第5話 お母さん
お日様の匂いのする洗濯物を、ぼんやりとテレビを観ながら畳む。
午後4時頃から始める、いつもの家事。
「桜子さん」
と、突然背後から名を呼ばれて飛び上がる。
その声音はおじいさんのものだったが、聞き覚えがない。というより、この家にはおじいさんは存在しないのだ。
「ど、泥棒?」
私は恐る恐る声のする方を振り返った。
するとそこには、正座してにこにこと笑っている和服姿のおじいさんがいた。
「あ、あの……どちら様ですか?」
「ワシはキジタローです」
「は? キジタローは、ウチの猫の名前ですけど……おじいさん、お家間違えちゃったんですか?」
そうに違いない。それ以外だと非常に困る。ええっと、こういう場合は、まず警察に電話して……
「薬の効果は三十分らしいからの、すぐに元の姿に……いつものキジタローの姿に戻るから、警察に連絡するのはやめて欲しいのじゃが」
「は、はあ……」
「十三年前、ワシを拾ってくれてありがとう」
おじいさんはそう言うと、深々と頭を下げた。
「えっ、いや、そんな……」
慌てる私の脳裏に、キジタローを拾った時の光景が蘇る。
家の敷地内に停められた車の下から、弱々しい仔猫の鳴き声が聞こえてきたのだ。
「あの日は雨が降っていて、肌寒い日じゃった……桜子さん、あんたが気づいて病院に連れて行ってくれなかったら、多分ワシはダメじゃった」
おじいさんは顔をあげて、私に言った。
確かに、あの日は雨が降っていた。
雨音に紛れた小さな声に、よく気がついたものだと自分でも感心したのを覚えている。
ちょっと待って。目の前にいるおじいさんは、人間よ。猫じゃないわ。
それなのに、なぜか妙な気持ちになった。
「サツキちゃんが、歩き始めた頃で……桜子さんは一生懸命子育てしとったなぁ」
「あの頃は……」
あら、なにを言っているのかしら、私……
「初めての育児でわからないことだらけで……でも私、誰にも相談できなくて……キジタローは……いっぱいいっぱいだった私の癒やしだった」
泣くサツキをあやしてなんとか寝かせた後、キジタローは悶々としている私にすり寄ってきた。
ふわっとした体毛とぬくもり。そして心に沁みる柔らかな鳴き声。
「なぜかしらね……サツキの泣き声は聞くのが怖かったのに、キジタローの鳴き声は心地よかった」
「ワシは、頑張ってる桜子さんは偉いなってずっと思っておったよ」
「だって……私は母親ですもの……」
そう。子どもがお腹に宿ったその時から、私は母親になったのだ。
「泣きそうな日々や楽しい日々を過ごす内に、だんだんと母親になったんじゃよ、桜子さんは……今はもう、立派なお母さんじゃが……ワシの中では、桜子さんはいつまでも桜子さんじゃ」
見知らぬおじいさんの言葉に、私は泣きそうになった。
苦しかったあの日々を、よくやってきたと褒められたような気がして。
「ワシには、あと数年しか時間がないが……ワシは、最後まで桜子さんの傍にいるからのぅ」
おじいさんはそう言って、にっこりと笑った。
「あ、お茶……お茶でも淹れましょうか」
私は急に思い立つ。
家の方がお迎えに来るまで、おじいさんにお茶でも飲んでもらおう。
急いで立ち上がり、和室を出てすぐにそっとおじいさんを盗み見る。
「あれ?」
「にゃーん」
そこにいたのはキジタローだけで、キョロキョロと見回しても、和服姿のあのおじいさんはもうどこにもいなかった。
私は困惑しながら、慌てて家を出る。
キジタローによく似た、あのおじいさんの背中を探す為に。
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