書庫の天使は怠けたい
朱衣金甲
第一章 船出
■ 001 ■ 至高の聖域
聖なる内海へと注ぐシルケ河の上流、大滝を背に負うように建てられた神殿の前に、一陣の風が吹き荒れた。
林檎の香りを纏う風が踊りさった後には、ゆったりと柔らかな白いローブを纏った老婆の姿が。半瞬前には、確かに誰もいなかったはずなのだが。
「【
懐かしい空気を鼻から吸い込んで、老婆が大きく深呼吸をする。息を吸えば林檎の甘い香りが胸一杯に広がって、老いた身体を瑞々しく満たしてくれた。
老婆が神殿正面の階段をゆっくりと上っていくと、燦めく白刃を備えた槍を構える護衛兵たちが彼女の姿を視認するや否や槍を掲げて、
「【
「シン・レーシュ様のご帰還である!」
声高らかに詠い上げると、周囲の者たちが一斉に膝を折って老婆に頭を垂れる。
柔らかな微笑を湛えた老婆が視線を護衛兵に送ったことで、
「直れ!」
老婆によく似た、しかしそれと比べて質素な白衣を纏った者たちが改めて立ち上がるが、老婆に向けられる敬意は些かも衰えてはいない。
そんな視線の中をもう慣れたものとばかりに老婆は歩みを進めた。
半屋外ながら清掃の行き届いた大理石の床は毎朝信者たちの手で清められている。
これまで数多の人々を支えてきた年代物の大理石の床は鏡のように、とまではゆかぬものの埃一つなく老婆を迎え入れてくれて、それが老婆にはたまらなく嬉しい。
懐かしい記憶を胸中に咲き誇らせながら、敬意と垂頭を輩にゆっくり神殿の中を老婆は進み、一本道の先、侍従が押し開いた大扉の向こうへと足を踏み入れ、
「シン・レーシュ。五年にわたる巡礼の旅を終え、只今戻りました。【
扉の向こう、瀑布の音が遠く耳朶を叩くのみの静謐な空間。
老婆の到着をずっとそこ待っていたであろう妙齢の女性の前で膝を折った。
「よく戻りましたね。お務めご苦労様です、【
そんな両者のやり取りを待っていたわけではないだろうが、神殿の鐘楼に備えられたカリヨンがその祝福の音を高らかに響かせ始めた。
これにて
立ち上がった老婆レーシュの背中にそっと手を回して軽く抱きしめた【
「【
「畏まりました、
次の季節の始まりを告げる言葉を紡いだ。命令を受け取った側仕えが静々と退室していく。
【
これは
§ § §
シヴェル大陸に屹立する聖なる山、サンモニスの中腹にある
というのも民に与えられた
というよりは十の神殿を纏めて本部神殿、【
その一角に居を連ねる、書庫の名を冠する小神殿内部はその名が示すように神殿と言うよりは図書館――いや、資料置き場と言う方がより正しいだろう。
それらの資料は敬虔なる信者たちによって整頓、あるいは秘匿されて書架に収められており、これらの中には当然歴史の暗部なども多分に含まれていて、この書庫を制した物はシヴェル大陸国家の裏側を知ることができるとまで言われるほどの、ある意味ではこのシヴェル大陸一物騒な火薬庫でもある。
そんな剣呑極まりない書庫はしかしその秘匿性故に埃とカビを輩とした静謐な、あるいは陰鬱とした空気に満ち満ちている。
資料保存の為に徹底した機密性が保たれた書庫の屋内はたとえ山に嵐がこようと吹雪がこようと内部に対流が起きることはなく、徹底して物静かで外部環境による変化を拒む。
だからこそ、
「いつまでそこにいるつもりだジィ? とっくに集合の鐘は鳴ってんぞ」
古書の匂いが嫌じゃない者にとっては引き籠もるのにこれ以上の場所はない。
「ディー、読書の邪魔」
乱暴な声を投げかけられた少女はそこでようやく、己は人形に非ずと主張するかように本から顔を上げた。
文句と共にはらり、と埃を被った白い御髪が揺れる。
「
年の頃は十二、三といったところか。
椅子に座って、ではなく床に直接腰掛け、しかし壁でも本棚でもなく人間大の獣を背もたれにしていた少女が嫌そうにその蒼い瞳を細める。
「成人前の子供にできることなんてせいぜいが椅子に座ってることぐらいよ。ならどこにいても同じよね、そうでしょフィン」
「ぬけぬけと仰いますなぁ」
フィンと呼ばれた、これまで少女の背もたれに徹していた獅身山羊頭の獣が当然の顔で頷き人語を紡ぐ。
その事実に少女も、また少女に声をかけた青年も驚きはしない。フィン――スフィンクスは
「お目付役のお前が背もたれに徹してるんじゃねぇよフィン。ケツひっぱたいてでも連れてこいや」
猛獣の如く絞られた真紅の目に睨まれたフィンは器用に首をすくめてみせるが、それだけだ。
あくまでフィンは少女を守るように申しつけられているのであって、真の主ザインか、今の主以外の命令を聞く気など更々ない。
「レディに対して言うことがそれ? ディーはそれだからモテないのよ」
「言っとくが俺はめっちゃモテるからな。ここに引き籠もっているお前が知らねぇだけだ」
かんばせには少年のあどけなさと青年の凜々しさが備わり、肉体は一分の隙もなく練り上げられた戦士のそれ。
そして何より
僅か十六歳にして
名をツァディ・タブコフ、白髪の少女の幼なじみ兼お世話役でもある。
「もう一度言うぞ【
凄みを増して同じ言葉を繰り返す青年を前に、少女はただ頬を膨らませるのみだ。
「やってるわ。私の二つ名でもある書庫をちゃんと守ってる」
「あのな、いつまでもその言い訳にもなってねぇ屁理屈が世間様に通じると思うなよ」
ツァディは無理矢理少女の手から重たい革張りの本を奪い取って「くちっ」小さなクシャミと共に閉じると、それを傍らのフィンに放り投げた。
首根っこを掴んで幼なじみを無理矢理地べたから引っ張り起こす。
「いい加減にしねぇとカイ姐さんもブチ切れるぞ。そうなる前に俺がお前にオトシマエのゲンコツ落とさにゃならん。頼むから俺にお前を殴らせるな、ジィ」
幼なじみのそっけない、しかし直実な懇願はちゃんと少女には届いたようであった。やせ細った少女が落ちつかなさげに蒼い瞳を左右させる。
「こんな幼気な子供を働かせようとか酷い組織よねここは。本当に教会なのかな?」
「抜かせ。世の中の庶民は七歳にもなれば親方の下で汗水垂らして働くもんだ。お前もそれくらいよく知ってんだろうが」
「知ってるけど」
ツァディに首根っこを掴まれ、つま先立ちもできないままぷらぷら揺れながらラジィが視線をぷいっと逸らす。
ラジィは元々は孤児院住まいの孤児であり、ツァディはその近くに住んでいた街の子供でしかなかった。
このご時世、奴隷市場の又従兄弟が多い名ばかり孤児院の中で魔術の才の片鱗を見せた両者はぐんぐんとその才を高め、成人前としては前人未踏の
当然のように無数のやっかみをその身に受けながら。
――一市井如きはまだ許そう。だが賤しき孤児などが【
水面下では聖職者にあるまじき耳を疑うような罵詈雑言がこれでもかと募っていることをツァディもラジィもようく知っている。
知っていて、ラジィはそれを完全に無視しているのだ。
なにせラジィ・エルダートはその【
有り体に言ってしまえばラジィはツァディに次いでシヴェル大陸で二番目に強い
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