ホームレス、ストーカー

北見崇史

ホームレス、ストーカー

「那美、ちょっといいかな」 

「なによ佐緒里、真剣な顔しちゃって」

 昼休みとなり、総務事務の佐緒里が業務課の同僚のもとへやってきた。

「はは~ん、さては男関係だな~」

 那美は、さっそく意味ありげに目を細めた。

「社内の男のことなら何でも訊いてよ。ちなみに営業の奴らは風俗通いの常連だから、やめておいてほうがいい。へんなのをもらいそう。かといって総務や経理の連中もパッとしないし、うちの会社って給料安いからさあ、結婚する相手としちゃあ、ちょっとキビしいんだわ」

「高架下」 

 困った顔で、佐緒里がボソリとつぶやいた。

「え、こうかした?」

{こうかした}という言葉の意味がわからず、那美はキョトンとしている。

「私の部屋の近くに高速道路の橋があるでしょう。その高架橋の下って意味よ」

「ごめん、あたしさあ、コンクリートとか建築のほうはあんまし詳しくないから、課長にでも訊いてよね」

 工学的な話に興味がない那美は、昼食を買いに外へと向かう。

「そこにベンさんっていう五十くらいのホームレスが住んでるんだけど」

 塩対応となった同僚の態度にかまわず、佐緒里は言い続ける。二人は歩きながら話していた。

「今度はホームレスのオッサンかいな。って、まさかあんた、そのオッサンと何かあったわけじゃないでしょうね」

「ベンさんとは、まあ、あいさつして世間話をするんだ。すごくいい人でさあ、会社でイラッとした時なんか愚痴に付き合ってくれるの。酎ハイを飲みながら二、三十分立ち話をして、それでバイバイ。そういう仲よ」

 その高架下は、ベンと呼ばれるホームレスのねぐらということだ。 

「そういう連中と、あんまり接触しないほうがいいと思うけど」

「う、うん」

 良くないことに巻き込まれる可能性があると那美がそれとなく注意したが、佐緒里の返事はノドにつっかえていた。  

「ひょっとして、もうトラブルになっているとか」

「最近、だれかにつけられている気がしてるんだ。確証はないんだけど、絶対誰かがストーカーしてる。私をじっと見てる。絶対そうだ」

 足元を見つける目線に厳しさがあった。那美は察したように言う。

「そのホームレスのオッサンに付きまとわれているってことね。親しくなったことがアダとなったってわけか」

「ベンさんは違うよ。ストーカーをする人じゃないし、それに体を壊したとかで救急車で運ばれたみたいで、いまは入院しているみたい」

「へえ、ホームレスでも入院できるんだあ」

 よけいなことに感心しながら、那美は話の矛盾に気づいた。

「仮に那美にストーカーしているヤバい男がいたとして、ホームレスの話は関係ないんじゃね。容疑者はさあ、会社の誰かとか、電車の痴漢とか、コンビニのヘンタイ店員とかでしょう」

「高架下にはさ、ベンさんのほかにもう一人おじさんのホームレスがいるんだ」

「ああ、なるほどね」

 すでに候補の人物がいるようである。

「それで、どんな奴なの、そのホームレスは」

「ベンさんより少し若いくらいの、小さくて頭髪がかなり薄めな人かな。上着とズボンがシミだらけで、近づき難いというか」

「四十くらいのオッサンで、しかもチビでハゲで汚いってことね」

 那美が端的にまとめると、佐緒里が小さく頷いた。

「会社帰りに、タイ焼きとアイスキャンディーを買っていったのね」

 愚痴を聞いてくれて憂さ晴らしの話し相手になってくれるお礼として、高架下に住み着いている馴染みのホームレスに飲み物や食べ物の差し入れしていたと、佐緒里は言った。

「でも、あの日はベンさんがいなくて、だけどタイ焼きは一人じゃ食べきれないし、アイスも溶けてきたし、どうしようかなって思って」話したことはないが、いちおうの{顔見知り}である、そのチビハゲホームレスにあげたとのことだった。

「で、勘違いされて付きまとわれているってわけか」

「そう、だと思う」

 二人は会社を出て、近くの公園のベンチで話をしている。

「でも、そいつがストーカーってのは確かなの」

「昨日、高架下を通ったら、俺はおまえを見てるんだぞ、いっつも見てるんだって、おっきな声で言われたんだ。ちょっと怖くて」

「それはヤバいわ。もう通報した?」

「大げさにしたくないんだよね。ベンさんにまで迷惑かけそうだから」

「まあ、苦情を言ったら、橋の下にいるホームレス全員が追い出されそうだしね」

「ベンさんが戻って来れなくなっちゃうよ」

「まあ、考え過ぎじゃないの。気のせいってこともあるし。何かあってもかまわないことよ」

「そうね」

 昼休みが終わった。佐緒里の足取りは軽い。同僚に相談したことでいくぶん気が楽になったようだ。



 終業時間となり退社した佐緒里は、いつもの通り高架下を歩いていた。あのホームレスとの遭遇が心配されるが、まだ陽も沈んでいなく人通りもそれなりにある。明るいうちは危険ではないと判断していた。

「おお、今日は時間通りだなあ。残業ねえのか。まあ、俺はずっと見てたけどな。あんたをなあ、ずーっと見てたんだよ」

 背が低くて頭髪がほぼなくなっている男が近づいてきた。上下汚いシミだらけの作業着姿で、野良犬の臭気が漂っていた。暑いのか額に汗をかいていて、首にかけたぞうきんのようなタオルで、しきりと拭っていた。

 佐緒里は無視をしている。くるりと踵を返して逃げればよいのだが、おとなしそうに見えても彼女は粘り気質で負けず嫌いである。たった一人の妨害で自身の行動を妨げられるのは容認できない主義の持ち主だった。

「帰るのか。なあ、帰るのか」

 そのホームレスはしつこかった。肩に手を回したり、手を繋いだりはしてこないが、まるで恋人に寄り添うような態度であった。

 佐緒里が表情をこわばらせながら早足になる。ポケットに手をつっ込んでスマホを握った。いつでも警察へ通報できる用意だけはしていた。

「おい、これ食えよ。炊き出しでパンもらったんだけど、うまいぞ。クリームが多いんだ」

 あきらかに賞味期限切れの菓子パンを見せて、さらに包装のビニールを破って突き出した。無視するのかと思いきや、佐緒里はパンを掴んで歩きながら食べ始めた。

「ウホッ、ウホ、ウホホホ、ホホホ、ウホウホ」

 そのホームレスは大喜びだ。発情期の雄ザルみたいに佐緒里の周囲をとんだり跳ねたりしていた。

 そして、さんざん騒いだ後、彼女の前に出た。

「見てるぞー。おまえを見ているからなー。俺はずっと見てるんだ」

 大声で叫んでいた。たまたま通りかかった主婦が驚いて、駆け足で逃げ出してしまう。佐緒里は、つとめてポーカーフェイスだ。ここで自分のペースを崩したら負けであり、かえって付け込むスキを与えてしまうと気丈に歩き続けるのだった。



「だから、かまったらダメだって言ったでしょうが。よけいに調子にのるじゃないのさ。どうしてパンを食べちゃってるんだろうかねえ」

「かまってないよ。なんか、あったまにきたからパンを食べただけ」

「顔に似合わず、あんたの負けず嫌いは度を越してるわ」

 次に日のお昼時、佐緒里が那美に昨日の出来事を報告して、ついでに呆れられていた。

「睡眠薬入りのパンだったかもしれないじゃない」と、那美は不測の事態に陥ることを心配していた。

「ホームレスのおじさんが睡眠薬もってないでしょ」

「ストーカーなんだから可能性はあるよ。あんたはさらわれて、いろんなことをされちゃうんだから」

「それは、イヤ~ン」

 佐緒里は身をよじって、さらに紙パックのトマトジュースを、ちゅーっ、と吸い込んだ。少しふざけている。那美がまた呆れてしまう。

「くれぐれも気をつけなさいよ。甘くみてると痛い目に遭うんだから」

 そう忠告する那美の目線は真剣だった。



「うう~、今日もか」

 その日の帰り道、佐緒里はつけられていると確信していた。

 最寄り駅からアパートまでは十五分くらいなのだが、自分を見つめる強烈な気配に、腕の産毛がゾワゾワしていた。

「でも、負けない」

 ストーカーごときに自分のペースを乱されたくないと、相変わらずの頑なさである。走ったりすることなく、いかにも平静を装って歩いていた。

 高架下に差し掛かった途端、後ろから足音が迫ってきた。タッタッタと小走りに近づいて来る。

「よう」

 声をかけてきたのは、やはりあのホームレスだった。

「いまも見てたぜ。ずっと見てた。きれいな人だから、遠くからでもすぐにわかるぜ。へへへ」

 相手にしてはいけないと、佐緒里は口をギュッと閉めた。

「なあなあ、今晩はなにするよ。また朝までゲームやるか。あの戦争ゲーム、おもしろいなあ」 

 もちろん、佐緒里はそのホームレスとゲームなどしたことはないし、部屋にも入れていない。

「その前にメシでも食いに行くか。イタリアンなんてどうだ」

 シミだらけの服を着たホームレスが、とぼけた顔してイタリアンレストランへ行こうと言う。佐緒里は思わず吹き出しそうになったが、無闇に相手のプライドを傷つけないように平然としていた。

「ああ、でもスパゲッ、テーは胃にもたれるからな、寿司にしようか、寿司」

 パスタごときで胃がもたれるとは、ホームレスとして大丈夫なのかしら、といらぬ心配をしてしまう佐緒里であった。とうの本人は、黒ずんだ両手で寿司を握る仕草をしていた。食べるんじゃなくて作るほうかい、と心の中でツッコミをいれる。

 そのホームレスの地声は大きくて、周囲に二人が恋仲であることを知らしめるような勢いがあった。

 高架下を越えてもついてきた。さも親しそうに話しかけるが、佐緒里は一言も返していない。あまりしつこいので、どうしたものかと考えてしまう。人通りがあるので襲われる心配はしていないが、多少イラついていた。

 商店街に来ても、そのホームレスは離れなかった。腹がへったと多少ヘコんだ顔をしている。佐緒里はコロッケ屋に立ち寄り、もっとも安い肉なしポテトコロッケを十個ほど買った。 

「ほら、これあげるから帰りなさいよ」

 店員のおばちゃんにお金を払うと、振り返ってコロッケ十個が入ったビニール袋を差し出した。しかし、そこに彼の姿はなかった。どこかへ行ってしまったようである。

「もう、なんなのよ」

 ぷりぷり怒りながら、佐緒里が家路へと向かう。相変わらず強い視線を感じ続けているが、歩く速度は変わらない。どこかにコロッケを置いていこうかと思ったが、あのホームレスが拾う前にカラスや野良猫に荒らされる可能性がある。近所迷惑なことは避けたかったので、そのまま持ち帰ることにした。



「それで、今日のお昼はコロッケかいな」

 次の日のお昼休み、佐緒里からコロッケを五つもらった那美は自分のデスクにいた。

「しかも、挽肉の一粒も入ってない{すコロッケ}だよね。一晩経って衣がベチャベチャになっているし。まあ、うまいけど」

 文句を言いながら冷えたコロッケを平らげて、イモ臭いゲップを出して昼食を終えた。

「げっぷう」

 渡したコロッケをすべて食べきった同僚に満足しながら、佐緒里もムシャムシャと頬張っていた。

「話を聞くとさあ、だいぶなれなれしくなってきたんじゃないの、そのチビハゲホームレスな男」

「うう~ん、そうかも」

「だって、駅からずっとつけてきて、あんたの部屋までバッチリついてきたんじゃないの。ヤバいよ」

「やっぱりそうだよね」

 隠れ頑固な性格の佐緒里も、さすがに危険な状況になったと思っていた。

「課長に相談してみようか。前も誰だかがストーカー被害に遭って、課長がなんとかしたとかって聞いたことがある」

 業務課の上司である渡辺課長は、まだ弁当を食べていた。愛妻弁当であるが、おかずは特売ウインナーと餃子の二品だけである。。

「もう警察に相談するしかないかな」

 佐緒里の投げかけに対し、上司は食事を一時中断して答える。

「いや、大げさにするとかえって恨みを買ってしまう。警察が出てきても最初は警告だけだからな。もう少し様子をみよう」ということになった。

 すぐには警察沙汰にならないということに、佐緒里はホッとする。年上の男性からの助言はありがたく、少しばかり不安が和らいだ。お礼にと、冷めたポテトコロッケを一つ、ご飯の上に置いた。



 その日の帰り道、駅を出ると誰かがつけてくる気配があった。しかし佐緒里はルートを変えることなく、いつも通りの道をいつも通りの速さで歩く。弱気だと思われたくないのだ。

 高架橋が近づくにつれて背後がやかましくなった。ラッパや笛、タンバリンや太鼓の音が聞こえてくる。音調はデタラメであるが賑やかであり、意外にも楽しそうであって、たまらず振り返ってみた。

「うわっ」

 思わずのけ反ってしまう佐緒里だった。

 格好があまりにも派手過ぎな、あのホームレスがいたのだ。

 まずは帽子がテンガロンハットである。ホームレスが被っているとは思えないほどきれいなイエローがよく映えていた。しかも、ワッペンやリボンや鳥の羽や赤い羽根などの雑多な装飾品に溢れている。

 上着はなぜか白い女性用のブラウスであった。ボウタイ襟はエレガントであるが、あきらかに持ち主を間違えていた。下はズボンではなく、スカートなのが異色だった。しかもタイト気味であり、スジばった脚のラインがちっともセクシーではなく、できれば目撃したくはない光景だった。

「アッハーッ、ハイハイハイハイ、シャーッ」

 そのホームレスはハイテンションだった。

 右手に握ったタンバリンを揺らし、左手に持ったバチで胸に抱いた太鼓をボンボンと打ち鳴らし、意味不明な気合を発していた。おもちゃのラッパは首からぶら下げている。

「えっ、チンドン屋さん」と、佐緒里は目を丸くしていた。

「おまえは俺のものだっ。誰にもさわらせねえ。うひゃあ、ひゃっ、ひゃひゃ」

 ドンドンと太鼓を鳴らしながら大声で喚いていた。気丈な佐緒里であったが、さすがに早足で立ち去るしかなかった。



「いよいよヤバくなってきたみたいね」

 那美の表情が険しくなっていた。佐緒里も落ち込んでいる。

「まあ、そんなにおかしな奴がくっ付いてくるんだったら、しっかりと注意しないとな」

 渡辺課長である。この日は三人で話しながら昼食をとっていた。

 あのホームレスの奇行がエスカレートしている。早急に対処しなければならなくなった。

「僕がついて行こう」

 佐緒里は渡辺課長と一緒に退社することになった。最寄りの駅で降りて並んで歩いていた。ほどなく、あの高架下へと差し掛かった。

「おいおいおいおい、おまえは誰だ。関係ねえ奴は帰りな。ケガするぜえ」

 昨日と同じチンドン屋の格好で、あのホームレスが近づいてきた。男連れであることが気に入らないようで、胸に抱いた太鼓をバンバンと叩きながらの猛攻である。

「君―っ、いいかげんにしないか。これ以上、この女性に付きまとうと警察を呼ぶぞ」

 渡辺課長が叱咤する。黒縁メガネがギラリと光った。

「警察が怖くて、女を救えるかっ。俺はなんだってするんだ」

「ストーカー行為じゃないか、いい年しているのに恥を知れ」

「俺はストーカーじゃねえ。ただ見てるだけだ。ずっと見てるんだよ。悪いかっ」

「それがストーカーというんだ。立派な犯罪行為だぞ」

「知るかっ、シャー」

 そのホームレスと渡辺課長の言い合いが続いていた。課長は腕を組んでやや居丈高に、チンドン屋は太鼓とタンバリンで威圧し、ときどき{ぷひぇ~}とラッパを吹いた。それぞれがそれぞれの考えを主張している。

「とにかく、これ以上彼女に付きまとうと刑務所行きだからな」

 最後に警告して、渡辺課長と佐緒里が立ち去った。そのホームレスは、太鼓をドンドンと叩き、タンバリンをシャカシャカ降って、最後にラッパを吹いて見送った。



 次の日、渡辺課長は出社してこなかった。

「どうしたんだろう」と、昨日のことがあるので佐緒里は気に病んでいた。

「風邪で休んだんでしょ」那美は気にするなと言う。

「でも、あのホームレスさんとやり合っていたし」

「なんかされてケガでもしてたらニュースになる。なにもないから、なんでもないのよ」

 退社時間となり、佐緒里は心にできたしこりを気にしながら家路へとついた。いつもの駅で降りて暗い気持ちで歩き出す。誰かにつけられている気配を感じていたが、後ろを振り向かず、極力平静を装っていた。

 もうすぐ高架下を通過するという前に一時停止する。先にある暗がりをしばし見つめた後、深呼吸してから歩き出した。ほかに通行人はいない。耳を澄ましていたら、そこがあんがいと静かな場所だったことに気づいた。

「お~まえー」

 高架橋の影の部分に入った途端だった。

「うう~」

 薄暗い中から呻きながら男が近づいてきた。あのホームレスである。

 チンドン屋の服装はそのままだが、ひどく汚れていてところどころ破けていた。タンバリンを振っているが、大きく破損しているため間のぬけた音がカシャカシャと鳴っていた。胸に抱いていた太鼓はなかった。顔は赤や青に変色して腫れあがり、ブラウスには血もついていた。あきらかに怪我を負っており、それは誰かにやられたと考えるのが自然だ。 

「だ、大丈夫?」と思わず言ってしまってから口をつぐんだ。相手は敵だと肝に命じる。

「おまえを見てるからな。なにがあっても、ずっと見てるんだ。ひひひ、シャー」と叫んだ。

 佐緒里は駆け足になった。後ろを振り返らずに真っ直ぐ進む。高架下を抜けて百メートルほど離れてから立ち止まった。一呼吸おいて首だけ回した。

 あのホームレスの姿は見えなくなっていた。安心して胸をなでおろそうとした時だった。 

「あんたっ」

「きゃっ」

 急に声をかけられて、びっくりした佐緒里は十センチほど跳び上がってしまった。

「もう、ここを通るな。あんたは見られてんだ。あいつに、いつも見られてんだ」

 聞き覚えのある声だが、切迫感があって針先のように尖っていた。

「ベンさん」

 突然現れたのは、元祖高架下のホームレスである通称{ベンさん}だった。

「元気になったんですか。もう大丈夫なの」

 久しぶりの再開にうれしくて、すがるように話しかける。だが元祖高架下のホームレスは、佐緒里に対してフレンドリーな応対をしなかった。

「気をつけるんだぞ。あいつはキレてやがる。女の格好してるけど中身はイカれた鬼だ。鬼畜なんだ」

 元祖高架下のホームレスが鋭い目線で見つめている。佐緒里ではなく、彼女の後ろを凝視していた。

「行きな。ここはワシがなんとかする。話してわかる相手じゃねえが、そん時は力づくでもやってやる」

 ウラーッと気合を入れて走って行った。危険が迫っていることがわかった佐緒里は、精いっぱいの駆け足でその場を後にした。



「それで、あの女装のチンドン屋ホームレスが襲ってきたの」

「そうだと思う。ベンさんが走って行ったから、その後がどうなったかわからないんだ。わたしは走って逃げたから」

「たぶん、ベンさんとストーカーが闘ったのね」

「うん。わたしを助けてくれたんだよ」

 次の日、公園のベンチに座り二人のOLが昼飯を食べていた。カロリーの少ないサラダサンドを少しずつ齧り、佐緒里が昨日の出来事を力なく話していた。那美はスタミナドリンクをグビグビ飲んでいる。

「渡辺課長も病欠が続いているし、ベンさんに、もしものことがあったらどうしよう。もう、警察に相談したほうがいいかもしれない」

「でも被害届を出してもすぐに受理されないから、別の方法を考えたほうがいいよ」

「どうしたらいいの」

「極力、そのストーカーを避けないと。いつもの駅じゃなくて、ひとつ前の駅から違う道を歩いたほうがいい」

「しばらくタクシーを使おうかな」

「お金がかかるでしょ。遠回りするだけで十分よ。ストーカーにナメられないように気を強くもって」

 那美に励まされたが、佐緒里からはいい反応がなかった。ため息をついて小さく頷くだけだった。


 

 その日の帰り道は一つ前の駅で降りた。遠回りとなるが、あの高架下を通るよりは安全と思われる。タクシーという選択肢もあるが、金銭的に毎日続けるわけにはいかない。新たなルートを構築する方が現実的だと判断した。

 日暮れ時、河川脇の遊歩道を歩いていた佐緒里は、誰かの視線を感じて一瞬立ち止まった。あたりを見渡すが、ブラウスを着て太鼓を叩くような怪しい人物は見当たらない。だが、どうにも胸騒ぎがしていた。

「警察に通報したほうがいいかも」

 そんなことを考えながら歩きだすと、背後からいきなり肩を捉まれた。

「きゃっ」

 悲鳴をあげて振り返ると、顔面血だらけの男がいた。

「課長」

 なんと、そこにいたのは病欠していた渡辺課長だった。

「あいつだった。いつも君を見ていたんだ。証拠をつかんだが」

 そこまで言って倒れ込んでしまった。あわてて介抱する佐緒里に、「逃げろ」と告げて静かになった。

 背中に大きくて硬い突起がある。しかもヌルッとした感触があって、とっさに手を引っ込めてしまう。その凶器を知った佐緒里がふたたび悲鳴をあげた。

「いやーっ、血」

 渡辺課長の背中にあったのはナイフであった。深く突き刺さっており、だから出血していたのだ。

「はっ」とし佐緒里が見上げると、向こうの暗がりに誰かが立っている。ただならぬオーラがあった。それは殺気に等しく、空気を揺らす禍々しさに満ちていた。

「逃げろー」

 瀕死の渡辺課長であったが、それだけ言うために地獄の誰かと取引したのだろう。「課長っ」、と佐緒里が叫んだ時に息絶えてしまった。

 佐緒里は逃げた。遊歩道はすでに暗くなり、まばらに配置された街灯がポツポツと点き始めていた。

「誰かたすけて」と走りながら叫ぶが、タイミングが悪く周りには誰もいない。後ろからは怪しい人物が追ってくる。そいつが渡辺課長の背中にナイフを突き刺したのだと、佐緒里は確信していた。

 走りながらスマホを取り出すが、焦るあまり手許が滑ってしまった。生け垣の中へ落ちて見えなくなってしまう。探しているヒマはない。

 だから、また走り出した。人がいる方へ向かえばいいものを、動揺しているためか逆説の心理状態となって、人がいない方向へと走ってしまった。後ろから迫ってくる影が大きくなって揺れている。もう追いつかれてしまうと諦めかけた時だった。

「おりゃー、シャーッ」

 なんと、あのチンドン屋ホームレスがとび出してきた。

 彼は佐緒里の行く手に立ちはだかった。胸の太鼓はカラの一斗缶となり、タンバリンの代替は幼稚園児用のカスタネットである。

「あんたはどこかに隠れていな。俺はあんたを見ていた奴をずっと見ていたんだ」

 そのホームレスが一斗缶を打ち鳴らし、カスタネットをカチカチやりながら佐緒里の脇を通りすぎて突進してゆく。シミだらけとなったブラウスのリボンが、ひらひらと風になびいていた。

「おまえを見ていたぞ。ずっと見ていたんだ。この異常者め」

 相手に語りかけているのではなく、言葉を勢いよく叩きつけていた。カチカチやっていたカスタネットを投げつけて、胸に抱いた太鼓代わりの一斗缶を両手で掴んで高々と掲げた。そのまま振り下ろして頭に打撃を与えるかに思えた。

「ぐわっ」

 しかし、そうはならなかった。相手が素早く手を出した途端、そのホームレスが呻いて後退してしまう。一斗缶を落として首を手で押さえている。指の隙間から血がだらだらと流れ落ちていた。

 相手の右手にナイフが握られている。暗がりでもギラリと光るその刃先からも血が滴っていた。

「那美っ」

 佐緒里が叫んだ。那美が突進し、チンドン屋ホームレスにナイフを突き立てる。

「やめてーっ、なにやってんのよ」

 なんと、ナイフを持って襲っているのは那美だった。鬼のような形相で何度も手を突き出した。

 そのホームレスは首に受けた最初の一撃以外、中年らしからぬ軽快なフットワークで攻撃をかわしていた。ただし出血は止まることなく、指の間から溢れ出る血は生命の危機を感じさせた。

「血を止めなきゃ」

「あんたは来るなーっ」

 助けようと近づく佐緒里へ、そのホームレスが叫ぶ。那美が突き出したナイフをぐさりと鎖骨で受け取り、ポケットに仕舞いこんでいたもう一つのカスタネットでぶん殴った。

「ぐはへっ」

 OLとは思えぬ極男性的な嗚咽だった。顔を硬い楽器でぶん殴られた那美の目頭が切れている。彼女の凶器は、そのホームレスの鎖骨に刺さったままだ。 

「那美、あなたがストーカーだったの」

「ああ、そうだよ」

 那美の声はドス黒く濁っていた。

「どうして」

「佐緒里を見ていたいからさ。ずっと見ていたいから。骨になるまで見ていたい」

 正直いって気持ちが悪いと思ったが、そのことを口に出すことはしなかった。不敵な笑みを浮かべる那美を見つめながら、佐緒里はホームレスを気にしている。

「佐緒里が誰かと仲良しになるのが癪にさわってどうしようもない。腹が立って、腹が立って仕方ないんだ」

 那美の両手には新たなナイフが握られていた。どんだけもってんだと佐緒里は驚き、そして呆れてしまう。

「なぜ、あたしが苦しまなければならないんだ。あたしは、ただ佐緒里を見ていたいだけなのに。それなのに、ほかの者が佐緒里を見てしまう。許せない」

 ナイフを持った那美が佐緒里へと向かっていた。走ったりはしない。愛おしそうに首を傾げ、そして眼光を鋭く保ったまま、じりじりと近づいていた。

 猟犬にポイントされた子ウサギのように、佐緒里は動けない。精神的な緊縛がきつくて体が硬直してしまっていた。

「佐緒里はあたしのもの。誰かにとられるくらいなら、生皮を剥がして、それを着てやるー」

 残虐すぎることを言われて、佐緒里は心の底から戦慄する。鳥肌がサメ肌となって、かなりの気色悪さを感じてしまう。自ら生皮を脱ぎたい衝動に駆られていた。

 那美が目の前にいた。両手に握られたナイフを顔の位置まであげて、人というよりは、魔物に近い表情をしていた

「きゃあ」

「ブゴッ」

 佐緒里の悲鳴と同時に那美も苦しそうな声を出した。右手で握っていたナイフが空を飛び、地面に落ちた。鼻が潰れて鼻血を出している。上唇も腫れてめくれ上がっていた。

「ふへへへ」と不敵な笑みを浮かべるのは、あのホームレスだった。佐緒里の後ろから走ってきて、那美に頭突きをかましたのだ。

「俺はおまえを見ていたんだ。ずっと見ていたからな。へへへ、へへへ」

 白いブラウスのリボンが赤く染まっている。女性の服装と間のぬけた中年男の表情が絶望的にアンバランスであった。

「うっせー、ジジイ、死ねやー。はいやーっ」

 鼻血を垂れ流し、真っ赤な歯茎を見せつけながら那美が起き上がり、イノシシのような勢いで襲いかかる。左手にはナイフが残っていて、やたらめったらに振り回した。

「ぬおおおおおーっ」

 そのホームレスの拳も負けてはいない。左手で首をおさえているので右手一本の拳闘なのだが、しょぼくれた無職男性とは思えぬほどの連打であった。しかもカスタネットを握っているので、パンチ力の硬度は倍以上に強化されていた。

「死ねー、死ねー、クソオヤジッ」

「ぬおー、ぬおー、シャーッ」

 ナイフの左手とカスタネットの右手が激しくぶつかり合っていた。暗闇の中から、バチバチと激しい音が響いている。そのホームレスは全身を切られて血だらけになっていた。

 いっぽう、那美の顔面も著しく腫れあがり内出血でドス黒かった。瞼や唇が水風船みたいで、さらに殴られ続けて皮膚がパックリと割れてしまった箇所もあった。

 河川脇で死闘が続いていた。やや栄養失調気味の貧相なホームレスと標準体格のOL女性なので重量感はなかったが、えもいわれぬ気迫に満ちた生死のやりとりは、もはや劇場であった。

 佐緒里は茂みに落ちてしまったスマホを捜すことも、通行人を捜して助けを求めることもしなかった。呆然と見ているだけだ。

「く、くっそジジイ」

 口の中に溜まった唾液混じりの血液をぺっぺと吐き出して、那美の腐った魚の眼が睨みつけた。

「み、見ているからな。へへ、へ」

 十数か所の刺し傷と切り傷により、そのホームレスは満身創痍だった。彼の姿は痛々しさを通りこして、もの恐ろしくもあった。

「これ、からは、おまえと、ず、ずっと一緒なんだな、へへ、へへへへ」

 ヘラヘラと笑いながら、そのホームレスがカスタネットを投げ捨てた。そして股の中から取り出したのは、ポータブルコンロ用のガスボンベである。血だらけの手が缶切りを持っていて、表面を切り裂くように穴を開けた。

「プシュッ」

 燃焼性のガスが勢いよく噴出した。そのホームレスは、ガス缶をお腹に抱えてライターで火を点けた。

「ぬおおおおおおーっ」

 女装した血だらけの中年男が雄牛の叫びを発し、腹部から炎を吹き出していた。すっかりと陽が落ちた川沿いの遊歩道で、煌々と燃えさかる男がいた。

「うきゃっ、は、離せ」

 そのホームレスが那美に抱きついた。二人の間には炎を吹き出すガスボンベがあり、あっという間に炎に包まれた。どうやらブラウスにあらかじめ灯油を染み込ませていたようであり、だから燃える速さと勢いが尋常ではなかった。黒い煙がモクモクと立ち昇っている。

 那美は逃げらない。そのホームレスの抱きつきは強力であり、まさに死の抱擁であった。

「見ているぞ、見ているぞ、ずっと見ているんだ。あんたが骨にまで見続けてやる。へー、へへへ」

 バチバチゴウゴウと燃えるそのホームレスが一度だけ振り返った。佐緒里を見て大きく頷いた。彼女には笑っているように見えたが、あくまでも心の中でそう記憶しただけである。じっさいは炎で覆われていて識別不能だった。

 警察や消防がやってきた時には、那美とそのホームレスは焼き尽くされていた。真っ黒に焦げた焼死体はしっかりと抱き合っており、肉体の一部は融合さえしていた。



「あんたさんがあげたタイ焼きがな、よっぽどうれしかったんだろうよ。奴さん、うまれてから人に良くしてもらったことなんてねえって、毎日吐き捨ててたからな」

 いつもの高架下で、佐緒里が差し出したタイ焼きを頬張りながら、ベンさんがしみじみと語っていた。

「あいつは見ていたんだ。あんたさんをつけ狙っているストーカーをな。あいつがあんたさんにつきまとっていたのは、そのストーカーに警告していたんだよ。これ以上つけ狙うんだったら、俺が相手になるってな」

 ベンさんは、タイ焼きの合間にカップ酒をチビリチビリとやっていた。病み明けなので飲みすぎないようにと、佐緒里がやんわりと注意する。

「おっかしな格好までして奇抜に振舞ったのは、異常者のフリをして、あの頭のおかしな女を遠ざけるためだったんだな。生真面目で無口な男にしちゃあ、がんばったほうだ。死んじまったが、まあ、相手もろともだから本望だろうて」

 あのホームレスと那美は焼死してしまった。渡辺課長が殺されてしまうという殺人事件になってしまったが、佐緒里へのストーカー行為は元から断たれた。

 同僚をつけ狙っていた女の動機は不明だ。頭がおかしかったのだとか嫉妬だとかといわれたが、真相は謎のままである。

「那美は私が好きだったのかしら。うう~ん、でも女は微妙だなあ」と苦笑いである。

 佐緒里は、よくタイ焼きを買っている。高架下のゲンさんだけではなく、河川敷や地下道のホームレスたちにも配っていた。とくに見返りを期待しているわけではない。あの孤独なホームレスの供養になるのではと、なんとなく思っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホームレス、ストーカー 北見崇史 @dvdloto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る