Stranger Another

伊早 鮮枯

第1話 とある無辜なるカレの場合

――さみしい


 ひとり、たったひとりだけでその世界に取り残されたカレは呟いた。

 真っ白に、いや、色さえもないその空間を世界と呼べるのならば、だが。

 前も後ろも、大きいも小さいも、遠いも近いもないその空間で存在する  存在してしまっているカレはできる限りの感覚を使ってあたりを見回した。


――さみしいさみしいさみしいさみしい


 呟いてみるが、反響するものもないこの場では音としてもその声は成り立たなかった。

 それでもカレは悲しそうに呟き続ける。


――さみしい


 いったいどうしてこんなことになったのだろうか。

 カレはもう幾度も繰り返した、ここに至るまでの出来事を反芻する。


――どうして? ああ、どうして


 かつては全能とさえ呼ばれたカレですらわからない。

 何故そうなったのか。

 何故こうなったのか。

 何故ここにいるのか。


――どうして


 ただわけもわからずごちる。

 聞く者も響く音さえもないとわかりきっているが、それでもカレは声に出していう。

 もう幾分か時間が経ったろう。

 もう幾分か歩き続けたろう。

 もう幾分か呟き続けたろう。

 もう、幾分か考え続けたろう。

 カレの空ろな瞳から透明な粒が頬を伝い落ちた。


――エルは、ルシーは、我が愛し子たちは、


 どこへ行ってしまったのだろうか。

 カレをたったひとり置いて、何処へ?

 はらはらと、ぽろぽろと粒はこぼれ続け、やがてそのなにもない空間に川を、海を造り出した。

 それでもカレの目からは止めどなくそれは流れ続ける。

 それを止める術など、カレは知りもしなかった。

 海ができる以上、きっとどこかに際限はあるのだろう。だが歩みを止めてしまったカレにはもう、それを確かめる気力はどこにも残っていなかった。


――ああ、ああ、人の子さえも私を忘れてゆく……

――置いてゆく……


 何度も繰り返し呟いた言葉が吐息とともにこぼれ落ちていく。


――いやだ


 きょろり。

 カレはあたりを見回す。


――ひとりはいやだ


 ここは寂しくて冷たくて、とても嫌なところだ。

 カレは泣きながら再び歩き出す。

 足元に自らの造り出した海が広がっていて、先程よりも歩き辛い。


――さみしい

――どうして誰もいない


 探しても探しても、なにもない。

 もとよりなにもない空間だ。カレ自身がその場を動いているのかすらわからない。


――おうい、誰か


 みんなはどこへ行ってしまったのだろう、呼びかけても誰もいないし答えてはくれない。

 とうとうカレはその場に座り込む。

ざぶりと波が立ち波紋が広がっていく。


――さみしい

――どうしてこうなったのだろう


 なにが悪かったのだろう。

 カレにはわからない。


――私は此処にいる


 自分に言い聞かせるようにカレは呟き続ける。

 そうでもしないと、カレはもう自分の存在すらわからなかった。


――此処に、いる


 なのに、どうして誰もいないのだろう。

 相変わらずぽたぽたと無情な粒は頬を伝っては落ちていく。


――だれか


 誰でもいい、はいと一言、返してくれるだけでいい。

 カレの生涯初めてであろう強い願いはそれだけだった。

 しかしその願いは、少しも叶う気配はない。


――さみしい、さみしい、さみしい、さみしい


 流れ続ける透明な粒に、楽しかった頃の情景が映る。

 それをすくおうとしてカレは手を伸ばすが、粒はすぐに下の海に落ちて消えてしまった。


――どうして


 泪の海を手のひらいっぱいに掬い上げてみても、すぐにそれは他の海と混じってわからなくなってしまう。


――どうしたら、また皆と逢えるのだろう


 その呟きにも答える者はいない。

 ばしゃん、と平時なら音を立てているであろうほどに強く海面を叩きつける。飛び上がった粒がカレの頬を叩いた。


――■■■


 かつて、いや、今もなお愛し続けている彼女の名を呼んでみる。

 彼女なら――他の誰もがいなくても、彼女ならば応えてくれる気がした。

 しかし冷酷なこの空間は愛しい彼女の音一つすら返してくれはしなかった。


――さみ、しい


 ぷつりとカレの中でなにかが弾けた。

 がくんとカレはその場で崩れ落ちるように蹲る。


――さみしい、さみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしい


 いっそ死ねたら楽だっただろうに、カレにはそれすら許されなかった。


――さみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしい


 ぶつぶつと、空虚な瞳から泪を流し続けながら呟く。


――さみし、い


 ふいにカレの顔がくしゃりと歪み、とうとうわあわあと声を上げて泣き出した。

 それは大人でも子どもでもなく、赤子が母親を呼ぶ様によく似ていた。


――誰でもいい、私を求めてくれ

――私を愛してくれ

――私を探し出してくれ


 カレは泣き続ける。

 泪は枯れることを知らず、静かに海を広く広くしてゆくだけ。

 カレの叫び声は誰に届くこともなく……。

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