忘れるほどに。

 男の紅玉の瞳がゆっくりと煌夜を射抜く。

 ぶわりと全身が総毛立つ。

 白磁の肌がその異様な美しさを称える双眸をより一層、際立たせていた。

 正面から見て、更によく男の容姿が見える。

 すっと通った鼻筋に薄い真っ赤な唇、血の通っているのかすら疑わしいほど白い肌はきめ細やかでビスクドールよりずっと整っている。

 さらさらと風に揺れる銀髪は、一等のシルクよりも滑らかに見えた。

 彼のためだけに仕立てたのだろう、裏地の赤い、黒の外套付き燕尾は無残にも黒血に濡れて汚れていた。だがそれさえも演出であるかのようだ。

 ほうと息を吐くことすら惜しい。

 瞬きなど、もってのほかだ。

 そんなとき、ふとやわらかい風に乗ってくすくすと笑う声が煌夜の耳をくすぐった。


――ヤット、アエタ……


 歓喜に沸く、小さな少女のつぶやき。その声がどこから聞こえたのかと視線を巡らす。

 男の真っ赤な薄い唇が小さく小さく動いていた。

 なにを言っているのかは聞こえない。彼のつぶやきだったのだろうか。


――違う。


 聞き覚えのある声だ。

 けれど、絶対に知らない声だ。

 得体の知れないなにかが周囲にいるような気がして、今度こそ煌夜はこくりと喉を上下させた。

 男の様子は変わらないように見える。相変わらず美しい彫刻のようにそこに立っていた。

 ぞわりぞわりと背筋を登ってくるなにかに、煌夜はゆっくりと目を瞬く。

 一瞬の後。たったそれだけで、もう、得体の知れないなにかはどこかへ霧散していた。

 なんだったのだろう。

 のそりと、男の横に寄り添うように大狼が移動する。

 切れ長の赤眼が横目でちらりと大狼を見て、再び煌夜へと落ちた。陶器人形のように真っ白で細い腕が気だるげに持ち上がり、大狼の喉を撫でた。

 大狼は猫のように嬉しそうに目を細めてぐるぐると鳴く。


「………………帰れ」


 大狼を撫でながら男の薄い唇が開く。

 その低い声に一瞬驚いてしまったのはおそらく、意外にも低い男性らしい声が彼の細く美し過ぎる外見とギャップがあったからだろう。かといってそれほど低過ぎるというものでもないのだが。


「…………帰れ」


 男がもう一度言う。


「ここは、お前のようなコドモがいていい場所じゃない。帰れ」


 その言葉を咄嗟に飲み込めず、煌夜は二度三度、目を瞬かせる。

 子ども? いや、確かに煌夜はまだ高校生。子どもには違いない。

 だが、何故こんな見ず知らずの不審な男にそんなことを言われなければならないのか。

 煌夜は袖の奥に仕舞ったばかりのデリンジャーを再び出したい衝動をぐっと堪えて問う。


「………………な、んで……アンタにそんなこと言われなくちゃいけないんだ」

「何度も言わない。帰れ」

「い、やだ」

「…………………………ハァ」


 ため息吐きやがった、こいつ。

 先程までの神秘的で人形のような様子はどこへやら、今はどう見ても、聞き分けのない子どもを相手する子ども嫌いの大人のようだ。

 心底面倒くさそうに、心なしか眉をひそめて口を歪めている。それで欠片も失われないその美貌に煌夜は内心舌打つ。


「帰らないのか」

「当たり前だろう」


 もう一度、男はため息を吐く。


「後悔しても知らないからな」

「……アンタに気にされる筋合いは、ないはずだ」


 そう言って、煌夜はゆっくりと後退る。このまま背後へ走れば旅館の方角だ。


「ここまで来たんだ。アンタには関係ないっ」


 ぱっと身を翻し、旅館へと走る。

 一声だけ大狼が喉をぐるると鳴らしたのが聞こえたが、煌夜は振り返らない。


「……後悔しても、知らないからな」


 再び男が呟いたのが背後に聞こえた。

 男と大狼が追ってくる気配はなかった。

 

  ☆


 黒いポニーテールが走り去ったのを見送って、大狼――紅蓮は横に立つ相棒を見下ろした。


「なァ、よカッたノか、行カせテ」


 この姿での人語はどうにも発音しにくい。

 男は黙って、手にしたままだった剣をぶんと振って黒血を落とす。くるくると指を回すと剣が光り、ぱっと輝いたかと思うと一瞬にして男の左手グローブに装飾された赤い石へと変化した。

 相変わらず便利だなぁ、なんて考えていると、男はようやく紅蓮の方を見上げて言った。


「あれ、片付けておいてくれ」


 見つかると事だから。

 それだけ言って、のんびりした足取りで今夜の宿の方へと歩いていく。


(このマイペースさ、少しはどうにかならないかなー)


 紅蓮は大熊にも似た生物を見下ろしながら思う。

 それでも自分は彼をそのままにするのだろう。そのままの彼が好ましいから。


 さて、今宵のメシは食いでがありそうだ。


――まぁ、味はイマイチだけど。


 がぶりと噛み付いた肉の感触と黒血の臭いを堪能しながら、紅蓮は喉の奥でくつりと笑った。

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