碌でなし高学歴プアの無双世界

@Tomasatake

碌でなし高学歴プアの無双世界

【序節】

「(ふぁぁ)」

 欠伸を噛み殺した柴門槍馬は、皇帝の眼が光る執務室で上等な綿が詰め込まれた寝椅子(カウチ)の上に寝そべっていた。

 周囲は意匠を凝らした調度品で埋め尽くされ、紅燭灯(ランプ)の燃料とされる牛脂に混ぜられた耶悉茗(ジャスミン)の香りが部屋全体を包み込んでいる。柴門が背中を預ける寝椅子も、庶民が三度の人生で稼いだ全財産を擲ったとしても手に入れることすらできない非常に高価な品である。

「(ふあぁぁぁぁ)」

 そしてもう一度、欠伸を噛み殺す。が、どうやら音が漏れて仕舞ったらしく、皇帝の鋭い眼光が柴門に飛ばされた。一度目は皇帝の顳顬(こめかみ)が微動するだけで済んだが、今回は烈火の如き視線を柴門に刺している。

 しかし、柴門は実に不敵な男であった。皇帝の双眸に炎が灯ろうとも、皇帝が憤怒を込めて筆をへし折ろうとも、その不敬極まりない態度を改めようとしない。同じ姿勢のまま、将棋盤に眼を遣っている。

 しかも、この柴門槍馬という男は先日、在野採用された者だというのだから驚きだ。長年仕える重臣なら不敬な態度が赦されるものかと問われれば否であるが、新入りであるならば猶更、恭しいまでに礼節を重んじた姿勢が必要とされる筈である。

 では、どうして柴門は怠惰な生活が見過ごされているのだろうか。

 それは、

———柴門がその不遜さで帝を魅了したからである。

 ———柴門がズバ抜けた知識量と思考力で帝を籠絡させたからである。

 ———柴門が一二〇〇年先の世を生きる未来人だからである。

「ふあぁぁぁぁぁあ」

 三度目は堪えることすら諦めて、大きな欠伸の音を上げた。

「おい貴様。その欠伸は儂の耳にも届いて居るぞ。儂の癇癪を逆撫でて居るぞ?」

「失礼。ここ数日、あれやこれやと忙しくてねェ。俺は公な存在じゃねェ分、夜行性の生活を強いられてンだ。欠伸のひとつくらい見過ごして欲しい処だぜェ?」と柴門は軽く顔を上げた。

 そこには、温厚篤実と称される帝の般若面があった。

 顳顬には甜瓜(メロン)バリの青筋が趨り、はち切れんばかりに膨れ上がっている。そして、双眸は蜘蛛の巣の様に血趨り、帝の堪え切れない怒りを代弁していた。

「その年齢で血管破裂は洒落にならねェ。だったら、その紅燭灯の匂いを嗅ぐといいぜェ? 確か耶悉茗には、血圧降下作用と鎮静効果があった筈だからよォ」

パチン———柴門は帝が歩兵を詰めたことを確認してから、直ぐさま持ち駒の飛車を敵陣に指す。

「貴様、朕に媚薬を嗅がせて何をする気じゃ?」帝は林檎を緋染料で染めたかの様な真っ赤な顔で柴門を睨む。

「媚薬を執務室に焚いてンのかァ? まァ、俺も此処で寛ぐことが許される程、暇でもねェンでなァ。この対局には見切りが付いたことだしよォ、そろそろお暇しねェとなァ」

「何じゃ貴様、逃げるのか? 勝負を諦めると言うのか? 朕の勝ちで良いのじゃな?」

「何言ってンだ。飛車角落ちで負けたくなきゃ、俺を引き留めるべきじゃねェぜェ? 夕餉の蔬果は俺のモンになっち舞うが、それでも構わねェなら———」

「何を言って居る。どう見ても朕の圧倒的優勢ではないかッ!!」

 柴門は呆れ調子で睥睨すると、脇で対局を見守っていた老練の最側近に『説明して遣ってくれ』と視線で合図を出す。

「陛下。これはあと四手で詰みですぞ?」最側近が額の皺に手を当てて、申し上げ難そうに言う。

「な、何ッ?」

「まァ、そういう訳だ。俺は八百屋の長兵衛さんじゃねェンでね、勝負事は何時も真剣勝負って決めてンだ。だがよォ、余りに哀れな帝の姿に俺の良心が疼いち舞ったせいで、見逃して遣ろうってンだァ。この耶悉茗に絆されたかァ?」

 柴門はポンと跳ねるようにして寝椅子から飛び起きると、衣装の乱れを整えて執務室を後にする。

「やっぱり貴様という大虚け者には病み付きじゃ。貴様が居れば暇を持て余す暇もないわい。これからも期待して居るぞ」


 これは、つい数週間前まで、高学歴プアとして現実世界から見放されていた柴門槍馬が、現実世界で身に付けた膨大な知識と卓越した思考力を駆使して駆け回る、異世界冒険譚なのである。



【第壱話 転生】

「(俺はこのまま、魔法使いになっち舞うのかねェ)」

 夜街を照らす街灯は分厚い寒色カーテンによって徹底的に遮断され、カビ臭く埃っぽいこの部屋は物悲しく光るパソコン画面によってのみ、その輪郭が浮き上がっていた。

 闇夜に紛れた空間で二九歳十一ヶ月を迎えた柴門槍馬は、頭を空にして自分の無能を嘆いていた。

(あと三十秒ねェか……)

 闇の底冷えを伝える木製机に両腕で顔を埋めている柴門は、肩凝りを感じて、ユラユラと揺れながら風前の焔の様に力なく顔を上げた。明度対比に視界を眩まされつつも、闇と光の中和状態に眼を慣らすと、画面に映し出された数列の概形がハッキリとしてくる。

 パソコン画面に大きく表示されたデジタル時計は2023年5月1日23:59:37を刻む。

 柴門の三十歳の誕生日まであと僅かに二十三秒である。

(すっかり零落れち舞った……天才鬼才、生き字引と言われた俺の才能は何処行きやがった……)

 柴門槍馬の知力は卓越していた。だがしかし、その頭脳は現実社会では使い道がなかったのだ。

 AIが占拠する時代では、辞典級の知識格納庫は用を成さない。また、比類無いその思考力も、柴門の不遜さが邪魔して煙たがられた。そんな柴門を一言で形容して仕舞えば、『高学歴プア』なのである。

「はァ、いっそ魔法使いにでもなって、知らねェ世界に行きてェぐれェだ」

 冷え切った空間に言葉を吐き出したところで、返ってくる感覚は口に張り付く無機質な冷涼感。言葉と一緒に吐き出される空気の流れが、部屋を漂う埃の落下軌道を揺らし、それがブルーライトに煌めいて舞台演出のスモークの様に見える。

 そんな舞台演出が脚光を浴びせる対象は、この碌でなし柴門槍馬。実にスモーク映えしない男である。

 机の縁に肘を押し当て、左眼と口を覆う様に頬杖を突いている。

(はァ、こんな馬鹿な夢見てる内はよォ、明日も変わらずコンビニで気怠ィ接客業に勤しんでるンだろうよォ……はァ情けねェ)

 今度は尻の下に敷いていた左手を取り出し、顔全体を両手で覆う。理不尽な現代社会から逃避する様に。

 寂寞が包むこの部屋では、置き時計の秒針が鳴らす打刻音が良く響く。

 刻一刻と華の二十代の終わりは近づいていた。

「(明日は夜勤組との交代で勤務だっけかァ…? 明日の朝は早ェなこりゃ)」

 一日が喰い繋ぐためのバイトと疲労を癒す虚無で構成されている柴門にとって、バイトシフトは半田鏝(はんだごて)で脳に直接焼き付けた様に、体内時計に組み込まれている。生き甲斐という美しい響きの言葉が、『バイト』の三文字で表現されている男なんてこんなもの。

———三、二、一

「あばよ、俺の二十代。そろそろズラかるぜ」

 青さの残る二十代、最後くらいは気障な台詞で締めようか。そんなことを思ってみた柴門だったが、頬骨の頂部から顎裏の凹みにかけて無精髭を散らし、垢の浮く粗雑な印象を与える髪の柴門に、そんな台詞は似合わない。

 突然、電力供給を断たれた機械の様にガクンと頭を天板に落とし、三十歳の瞬間を目蓋の奥で過ごすこととなった。

「起きてください!! 起きてください!!」

 柴門はその声で眼を覚ました。電子音以外に起こされたのは何時振りだろうか。

 柴門は眼を擦ることで霞む視界を明るくすると、そこには誠実そうな若者の姿があった。眼の下には薄らと隈が浮いているが、それは不摂生の象徴ではなく、勤労の証だろう。そんな印象を即座に植え付ける真面目な声質だった。

「あァ……」

 柴門は若者の顔をそこそこに辺りをグルリと見回す。映り込んできた景色は、郷土資料館で見掛ける様な古めかしい什器ばかりであった。明らかに其処は自宅の一室ではなかった。

「此処は何処……だァ?」

「此処は私の屋敷の寝間です。海辺で倒れているのを見付けて、このままでは夜盗に狩られて仕舞うと、この屋敷に連れ込んだ次第です」誠実な好青年はその答え用意していたのか、淀みなく返す。

「……俺が海辺で倒れてたって、かァ? そんな真面目そうな顔して俺を騙そうって———ハッ!!」柴門は好青年に喰って掛かろうとしたその刹那、何かに気が付いた。処刑現場に居合わせた人物の様に顔を引き攣らせ、瞳孔を完全に開き切った。

「オイ、お前ェ!! 此処は何処で、今は何時だァ!! 俺は二度同じことを訊いてンじゃねェ。地理と時代を訊いてるンだ!!」

 好青年は柴門の鬼気迫った形相に慄きつつも、言葉を選んで返答する。

「此処は上東(シャントン)にある湊町でして、今は龍泉帝三年の春ですが……これでご期待に添えたでしょうか…?」

「やっぱりそうか。念の為、もうひとつ質問させてくれ。『便利店(コンビニ)』って何か知ってるかァ?」柴門はコンビニを普通語(プートンファ)で発音する。

「いえ、西から伝わった植物でしょうか…?」

 この時機(タイミング)で柴門は確信した。———ここは異世界なのだと。三十歳手前に夢想した馬鹿な空想が現実となったのだと。

 それから、柴門は自分が未来人なのだと懇切丁寧に説明した。科学が信じられて居ない世界だからこそ、その好青年の飲み込みは早かった。未来人であることに一目置きつつも、親しげに接しようとするその態度は、この好青年の人好きのする性格を表している。そして、柴門が海辺で倒れていたという話を詳しく訊いた。とは言え、収穫は殆どなかったが。

「柴門槍馬さんと言うのですね。四文字とは珍しい。私は尊海と申します」と、遅れた自己紹介を挟むと、「海辺で陸風に曝されていては寒かったことでしょう。重鑛と白湯をお持ちしますね」

「助かるぜェ。歯磨きせずに異世界(ココ)に来ち舞ったみてェで、口の中が不快で堪らねェ。俺口臭くねェか、大丈夫か?」

「成程、畏まりました」

 好青年は箪笥から陶製の湯飲みを用意し、鉄瓶を傾けて湯を注ぐ。箪笥の奥から取り出した麻袋を軽く振り、乾し占地の様な形状の茶色い薬草を湯飲みに流し込む。茶葉の様に湯を茶色に染めることはなく、底に沈殿したままである。

「えっと、其奴は何だ…?」

「丁子でございます。まぁ、鶏舌香とも言いまして、口臭対策(ブレスケア)に一役買う薬草ですね」

「成程。婉曲的に俺の口が臭ェと伝えてくれて、その心意気には感謝しようかァ。じゃあ頂こう…って苦ッ!!」

 男は口に含んだソレを取り出し、凝視する。すると、何かを理解した様に首を上下に何度か振り、

「……あぁ、これって古本説話集の『平中が事』に出てくるヤツかァ。そういやぁ、此奴を飲まされて皇帝から毒を喰らわされたって勘違いした老臣が居たとか居ないとか」

 そう。鶏舌香は効果のある口臭対策なのだが、如何せん苦い。『平中が事』では、余りの苦さで鼠の糞と判別が付かなかった程度には酷い味である。

「フフ、失礼しました。ですが、それを服用されますと、口内がスッキリするかと思います」

「成程なァ。まさに良薬は口に苦しって感じだな」

 孝行者は何となく柴門との距離感の詰め方を理解した様だった。柴門が苦い苦いと溢しながらも完飲した処で、

「そうですね。えっと、もうそろそろ朝餉でしょうから、母に掛け合って事情を説明して参ります。この場で寛いで頂いて構いませんから」

「朝餉まで振る舞って貰えるのかァ? 正直助かるぜェ」

「未来からお越しになった方であれば、伝手(ツテ)もないでしょうし。遠慮せずに夕餉まで食べて行って下さいな」そう言い残して屋敷の奥へと消えて行った。

 しかし、この好青年はこの柴門が『不埒の輩』である可能性を考えないのだろうか。あの好青年が言うに、この時代の男性は頭の冠で評価されるらしい。柴門は当然何も被っていない訳で、狗盗とも蒼頭(どれい)とも学者(ガリ勉)とも、区別が付かないのだ。

 柴門は無償の信頼を壊す訳にもいかず、温和しく足を投げ出した箕踞の姿勢のまま、好青年が再び遣って来る時を待った。

「できあがりましたぁ」

 襖が開かれ飯と羹を載せた漆盆を持った女性が遣って来た。恐らく尊海の母親だろうと見ていると、その後ろから尊海が顔を出した。

「紹介します。私の母の海深と妹の海霞です。もう直、父の博真が遣って来ると思うのですが。父にも話は付いていますし、どうぞご自宅だと思ってお寛ぎ下さい」

 柴門は尊海が指差しで紹介するのを目線で追った。

 海深という母親も海霞という名の妹も、実に男好きのする容姿をしている。

 両者共に何処かの令嬢と貴族かと見間違う程、美しいのである。それに、長着を内側から押す双丘は眼に毒であり、黒髪としなやかな姿態が一層の美しさを際立てる。衣装は花魁が身を包むような派手な衣ではなく、庶民らしい裾(スカート)と襦(チョッキ)であるから、その美貌との釣り合いが取れていない。

 柴門が『どうも』と挨拶しようとするや否や、

「あらぁ、結構いい顔をしていらっしゃるじゃない。随分と好漢(イケメン)ねぇ。家のお人好しもいい人連れて来るじゃない?」

 柴門が呆気に取られて見ていると、湯に混ぜた砂糖の様によく融ける母親の姿を見て娘の海霞は呆れた様に、

「母様……お客様相手に品定めなんてどうかしてますって……格好良い!! ———はっ、失礼しました!!」

 どうやら一家揃って面喰いの様だ。柴門も好漢(イケメン)だという自覚はなかったが、美女二人に揃って褒められれば悪い気分はしない。『まさかこの異世界、美男美女の基準が逆転してたりしねェだろうなァ!!』

柴門の世界基準で評価すれば、妹さんは街中の男の視線を総取りする美貌を誇っている。なので試しに、「なァ、尊海。美人な妹を持って幸せだろォ? 羨ましい限りだァ」

「そう言えば言い忘れていたことがあったのォ客人風情。———家の娘が特別可愛いからって手を出すんじゃねェぞ!! 指一本でも触れたらこの儂が晒し首にしてやらァ!!」突如、父親である博真から驚きの野次が飛んだのだ。

 娘溺愛父親・博真の気迫に気圧されたが、柴門も中々に豪胆で、「大きな胸は俺の守備範囲外。だから決して触手が伸びることはねェ」

「自慢の娘に魅力を感じないと切り捨てられては癪じゃが、許すとしよう。じゃがこれだけは言わせておくれ。海霞はこの辺りじゃ一番の別嬪さんじゃ。胸は勿論、容姿かて争えるのは家の妻くら……うわぁぁ痛いじゃろう!! 儂には優しくしてくれよぉ、海霞ぁ!」

 父博真は大黒柱たる威厳なく、齢僅か十七の少女にひっ叩かれた。凶器は先程まで飯と羹を載せていた漆盆だった。

「そもそも初対面の男性に……家の娘は胸がデカいんですって自慢するなんて、どんな羞恥行為(プレイ)よ!! もう明日から、朝一緒に顔洗ってあげないんだからッ!! べべべ別に、父様のことが好きで今まで一緒に顔を洗ってた訳じゃないんだし!! ただ一緒に洗った方が効率的だって思っただけだからなんだしィ!」

 顔を真っ赤にして仁王立ちで叱り付ける海霞。その姿勢だとより胸が強調されるのだが、柴門は敢えて言わない。取り敢えず、天然物のツンデレキャラを目の当たりにしたことに感銘を覚えて置いた。

「海霞もう齢十七ですよ。親離れして貰わなくてはならない時期なんですから、過保護もそれくらいにしといて下さいね。ほらもう、折角の朝餉が冷めて仕舞いますよ」と娘に続いて海深が追撃する。

「あぁ、じゃぁ、頂こう……」

 博真は消え入る様な声で朝餉の号令を掛けた。見かねた妻海深は『この羹は海霞がつくってくれたのよ』と小声で囁き、乾涸らびた蚯蚓ライクな博真に水を与えていた。

 男尊女卑が強い古代でも家の実質的権力は女性陣が握っているものなのかと、古今東西普遍の真理を見出して慄くのは柴門である。手を付けようとしていた羹を啜るのを躊躇った。

 そんな流れる微妙な雰囲気を何とか解そうと、海深が柴門に声を掛けた。

「見苦しい処見せて仕舞ってすみませんねぇ。ほら、どうぞ。柴門さんも召し上がって」

『どうも』と適当な返事をしつつ、『結局、俺って現実世界基準でもイケメン扱いだったンか…?』と呑気なことを考えながら羹をズゥーと啜った。



【第弐話 失踪】

 柴門が居候している家族は母親の海深以外、皆宮廷に働きに出ている様で、今日は珍しく三人の暇が被った時期であった。

 ただ家族全員が屋敷で団欒するということはせずに、四人とも三々五々に散っていった。

 父博真は娘に吐かれた暴言の傷が癒えないのか、居間の隅を埋める様に蹲踞(体育座り)の姿勢で易学書を読み込んでおり、母海深と子尊海は夕餉の食材調達のために城内の市場へ向かった。どうやら夕餉では豪華な食事が振る舞われる様だ。海霞の行方はよく知らないが、博真に問うところに拠ると近所の屋敷で子守を引き受けているとのことだった。

「なァ、博真の親爺。俺にこの世界を案内してはくれねェかァ? このまま引き籠もって居てもよォ、強制行事(イベント)は舞い込んで来そうにねェし」

 柴門は暇を持て余した挙げ句、悲壮感を纏った博真に声を掛けた。勿論、若干の申し訳なさに突き動かされたという動機もあるが。

「……あぁ、勿論。さっきは見苦しい様を曝して仕舞い申し訳ない」

「あの年頃の女は扱いが難しいことで有名。それに、あの属性と来ちゃァ猶更だわなァ」

「言葉では儂に罵詈雑言を吐くのじゃが、態度ではその真逆を行くというか……それ故愛娘の気持ちを測り兼ねて居るのじゃよ」

「異世界の常識じゃァ、態度の方で理解して遣ると良いってことになってンだ。簡単に言えば、海霞さんは親爺のこと、嫌ってない筈だぜェ?」

「そうなのか。良く分からぬが、恋愛巧者たる風格の柴門殿が言うなら、間違いないのじゃろうのぉ。そう受け取って置くことにしよう」

「まァ、唯一、俺が恋愛巧者だってことは大間違いだがなァ」ボソリと呟かれた声は博真の耳に届いていない様で、

「では、散歩にでも向かおうか。然すれば、儂の気は晴れるかも知れぬ」そう上向きに言うと、膝をポンと叩いて立ち上がる。柴門も先程まで両脚が痺れていたが、美食が五臓六腑を潤し、火鉢の熱が痺れを解した様で、気付かぬ内にすっかり完治していた。

「そう言えば、柴門殿。お主、靴は持って居るか?」

「異世界転生は装備まで揃えてくれねェからなァ、この通りだ」

「良く解らぬが、『ない』ということで良いのか?」

「あァ」

 無駄の多い会話を終えると、博真は中庭から草履を取って来た。草履と言っても藁草履ではなく、木製の板に紐を通しただけの田下駄に近い代物である。

「儂よりもお主は背が高いからのぉ、キツいかも知れぬが少し辛抱してくれ」

「勿論だァ。裸足で糞を踏み付けるよりかはマシだからなァ」

三和土に素足で立ち、草履の横に脚を並べると丁度ぴったりであった。靴下はと言うと、中々に馨しい香りがしていたため、居間に脱ぎ捨てて来た。

「城内の市場に向かうつもりじゃから、そこで脚の採寸がてらひとつ麻履でも買ってやろう。麻履は非常に安価で、人から借りるまでもない言う意味で『不借』とも呼ばれるくらいだから、気にせぬで良い」

ペコリと頭を下げ、『謝謝』とだけ言って置いた。

 鍵を閉め四合院の屋敷を出ると、目の前の胡同は極めて賑やかな往来であった。

 海に続く方からは、漁具を担ぎ釣果を腰に回した竹籤籠に込めた男がゆっくりと歩いており、何時の時代も女は立ち話が好きな様で、ある一箇所に集まって噂話に興じている。その間を縫う様に犬が趨り、飼い主が慌てて追い掛けている。しかし、草陰に眼を遣ると負郭窮巷で暮らしている様な貧民が物乞いをしていた。

 この様に、この異世界には半獣人も魔族もエルフも居ない。地を這う四本脚も元の世界のそれと何ら変わらない。勿論、猫耳・犬耳コス、バニーすらも居ない。秋葉原よりも人間世界をしているのである。

 ここになって漸く気付く。———異世界転生ではなく、時空転移(タイムスリップ)なのではないか。

 しかし、柴門の思考を遮る様に、柴門の脚を突つくものがあった。何かとその正体に眼を遣ってみると、かなり見窄らしい貧民である。其奴は柴門に何かを言うではなく、ただ目線で何かを訴えるだけである。

「ほれ行くぞ」

「いや待て。早速、強制行事(イベント)発生しち舞ったみたいでよォ」

 柴門は博真に示す様に浮浪者を指すと、何かを察した諦めの面持ちで、

「まぁ気にせんでも良いのじゃが、社会勉強のために教えてやろう。コイツはウチの屋敷の前に棲み着いて居る卑賤の者でのぉ、柴門殿が脚を踏んだと言って銭を強請るのじゃよ。儂の愚息がお人好しなばっかりに一度銭を与えて仕舞ったがために、二度目の兎を狙って負郭窮巷から毎日ここへ来るようになって仕舞ったのじゃ。ほれ、これで餌付けして遣ってくれ」

 そう言って博真は銭袋から一枚取り出し、それを柴門に投げる。

 柴門も人間への餌付けは初めてであるから勝手がイマイチ分からないが、柵の中の動物の餌付けする感覚と同じだと思って、

「ほらよ」ポイと投げてみた。

「これで今日明日と飯には困らないだろうから、良いことして遣ったじゃないか、柴門殿。……あぁ、其奴は無愛想なんじゃのぉて、口が聞けない罪人じゃから、気を悪せんでくれ。剥き出しの腕に縞模様の入墨があるだろう? 縞の本数が犯罪歴でのぉ……」

「成程ォ」

「こういう輩は市場に行けば仰山居(お)るからのぉ、気を付けると良い。為ても居らぬ罪掛けられて銭を集(たか)られるだけじゃから。市場にはこの手の浮浪者だけじゃのぉて無頼漢(ヤクザ)も多いから、近くを通る時は要注意じゃぞ? まぁ、無頼漢は派手じゃから、見れば一発でそれと分かると思うがのぉ」

 この湊街は都から近く生活水準が比較的高いが故に、そのお零れに預かろうとする卑賤の者が日銭を稼ごうと遣って来るらしい。しかも負郭窮巷は城の外壁沿いに形成されるため、都の城郭に近いこの湊街は地理的にも好条件の様だ。

「取り敢えず、先に市場に向かって麻履を見繕ってから、この辺りを散策することにしようかのぉ? 夕餉は宴会じゃからちと遅いし、腹が減ったら露天商から鶏腿の串焼きでも買おうぞ」

 ざっと、今日の段取りと市場での心得を教えて貰った柴門。漠然と見習い錬金術師が怪しい婆から強奪(ふんだく)られる様子を思い浮かべ、それと比況してみる。

「おっと、その前に。柴門殿は銭を持って居らぬじゃろう? ちと少ないがこれが小遣いじゃ。串焼きなら五十、草履なら百は買えるじゃろう。スリも多いから、握り拳の中に仕舞って置くか紐に通して身体に括り付けて置くと良いぞ」

 今度はジャラジャラと銭袋からかなりの数の銭を柴門の両手に流し込み、髪を束ねていた紐を解き、それも素寒貧な柴門に渡す。『最初は儂の買い方を見て置きなされ。賢く買えば倍は買えるからのぉ』

 間抜けにカランコロンパコパコと板草履を鳴らしながら、市場へと向かった。

「ここを潜れば市場じゃよ」

 市場は四壁に囲まれ、市場に入るには東西南北それぞれの方角にある大門を潜り抜けなければならない。脇では見窄らしい小僧が行商人に日銭を乞うており、その反対側では大道芸師が軽業を披露して観客を集めている。どうやら、門の周辺は人通りが多いことから格好の稼ぎ場である様だ。

「ほれ、鯉の餌じゃと思って、此奴に銭上げてみなされ」

 そう柴門を促す様に、博真は日銭を欲しがる乞食に銭を与えよと言う。

 その乞食は継ぎ接ぎの酷い長着を身に付け、針金の様な瘦軀に黒く煤けた頬、方々に散った薄汚れた髪……典型的な齢十程度の孤児だった。だが、彼女の顔面は瑕疵なく整っている。身形が見窄らしい余り、その美貌には気付き辛い。チラチラ覗く翠眼は異国情緒漂う。

 『柴門殿はケチ臭いのぉ』と急かされて仕舞えば仕方ないので、訳も分からず調帯通し(ベルトループ)結んだ紐銭を解き、一枚を掌に載せる。

「ほらよ。これで何か喰ってくれや」

 すると、ニンマリと気色悪い笑みを浮かべた博真は、

「よし、これで柴門殿は安心して市場で買い物(ショッピング)できるわい。ほれ、お前。この柴門殿は遠くから入らしたお方で市場の勝手が分からぬそうじゃから、案内して遣れ。案内次第では、また銭が貰えるかも知れんぞ」

 成程。どうやら博真は市場に慣れない柴門のために用心棒を付けさせようという魂胆だったらしい。その策略には柴門も思わず舌を巻いた。

「おう、じゃあ宜しくなァ。俺のことは『ご主人様』って呼ぶと良いぜェ?」

 そう戯けてみた柴門だったが、それに応える様に乞食はコクンと頷いた。無論、呼び名の件は理解してくれているのか、不明であるが。何れにしろ、これにて柴門は異世界初の守護獣少女を獲得(ゲット)である。

 いざ門を潜ると、人の密度が異常だった。地価の安い田舎で暮らしていた柴門にとって、これ程の人口密度は久方振りである。

 ある区画では八百屋が並び、ある区画では酒屋が並び———と秩序立って列肆が建ち並んでおり、その隙間を埋める様に店舗を構えない坐賈が行商人によって営まれている。また、霊廟を起点として十字に太い道が走り、それを少し逸れると比較的細い道が並行または垂直に通っているという構造になっている。

「まずは何処に、行く……?」

 守護獣少女が市場の喧噪に掻き消されそうな小さな声でそう囁いた。

 勝手に乞食や卑賤の者の類いは口が聞けないものと思い込んでいた柴門としては、甚だ驚いた。敢えて記す必要もないが、柴門は守護獣少女の囁き声が意外に好みだったりする。

「んとォ、まず博真の親爺が何処かに連れて行ってくれるみてェだからよォ、その用事が終わったらだな」

 守護獣少女は『ん』とだけ呟くと、柴門が纏うパーカーの裾を摘まみ、一緒に付いて来た。『こんな幼気少女が守護獣で、用心棒の任は務まるンかねェ?』と思ってみない柴門だったが、声質が気に入ったから許すことにした。

 そのまま人の波をあれよあれよと交しつつ、無頼漢の傍を細心の注意を払って通り抜けつつ辿り着いた先は、金物屋が鬻ぐ区画だった。

「実は一昨日の漁で、銛の先が折れて仕舞ってのぉ。銛を新調しようかと思うのじゃが、儂の買い方を見て居れ。『鉤距』という手法じゃよ」

「序盤に武器商に連れてかれる展開なんぞ、異世界転生の典型例(テンプレ)じゃねェかァ。如何なる盾をも衝き通す矛か、如何なる矛も撥ね返す盾は鬻いでねェモンかァ?」と、柴門は時代設定を重んじて、戯けて魅せる。

「ほう、面白い頓智を利かすではないか!! じゃが生憎、市場の金物屋では武器は売って居らぬよ。廃刀令のせいで儂等平民は武器を持てぬからのぉ。———では見ておれ、これが狡猾な遣り方じゃ」

 そう言い残したかと思えば、親しみ易い声質を選んで金物店主に話し掛けた。

「どうも。付かぬ事を尋ねるが、この鋸はどのくらい値が張るのじゃ?」———「おう、銭二十枚さぁ」

「では、この釘抜きは?」———「銭十四枚よぉ」

「成程。では、この鉤は幾らじゃ?」———「銭二十二枚ね」

 博真の魂胆が見えたところで、柴門は割って入る。

「んじゃぁ、この銛も銭二十二枚くらいな訳だな。んでも、ちょいとこの部分の鉄、粗悪な玉鋼使ってるンじゃねェのか? 裏にもっと良い品があるンだろォ? あるンなら其奴を寄越しなァ!!」

 博真はニヤリと意味深長な笑みを浮かべ、「相手が悪かったのぉ。この店で一番品質が良い銛を持ってくれ。銭一枚程度なら弾ませて遣らぬこともない」

 金物店主は負けたとでも言う様に肩を落とし、クルリと反転して店舗奥の棚に立て掛けてあった銛を持って来た。

「銭二十三枚で買われるとはねぇ。仕方ない、今回はお前さん等に負けたよ。これは中々質の高い鋼を使ってるから長持ちする筈さぁ。どうぞこれからも御贔屓に」

 金物店主は銛の鋭い先端に綿を絡ませ丸めると、それを下にして柴門に渡す。柴門としてはこれから背丈程ある銛と一緒に市場を回るのかと思うと、金物の選択に失敗した気になっていた。

「此奴にこの銛を預ければ邪魔にもならんし、此奴も女子ながら用心棒らしくなるじゃろ? 運び賃銭一枚と一緒に渡してやれ」

 言われるがままに銭を乞食に渡してみると、それはそれはキラキラ煌めく眼で、

「ん。ありがと、ご主人様。さっきそう言えって命令されたから、言ってみた。……これでご主人様、護る」と嬉しそうにする守護獣少女。

 柴門は異世界では無課金で『ご主人様』と呼んでくれる素敵少女が居ることに感銘しつつ、秋葉原で必死扱いてそう言わせているオタク君に勝利宣言をして置いた。勿論、心の中でだが。

「よし、これで勝手も分かったじゃろう? 次に銅鐘が鳴ったら彼処の霊廟に集合で宜しいかな?」

 そんな訳で柴門と博真は金物店の前で別れ、各々行きたい場所へ向かった。とは言え、柴門はこの市場の店舗配置を把握していないので、人の波と本能に従い歩くだけである。

「ご主人様、次は何処に、行く? 行きたいお店、ある? 案内する」

 何かを察してくれた守護獣少女は、ムンと銛を前に衝き出して用心棒然としながらも、柴門に優しく問い掛けた。これだけ張り切って柴門を先導してくれると中々頼もしいものだ。

 葈耳(オナモミ)の様に柴門の裾にひっ付くだけだった守護獣少女は、銛を手にして博真と別れてからは露払い的な役職を買ってくれているのだから、守護獣の育成は順調に進んでいる。

「そうだな。この時代だと昼餉は摂らねェかも知れねェが、些か腹が減っち舞ってなァ。焼き物でも麺類でも何でも良いから、喰い物のある露天に連れて行って欲しい」

「ん。こっち、ご主人様」

 守護獣少女は迷うことなくズンズンと進んで行く。時折、柴門の方を振り返り遅れずに付いて来られているかを確認している辺り、実に様になっている。

 気合いが入っているからなのか、歩幅が小さい癖に脚の回転速度が速いため、大人の柴門もやや早足にならなくては置いて行かれて仕舞う。身体が小さい分、狭い隙間を猫の様に擦り抜けられるからかも知れない。

 すると必然的に、周囲への警戒も疎かになって仕舞う訳で、

「あ、すンません」

 一呼吸あってから、「アン? なんじゃその舐めた口の利き方はよォ!! 締めたろかァ?」

 どうやら柴門は無頼漢の脚を踏み付けて仕舞った様だ。確かにグニュリとした感覚は足裏に伝わってきたが、蛙か猫の尻尾の様な柔らかい感触で、まさか人様の脚だとは思わなかった。

 ということはつまり、不味いことに正真正銘の強制行事の発生だ。やはり、異世界転生後初の行事は強盗か暴漢との遭遇になりがちである。

 しかし、今の柴門には伝説の魔剣こそないが、張り切り上等な用心棒役(ロール)の守護獣少女が居る。序盤で守護獣を確保して置いて正解であった。彼女の戦闘力は不明だが、野生児であることを思えばそれなりに力を発揮しそうなものである。

 ご主人様がすぐ後ろに居ないことに気付いた用心棒は、スッと忍びの様な身の熟しで無頼漢との距離を詰め、柴門が気付いた時には既に、銛の先を勢い良く無頼漢の鼻先に突き付けていた。先端を覆っていた綿はその拍子に何処かへ飛んで行った。

「やめて。……わたしのご主人様に、変な言い掛かり、付けないで。わたしが、許さない」

 柴門を瘦軀で庇う様にして放たれた言葉は極めて単調だが、言葉の一粒一粒に籠められた威力が凄まじい。言葉ひとつずつに鉛玉が仕込まれていて、それが聴覚を通じて鈍痛を叩き込んでいる様だ。

しかし、『なんだァ雌餓鬼がァ!! 調子こいてンじゃねェぞゴラァ!!』と、こちらも怯む様子はない。

「オイお前! 穏便に済ませ———」

「いいからご主人様。わたしに任せて」

 柴門の静止も虚しく霧散し、白昼堂々、往来の中央で乱闘戦が幕を開けて仕舞った。

 観衆及び傍観者はある程度は日常茶飯事であるとは思っている様だが、頑強な体軀の無頼漢と肋の浮き出た乞食少女では話にならないとする見方が大勢の様である。柴門も守護獣少女に期待しない訳ではないが、圧倒的な体格の差は埋めることができないだろうと半ば諦めていた。

それに、無頼漢は銛を突き付けられようとも余裕綽綽な様子で、腰に沿う様に忍ばせてあった短剣を構えている。つまり、武装の有無で体格差の手合割(ハンデ)を埋めることができなくなった訳だ。

 柴門の選択はふたつにひとつである。守護獣少女を見捨てて逃亡するか、守護獣少女に加勢するか。けれども厄介なことに、どちらの選択肢を取ろうとも、柴門が死ぬ可能性は排除できない。

 この守護獣少女も、今日日銭を稼ぐことができなければあと三日後には飢死していたかも知れない。今ここで彼女を見捨てることは、ただ少女の寿命を三日ばかり縮めるに過ぎないかも知れない。無論、人間の命に重軽はないが、苛烈な身分制社会の構造上、この守護獣少女の命は軽んじられても仕方のない命であることは否定できない。

 しかし、柴門は翌日の目覚めを悪くすることなどしたくなかった。

 そう思考を纏めた柴門は守護獣少女の手を振り切り、地面が傾けば接吻をして仕舞いそうな程、無頼漢との距離を詰める。それはすぐにでも鼻に噛み付ける様な距離感だ。

「悪ィ。この用心棒は俺の連れでねェ、失礼働いて済まねェ……。だがよォ、お前さんには三跪九叩頭は効かねェことは知ってンだ。乗り掛かった船と一緒に心中して遣ろうじゃねェか」

 敢えて言葉の抑揚なく言い切った。しかし、柴門は反撃の嚆矢を繰り出す訳でもなく、一歩身を引いてその場に座り込む。

「馬鹿にすんじゃねェぞゴラァ!! 威勢の良いこと吐くだけ吐いて、もうお座りか? この腰抜けがよォ、生意気利いてンじゃねェぞ!!」

「いやいや、こうしないと反撃できないモンでねェ!!」

 短剣を構えて首を掻こうと迫り来たその瞬間———柴門は板草履を無頼漢の顔面に押し当てた。

「うわっップ! 臭ェクセェ!!」

「オイ。お前の顔面に張り付いたモン、何だか分かるか? そうだ、犬の糞だ」

 無頼漢は短剣を捨てて仰け反り、目蓋の上に乗る糞を指で刮ぎ取る。そして恐る恐る眼を開き、それが糞であることを確認する。映画撮影や演劇である筈がないにも拘わらず、その仕草が芝居掛って見えるのは実に滑稽だ。

「ツゥ訳で、面に糞塗りながら小っこい剣を振り回してくれても構わねェが。どうだ殺るかァ…? 死期を縮める覚悟ができてンなら掛かってこいや、糞野郎!!」

「死期を縮めるだァ? 抜かすな丸腰野郎がよォ!! 俺が手前を殺すことはあってもよォ、手前がこの俺を殺すこたァねェンだ馬鹿野郎ッ!!」

「いやいや、先手必勝———そろそろお前の目蓋に媚びり付いた糞が視覚を犯してるかも知れねェなァ。喉を通った糞はお前の腹ン中、蝕んでるかもしンねェぞ? 既に『勝ち』がねェお前にできることなんぞ、後の祭りを踊るくれェだな」

 柴門は地辺田に腰を突いて、そう嘲る様に高笑いを混ぜて言い放った。

 両者の構図だけを見ると、柴門が無頼漢に一方的に攻撃されている様に思えるが、実際はその逆。言葉責めに遭った無頼漢は、額から穢れた汗を滴らせ、両脚を小刻みに揺らしてる。それに、逆上して血色に満ちた顔面はいつの間にか青ざめて仕舞っている。

「今更意味があるか知らんが、俺と一戦交えるよりも先に、その顔面の糞、どうにかした方が良んじゃねェか…? どうだ、この俺に刃を向けたこと見逃して遣るからよォ、お前にお似合いな汚ェ厠処で顔洗ってきたらどうだァ? 助かる見込みがあるか、保障為兼ねるがなァ。———ったく、無頼漢の癖して糞塗れで死ぬとは情けねェなァ!!」

 無頼漢は唾液に溶けた糞を地面に吐き出すと、『ドケ』と凄味のある低い声を放ち、観衆群を貫いて走り去った。

 無頼漢が逃亡したのを良いことに、観衆はドッと弾ける様に堪えていた笑いを爆発させ、明らかに分(オッズ)が悪かった柴門の番狂わせを褒め讃えた。『こりゃ一杯喰わされたわい』『まさに糞喰らえとはこのことぞ!!』『天晴れじゃ、天晴れじゃあ!』などと称賛の嵐が柴門に押し寄せる。

 そんな喧噪の中でも、柴門は守護獣少女の言葉を聞き逃しはしなかった。

「ご主人様、流石。でも、わたしに、任せて欲しかった。わたしの役目は、ご主人様を護ること」

 悔しそうに歯軋りしながら柴門に呟く。

「でもよォ、ご主人様は家臣のことをしっかり世話しないといけねェンだぜ」と、取り敢えず異世界転生以来初の名場面を確保して置き、「んじゃぁ、糞塗れの板草履とこの手をどうにかしてェから、コイツを洗い流せる綺麗な水がある処に連れて行ってくれねェか、俺の優秀な用心棒さん?」

 柴門も犬の糞由来の感染症に罹患して仕舞えば一溜まりもない。

「うん、わかった、ご主人様。こっち」

 相変わらず最低限のことだけ言って守護獣少女は柴門を先導する。台詞の長い柴門とは大違いである。

「ねぇ、ご主人様。あの人、死んじゃう?」

「分かんねェな。すぐに洗い流せば眼元に湿疹ができるくらいで済むと思うが、自尊心の方はそう簡単には治らねェだろうよ」

「ん。でも凄かった、ご主人様」

「おうよ。お前さんも啖呵切るまでは中々に様になってたぞ」

 そう勝利の美酒に耽溺しながら語る柴門だが、その足音はペタンペタンと実に情けなく、足跡は糞で象られている。これくらいの加減が柴門らしくて丁度良いのである。

 番狂わせの一戦を目撃した観衆の視線を受けながら、糞の臭いを振り撒きながら守護獣少女の後をついて行くと、すぐに北大門近くの用水路に辿り着いた。

「ん。ここ」

「なァもしかして、ここって処刑場に近いか?」

「うん。この前、磔刑があったらしい」

「なぁ、この水音って死刑囚の断末魔だったりしねェよな」

「ご主人様、どうしたの…? ここは処刑場だから、普段人が少ない。ここは用水路の上流だから、水も綺麗」

「成程。ありがとさん。流石は野生児ってだけあって市場のこと良く知ってンな」

「ここ、お母さんが殺された場所だから、特に良く知ってる」

 爛爛と煌めいていた筈の彼女の眼は磨り硝子の様に濁り、辛い思い出を噛み締めている。どの様な理由で処刑されたのかは不明だが、彼女の身分を考慮すると道徳や法規範に違反して処刑されたとは断定できない。寧ろ、彼女の表情を見ると、酷い理由で殺されたのではないかとまで勘繰って仕舞う。

 詰まるところ、柴門は守護獣少女の閉じ込めていた悲壮な記憶を呼び醒まして仕舞った訳だ。不可抗力であったと言えば否定はできないが、俯き加減で涙ぐむ少女の姿を見ると、無責任だと言い張るには抵抗がある。

「そうだったのか、悪かった。……俺はこういう湿っぽい雰囲気が苦手でね、上手い言葉は掛けられねェけどよォ、旨いモンなら喰わせて遣れるからさ、それで元気出してくれりゃ……」

「ん、ありがと、ご主人様。でも、久し振りにお母さんのこと、思い出せた。でも、何か思い出しちゃいけないこと、頭の奥に、眠ってる気がする」

「そうか」

 長尺な台詞を喋る柴門は敢えて言葉を短く切る。彼女に対する下手な同情は彼女の悲壮感を逆撫ですることに他ならない。

 柴門は守護獣少女の視線を断ち切るために、クルリと反転して彼女に背を向ける格好で跼まる。板草履の裏を石灯籠の縁に擦り付けて糞を剥がし、まだまだ臭いの残る手を用水路に浸して両手を擦る様にして洗う。北大門周辺は火葬も行うのか其処ら中に炭が散らばっており、消臭効果を期待して炭を握ってみたりした。

一連の消臭作業が終わり、振り向くとそこには屈み込んで地面に絵を描いている守護獣少女の姿があった。その人物画が誰の模写なのかを訊くほど柴門は野暮ではない。敢えて、明るい調子で声を張り、母を亡くした少女の手を取る。

「それじゃあ、腹拵えに向かうか!! 案内し……」

———ゴーン ゴーン

まるで時機を見計らったかの如く、北大門の更に北側から銅鐘の音が聞えてきた。

 一様に流れる時間は冷酷であった。こちらの都合で伸び縮みなどしてはくれない。その都合が幾ら人間の同情を誘うものであったとしても、時間は乱暴かつ無機質に進んで行く。

当初、柴門が守護獣少女を喜ばせようと企画していた腹拵えは愚か、第壱の目標であった麻履の購入すらも済んでいない。

「仕方ねェ。博真の親爺との待ち合わせは無視しちゃならねェし、取り敢えず霊廟行ってから事情話すか。あの乱闘騒ぎで時間喰っち舞って何もできてねェってな」

 守護獣少女は『ん』とだけ小さく頷き、少しだけ残念そうに柴門の後に付いてきた。

「遅れち舞って申し訳ない……ってまさか異世界だよ全員集合かァ!?」

 一足先に到着していたと思われる博真は霊廟の石段に腰を掛けつつ、その横に妻の海深と息子の尊海を侍らせていた。子守りを引き受けているという海霞の姿は見えないが、市場組の一堂集合である。

 確かに海深と尊海は市場に夕餉の食材調達に出掛けたと聞いていたが、その彼らを人で溢れ返ったこの四壁の内側で見つけ出すのは至難の業である。口裏を合わせて待ち合わせでもしていたのか? などと漠然と考えていると、すぐにその答えは明かされた。

「おぉ柴門殿。儂等はあの乱闘騒ぎで偶然落ち合ったのだがのぉ、其方のお手並み、実に見事じゃった。よくぞあの無頼漢を退けられた、流石じゃよ柴門殿」

博真は小筆の様な顎髭を整えながら、鷹揚に話した。そして顎髭にあった腕を胸元で組み直し、あの場面を思い返す様にウンウンと頷く。そして忘れることなく、『柴門殿の用心棒。お主の啖呵の切り様も中々に迫真じゃったぞ!!』と守護獣少女を褒めた。

 守護獣少女は感情の起伏が小さいのか、それとも褒められ慣れていないのか、露骨な喜び方をしなかったが、柴門はその小豆の様な双眸に再び光が灯ったことに気付いていた。

「良かったな用心棒。この博真の親爺に褒められるとは大したモンじゃねェか!!」

 照れ隠しすることなく『ムン』と鼻を突き出し、『当然でしょ』とでも言いた気だ。明らかに博真が褒めた時の態度とは違う。これは柴門としては懐いた証拠として受け取っても良いのだろうか。

 そんな暖かい目線で守護獣少女のことを観察していると、海深はツカツカと柴門のところに近寄り、ポンと肩を叩く。

「ホントに、厳ツイ男に迫られて尻餅付いたのが作戦だったなんて、もうビックリよ!!」

「いやいや、運良く糞(ウン)が付いただけだァ」

「顔面偏差値じゃ柴門さんの圧勝だったから、私は柴門さんが勝つって見込んでたのよぉ」

 それにしても、相変わらず面喰いが酷い海深である。それを柴門は、もしかしたら、海深さんは『腐女子』の先駆者的存在に成り得る潜在能力(ポテンシャル)秘めてるんじゃないかくらいに思って、精神的な距離感を保って見ていた。この時代にも男色や百合はあるらしいが、果たしてBL趣味は存在するのか、博識な柴門も知らない。

「でも、追い込まれた場面であの機転の利かせようは素晴らしいわぁ。柴門さん、良い物見せて貰ったからには、腕を振るって美味しい夕餉を作りますねぇ!」

漸く腐女子的な発言が鳴りを潜め……たかに思われたが、深読みすれば海深の発言もBL染みてくる。

『良い物』とは具体的に何を指すのか、意味深さを感じなくもない柴門であったが、やはりここは文脈的に無頼漢への反撃場面(シーン)を指すものだと純粋に受け取って置くことにする。

母親のトンデモ発言に顔を顰めていた孝行者の尊海も、ここぞとばかりに母親の意見に同調し、『お見逸れ致しました』と柴門の機転を絶賛した。尊海の敬意の籠った態度は出逢った時から変わらない。

「あのままセメの無頼漢さんとウケの柴門さんが組んず解れつする展開も気になるけれどね。ウフフ」

 やはり、柴門の直観は間違っていなかった。柴門が苦言を呈そうとすると、尊海が其処へ割り入った。

「母様、そろそろ帰らないと宴の準備に間に合いません。それに陽が出たり陰ったりと、何時雨が降り出すか分かりませんし……」

 海深は息子のことを信頼している様で、『それもそうね』と呟き、『では一足先に』と残して南大門の方へ歩いて行った。

 二人が去って行くのを見届けると、柴門は思い出した様に口を開く。

「えっと、博真の親爺。実はあの大捕物で時間喰っち舞って、麻履も串焼きも買えてねェんだ。それだけは付き合ってくれねェか」

「勿論、構わぬが。ご褒美に両方奢ってやろうかのぉ!! 演劇の観覧料くらいに思ぉてくれれば、結構じゃ」

 極めて太っ腹な人物である。朝廷の要職に就く高給取りだか知らないが、吝嗇な振る舞いなど一切見せない。高位高官を占める輩は皆揃えて金目にがめつい印象があった柴門としては、かなり意外に感じている。

 すると、柴門は博真に耳打ちするために歩み寄り、時折、守護獣少女に目を遣りながら、

「(それにコイツにも串焼きを喰わしてやるっ宣言しち舞った建前上、無碍にもできなくてなァ……コイツの分だけは俺の銭から出させて欲しい。……まァ、元を正せば同じだけどよォ、主人として格好が付かないっていうか…な)」

「まぁどちらでも良い。柴門殿に渡した銭は柴門殿が好きに使えば良いんじゃ、妙に気に入って居るその用心棒のためにでものぉ」

「どうも」

「それじゃあ、柴門殿の用心棒。靴屋まで案内してやってくれ」

 そう博真は柴門の影に隠れる守護獣少女に命令した。

 靴屋で麻履を購入し、その流れで屋台通りへ向かった。屋台で蛇蠍の唐揚げと狗肉の串焼きを買い、食べ歩きながら南大門へと進んだ。市場に脚を踏み入れた時の様な厳しい雑踏は幾分緩和され、注意力が散漫になろうが、擦れ違う庶民や商人と打つかる心配はない。博真曰く、品数の豊富な午前に客が集中するからだそう。

「おう、ここまでだ用心棒。柴門殿も助かったと言っておったぞ」

 博真は南大門の敷居を跨ぐと、守護獣少女に向かって別れの言葉を告げようとする。その口調には一切の遠慮がなく、その慣れた調子から度々この手の乞食を連れて市場を回っているのかも知れない。

 しかし、博真に対して一方的に恐怖感を抱いている様子だった守護獣少女は、柴門の前に立って『ムン』と銛を持つ腕を突き出す。その瞬間、前髪に隠れがちな翡翠の瞳が煌めいた。

「わたしは、ご主人様の言い付け、最後まで遵る。だからこの銛、家まで運ぶ」

「しかしのぉ、荷物持ち兼用心棒の役目は市場の中だけじゃぞ?」

 博真は何かを推せと言う様な口振りで、本音を隠して語る。柴門にその意図を汲み取らせ、援護射撃をしろという意図もあるに違いない。

 鈍感がちな設定になり易い異世界転生主人公の柴門にも、博真が言わんとすることの意味が分かった。恐らくだが、屋敷の場所がバレるとなると、物乞いに遣って来る様になるだとか、屋敷の植え込みを常宿にするだとか、その様なことを苦慮しているのだろう。無責任な話、柴門は居候の身分であるから守護獣少女が棲み着こうが関係ないのだが、博真の言い分も十分に理解できる。

 しかし、柴門は敢えて鈍感を気取った。

「まぁ、いいじゃない博真の親爺。折角、最後まで役目を果たすって言うンだからよォ」

「柴門殿がそう言うなら……そうしよう…か」

 苦い物を噛み潰した様な表情だが、渋々折れた博真。小さい声で『ここで別れたところで、こっそり尾行して来るかも分からない』とボソボソ漏らしていた。つまり、博真の中でも自己解決に励んだ様だ。

「という訳だ。屋敷まで荷物持ち任せられるか?」

「ん。屋敷まで、運ぶ。そしたら、すぐ帰る」

 そう、こちらの苦慮の意図を汲んだ様な発言をした。

「よし。それじゃあコッチだ」

「いや、此方だ柴門殿。もしかしてお主、方向音痴か?」

 出逢ってからずっと笑みを浮かべるさえなかった守護獣少女が小さく笑声を上げた。自尊心高めな柴門としてはこの手の嘲笑の免疫がない筈だったが、この守護獣少女の笑声だけはどうしてか微笑ましく思えた。

 一応、羞恥を紛らわすために『冗談の通じない博真の親爺は困るわぜェ』と張り上げてみても『なら、柴門殿。この用心棒に屋敷まで案内して遣ってはどうじゃ?』と返されて仕舞えば黙り込むしかない。柴門が黙秘する代わりに、守護獣少女は小川の潺(せせらぎ)の様な笑声を再び漏らした。

「本当にコッチじゃ。仕事最後まで任せたぞ、柴門殿の用心棒」

 博真、柴門及び柴門付きの用心棒改め荷物持ちは、屋敷を目指して揃って歩き出した。

 そして、五町くらいは歩いただろうか。屋敷までの道のりはあと半分ほどである。

 来た道と同じだけ歩けば屋敷に着くというところで、見覚えのある若い女性が顔面蒼白で胡同の真ん中に突っ立っていた。周囲の眼など気にする余裕さえないといった様子で、その姿は孩子が趨り回る賑やかな胡同では異様に見えた。何かを探す様に胡同の左右を見渡している。

しかし、柴門が『あれって……?』と博真に確認を取る前に、博真が途端に叫んだ。

「海霞じゃないか!!」

 あまり調子の良くない筈の膝を労ることなど放置して、博真はその若い女性の元に駆け寄った。

「ねぇ、誰…?」

その横で銛を構えていた守護獣少女が不思議がる様子で説明をせがむ。『あの女性は、博真の親爺の娘さん。あの親爺、今朝その娘さんに愛想尽かされてなァ、茫然自失だったんだぜ?』要らない情報まで追加して説明して遣ると、守護獣少女は当て推坊でも言う様に、『まさか、厭らしいことでも、言ったの?』とジト眼で訝る。

 鋭い勘をした守護獣少女を伴いながら、柴門も博真・海霞父娘の元へ向かう。

「あんまり大きな声では言えないけど、実は子守してた双子の一人が何処かに行って仕舞って……その、行方不明なの…!!」

 海霞が子守を引き受けていたことは把握していた柴門だったが、子守で稼いだ禄を落としたか、掏摸(スリ)被害に遭ったのかと踏んでいた。だが、蓋を開けてみるとかなり深刻な事態である。

「あともう少しで家主の方達が帰ってくるかも知れなくて、それまでに探し出さないと……大変なことに……」

 海霞は絶望感を堪えながら嗚咽で擦れる様な声でそう言った。今更、今朝の父娘間での一悶着など意識する筈もなく、博真は倒れ込む海霞を受け止め、胸を貸している。

「取り敢えず、手分けして探すしかないじゃろ。柴門殿もどうか愛娘のために手伝って遣ってくれ。ほらこの通り」

「いやッ、そんなに頭下げンでも勿論手伝うぜェ。……でもよォ、手掛かりがないことにはどうにも」

 海霞は博真の胸から顔を上げ、少しだけ希望を見出したのか、ハキハキとした口調で喋り出す。

「はい。えっと、失踪した子は双子の兄なので……双子の弟とそっくりなんです!! ちょっと此方にいらして下さいっ」

 博真と柴門の手をギュッと握り、子守をしていた屋敷の中に無理遣り連れ込む。草履を三和土に脱ぎ散らかして板張の廊下を趨り、東廂房にある居間に飛び込んだ。

「この子です。この子と体格、服装、髪型……何から何までそっくりな兄です!! それで兄だけには笑窪の位置に黶(ホクロ)があって…えっと、確か年齢は今年で六だと……思います」

 海霞は双子の弟に読書を中断させ、こちらを向いて欲しいと言う。そして、特徴的な部位を指差しながら改めて確認し、それらを博真・守護獣少女の頭の中に刷り込ませる。

「成程。『過去を後悔するくらなら、未来を変えろ』だ。……オイ、お前も双子の兄の容姿は把握したなァ? お前はその兄と年齢が近いだろォし、この辺りも詳しいだろォし、急いで探しに行けェ!! 博真の親爺も外を駆けずり回って探してくれ!!」

 柴門は叫ぶ様な声で守護獣少女に指令を出した。『俺と海霞はここに残って居た方が良い。俺は土地勘もなければ方向音痴で木乃伊(ミイラ)取りになりそうだしよォ、海霞さんは万が一、家人が帰ってきた時に事情を話す要員として残ってた方が良いと思うぜェ』

 完全に柴門が主導権を握って、博真・海霞・守護獣少女にそれぞれ指令を課す。この手の司令官役は知識を使って適材適所な人間を動かすことを得意としていた柴門にはお手の物。

「よし、それじゃあ」

 皆が顔を見合わせ頷いたその瞬間から、失踪した双子の兄の大捜索が開幕した。

 ドドドッと音を立て廊下を駆け、玄関から飛び出したのは博真。軋む膝を一切考慮しない趨りを見ると、博真の娘をどうしても助けて遣りたいという気概が感じられる。

一方の柴門付きの守護獣少女は、中庭に飛び降り裏口の方へ突っ趨って行った。草履の有無など気にしない辺りに野生児の逞しさが感じられる。柴門が『銛は置いて行け』と行った頃には、最高速度(トップスピード)で裏門を駆け抜けていた。

 となると、屋敷に残るのは柴門と海霞の二人だけ。緊迫した空気感の中に、微妙な居心地の悪さが混じっている。

「仕方ねェ。じゃあ、もうひとりの双子が何処かに行かねェよォに見張っとくしかねェな」

「……そっ、そうですね… えっと、こちらです」そして、居間に案内された。

 海霞の喋り口調は震え畏まっているが、出逢って間もない男と二人きりという気不味さと自分の失態の大きさに対する絶望感を考慮すれば、仕方のないことである。

「でもよォ、どうして失踪しち舞ったンだ…? 真面目そうな海霞さんのことだから、サボったとは考えられねェしよォ……」

 柴門なりに柔らかい言葉を選んで喋り掛けたつもりだったが、板に付いた打っ切ら棒はそう簡単に隠せなかった。なので、海霞は少し脅えている。

「……えっと、それが不思議で。私は双子と乳飲み子、三人の子守を頼まれていまして……」

 海霞は言葉のひとつひとつを飲み込んでは戻すように、蕩蕩と語り始めた。

———海霞に子守を依頼したのは、顔馴染みのある屋敷の主人だった。その家は代々鏡師を輩出する由緒ある名家だそう。今日は都から数里ほど西にある商隊駐屯地に質の良い珪砂や石灰石、純度の高い銀が仕入れられたとのことで、奉公人や家内奴隷込みの一家総出で買い出しに向かった。つまり、買い出しのため屋敷を空ける半日程度、屋敷に残した子ども等の面倒を見てくれとの依頼だった。海霞自身も子守を引き受けるのがこれで三回目の様で、屋敷の勝手や子ども達の性格は十分に把握しているとのこと。

 ここまで海霞が話したところで、柴門がある疑問を口にした。

「この屋敷は大分広いみてェだが、屋敷に残ったのは子ども三人と子守役の海霞さんだけで正しいンだよなァ…?」

 海霞が与り知らぬところで、屋敷に残った者が双子の兄を連れ出している可能性があるのではないか。柴門はそれを間接的に問うた。

 しかし、海霞は即座に柴門の猜疑を否定した。

「ほう。というか、何時、双子の兄は消えたンだ? その辺りを詳しく頼む」

「えぇ。おやつを食べた後、私は双子の妹……確か今年で齢二になるそうで……を寝かし付けようと、この居間に布団を敷いて添い寝をしていたんです。その時、兄の方は隣の部屋で鞠を突いて遊んでいて、弟の方は私と同じ部屋で読書をしていました。隣の部屋に兄の方が居ないだけで、当時もこの様な具合だったかと……」

 海霞は柴門にも当時の状況を想像させる様に、逐一指差して説明した。十五畳ほどのこの居間では、海霞の横で赤子が鑛に包まって寝息を立てており、少し離れた壁際で双子の弟が植物や昆虫の絵が載った図鑑に興味を傾けている。

「んじゃァ、海霞さんは障子の硝子越しに兄を見ていたッツウ感じか?」

 掌が下になる様に人差し指で障子を指す。その仕草は妙な威圧感を孕んでいた。

 柴門が言う障子とは、上段部分は木枠に和紙を貼った障子調で下段部分が硝子である引き戸のことで、障子を開けなくとも下段の硝子部分から隣の部屋を低姿勢(ローアングル)で覗くことができる。

「は、はい。兄の方がどうしても蹴鞠をしたいと言うので、私の目の届く範囲でなら構わないと許可を出して、それで隣の部屋で遊ばせていたんです。この部屋ですと、鞠が跳ねる振動がこの子を寝かし付けるには些か五月蠅いかと思いまして……」

 ここから硝子越しに隣の部屋を覗くと、角度や位置にも拠るが、部屋全体を見渡すことも可能である。それに六歳児が蹴鞠をするのは十分すぎる広さがある。

「でもよォ、どうして中庭で遊ばせなかったんだ…? その方が広いだろ?」

「……それは、旦那様が中庭での遊戯を禁止している様で…えっと、この通り、硝子作りに使う工具や資材があって危険だからと仰って…」

 促されるままに中庭を覗くと、葉が茂った馬刀葉椎(マテバシイ)が邪魔で見難いが、確かに金属製の重量感のある工具や荷車に積まれたままの麻袋が置かれているのが分かる。となると、蹴鞠の様な動き回る遊戯は中庭では厳しそうである。

「隣の部屋で蹴鞠をしている間に、この子を寝かし付けようと、子守歌を口遊みながら添い寝してあげたのですが、中々寝てくれなくて……。勿論、その間もチラチラと隣の様子を確認してはいましたが」

「その時はまだ兄は蹴鞠で遊んでたンだよなァ…?」

「……はい、目視で確認しましたから間違いないかと。弟さんは壁際で読書に夢中になっていて、先程も申しました様に、丁度この様な感じで」

「んで……?」

「寝かし付けた後、兄の方も構ってあげなければと、弟さんに一声掛けて隣に顔を出したのですが、一人で遊ぶから入ってくるなと仰いまして……渋々、こちらの部屋から面倒を見ることに……仕方なく私はこの部屋で裁縫をしながら過ごしていたという訳です。旦那様から、暇があれば雑巾を縫って置くようにとお達しがありましたので…」

「良く似た双子の癖に、あんまり仲良さそうじゃねェって感じがしてよォ……何か確執でもあンのか?」

 海霞が言うには、兄は弟を鏡映しにしたかの様な瓜二つの双子であるらしい。しかし、今まで聴いている話からすると、一方は蹴鞠、一方は読書と大きく嗜好が異なるばかりか、双子だからこその仲睦まじさは欠片も感じられない。

「どちらかと言うとお兄さんの方が活発で、弟さんの方が内向的な性格をしていらして……なので、性格も趣味も真逆と言いますか。ですが、仲は非常に良い様で、一緒になって双陸や囲碁、将棋などで遊ばれることも多いですね。今日は偶々、おやつのことで揉めて仕舞って……別々に遊んでいるというだけで、この前お邪魔した時は、私も混ぜて貰って一緒に双陸で遊びましたし」

「んじゃあ、今日は運悪く仲違いしてたって訳ね。……兄の方はずっと飽きずに蹴鞠してたのかァ?」

「はい。……順を追って話しますと、寝ていた妹さんが突然愚図って仕舞って、裁縫を一時中断してあやそうと……でも変なんですよ」不思議がる様に首を傾けると、「てっきりお兄さんの蹴鞠の音で愚図られたのかと思っていたのですが、裁縫中のある時からずっと読書されていた様で……と言うのは、裁縫中にチラチラと隣に眼を遣った時に……その、何と言いますか、読書に熱中されているなんて珍しいなと思った記憶がありますので……間違いないかと」

 柴門としてはどの時機(タイミング)で、兄が蹴鞠を止め読書を開始したのか気になるところではあるが、訊いたところでハッキリしないだろう。

「つまりは、蹴鞠をしてた筈の兄は裁縫中のある時点から読書をしていて、それが珍しいと———こんな理解で合ってるかァ? ンで、愚図っち舞った時はどうだったンだ? まだそン時、兄は隣に居たンかァ?」

その言葉遣いの荒さから、探偵気取りな柴門には女性に対する遠慮というものが失くなってきたことが分かる。

やや声を震わせて、「……は、はい。その通りです。私の記憶が正しければ、確か妹さんをあやす直前に兄の方もチラッと見たと思うのですが、その時も読書をしていた様な……」

「それともうひとつ。海霞さんはどンくらいの時間、裁縫してたンだァ…? まァ、つまり、小生意気な兄に蹴鞠を断られてから、この赤ん坊が泣き出すまでの時間はどれくらいかってことだ」

古代人は現代人と異なり時間感覚に乏しいことを後から想起した柴門だったが、どうやら杞憂の様で、

「……確か、都の銅鐘が二回は鳴ったと思うので、七、八刻はずっと裁縫にのめり込んでいたかと。やはり、この量の雑巾を縫うにはそれくらいの時間が掛かりますしね」

 柴門にその証拠を見せるために、木箱に畳んで収められていた雑巾を取り出す。そして、『兄も弟さんも私が構おうとすると厭そうな顔をしたので、仕方なくですが……とは言え、時折視線を配りはしましたが』と付け足す。

 『成程ォ』と小さく呟くと、柴門は両手の掌を突き合わせて眼を閉じる。当時の状況を想像し、それを目蓋の裏に投影しているのだ。傍から見れば修行僧が立ち寝入りしている様に見えるかも知れないが、柴門独特の思考姿勢(スタイル)である。

「それで、妹さんをあやして再度寝かし付かせて一息ついた時、ふと隣の部屋を見ると、お兄さんが居なくなっていたという訳です。……ですので、私が妹様を寝かし付けるのに気を取られている隙に、何処かへ居なくなって仕舞ったのではないかと」

海霞は考え込む柴門を無視して、持論を展開する。海霞は自分自身が双子の兄を探しに行くことができないことに悔しさを感じているからか、それとも中々発見の報告が上がらないことに焦りを感じているからか、それとも他の感情がそうさせたのか分からないが、斬れ味の良い口調で言葉を紡いだ。

 柴門は刮目し、咳払いをする。

「確かに、聴いた感じだとその推論で間違いなさそうだがよォ……となると、兄がどっかに行っち舞ったのは、ついさっきッツウことになるよなァ。んじゃあ、どうせ子どもの脚だ、土地勘のある大人と野生児が血眼で探しゃァ、一瞬で見付かるだろうなァ。……まァ、海霞の推理と証言を盲目的に絶対視するならッツウ条件付きだが」

 柴門は何か別の選択肢を想い描いているのか、妙に含みのある発言で海霞の不安を煽動する。呼び方にも容赦がなくなり、敬称『さん』を取っ払っている。

「……えっと、それはどういう…?」

「あァ、だから、『総ての事象の中から確実に体験した事象を除いて残った物、其奴に幾ら現実味があったとしても其奴は人間を欺く似非でしかねェ』そう考えでもねェと、辻褄が合わなくなっち舞うことがある———そういうことだ。どう解釈するかはお任せするが」と、柴門にはある見通しがあるのか、再び含意に富んだ発言を飛ばした。

 そして、双子の兄が蹴鞠をしていたという隣の畳敷きの部屋を訝しげに眺める。隣の部屋はこちらの部屋と違って中庭の樹木に日光が遮られていない分、やや明るく感じられた。先程まで雲に隠れていた陽が、大きく傾くことで日光を地上に届けることを許されたからだろう。

柴門は部屋を仕切る硝子張りの襖に指を添えて嗜虐的な笑みを浮かべると、ポンとその指を弾き硝子を揺らす。

「……あの、柴門さん。もしかして何かお気付きなんじゃないでしようか…?」

 海霞を牽制する妙に含みのある発言、推論を反証するためと思われる奇行、そしてその後浮かべた悪魔的な笑み、これらを併せて考慮すれば、柴門が真相の一部を覗き見ているとしか思えない。海霞は勇気を振り絞ってその疑問を柴門にぶつけた訳だ。

 しかし、柴門は勿体振る。

「あァ、推論はあることにはあるがよォ———」

「なら教えて下さい!!」噛み付く様に海霞は柴門の言葉を遮った。

「俺は不確かな推論は口外しないタチでねェ……確かな証拠や証言がなきゃァ、それは推論の域を脱しねェンだ。間違った推理を披露することは度の狂った眼鏡を掛けさせち舞うことになる。だから、そう易々と打ち明けるモンでもねェんだ」

「でも……正しい可能性だってあるんですよね!! 賢い柴門さんのことですから、それなりの確証があるんでしよう…!!」

 柴門は態とらしくハァと溜息を吐く。

「お前さん、何か勘違いしてねェか…? 海霞が今一番求めてることァ、好奇心に衝き動かされて俺の悪趣味な妄想を訊くことじゃねェ。失踪した兄が無事帰ってくることだろうがァ!! 俺の推論が失踪小僧を見付ける手助けになるッツウなら加勢してやらンでもねェが、どうやらそんな力はなさそうだ。今は問題の解き方を知るよりも、正解を形振り構わず見つけ出すことが大事———何か俺は間違ったこと虚吐(ほざ)いているかァ?」

 事もあろうか、海霞に痛烈な批判を浴びせた。柴門が言い放った内容は筋が通っているこそあれ、幾ら何でも言葉の斬れ味が鋭過ぎる。ただでさえ双子の兄の行方を見失い、精神が殺られている女性なのだ。そんな満身創痍の彼女に掛ける文句ではない。柴門という男は実に冷酷だった。

 しかし、海霞は言葉の刃を胸に打ち込まれた海霞は視界を暗くしてヨロヨロと蹌踉めく訳でも、裏切りにも似た柴門の厳しい言葉に顔を覆う訳でもなかった。眼には闘志を宿し、迸る威嚇の眼光で柴門を殴っている。

「いえ、柴門さんの推論がお兄さんを見付ける手掛かりになるかどうか、それは今回の事件の責任を負う私が決めることです。悪趣味でも何でも構いませんから、私とその推論を共有して下さいッ!!」

 柴門は『フンッ』と鼻を鳴らすと、

「そうだ、その眼だ。今までの海霞さんの眼は死んだ魚のソレだった。そんなんじゃ、見付かる物も見付かんねェだろうよォ。それに様、そんな顔してちゃァ、海霞さんに属魂な失踪小僧をガッカリさせち舞うだろ?」敢えて咳払いを挟んでから、「それじゃあ俺の鄙劣な推理、聴い———」

———ゴバァァァァン———ガシャンッ!!

 読点まで台詞が言い終わるか終わらないかの処で、突如玄関の引き戸が消魂しい音を爆発させた。『何だ!?』そう振り返った次の瞬間、大声が柴門及び海霞の耳を劈いた。

その爆音の発生源は博真だった。

「おい!! 大変だハァ!! 柴門殿の用心棒と二人組の人攫いがハァ一戦交えて居るぞ!!」

「オイ、どういうことだッ!?」

「裏口に回れ! そのまま左に折れて川沿いを趨れ……ハァ…それでその先の野原だ。そこに行けば分かる……フゥ」

 博真は肩を上下に揺らしながら膝に手を突いて文句を吐き捨てると、膝が砕けるかの如く板張りの廊下にへたり込んだ。古傷なのかそれとも加齢による膝関節痛なのか、利き脚の右膝を両手で塩でも塗り込む様に押えている。『後は頼んだハァ……万が一、家主が留守の間に帰ってきたら、儂が上手いこと誤魔化して置くから…心配するな……早く援護して来い!!』

「あァ、俺には女を戦場に連れ込む下世話な趣味はねェがよォ、ここで博真の親爺の手当の為にお前さんを残して行く程、野暮な真似はしねェ……無理強いはしねェが、どうだ? 方向音痴な俺の為に道案内くらいはしてくれねェか…?」

 眼を薄く閉じて右口角だけを非対称に吊り上げる。柴門の挑発的な暗黒微笑は海霞の双眸を激しく貫いていた。

「台詞が長いですよ、柴門さん。急ぎましよう!!」

 二人の視線が衝突して生じた燐光はバチリと雷霆の如き閃光を散らし、二人の意志の結託を示していた。勿論、その様な物理現象は幻想でしかないのだが、その情景は柴門と海霞だけでなく博真も含めて共有された現実だった。

「柴門さん、コッチです!! ここなら二人分の突っ掛けがあります」

 藁草履の沓紐を足の甲に減り込むくらいにキツく締め、溜めた脚力を爆発させて裏門を突破する。一〇間(約20m)も趨れば、すべての血中酸素が吐き出されて仕舞うほど脆弱な肺機能もまだ悲鳴を上げていない。寧ろ、柴門の脚力に無限の燃料を送り込む様に、心臓と肺の抜群の連携が感じられる。

「柴門さん! そこの角を右です!! アッあそこ!!」そう柴門の後方より指示が飛んだ。

 柴門は近視の眼を細め、遠くを睨む。

 そこには、銛を構え血走る複眼で睨み付ける少女一名、気味の悪い形相で少女を視姦する人攫い二名、そして頭を両膝の間に丸め込んで震える失踪小僧と思わしき少年一名、そして農作業風の格好をした若干の衆人(ギャラリー)。

 観衆こそ疏らだが、商店ひとつと軒を構えていないこの荒野で人集りは極めて目立つ。それこそ、砂漠に犇めく蛇蠍とそれを捕食する野鼠の様に。

 快速を飛ばし接近すると、人攫い共の醜悪な胴間声が耳を腐らせた。

「こいつァ良いぜ兄貴。この雌ガキは散々輪姦(まわ)した後、夜鷹の仲介婆に売り付ければ、今夜の酒代くらいにはなるだろォよォ。まァ、こんな肋骨の浮いた醜女を好む蓼食い虫が居ればの話だがなァ!!」

 舐め回す様に少女を視姦する出歯亀は、変態的な笑みで垂れてきた涎をジュルリと啜る。そして脇で丸まっている少年を蹴り飛ばし、『この糞餓鬼はどうしやす…?』と兄貴分の顔色を窺う。金壺眼が実に厭らしい。

「オイオイ、大事な商品を蹴飛ばしちゃァいかんなァ……。まァ、コイツァ身形からして名家の小僧だろうから様、お花摘みが趣味の女々しい餓鬼を育てた馬鹿な親の顔を拝んでから、身代金でも強奪(ふんだく)ってやろォかねェ。強奪れるだけ毟り取って、その後は餓えた女狐にでも渡しゃァ、運が良ければ親元に帰れるだろう様」

 柴門は脚を緩めることなく、太刀で大塊を割る様に観衆の間をブッた切った。

「オイ!! その子どもを解放しやがれッ!!」

 柴門は堪らず怒鳴りつける。すると、衆人含め荒野に居る登場人物総ての目線が柴門に集中する。しかし、観衆達の視線は一瞬にして溜息に変わった。容貌矜巌な大男もしくは老練な武闘家を期待していた観衆は、枝垂柳(シダレヤナギ)にも似た痩身の男の登場に裏切られたのである。また当然、人攫い等の睨みは陰湿な嘲笑に変わる。

「オォ、飛び入り参加とは見上げた度胸だなァ、オイ。俺等の寸劇に観覧料は求めねェがよォ、獲物を盗もうってなら見ヶ締め料として貴様の命、貰おうじゃねェか!! 残念だが、痩せた中年の肉は安い上にマズいがなァ」

 親分格がそう悪罵する。観衆達にも身の危険が襲う可能性はあるのだが、狂瀾怒濤の展開に感覚が麻痺し、そう簡単に身体を動かすことができなくなっている。ある者は顎が外れるほど口を開けたまま、ある者は顔を歪ませ眼を強く閉じたまま。

 そんな中、一人の少女———銛を握り締めた少女———は口を小さく開いた。

「ご主人様、今度は、わたしに任せて。今度こそわたしが、ご主人様を、護る」

 出逢った時から変わらないゆっくりとした物言いは、無頼漢に与えた鈍痛の響きよりも強度を増し、断固たる忠誠心が言葉の纏う威圧感を極限まで高めている。少なくとも柴門はそう感じた。

 しかし、「何だァ? 晩のお楽しみが嘘吐(ほざ)いてンぞ」

 今回の敵は以前の無頼漢よりも肝が据わっていた。やや顔を顰めたが、怯むことなく穢い言葉で罵る。その余裕には絶対的な勝ちの確信があるからだろう。少女が銛という飛び道具を持っているにしろ、人攫い側(サイド)には優秀な二枚の戦力と、人質という如何なる矛さえも通じない盾の用意がある。喩え相手側(サイド)に瘦軀の男が加わったところで、圧倒的有利は変わらない。そういう読みなのだろう。

「あっ、お兄さん!!」

 丁度、この時機(タイミング)で息を切らした海霞が観衆の間を割って入る。そのまま踞る失踪した兄の元へ駆け寄ろうとするが、それは流石に柴門が腕を伸ばして静止させる。『オイ、案内役が先趨るンじゃねェ!! 飛んで火に入る夏虫になり兼ねねェぞ!!』

海霞は『ウッ』っと苦い物を噛み潰した様な顔をしてしゃがみ込む。草で剥き出しの脚を切ったのか、それともキツく締めた靴紐が柔い表皮を剔ったのか、大きく肩で息をしながら、出血している患部を手で押えている。

無論、彼女の登場は彼等人攫いにとっては、鴨が葱を背負って来る美味しい展開でしかない。その証拠に不修多羅な目線がしゃがみ込むことで強調された彼女の胸部に集中している。博真が言うには、この辺りの同年代では一番の大きさなのだから、淫蕩野郎がその甜瓜に注目しない訳がない。

「こりゃまた旨そうな女子だァ!! 下手したら妓楼の花魁なんかよりも上玉かもしンねェぞ!! その立派なモンを駆使して楽しませて貰おうじゃねェか」

 柴門付きの用心棒が比喩めいた猥雑文句をどこまで理解しているのか分からないが、少なくとも下世話な話であることは伝わっている様子。用心棒は口を真横に結び、それで怒りを表現している。

そしてその結びを解くと、「ご主人様、わたしに任せて。しっかりご主人様の命令、果たすから」———そう、闘志が燃え滾る眼力と共に、ゆっくりとした物言いが聞えて来た。

 そこからは用心棒の動きは実に速かった。

 三歩程助走を付けて大きく跳躍すると、銛を尖った喉仏に突き立てる。即席の技なのかも知れないが、棒高跳びの選手の様に銛を緩い地面に突き刺し、それを支柱として利用して跳躍することで、用心棒は一時的に身長差をない物とした。

圧倒的有利を余裕綽綽で舐め腐っていた人攫い側からすると、少女の先制攻撃は刹那よりも速い時間で繰り出されたと感じるに違いない。数刹那空いて、喉元に鋒が届いた親分格は仰け反ることで遅れて反応を示す。続いて、横で海霞を穢れた眼で舐め回していた脇役猿は、慌てて兄貴の喉に向いた銛の柄を薙ぎ払おうとする。

しかし、身長差を生かした低い位置から目頭目掛けて銛の鋒が炸裂すれば、こちらも仰け反って交すしかない。

もう既に勝負ありだった。刹那を凌駕する俊敏な動きに翻弄された人攫い二人は、崩れ掛けた体勢を立て直すことすらできなかった。何故なら、体勢が崩れたその一瞬にできた隙を突かれて、少女の腕と一体化した銛の横薙ぎ払いに拠って完全に崩されて仕舞ったのだから。

それは、刹那を凌駕して躍動する守護獣少女にとって、一瞬という長い時間に渡って生じた隙を突くことくらい何の造作もないことだった。赤子の手を捻るが如く、何の難しさをも感じさせない見事な一連の芸当だった。

弁慶さえも啼き喚く向こう脛を殴打されて、人攫い二人は嗚咽を上げながら雑草に塗れてのたうち回っている。

柴門としても、この絶好の機会(チャンス)を見逃す訳にはいかない。どういう訳だか軽く感じる重力を味方に付け、軽い跳躍と数歩のステップで失踪した双子の兄を確保する。彼の紅葉の様な手には蒲公英や二輪草、野路菫など色彩豊かな野花が、離すまいとギュッと握り締められているのが分かった。

 勿論、この優秀な用心棒は有利な展開に覆ろうとも、油断することはしない。横薙ぎ払いを喰らって転倒した人攫いの親分格に、夕陽を反射して紅く染まる銛の鋒を喉元に突き立てた。喉の薄い皮が張り裂け血が滲むとまでは行かないが、微動でもすれば確実にその刃は喉を剔る。つまり、銛を突き立てられた親分格は勿論、脇役も無闇に動くことができない。

「もう良いぜ、俺の用心棒。この通り、迷子の僕ちゃんはしっかり保護したからよォ!!」

 柴門は少し離れた安全地帯から、守護獣少女に呼び掛ける。柴門の瘦軀に隠れる様に、海霞、そして海霞の豊満なそれに顔を埋めた双子の兄が控えている。

「分かった、ご主人様」

そう呟くと、守護獣少女は流石の身の熟しで後方跳躍(バックステップ)を踏み、柴門の元へ駆け寄る。そして柴門は再び声を張り、

「残念だが、今晩のオカズは失くなっち舞った様だァ。手土産もなくて悪いが、糞喰らえの手は二度と使いたくないモンでね。手持ち無沙汰な夜を互いで慰め合うでもして乗り切ったらどうだァ?」

 人攫い達が嘘吐(ほざ)いていた卑猥風な語調を敢えて拝借して、蔑む様に言い放った。

 捨て台詞さえ吐かずに、両脚を引き摺りながら人攫い二人は去って行った。

「なァ、お前さん。どうして彼奴らの喉にその銛を打ち込まなかったンだァ?」

 柴門は特段、英雄めいた返事(コメント)を期待することなく、ただ平凡に質問した。

「銛は、お魚を突く道具。人を突く物じゃない。それに、もう人の血は見たくない」

「成程ォ。お前って熟々(つくづく)良いヤツだなァ!!」

 夕陽に煌めく顔がとても英雄らしく見えたのは、きっと柴門だけではないだろう。この場に居た観衆全員が彼女の華麗な動きの虜となり、魅了された。そして対戦後、勝ち誇る素振りなど微塵も見せず、彼女は着飾りのない思いの丈をただただ言葉として紡いだ。その純粋な言葉に柴門は心を奪われた。

「ヨシ、それじゃあこの迷子の兄を連れて屋敷に戻りますかァ」

 後ろに控える海霞の肩をポンと叩く。

 涙で眼を腫らした海霞は、満点の笑みを浮かべて『はいッ!!』と頷いて返した。その表情には、先程まで敬語調で気張っていた姿ではなく、あどけない子ども染みた像が重なった。

夕焼けに滲んだ彼女の笑顔は、安堵と幸福で満たされている様だった。


 何処か自信ありげに銛を掲げ先頭を行く守護獣少女を筆頭に、海霞と抱き抱えられた双子の兄、最後尾に柴門が付く形で、子守を頼まれた屋敷まで戻った。流石は野生の勘の持ち主。失踪した兄の居場所を発見した守護獣少女は、迷うことなく荒野を突き進み、最短距離で屋敷まで案内した。

 屋敷の前に着くと、そこには大きな荷車が二台停車していた。

 つまり、原材料調達に出掛けていた屋敷の者達が戻っているということなのだろう。

それを目撃した海霞はやや青ざめた。博真が上手く誤魔化して置くとのことだったが、上手く誤魔化されている保証は何処にもない。

 そんな風に負の思考を働かせているに違いない海霞のことを察して、敢えて柄でもなく海霞を励ます様なことを言ってみる。

「なァ。海霞さんのことが大好きな父親なんだからよォ、絶対ェ上手く誤魔化してくれてると思うぜェ。あの親爺、娘のことになると眼の色変えて必死になるからなァ。……ッたく、親馬鹿も良い処だぜ。でもよォ、海霞さん自身もそんな父親のこと、大好きなんだろ?」

「……もうッ!! そんな風に父娘関係を探らないで下さいッ!! 私は飽くまで、知識豊かな父を尊敬しているんですから」

 図星を衝かれた恥ずかしさを紛らわすために顔を柴門から背ける。耳まで紅く染まっているのは、きっと夕陽のせいではない筈だ。

「それじゃァ、大手を振って入ろうじゃねェか!!」


 柴門の言う通り、博真は上手く誤魔化してくれていた。

 博真は柴門を見付けるなり、直ぐ様駆け寄って来て『柴門殿、家の娘と双子の兄と二人で野原に花を摘みに行っていたことになって居る。弟の方は儂が面倒を見ていたことになって居る。じゃから、口裏合わせの方を頼むぞ。それと、その証拠のために兄の手にある摘んできた野花をこの屋敷の主人に見せて遣ってくれれば完璧じゃ』と告げた。

 柴門が『万が一、双子の兄を連れ戻せないッツウ可能性を考えなかったのかァ?』と問うと、『柴門殿のあの大立ち回りを見ていれば、何の不安もなかったわい』と返された。

 双子の弟はと言うと、今もあのまま図鑑に齧り付いているという訳ではなく、妹をあやす母親を捕まえて、今日身に付けた知識を自慢している様だった。

「オイ、海霞さん。博真の親爺も上手く誤魔化し方してるみテェだからよォ、あの餓鬼を唆して母親に摘んで来た野花を渡すに仕向けてくれねェか?」

 柴門は屋敷の者と話し込んでいる海霞を捕まえて、口裏の子細を潜め声で伝える。海霞も柴門が見た感じでは、家族が揃って和気藹藹な雰囲気を醸し出していることから、双子の兄が一時的に失踪した件は知れ渡っていないことを察している様だった。

「了解です。今更ですが、色々とありがとうございました。柴門さんには大分助けて貰いましたし、感謝し切れません! 今日の夜宴、楽しみにしていて下さいね!!」

「オゥ! 色々動いて随分と腹が減ったから、鱈腹喰えそうだなァこりゃ。……まァ、俺のことなんてどうでも良いからよォ、その坊主のこと可愛がってやってくれ。大分、恐い思いをしただろォからなァ」

 すっかり啼き止んだ失踪少年は、海霞の手を引っ張り『むぅむぅ』と何かを訴えている。その反対の手には勿論、多彩な野花が握られている。

「はいはい。どうしましたか? お母さんの処に行きましょうね」

 面倒見の良さそうな優しい声で包み込む様に撫でている。

 しかし、兄は地蔵の様に一寸も動こうとしない。下を向いて何かを言いたそうにしているばかりだ。すると、何か決意を固めた様にガバッと顔を勢い良く上げた。

「これ。…………今日、こっそり姐姐の眼を盗んであの野原に咲いてる花を取ってきて、姐姐を驚かそうと思って……でも、迷惑掛けちゃってごめんなさい」

 恥ずかしそうに顔を背けながら、即席の花束を海霞に突き出す。黙って受け取ってくれと言わんばかりに。

 つまり、この少年は柴門の見立て通り、海霞に属魂なのである。

 この少年が年上の女性、海霞に属魂になるのも分からなくない。海霞は女性として魅力的過ぎる。特に少年達には眼に毒な程であり、刺激が強過ぎる。胸元の母性の塊と春風の様な優しい声は、少年の純真無垢な心を鷲摑みするには十分だ。

 海霞は目線を少年のそれに合わせるためにその場にしゃがみ込み、両手で器を作る様にして野花の花束を受け取る。やや芝居掛かった演技で『わぁ、ありがとう!! 素敵ね』と言葉を返す。将来の契りでも結んだ気にでもなっているのか、少年の方は大層ご満悦の表情である。

 すると、甘い空気感に堪らず、「この一家の男子どもは皆、年上好みかね。ハァ、マセてるやがンなコイツァ。一方は湊街の華に属魂で、一方は美人な母上にお熱ダァ? この一家の跡継ぎ世代が心配なこったァ!!」

 柴門は笑いを誘う様な口調で毒突く。海霞は柴門の誘いに乗せられて『フフ』と微笑した。『何だかんだ、海霞さんは善い人だからなァ。何時の時代も美人と好漢は市場価値が高ェモンだ』

「もしかして柴門さん、この展開まで読んでいらっしゃいました…? ほら、この屋敷で私のことを煽動した時、『この子が私に属魂だ』とかなんだとか……」

「人の思考を詮索するなんて、随分な悪趣味してやがる。———止めとけや、未開封の箱を開いたって死んだ猫が出てくる場合だってあンだからよ」

 敢えて余韻を残して言い切った。海霞は首を捻りながらも、続け様に質問を飛ばす。

「それではもうひとつ。あの時、柴門さんの頭にあった推論、興味本位ながら聴かせては貰えませんか?」

「何のことだったかァ? 気分が良い時に訊いてくれたら、そン時にでも教えてやろう。俺は海霞さんに連れ回されたせいで、さっきから腹の虫が五月蠅くてなァ。大団円でホッコリしても、生憎様ながら、腹が減ってるせいで気分良くはねェんだ。さっさと家主から貰うべき駄賃を掻っ攫って来いよ。博真の親爺と用心棒と一緒に外で待ってるからよォ」

 柴門は矢鱈格好付けた文句を並べ、ステステと玄関口に戻る。男は背中で語るのだと言うが、この男は何時も語り過ぎである。男の美学を語るにはやはり千年以上早い。



【第参話 家族】

 それから博真や用心棒と言葉を交していると、すぐに海霞は暖簾を潜って外に出てきた。

五月という季節柄、すっかり夜の帳が落ちていた。柴門が異世界に飛ばされて最初の一日はそろそろ終わりが近い様である。

 柴門等一行は屋敷を目指してゆっくりと歩き出した。勿論、市場で購入した銛を屋敷まで送り届けると言って聞かない守護獣少女も同伴である。彼女は今日一日ご主人様役を務めた柴門との別れが寂しいのか、柴門にしがみ付く様にピッタリとその身を寄せている。

「なァ、博真の親爺。ひとつ頼みてェことがあるンだが、聴いてはくれるかァ?」

 何の前触れもなく柴門は口を開いた。決して博真の方に眼を遣るでもなく、遠くの星に焦点を合わせたままである。

「何となく推測は付くがのぉ。まぁ、話してみなされ。話も聴かずに駄目じゃと言う筈がなかろう」

 柴門は腰に両手を回して、調帯通し(ベルトループ)に括り付けられた銭紐を解く。それをジャラリと博真の前に垂らし、意を決した面持ちに改めた。

「———この銭で、この用心棒の身請けはできねェか?」

 柴門の口から飛び出た言葉は、博真からすると驚きでも何でもなかった。この乞食は良く柴門に懐き、柴門の信頼を短時間で獲得した。両者の間で築かれた強固な絆は、ずっと横で見守っていた博真からすると、築かれて然るべき代物だった。

 だが、それは飽くまでも、博真がそう受け取っただけである。今日が終わればまた路上暮らしに舞い戻ると括っていた用心棒からすると、阿鼻叫喚でしかなかった。

「えっ……」

 柴門がそう言った瞬間、守護獣少女は指先で摑んでいた柴門のパーカーをサッと離し、柴門の前に飛び出した。それと同時に、大事そうにしっかりと握り締められていた銛は、カタンと乾いた音を奏でて地面に落下した。

「……———」

守護獣少女の眼は潤んでいた。自分の何倍もある人攫いと対峙してまったく恐れを成すことがなかった彼女の眼は、溢れんばかりの涙で満ちていた。それは、前髪の奥に覗く眼の確かな煌めきを見れば間違いなかった。

守護獣少女はプルプルと震える唇をどうにか動かそうとする。つい先程まで、刹那の時を縫う様に華麗に跳躍していた者とは思えない、実にぎこちない動作だ。

「……ご主人様、それはどういう、意味…?」

博真に訊いた筈の質問が、守護獣少女の質問によって返される。

「だからよォ、俺はお前のことを大層気に入っち舞ったみてェだから、乞食身分のお前をこのご主人様が買い取ってやろうじゃねェかって話だ。そもそも乞食のお前に拒否権を赦す程、お前のご主人は寛大な野郎じゃねェってこと、始めに言って置いた方が良いかァ?」

 そこで、守護獣少女の返答を待たず、遅れて博真が口を挟む。敢えて空気を読まずに、だ。博真の中には、できあがった筋書きがあるのかも知れない。

「そんなこと儂に訊いて許可を取ってどうする? そもそもその銭は柴門殿が向こう十日は食べ物に困らぬようにと渡した銭じゃが、もう柴門殿の所有となった今、その使い道をどうしようと儂が口出しすることではなかろう。それに痩せた女子の商品価値など、一晩飲み明かす酒代になれば上等じゃ」

「ツウことは…?」

「銭五十もあれば、瘦軀の女児は愚か、中年の萎びた男子さえも一匹ずつとは言わず三匹ずつ纏めて身請けできるわい」

 この時代、市場の一角を成す傭肆(ようし)では、着飾った奴隷が鶏の如く檻に閉じ籠められ売られていることは然程珍しくない。平均相場は鶏よりは高いが豚よりは安く、雌牛の三分の一程度の価格であった。ちなみに、捌かれた人肉になると狗肉にも劣る価値しかない。また、使い道に乏しい瘦軀の女児は最も安く、一部の好事家が挙って買い占めるだけで、成人した男児は奴隷として重宝されるため最も高く取引される。

「じゃァ、こンだけの銭で足りねェ筈がねェな。これでどうだ」立ち止まった博真の胸元に銭紐ごと押し付ける。

「何じゃ?」

博真が困惑するのも分からなくない。身請け金という名の人身購入代金が支払われるのは、買い取られる奴隷本人ではなく、奴隷を店に陳列する仲介業者に対してである。そして、その内の幾分かが人攫い業者に支払われる。

柴門はもう一度銭紐を博真に突き付ける。数歩博真が後退する程、強く押し付けた。

「よく分からぬが、受け取っておけば良いのか?」

「あァ、是非そうしてくれ。これにて、正式に身請けの完了だァ」

 柴門はフンと鼻息を吐いてから、視線を守護獣少女に合わせる様に首の角度を下に傾ける。ただ、しゃがむことはせず、猫背をスッと伸ばした。その姿勢には、何らかの柴門の意図が籠められていたに違いない。

「という訳だ。俺の大事な用心棒さんよォ、これからも宜しく頼むぜェ」

 空いた両手を取って、ガッチリと大きな手で包み込んだ。

 それは、乞食身分で明日の命も危うい少女が、柴門付きの用心棒として盟約が交された瞬間であった。

 守護獣少女は震えながら、朝露にも似た綺麗な涙をポツリポツリと溢す。

彼女は頭に何を巡らせているのだろうか。これまでの壮絶な日常への回顧だろうか、ともこれから待ち受けている鮮やかな日常への憧れだろうか。

今日まで彼女の日常は過酷を極めたに違いない。母親を処刑で亡くし、父親の行方は知らないが、生まれたその瞬間からこの少女の隣には居なくとも不思議はない。只管、市場の門で物乞いをして日銭を稼ぎ、空いた腹を微量の食糧で満たしたことだろう。日銭が稼げない時には芥を漁り、半分腐った様な食事で我慢したのかも知れない。どんなに寒かろうと、どんなに雨に打たれようと、その襤褸切れ一枚で耐え忍んだのだろう。苛立った狼藉者に理由なく蹴り飛ばされて、死を覚悟したことなど一度や二度ではないかも知れない。

それでも今日、素晴らしいご主人様に出逢うまで、彼女は必死に命を繋いだのだ。明日の希望など信じる余裕もなかっただろうが、それでも死にたくないという本能に衝き動かされ今日まで辿り着いたのだ。そして、彼女は母親が死んで以降初めて『幸福』というものを味わったことだろう。市場で齧り付いたあの鶏腿の串焼きはさぞ御馳走だったことだろう。柴門に掛けられた危なっかしい語調でありながらも優しい言葉の数々は、彼女の身に染み渡ったことだろう。

柴門自身も今日、異世界に来て守護獣少女と共に歩んだ半日を振り返っていた。実に壮観な一日であった、そう柴門は感じていた。

 ややあって、守護獣少女は顔を上げた。

「ご主人様、これからも、宜しく。それと、ありがと」

 それは、満点の笑顔だった。

 何処か悲しみの混じった作り笑顔ではなく、正真正銘の純粋な笑顔。彼女は漸く、自分の気持ちを素直に表現したのだ。

「まァ、『もう人の血は見たくない』だっけか? あんな名台詞残されたんじゃ、この冷酷な柴門さんも涙がちょちょ切れち舞うぜ。———ンでもよォ、俺はお前の境遇に同情して、お前と盟約を結んだ訳じゃねェ。そンな腐った理由なら、俺は今頃全世界の孤児とお友達だろォよォ」

 ゴクリと唾と一緒に恥じらいの気持ちを飲み込むと、

「———俺はお前の純粋な心に惹かれたンだよ」

 柴門は顔を赧らめてそう言って見せた。この女慣れしていない柴門というカス男も、こういう決めるべき場面では決めるらしい。但し、満月の様に輝く守護獣少女の顔を直視することはできていないが。

 守護獣少女は堪らず柴門に抱き、そのまま柴門の胸に吸い込まれていった。そして、何時もの可愛らしい声で呟く。

「ありがと。でも、ご主人様、そんなこと言うなんて、らしくない」

「あァ、そうだ。だから、こんな湿気た話はこれでお仕舞いにしてェ。……だが、何だ、博真の親爺。何か言いたげ気だが?」

 と、柴門と守護獣少女の主従契約の件が落ち着いた処で、恥ずかしさ紛らわしに柴門は再び博真に話を振った。

「だがのぉ、柴門殿。儂は別に此奴を売り付ける人身商売人ではないぞ。だから、儂がこの銭を貰う義理はないんじゃが?」

「何言ってンだ、親爺。親爺は俺にこの優秀な用心棒を紹介してくれただろう? 立派な紹介業者じゃねェか。この金は、その紹介料とお気持ちだよ」

 未だ釈然としない様子だったが、銭紐を持って突き出された博真の腕を無理遣り押し返した。

「その金にも意味があンだよ。取り敢えずは大人しく受け取ってくれ」

 柴門はまだ何を考えているというのか。再び柴門が口を開き、その魂胆を語ろうとする。

「博真の親爺は俺に銭五十枚を渡した。それは、俺を雇い入れるための金。違うかァ?」

 柴門はあっけらかんと言って魅せた。まだ柴門の発言は続く。

「ということだからつまり、博真の親爺はこの銭五十枚で俺を身請けした。いや、『身請け』ッツウ表現じゃなくて、『契約』ツった方が正確か。博真の親爺は俺と銭五十枚で契約した。そンで、俺が手に入れた銭五十枚をこの用心棒の紹介料として親爺に支払う。———まァ、早い話、博真の親爺が俺だけじゃなく、コイツの面倒を見てくれねェかって話だ」

「柴門殿、身請けの仕組みは理解して居るか? 身請け金は儂の様な赤の他人に支払う———」

「俺が紹介料って言うのは、俺とコイツの宿代……いや養育費? まァ、そんなモンだ」

「つまり、柴門殿は何が言いたい?」

 博真はすでに柴門が求めている内容を理解している筈なのだが、厭らしく一から十まで柴門に語らせようとする。この展開も博真の中ではお品書き通りなのか。

 柴門は堪らず叫んだ。

「アァァァァァ間怠っこしい!! 俺はこの用心棒引き連れて、世話焼きな博真の親爺の屋敷に居候させて欲しい、そういう訳だアァ!! んで、この金は厄介料金兼宿代だ!! 受け取って貰わないことにはコッチとしては、気が済まねェんだよ」

 頼み込んでいる筈の柴門の口調は平時以上に荒い。『ご主人様、言葉が、荒い』などという守護獣少女の言葉に傾ける耳はなかった。必要以上に吊り上がった語尾はまさに、威嚇のそれである。恐らく、恥ずかしさを紛らわすためだろうが、実に下手くそな照れ隠しである。

「分かったわい。それじゃあ、銭五十では足りないのぉ」

「何だ、もっと迷惑料を強奪(ふんだく)ろうってのか? 衣服草履なしのマジモンの素寒貧までは覚悟だが!! この古惚けた異世界じゃ、合成繊維は高く売れるだろうよォ」

「早まるでない、話を良く聴け。———柴門殿と永年契約を結ぶには、銭五十では足りないと言っているのだよ」

「ツウことは…?」

 溜めを作って、今まで一切口を挟まず耳を傾けるだけだった海霞に眼を流す。

「なぁ、海霞。柴門殿とこの用心棒、今日から儂等の家族になって異論はないな?」

 海霞は何の躊躇いもなく、寧ろ最初からその台詞を用意していたのか、博真の言葉と重なる様に言葉が身を乗り出した。

「勿論です!! 柴門さんとは出逢って一日も経っていませんが、荒い口調の裏に隠れた人の善さを実感しました。……それに、柴門さんも私と一緒で、素直に気持ちを表現できない同志なんですよ、きっと。そのことに気付けると、一層親近感が湧きましたよ! それに、柴門さんの用心棒さんは私の恩人です! あの時、見付けてくれなければ、今頃の私は屋敷の方々に袋叩きに遭っていたに違いありません。……あっと、そう言えば、まだちゃんとしたお礼をしていませんでしたね」

 海霞はそこまで言うと、博真と柴門を挟んで一番遠くに居る用心棒の処まで駆け寄り、スッと膝を畳んで彼女の目線に合わせる。

「用心棒さん、どうもありがとう。ホントに助かりました」

 頭をポンポンと撫でられて、恥ずかしそうに柴門の影に隠れる守護獣少女。相変わらず柴門だけに懐いて、それ以外に対する警戒心を解こうとしない。それは柴門に対する極上の忠誠心とも解せなくもないが、やはり過酷な環境を生き抜いた野生児なりの防衛本能なのだろうか。しかし、その猜疑心にも近い柴門以外を警戒する態度は、これから家族になる上で取り払わなくてはならない。

「オイお前。折角、家族になるって言うンだからよォ、恥ずかしがってちゃ駄目だろ? ほら、海霞さんも博真の親爺もみんな善い人なンだからよォ、素直に褒められといて『ありがと』くらい言って置け」

 守護獣少女は抱き付いた柴門の腿裏から顔をゆっくりと離し、『うん』と小さく頷く。そのまま顔を横に出して、

「ありがと」

そう消え入る様な声量で囁くと、猫芸の様に再びサッと顔を腿裏に隠して仕舞った。夏虫が大合唱する時期であれば、その声は確実に掻き消されていたであろう。海霞も守護獣少女の感謝の言葉を直接聴くことができてご満悦だったが、何かに気付いた様で、海霞は両眼を大きく見開く素振りを見せた。

「あの、柴門さん。さっきからこの子のことを『お前』や『用心棒』などと呼んでいますが、もしかして名前を知らないんじゃありませんか!?」

 柴門は思わず、素っ頓狂な声を上げて仕舞った。

 確かにその通りだ。この守護獣少女に出逢ったのは市場の南大門で、荷物持ち兼案内役として市場中を連れ回した。その最中、柴門は度々守護獣少女のことを呼んだが、何の躊躇いも違和感もなく『お前』と呼んだ。柴門は『ご主人様』と呼ばせているにも拘わらず、だ。主従関係の都合上、お互いの呼び名がその様になることは避けられないのかも知れないが、これからは家族なのである。それに、守護獣少女の主人としても、守護獣少女と絆を育む者としても、彼女の名前を知って置きたい、そんな欲望が柴門の中に生じた。

 柴門は暫し考え込むと思考を纏めた様で、守護獣少女の頭を両手でガッシリと摑み彼女の額に自分のそれを衝き合わせる。

「名前は何ンて言うンだ?」

 柴門は主らしい威厳もありながら柔らかい言葉遣いを選んで、名を尋ねた。

「———リーファ」一呼吸置いて、「ご主人様、私の名前はリーファ」

 向日葵の様な笑顔を咲かせて、守護獣少女は柴門だけにしか聞えない様な小さな声で呟いた。柴門と守護獣少女が顔を衝き合わせたその空間だけ、満月の明かりに負けない閃光が弾けた様に感じられた。

 守護獣少女は眼を細めて辺りを見渡し、茂みの中に細腕を突っ込んで木の枝を攫って来る。何やら丸くしゃがみ込んで、何かを書き付けている。

「リーファの漢字、こう書くの。お母さんが、これだけは、覚えておきなさいって、何度も教えてくれた」

 そこには不格好ながら華やかさの感じられる漢字二文字が並んでいた。

 『里花』

 二文字の筆画には、数滴の水が染みていた。

 母親が残してくれた大事な名前。それは、里花の涙で美しく煌めいていた。その煌めきは、夜空に咲くある星が届けた光を弾いたのかも知れない。柴門は漠然と、里花の母親がこの瞬間を見守ってくれている様な気がした。

 里花は珍しくスラスラと続ける。

「お母さんが、大事な人と出逢った時、漢字で名前を書けるようにって、教えてくれた」

 柴門は五臓六腑に染み渡る様な喜びを覚えた。現実社会でクズ呼ばわりされてきた柴門のことを、異世界で出逢った少女は『大事な人』であると言ってくれた。その事実に柴門は感涙に咽ぶしかなかった。

「里花———良い名前じゃねェか。これからずっと宜しくなァ!!」

 里花は大きな声で『うん!!』と頷いた。それは、異世界に遣って来て一番心が温かくなった瞬間だった。

 だが、その余韻は直ぐ様断ち切られることになる。

「ねぇ、里花ちゃん。私のことは『海霞姐姐(お姉ちゃん)』って呼んでくれないかしら?」

 唐突に海霞が水を差した。海霞なりに距離感を縮めようとする作戦なのだろうが、その背景に欲望を感じなくもない。柴門は場を和ます意味を込めて、海霞を揶揄ってみることにした。

「オイ、お前。下心見えてンぞ」

「そんなことないですぅ!! 私は純粋に恩人の里花ちゃんとの距離感を縮めたかっただけで……まぁ、妹が欲しかったっていう気持ちは否定しませんが…!!」

 前の様な畏まった口調でなくなったことに安堵しつつも、「じゃあ、俺のことは『槍馬哥哥(お兄ちゃん)』って呼んでみるかァ?」

「柴門さんは確かに恩人ですが、哥哥はひとりで十分ですぅ!!」

「あァそうかい。俺も可愛い妹は里花ひとりで十分だからなァ。気の強い妹は居ても困るだけだァ。それに牛級の乳したお前さんに興味はねェ」

「なんですってェ!! ご自分こそ幼女趣味(ロリコン)性癖自覚した方が宜しいんじゃなくって! こんな可愛い子にドス黒い劣情抱くなんて、どうかした殿方だことッ!!」

 直ぐ様、里花の柴門を見る目付きが変わった。海霞に『里花ちゃん、あんな変態小父さんから避難しましょ』と言われて、海霞の方に身体を傾けようとまでしている。

「ねぇ、ご主人様。私のお母さん、胸大きい。だから、わたしもその内、大きくなる筈」

 里花は俎板を両腕で覆い隠しながら、横の甜瓜と比較して残念そうに言った。横の爆乳女とは歴然の差だが、あんな閾値と比べる必要はない。慎ましやかこそ至高なのだ。

「えッマジかァ!! 今のうちに胸部矯正下着(コルセット)を西から輸入しなくちゃなァァァァ!!」

「……ホント変態ね、柴門さんって。穢れた何かが伝染りそうですから、先に屋敷に帰って仕舞いましようね」

 すっかり海霞に懐いた守護獣少女改め里花は、仲良く手を繋いで汚物から遠ざかる様にして趨って逃げて行った。柴門としては、里花が警戒心を解いて家族の仲間と打ち解けそうであるのは本懐であったが、逆に里花に警戒心を抱かれる様な真似になって仕舞ったことは一生の不覚であった。

「いやオイ待て! 人の話は最後まで聴けやァァァァ!! この後に『今のは冗談だ』って付け足すのが定石だろォがァ!!」

 海霞と里花揃って柴門に侮蔑の視線を向けながら去って行った。キツい視線で身震いする様な快感を覚える程、柴門の癖は捻じ曲がってはいない。直ぐ様後を追い掛けようとすると、重機の様な馬鹿力で左肩を剔られた。

「オイ貴様。儂の目の前で家の愛娘を『牛』呼ばわりするとは、中々に良い度胸しているじゃないか。流石は百戦錬磨の勝負師と見込んだだけはあるのぉ。それになんじゃ、魅力的過ぎる愛娘のことを興味ないじゃとォ? 貴様のソレは不能なんじゃろうか。じゃが何であれ、娘を二度も愚弄するとはこの儂が許す訳がなかろうぞ———今すぐ勘当じゃアァァァァァァ!!」

———ズバァァァァン!!

 博真は怪物が歩く様に、ドシンドシンと轟音を踏み鳴らして屋敷へと帰って行った。

 柴門はと言うと、ソレを蹴り上げられて悶絶している次第である。

 方向音痴な柴門は、宛にならない勘に頼りながら屋敷に数刻掛けて辿り着いたのだった。



【第肆話 夜宴】

 時刻にして凡そ黄昏の刻(六時)。

命かながら柴門が屋敷に辿り着く頃には、既に夜宴の支度が済んでいる様だった。屋敷の暖簾を潜ると立ち籠める芳ばしい匂いが鼻腔を擽り、ますます食欲を掻き立てる。

 冗談だとは思うが、勘当された身である柴門としては、堂々と屋敷を歩き回る気にもなれず、取り敢えず三和土で立ち尽くしていた。そこに丁度現れたのが、好漢嗜好の海深であった。

「あらぁ、柴門さん!! もうすぐ夜宴の夕餉はできあがりますから、居間でお待ち下さいねぇ~」

 柴門と守護獣少女の里花が家族同然で居候することになっただとか、柴門が家主の博真に勘当されただとか、その辺りの事情をどこまで知っているのか不明だ。声を掛けてくれた海深のことなど放置して、事情を探るべく辺りを見回してみる柴門。しかし、その様な奇行はすぐに不審がられる訳で、

「どうしましたぁ? 主人も海霞も、それに里花ちゃんも屋敷に着いてますよぉ。恐らく、海霞と里花ちゃんなら、湯浴みをしている最中じゃないかしらぁ?」

 どうやら、里花の件についても話が回っている様だった。一先ず胸を撫で下ろすと、柴門は次の疑問について探りを入れてみる。

「さっき博真さんに勘当されちゃったみてェなンだが、この敷居って二度と跨いじゃ駄目な仕様になってたりしねェよなァ?」

 キョトンとしながらも、朝餉の一件を思い出したのかポンと手を叩く。一挙手一投足が大袈裟で芝居染みているが、今朝からの雰囲気から思うにそれがデフォルトなのだろう。

「またあの人、変なこと言って迫ったのかしらぁ? やっぱり、海霞絡み?」

「まァ、そんな処だァ。俺が挑発する様なこと言っち舞ったから、博真の親爺に罪はねェ———」

「いやいやぁ、主人は娘のことになると温和な性格が豹変するからねぇ、あの人の溺愛具合にも参ったもんね、ホント。私から『好漢には悪い人が居ない』って厳しく調教して置きますから、どうぞお気兼ねなく」

 返しに困った柴門は『はァ』と相鎚の様な同意の様な言葉を漏らすと、草履の紐を解こうとする。が、再び声が掛かった。

「ちょっと待って柴門さん!! 今から娘達の湯浴みを見に行くのでしよう?」

「ハァ?」

「だって、湯浴みしてるって噂を聞き付けて覗かない男なんてこの世に居るかしらいや居ないわ!! さっき挙動不審だったのもまさか覗きのため!? 悪いことは言わないから、私に耳を貸してご覧なさい? 一寸した覗きの工夫、教えてあげるから」

 柴門は良く解らないまま、海深に耳を預ける。

「ええと……屋敷の左側面沿いを煙突まで歩いて……確か、要らなくなった木箱が近くに転がっているでしょうから、それを踏み台にして房櫳を覗けば、そこにはきっと桃源郷が広がってるわよぉ~!! 一段高いだけあって湯屋からは気付かれることはないでしょうし、それで元気になれば疲れも吹き飛ぶでしょう?」

 男という生き物は実に悲しいもので、『湯屋覗き』の話題になると、湯煙の先にある確かな桃源郷を求めて、情熱を掻き立てて仕舞うのだ。そんな訳で柴門も思考停止して、海深から覗きの技術を伝授され尽くして仕舞ったのだ。とは言え、家族として迎え入れて貰う初日から、乱痴気騒ぎを起こす訳にはいかない。

 柴門は途端に脳内で素数を唱え出して、邪念を払うと、

「……いや、俺の主義として、危ねェ賭けには乗らねェことにしてンだ。どうせ此処は異世界(ファンタジー)。守備力に定評のある靄やら、謎の閃光が局部を邪魔するって決まってンだ。俺は覗きから無事に生還した者を知らねェ。そんな危うい賭けに乗れるかってンだ!!」

「あらぁ意外と現実的ねぇ。私なら何時でもいいのよぉ~」

 人妻とは思えない乱れた台詞を残し、颯爽と調理場の方へ消えて行った。靴紐を解くのを躊躇いながらも鉄の意志で乗り切った柴門は、蹌踉めきながら居間へと向かった。

「さぁ召し上がってぇ」

 この屋敷を影で牛耳る海深が夜宴開幕の合図を発する。

 普通は招待客や宴の主役に機嫌を伺い、酒の駆け付け一杯を酌み交わすのだそうだが、無礼講を許された柴門には、その様な習慣を押し付けることはしなかった。

 それにしても豪華絢爛な食事だ。

庶民では中々手の入らない仔牛の串焼きや、春に蕃殖期を迎える鵞鳥の燻製肉、川魚の塩焼きや刺身。その他にも多種多様な野菜が入った羹に、主食としては上等過ぎる質の高い黍、そして主菜に添えられた塩、麹、醤醢、山椒などの調味料や蘘荷、生姜、大蒜、紫蘇などの薬草と、実に種類豊富である。勿論、夜宴に欠かせない酒の取り揃えも十分で、清酒や濁り酒の様なオーソドックスなものもあれば、葡萄酒や柘榴酒の様な変わり種まであり、当然の様に酒の肴になる乾酪や扁桃(アーモンド)・胡桃(クルミ)などの種実類(ナッツ)、口直しの棗もある。

 そこで柴門は漸く思い出させられた。娘を溺愛するあの親爺は、朝廷に奉仕する高給取りなのだと。市場に出掛ける際も、華美な服装や着飾った冠物を身に付けず、質素な暮らしを営む一般庶民と何ら変わりない装いであった。また、金の猛者の典型たるや、金目にがめつい様子は一切見せず、寧ろ太っ腹であった。そのため、今の今までこの一家の経済状況に注意が行かなかったのである。

 絢爛な食事に圧倒されていると、上座に陣取る博真が何かに取り憑かれた様な神妙な面持ちで声を掛けてきた。

「……あぁ柴門殿。先程は失礼した。やはり娘のこととなると、どうもすぐに頭が沸騰して仕舞ってのぉ、心にもない暴言を次々吐いて仕舞うのじゃ。すまぬ、この通りじゃ」

 なんと事もあろうか、博真は柴門に頭を下げた。

しかし、それでも博真は頭を板張りに擦り付けたままで、一向に頭を上げようとしない。どれだけ海深にキツく搾られたのだろうか。

 仕方なしに助け船を出そうと辺りを見渡しても、絢爛豪華に圧倒されて魂を抜かしている里花と、『それくらいのお仕置きは必要でしよう?』と嗜虐的な笑みを浮かべる海深、『もう良い加減、娘離れしてよね!!』とツンデレ属性の海霞、『あぁどちらの味方に付けば宜しいでしよう?』と困惑する尊海と、誰一人として協力的でない。

「アァァァァァ!! 博真の親爺、取り敢えず酒を飲んで忘れろ忘れろッ!! 俺は湿っぽい雰囲気が一番嫌いなンだよォ!!」」

 一家の女共はまだまだお仕置きねと結託し、柴門の怒号で魂を連れ戻した里花も『早く、食べよ』と何も分かっていないという始末。流石に見兼ねた尊海が上手く対処してくれた。

 と、博真が顔を上げるまでかなりの時間が掛かったことは、今となっては夜宴の一興だったのかも知れない。宴も酣に突入すると、開幕当初の騒動が良い着火剤の様に思える。宴の開幕は柴門と里花の活躍に対する讃辞によって火蓋が切られ、只管に讃辞が続いた。

「なぁ、柴門殿。今日は……ヒック…愛娘を助けてくれた様じゃが…ヒック、流石の手管じゃったのぉ」

 具体的な話題は市場での無頼漢との一悶着から、失踪少年の救出劇に移っていた。それは、ち様ど酣を通り越し、酒精によって脳が翻弄される様になった頃合いだった。

この通り、博真はかなり酔っている状況で、呂律すら怪しい。相当な機嫌上戸らしく、娘の海霞に何を愚痴られ詰(なじ)られようと甘露の様な喜色満面を返している。

「いやァ、あれはコイツ……じゃなくて、里花のお陰。まさかこの小さな身体でゴツい人攫い二人を手玉に取るなんて誰も思いもしねェよ」

 そう言って、柴門の膝を枕にして寝る里花の頭を撫でる。砂埃塗れで軋んでいた髪も、海霞に綺麗に洗って貰ったお陰で色艶を取り戻している。椿油でも使って整えたのだろうか、微かに甘い匂いが漂う。

小躍りして喜んでいた彼女はある時突然、寝息を立てた童顔を肩に預けて来た。やはり、柴門の用心棒として辺りを駆けずり回り、人攫いと大捕物を繰り広げたのだから、体力が尽きて寝落ちして仕舞うのは仕方のないことである。柴門も子どもらしい姿を微笑ましく見ていた。

「まァ、博真の親爺が超絶有能な用心棒を紹介してくれてよォ、ホントに良い出逢いだった。親爺には頭が上がらねェよ」

 そんな里花の愛らしい姿に心を融かしたのか、綿菓子の様に蕩ける台詞を口にする。柴門も酔い醒ましに緑茶を挟んでいるとは言え、酒精はしっかりと柴門の本心を曝け出そうと牙を剥いている。

「……ヒック、お主は酒を飲むと…ウッ、素直になるタチかのぉ。ほれ、もう一杯どうじゃ?」

 賺さず空いた御猪口に清酒を注いでくる。御猪口の底に葡萄酒が残っていなくもなかったが、注がれて仕舞ってはしようがない。酔い醒ましの緑茶を一口啜ってから、御猪口を傾ける。柴門が博真と同じペースで飲んでいるにも拘わらず、博真程酔いが回っていないのはこのためだ。葡萄酒を煽るのと同時に、扁桃(アーモンド)を放り込む。

「何ツウか、里花も寝ている訳だしよォ、酔いの勢いに任せて素直な気持ちを吐いてみたくなったンだよ。悪党みてェな言葉遣いの俺が、可愛い言葉吐いちゃ気味悪いかァ?」

「良い良い!! 小生意気な柴門殿を手懐けられた様で、……ヒック、感慨深いわい」

「……俺は一匹狼気質だから、そう簡単には手懐けられねェぞ。しっかり飼い犬の手を噛んでやるからよォ。弟子が師匠を脅かすのもひとつの恩返しって言うしなァ」

「まぁ、酔い潰して置けば記憶もなくなるじゃろうし、問題ないわい。儂の作戦勝ちじゃな」

 自尊心の高い博真としては、頭の切れが抜群である柴門に張り合いたい部分がある。その気持ちは市場で無頼漢を撤退させた芸当を観て以降、決定的となった。とは言え、柴門を蹴落としたい、もしくは屈服させたいという様な邪悪な心情ではなく、良き好敵手(ライバル)として切磋琢磨したいという思いに衝き動かされてのことである。また、愛娘の前で良い処を観せたいという気持ちは嘘ではあるまい。

「それじゃあ、素直になった柴門さん! 今はお腹の虫も退治できたでしようし……」

 ウトウトと船を漕いでいた筈の海深が勢い良く声を上げた。彼女は未成年ということもあって、酒類一切に手を付けずに蔬果水(ジュース)をその代わりにしているが、酒精漂う空気感に気分酔いしているせいで、平時よりも声量が割り増しだ。どうやら賢者時間(タイム)に突入している柴門に何かを仕掛けようという魂胆らしい。

「双子の兄が失踪した時の推理、聴かせてはくれませんか? 勿体振る程、素晴らしい推理だと思うと、私どうしてもそれを訊かずには眠れなくて」

「さっきまで船漕いでた奴が何言うかァ? それに期待値を上げられても話し辛くなるだけだ」

「なんじゃ、柴門殿。あの双子の兄が失踪した…ウッ、理由が分かったというのか? 尊海も気になるじゃろ? ウウッ」

 博真は無理遣り周囲を抱き込んで、柴門に問い詰める。海霞も嬉嬉とした目線を向け、博真と海深は爛爛と眼を輝かせている。海霞と博真は知的好奇心がそうさせるのだろうが、海深は別の理由がありそうで恐い。尊海はというと、その生真面目さ故、優柔不断に柴門と博真を行ったり来たりさせている。

「これ、やっぱり話さなきゃ駄目な雰囲気じゃねェかよォ。てか、海深さんも尊海も、何のことだか分かってねェだろォ!!」

 取り敢えず、叫び散らして置けば何とかなると踏んだ柴門はそうしてみるが、思いもしない反応が返ってきた。

「この通りじゃ、娘の希望はなるだけ叶えて…ヒック……上げたいというのが親の性なモンでね。娘のためならどんな恥でも躊躇わないわい」

 この娘溺愛男と来たら、娘のためだと言っていとも簡単に土下座を繰り出した。海霞はそんな威厳の欠片もない父親を何時も白い眼で見ているが、今回ばかりは結託模様だ。『私からも』と合掌の仕草で頼み込まれて仕舞った。

 柴門としては、相手の喰い付きを面白がって勿体振った処がある分、いつの間にか希少価値の付けられた推理話の相場に困惑している。ここまでして頼み込まれると気後れする上に、推理話に対する過度な期待が重圧となり精神的圧迫感(プレッシャー)が半端ではない。

 そんな訳で気不味そうに眼を泳がせていると、柴門と海霞の眼が向く先にある土下座の様子が少し可笑しいことに気付く。動物の呻き声の様な低い唸りを上げ、河豚の様に膨らんだ口を必死に二枚の掌で覆っている。

「ウウッ…… 下を向い…ウッ……込み上げ……るものが…失礼…ウッ……厠…へ行かなけれ……ウウ、ウウッ」

 蹌踉めきながら博真が立ち上がると、甲斐甲斐しく孝行者の尊海が付き添う。尊海以外は共闘した海霞も含め白眼視しているものだから、この屋敷の家主は実に不憫で成らない。そのまま、尊海の手に携えられた燈明を頼りに奥の厠へ向かった。

「大丈夫かね、博真の親爺は。娘のために自爆して嘔吐する親が何処に居るってンだか」

「娘としても、吐く父様の姿は見たくありません。私のために恥は躊躇わないって言葉は、凄い良い響きなんですけどね」

 痛烈な掌返しの文句が垂れ流された。とは言え、海霞の気持ちも分からなくもない。酩酊状態で厠に駆け込む無様な父親を見てドン引きしない娘など、有り得ない。

「あの人ったら、夜宴になると飲み過ぎちゃうんだから。介護する私達の身にもなって欲しいくらいよぉ。でも、尊海が優秀で助かるわぁ」

「間違いねェ。尊海様々かもしンねェな。にしても、あンだけ酒を勧めておきながら自分が先に潰れるとはよォ。まァ、俺が開幕早々、酒を煽ったのが悪かったかも知れねェなァ」

「というかそもそも、酒がもう飲めないって言って離脱するのは『酒令』違反なのよ? 宴の主催者が酒令を破るなんて聞いたことがないわ」

「……そう言えば、年長者が酔って吐くと、若者はそれを模範にして吐かなきゃならねェ酒令があるみてェだが、どうだ? 喉に指突っ込んで嘔吐いた方が良いか?」

 柴門は突如、冗談を承知でトンデモない提案をした。

 『酒令』とは、宴の場における暗黙の了解を指し、具体的には「年長者よりも先に年少者は酒を口にしてはならない」、「年齢の上下は関係なく、酒の薦めは断ってはならない」ことなどが挙げられる。しかし、中には過激な酒令も存在し、「厠に立つと見せかけて宴からの逃走を試みると、監督役に惨殺される」こともあり得る。つまり、宴会の賑やかな場が血腥い殺戮現場に豹変し得るのである。

「そんなことしたら、折角の好漢が台無しになるじゃない!!」

 酒豪海深は、青銅製の酒杯に蔬果酒を勢い良く注ぎ込んだ。徳利を振って最後の一滴まで注ごうとまでする。他の飲み物で酒精を中和させることなく、只管酒精を摂取する様は狂気染みている。

「そうか。酒飲む時ァ、緑茶で酒精を分解しながら飲まねェと酔い潰れるのが早くなるって教えて遣れば、こうならずに済んだかもなァ。体質とその日の体調の兼ね合いもあるだろうし、効き目があるか未知数だがよォ」辺りを見渡したかと思うと、そのまま台詞を続け、「……ツウか、燈明ひとつ取られち舞ったせいで若干暗くねェか?」

 この夜宴の場は博真が厠に立つ前まで、四隅と中央に配置された五つの燈明が照らし上げていた。暗闇に眼を慣らさずとも饗膳も人の顔も視認可能だが、先日までLED照明の下で暮らしていた柴門からするとやや物足りなかった。その上、光量が単純計算で二割減になって仕舞ったのだから、暗いと訴えずには居られない。

「私と母様で夜鍋に精を出す時は燈明一台で頑張りますから、寧ろ明るいと感じる程ですが。あれでしたら、もう一台追加しましようか?」

 柴門は何かを思い付いたのか、パッと顔を明るくし、

「いやいや、その心配には及ばねェな。その硝子製の御猪口取ってくれねェか?」

 柴門は博真が使っていた御猪口を指差し、それを寄越せと言う。まったく柴門の魂胆が読めない様子の海霞は、取り敢えず柴門に手渡した。

「その御猪口、実は父が賜った下賜品か何かで、相当上等な代物らしいですよ」

「オゥ……そう言われち舞うと尻込みするが。……墨と硯、それと竹筒を用意してくれねェか? 竹筒は節を取っ払ったモンが用意できると都合が良いンだが」

「構いませんが……何をなさるつもりですか?」

「———此奴等だけでこの部屋全体を真っ昼間にしてやるンだよ」

 柴門は鼻を突き上げて得意気に言う。すると、柴門は胡散臭い骨董商の様な仕草で硝子製の酒杯を燈明に近付け、様々な角度に傾けて煌めかせることにより、その透明度や厚さを鑑定する。『おォ、下賜品ツウだけあってかなりの上質モンじゃねェか』その間に海霞は燈明のひとつを連れて、博真の書斎から所望の品を取って来た。

「柴門さん、こちらでどうです? この竹筒の方はご所望通りではないかも知れませんが」

 そう言って手渡してきたのは、箸の半分程度の高さがあり、親指が通る太さの穴が複数開いた竹筒だった。海霞が言うに、二つの穴に橋を架ける様に筆を通し、そのまま放置することで墨を落とした筆を乾燥させることができるという代物らしい。その他に、手練りの固形墨と蹄脚硯、陶製の水差しを海霞は用意した。

「いや、寧ろ好都合だな。鑿(のみ)か錐(きり)かで穴を空けようかって思ってたくらいだしよォ。それじゃ、道具は揃ったことだし準備に取り掛かりますかァ」

 説明口調でそう語った柴門は、真っ先に蹄脚硯に水を垂らし、その上で固形墨を擦る。その作業を五〇回程度と繰り返すと、固形墨が摩耗して水に溶け出し墨液ができる。文書を記すために用いられる墨液の濃さを出すにはこの作業の数倍は掛かるが、今回に限ってはその必要はなかった。

そして、水を満杯にした御猪口にできあがった墨液を注ぎ、濃度を均一にするために指で掻き回すと、薄墨程度の濃さの液体が仕上がった。

「さてと。俺の事情を分かってくれてる竹筒を燈明の受け皿に被せて……んじゃァ、仕上げだ。この御猪口を竹筒の上に載せてみなァ?」

 御猪口を差し出された海霞は、言われた通りに御猪口を仕掛ようとする。竹筒の太さは指と指を組んだ時に親指と人差し指の間にできる輪っか程度の半径で、これまた都合良く御猪口を受け止めることができる。

「こうで良いのでしよう……わっ!!」———その刹那、暗闇が引き裂かれた。

居間の中心に灯されていた燈明が閃光を放ち、部屋全体の輪郭を一瞬の内に浮かび上がらせたのだ。闇夜に眼を慣らしていた柴門等は、その眩しさの余り眼を覆った。目蓋の裏で光を感じたのか、柴門の膝で安らぐ里花が不愉快そうに眼を擦る。

ガタンッ

 引き戸が勢い良く開扉されたと同時に、素っ頓狂な声が響いた。

「何じゃこれは、柴門殿…! 何を為出かしてくれたのじゃ?」

 都合の良い時機(タイミング)に厠から戻ってきた博真は、迫る様に柴門に問う。ただその迫力は極めて薄く、顔には血色が感じられず、声にも覇気が微塵もない。続いて入ってきた尊海は、強い光源に眼を抉じ開けられた感覚なのか、眼を頻りに押さえながら蹌踉めいている。

「あァ……これはどうやら俺の右腕に宿りし神秘の能力が、この燈明に憑依しち舞ったみてェだなァ。差詰め、俺の異能はこの右腕に集約されてるッツウ訳だな。あァ、右手が疼くとはこの感覚か……」

 柴門は右手を震わせながら、巫山戯た文句を吐いて見せた。まるで、博真の実力を試すかの如く、嗜虐的な笑みを湛えながら。

「儂は柴門殿の能力を買って遣らなくもないがのぉ……流石に無理があるじゃろ。早速、儂をお嘲繰るでない」

「……『チンダル現象』ッツウ奴だな。例えば、陽光が雲の隙間から覗く時があるだろォ? そン時、光の筋が煌めいて見えると思うンだが、其奴と仕組みは似たモンだ。光が浮遊する微粒子に乱反射して……っても分からねェよな。取り敢えず、光を霧に通すと爆発的な煌めきを放つ、そういうモンだと理解しとけ」

「成程とだけ言って置こうか……悔しいが」

「あァ、そう言えばひとつ言い忘れてたなァ。このまま、放置して貰っても構わねェが、それだとこの御猪口は煤だらけになっち舞うぜェ。洗えば済む話だが、毎度毎度燈明に掛けてると、次第に煤けて濁って見える様になるだろうなァ」

「そういうことは早く言うべきだぞ、柴門殿。儂の大切な品を勝手に使いおって……有言実行とばかりに、舌の根も乾かぬ内に儂の手を噛むでない」

 博真は引っ手繰る様に燈明から硝子製の御猪口を取り去った。その瞬間、部屋全体が暗くなった様に感じられた。博真は燈明の焔を近付け、袴の裾で丁寧に煤を拭き取る。

「元通りになったことを以て好しとしてやろうかのぉ。まぁ、なんじゃ。何とは言わぬが、謝罪の言葉というか、贖罪の対価を聞きたいのぉ」

「そこまでして訊きたいモンなのか俺の推理は? まァ、期待する商品価値に見合ったモンが話せるか分からねェが、勿体振る理由なんてねェし………話すとするかァ。だが断って置くが、飽くまでも推論のひとつに過ぎねェンだから、鵜呑みするなよォ」

 スースーと可愛らしい寝息を立てる里花を撫でると、海霞が柴門に語ってくれた内容を適当に掻い摘まんで当時の状況を説明してから、蕩蕩と柴門は自らの推理を語り出した。


「まず、引っ掛かったのは、読書なんて滅多にしねェッツウ兄が、大人しく読書をしてたってことだ。それも、弟と同時に隣合う部屋で読書をしてたってのも、実にクサい」

「どうして柴門殿はその点に注目され…たのか?」

 真剣な眼差しで柴門に問う博真。先程、青ざめた顔をして厠から戻ってきたかと思えば、すっかり酔いが覚めている様子だ。何かの心的外傷(トラウマ)があるのか、それ以降一切酒に手出ししようとしない。

もはや夜宴の賑やかしい雰囲気ではなく、怪談でも押っ始めようかという静謐な空気感に様変わりしている。居間の四隅と中央に配置された燈明の焔の揺らめきが、それを一層高める。

「あァ。謎解きの取っ掛かりなんてのは、普段と異なる現象、もしくは明白過ぎる事実のどちらか。それ程、奇妙に目に映るモンはねェンだよ。其奴を頼りに推理を組立てていく訳よォ。この世界に推理小説なるモンがあるか知らねェが、事実を極めて明白化することで周囲を盲信させて欺くか、普段とは異なる特殊性に奇想天外な仕掛けを仕込むか、多くはどちらかの手法に拠って謎ってモンはできあがるンだァ」

「成程。柴門殿は特殊性に着目したという訳か」

「そうだ。海霞は度々、硝子越しに読書に励んでる兄を見たと言ってたなァ」と、敢えて海霞に呼び掛ける様に話を振ってから、「俺は其奴が仕組まれた幻想なんじゃねェか、そう考えた訳だァ」と低く地鳴りする様な響きを放った。

賺さず海霞も、「でも、私は確かにこの眼で読書している姿を………」と反撃する。

「あァ、其奴は事実かも知れねェが、現実じゃねェンだ。だって様、海霞が愚図った赤子をあやしている間に逃げ出したって割りには、種類豊富な野花を握ってなかったかァ?  ありゃ、短時間で掻き集められる量じゃねェだろォ?」

「確かに……で、でも…不可能って訳じゃないですし、私は確かに…!!」

「ハァ……。海霞さんには推理は向いてねェかもなァ。如何せん素直過ぎるが故に、目に飛び込んだ事実を疑うことができねェンだ。何かを信じることは重要だが、推理に置いては邪魔な作用でしかねェ。まァ、海霞さんには、その無類の純粋さを大事にして貰いてェがなァ」

 一度、咳払いで喉に絡み付いた痰を掻き切ってから、

「……推理なんツウ下手物は、天邪鬼みてェな人間不信の溢れ者がお得意の猜疑心を掻き立てて遊ぶ余興なんだよ。だから、純粋な海霞さんが手を出すべき領域じゃねェ……こういう汚れ仕事は、穢れた俺の領分なんだよォ」

 柴門は推理を世の碌でなしが手を出す博打や賭博と似た様なニュアンスで語る。だからこそ、誰しもに愛され誰しもを愛することができる純粋な心を持つ海霞には、推理などという下手物趣味に手を染めて欲しくない訳だ。

 今日知り合ったばかりの人見知りの激しい里花とすぐに打ち解けることができたのも、海霞が相手のことを素直に信頼するからだろう。人を無性に信じることは人間関係を築くには重要だが、推理では逆効果しか示さない。人を信じることから始まる友情は、対象を疑うことから始まる推理とは極端に仲が悪い。

「———そんな具合に捻くれた俺には、目の前にあるお誂え向きなまでに明白な事実程、無茶苦茶なまでに奇妙に映るンだよ。………海霞さんが見ていたのは兄の幻想さァ。まんまと正体不明の幻想に一杯喰わされたって訳だァ」

 敢えて、海霞を突き放す様に語感の鋭い言葉を選んで言い放つ。序に塩辛い物が欲しくなった口内に、醢醤を乗せた乾酪を放り込む。

 すると、「じゃあ、私が見ていたのは幽霊だったのでしようか…?」と、海霞は惚けたことを真面目な眼差しで述べる。

「その発想はちと、お気楽過ぎるんじゃねェか? 幽霊ってのは、論理破綻を起こす場合の『共済措置』でありながら、論理から目を背けた『逃げ』の選択肢でもあンだ。まァ、科学なるモンがない時代の人には理解し難いかも知れねェが、事実、この機械仕掛けの世界に幽霊なンツウ『不具合(バグ)』は存在しねェンだ。……謎解きが明らかにすンのは、腐った幻想なんかじゃねェ。———たったひとつの揺るがない真実だ」と、柴門は口内に広がる強い塩味を辛口評価として吐き出した。『やっぱり、海霞さんには推理は向いてねェよ』

 言葉の雰囲気だけで海霞は簡単に圧倒され、戦いている。

「となると、幽霊じゃねェ幻想は何だァ?」

 脅す様な口調で、柴門は質問を散撒く。すると、四人は腕を組むなり頭に手を添えるなり頬に指を当てるなり、各々深く考え込む。その隙間に口直しに最適な棗を頬張り、塩味を逃がす。ただでさえ塩味の強い乾酪に濃い醢醤はやり過ぎた。確実に塩分過多である。

 暫くした処で、静寂を嫌った尊海が駄目元で自説を述べようとする。

「つまり、妹が硝子越しに見ていた兄は兄の錯覚……つまり、妹には居ない筈の兄が見えていた。そういうことなのでしようか?」

 尊海の発言は、ただ柴門の発問を言い換えたに過ぎないかも知れないが、これぞ重要な謎解きの鍵なのだ。目の前に見えている事実を疑うことこそ、謎解きの正解に近付く第一歩である。

「あァ、そういうことだ」そう強く肯定し、尊海の発言の価値を高めようとする。先程から出番を失っている博真は不貞腐れて『何、平凡なこと言いおって』という態度だが、それを柴門は糾弾する。やはり、博真には柴門に対する張り合い意識がある様だ。

「いや、尊海の考え方は非常に重要だ。言ったろォ? 明白過ぎる事実を疑えってなァ。……だが、海霞さんには確かに兄らしき何かが見ていた訳だ。その幽霊の正体が分からねェことには、この迷宮は解決しねェなァ。さぁ、海霞さんが捉えていた幻想は一体ナニモンだァ?」

 博真はここぞとばかりに、唸りを上げて考え込むが、逆に頭が固くなって仕舞い、柔軟な考えができていない様子。その膠着状態で口を開いたのは、物語の読み聞かせでも聴く様に、一番気楽に話に耳を傾けていた海深だった。

「もしかして、鏡に映った弟さんだったんじゃないかしら? ほら、弟さんも読書をしていたのでしよう?」

 口元の黶に中指を宛てがい、海深はゆるふわな台詞を呟く。『まさか合っているなんてことはないわよねぇ~』くらいの軽い調子で。

「あァ、そう考えると上手く説明が付きそうだなァ。すげェ単純な答えで拍子抜けしたかも知れねェが」

 素っ頓狂な声を上げて驚いたかと思えば、海深は年甲斐もなく燥いでいる。それを怪訝な目線で見ている博真は、厠に立って以降、思考に斬れ味がない。娘に良いところを見せようと気張る姿勢が、思考の柔軟性を損なっているのだろうか。それとも、悪酔いと一緒に、明晰な思考法までも厠に戻して来て仕舞ったのだろうか。

「なァ、海霞さんよォ。兄と弟は双子で服装から背格好、顔立ちまで、何から何までそっくりだって言ってなかったかァ? 弟の容姿を参考にして兄を見付けてくれ、ってな」

「確かに……。何時も服装の違いで遠目からでも区別が付きますが、今日はそれこそ『鏡映し』の様でした。薄暗い部屋では、笑窪の位置にある黶があるかないかなんて判別付きませんし」

「それによォ、海霞さんと読書に励んでた弟が居た居間と、兄が蹴鞠で遊んでた隣の部屋を見比べると、奇妙なまでに間取りが似てねェか?  両方とも畳張り殺風景だったよなァ。間取りの悪戯のせいで鏡に映った弟をそこに居ねェ筈の兄だと錯覚しち舞ったンだ。どうだ? 綺麗に説明できち舞ったなァ」

海霞は記憶を脳内で反芻し、『確かに』と小さく頷く。

「こういう状況証拠は証拠としての効力は殆どねェがな、推理には滅茶苦茶に役立つンだ。飽くまで推理の取っ掛りにすると良い」

『ご丁寧に推理の方法論なんて語る意味はねェなァ』と嘆息してから、大きく息を吸い込んで、

「だが、海霞さんは裁縫中に、『硝子越し』に蹴鞠で遊んでる兄の姿を見てたんだろ? 何か可笑しくはねェか? これまた別の矛盾を抱えることになっち舞ったなァ」

博真が賺さず『では、妻の言うことは間違いということか?』と少し期待した様に口を挟むが、『其奴は藪睨みだぜェ』と敢え無く柴門に切り捨てられる。組んだ腕を一層強く締め、唇を血が滲む程強く噛み悔しさを露わにするが、それに構う程、柴門はお人好しではない。

「いや、間違いではない。正しくもねェがよォ」と余韻を残した語ると、溜めの余裕を楽しんで、「ただ、硝子と鏡は別物だよなァ? 硝子が鏡にすり替わるなンツウ奇奇怪怪、起きていた筈ねェモンなァ」

海霞は『硝子』越しに兄が蹴鞠に興じる姿を度々目撃し、『鏡』に反射した弟の姿を兄であると錯覚した。現状辿り着いた推理が現実と矛盾を起こしているのだ。となると、やはり疑うべきは推理の方なのか。

「では、推理は一からやり直しなのですか?」

そう残念そうに海霞が呟く。柴門は当然この展開を読んでいたのだろうが、となると袋小路に誘い込んだ柴門は極めて意地が悪い。今まで嬉嬉として柴門の推理に感嘆させられていた海霞としては、裏切られた気分だった。

「勿論、そんなことはねェぜェ。ここまで引っ張って置いて、振り出しに戻るなんて遣ってらンねェだろ? ここで大事になってくるのは、矛盾を打開できる冒険的な想像力と、その想像を現実に落とし込める知識量だァ。———さァ、冒険的な想像力はこの中の誰がお持ちかァ?」

 挑発的な献辞に触手を擽られたのは博真だった。ここが夜宴の場だということなど掻き忘れて、目の前の美酒そっち退けで、ウンウン唸って考え込んでいる。一方の海深は対照的で、酒精の濃度が低い蔬果酒を傾けている。

 またもや膠着状態を解いたのは、海深の何の気ない呟きだった。

「硝子と鏡って似ているじゃない? だから、硝子の癖に鏡にもなる不思議な硝子ってあったりしないのかしら?」

「おォ、冴えてンな海深さん。実はこの世界にはそんな具合に都合の良い鏡が存在してね。———その名も『魔法鏡』ってンだ」

「な、何を言うか柴門殿。お主、魔法や幽霊は推理に介入させてはならない非論理的なものだと申していたではないか。矛盾してはいないかのぉ。……否。さては、『魔鏡』のことを言っておるな? アレは歴とした種も仕掛けも———」

 柴門は御猪口に残った葡萄酒を煽ると、「勿論、種も仕掛けも存在する『魔法の鏡』だ。『魔鏡』とはちっと、仕掛けが違うがよォ」と言って、張り合おうとする博真を退ける。

「じゃあ、柴門殿は鏡にも硝子にも姿を変える『魔法鏡』があると言うんじゃな?」

「まさにその通りだ。正直、この世界に『魔法鏡』を作製できる技術力があることには驚いたァ。『魔鏡』なる途轍もない技術力の結晶が存在することを考えれば、不思議でもねェか」

「一体、どんな仕掛けが施されているというのじゃ?」

 柴門は『理解に手子摺るかも知れねェが、聞きたいか?』と念を押して置きながら、ゆっくりと話し出す。

「まず、鏡には『玻璃鏡』と『銅鏡』の大きく二種類があるが、その材質は知ってるよなァ。尋ねるまでもなく、玻璃鏡は硝子製で、銅鏡はその名の通り青銅製だな。もっとも明確な区別をしち舞えば、玻璃鏡は金属製じゃねェ鏡のことだァ。ここまでは理解かァ?」

 柴門は博真、海深、尊海、海霞の首肯を待つために一拍置くと、博真が割り込む様にして口を強引に挟み込んだ。

「あぁ勿論だ。玻璃鏡は硝子に水銀を引いて、銅鏡は研磨によって作られるのじゃな?」

「その通り。んで、細かい話を抜きにすれば、『魔法鏡』ってのは玻璃鏡の変化系だって理解で十分だな。だが、どうして玻璃鏡が硝子になるのかを理解するには、鏡がどうして物を映し出すのか解説しなくちゃならねェが、博真の親爺、お願いできるか?」

「柴門殿の物言いは儂を試す様じゃのぉ。まぁ構わない、その誘いに乗ってやろうじゃないか」ゴホンと咳払いをしてから、少し得意気に情けない泥鰌髭を弄って、「まず玻璃鏡じゃが、研磨した硝子に水銀と金を混ぜ合わせた液体状の金属を塗って、それを高熱で水銀だけを蒸発させて金を定着させる。そうすることによって、硝子の表面に薄い金属膜が張られるんじゃよ。ほれ、錆のない金属はキラキラと光って、物を反射させるじゃろ? つまりは、硝子の裏に塗られた金属に反射して、儂の顔が鏡に映るという訳じゃ。銅鏡の場合は表面を研磨して艶を出す。後は玻璃鏡と同じ原理じゃよ。これくらいで宜しかったかな、柴門殿」

「上等だな。まァ、補足するなら、薄い金属膜を表面に張る手法を『金が滅する』と書いて『滅金』ってンだ。水銀と金を混ぜて水銀だけを蒸発させると、金らしい黄金色の金属光沢が失われて銀色になる……だから『滅金』って訳だ。まァ、滅金の技術なんぞはどうでも良くて、博真の親爺が言う様に『硝子に張り付いた薄い金属膜に反射する』って処だけを理解して置けば、この先は問題ない」

「儂の言葉を援用してくれるとは、良き計らいじゃのぉ」

「流石に飼い主の手を噛み過ぎたかと思ったンでね、息継ぎみたいなモンよ。裏返せば、これでまた容赦なく噛める様になったって訳だ。……ンなことはどうでも良くて、普通は金属膜が裏側からの光、透過光ってンだけどな、其奴を一切通さねェから鏡は俺の顔を反射させるンだ。だが、その金属膜を薄く加工して透過光を通す様にしち舞えば、どうなると思う?」

「成程。反対側が透けて、硝子の様に振る舞う場合も有り得るという訳か」

「そう、ご明察。博真の親爺、厠に立ってから頭が固テェなァと思ってたからよォ、漸く本調子になってくれて助かるぜェ。こちらとしても話していて張り合いがねェと退屈なンでね」

「厠で余計な物まで吐き出して仕舞ったのかも知れぬ。正直、こちらこそ柴門殿には頭が上がらぬが」

 お互いがお互いを褒め合いながら牽制を図っていると、

「寡聞故、柴門さんを退屈させて仕舞う様な質問で申し訳ないのですが、どうして『魔法鏡』が襖に使われていたのでしょうか?」

 尊海が躊躇いながら口を開いた。やや自虐混じりの台詞であるが、尊海の性格を踏まえれば、厭らしい感情なしに本気で申し訳ないと思っているに違いない。

「あァ、確証の薄い推論でしかねェが、魔法鏡と玻璃鏡の違いは反射膜の厚さくらいで、反射膜を分厚くして透過光量を無にしたモンが玻璃鏡って訳だ。となると、この魔法鏡は反射膜を研磨し過ぎた結果薄くなった、もしくは滅金の厚みを失敗したかのどちらかだろうなァ。それで失敗作の鏡を硝子だと勘違いして、屋敷の内装に使っち舞ったって処じゃねェかァ?」

「魔法鏡は玻璃鏡の偶然の産物、そういうことなんですかね」

 柴門は『飽くまで推論だがな』と繰り返し、物寂しく感じた口に乾酪を葡萄酒と一緒に放り込む。咀嚼し調和を堪能するのも束の間、先を急げと言わんばかりに博真が捲し立てた。

「じゃが、柴門殿。鏡が硝子に姿を変えるのはどうしてなのじゃ? 何か仕掛けがないことには」

 海深は酒を片手に相変わらずだが、尊海と海霞は結論が早く知りたいと前傾姿勢になって構えている。そうも急かされて仕舞えば、柴門も鷹揚に話す必要はない。口内に粘着く乾酪を追い葡萄酒で無理遣り食道に流し込み、胸焼けを押さえながら話を続ける。

「……そう、そこが注目点だ。魔法鏡が鏡として振る舞うには透過光を極限まで減らす必要があって、硝子に姿を変えるなら透過光が十分に確保できれば良い訳だなァ。つまり、光の強さが変化すりゃ、硝子が鏡に変化するってことじゃねェかァ? ———此奴を遣って退けた大奇術師の正体は、自然光だ」

「というのは…?」尊海が相鎚を打つと、

「魔法鏡を挟んで反対側が暗けれりゃ当然透過光の量は減る訳だから、魔法鏡は鏡として機能する。一方で反対側が明るければ透過光が増え、向こう側が透けて鏡になる。その光量を調節したのは、太陽光がどう注ぐか。……そう言えば、本日のお天道様は恥ずかしがり屋で、雲の隙間から出たり入ったりしてなかったかァ?」

 一足先に真理に辿り着いた博真が、声を爆発させる。

「そういう訳か!! つまり、海霞が蹴鞠をしている姿を目撃した時は、隣の間に陽光が十分に注ぎ、読書している姿を兄だと錯覚した時は、陽が陰っていたという訳か」

「まァ、そういうこった。もう少し親切に説明するとなァ、魔法鏡が硝子になるか鏡になるかは、明度対比———つまり、魔法鏡の此方側と彼方側を比較してどちらがより明るいかによって決まるって訳だァ。だがよォ、この瞞しはあの四合院じゃなきゃ成り立たなかったと思うぜェ」

「どういうことじゃ?」

「いやァ、隣同士の部屋で差し込む陽光量に大差が付くなんて可笑しくねェか? 四つ囲いの角に配置された部屋なら不思議はねェが」

「確かにそうじゃ。同じ棟に面する部屋同士で、光量に差が出ることは中々考え辛いわい」

 博真は一旦台詞を切ると、柴門が投げた疑問に純粋に共感しているとは思えない、不気味な微笑を湛えている。その笑みは焔の向こうで無骨に揺らぎ、博真の自信を感じさせる。

「———だがのぉ、柴門殿は中庭に聳える馬刀葉椎こそが、大奇術を成功に導いた助演だと言いたいのじゃろ?」

「博真の親爺にズバズバ言い当てられると気分が良くねェな。ほら、比喩めいた婉曲表現するから、他の人はポカンじゃねェか。つまりどういうことかッツウとなァ、海霞が魔法鏡越しに蹴鞠をする姿を見た時は、東にあった太陽が馬刀葉椎に遮られて、海霞さんが裁縫してた部屋には然程陽光が注がなかった。太陽が南中する頃には雲に隠されち舞って、二つの部屋に陽光は注がず、薄ボンヤリと兄の姿が見えていた筈。だが、こン時は海霞さんが裁縫に熱中していた頃だろうから、眼の端で兄を追っただけで、ハッキリとは確認しなかったンだろォ?」

「……確かにそうかも知れないです。薄暗いせいで眼も利かなかったこともあるかも知れませんね」

「其奴は良かったなァ、そン時に裁縫に気を注いでてよォ。蹴鞠に夢中な兄の姿に、読書中の弟が憑依した化物が映し出されてただろうからよォ。んで、言う必要はねェかも知れねェが、太陽が西に傾くと今度は海霞さんの居た部屋の方が明るくなって、魔法鏡が鏡として読書中の姿を映した。そンで仕上げに、赤ん坊が愚図ってる間に陽が差して魔法鏡が硝子に戻って、誰も居ない部屋が覗いたってことだろうなァ」

 海霞は当時の状況を思い返しながら自分の中で咀嚼して理解に努めている様子だった。北側の正房には二つの部屋があり、その東側の方で子守役の海霞が裁縫に精を出し、その西側の方では腕白な双子の兄が蹴鞠に興じていた。そして、部屋と部屋の間に大きな馬刀葉椎の樹が聳え、時間帯に応じて日光が差し込むことを邪魔していたということだ。そんな具合で、海霞は理解したことだろう。

「つまり、双子の兄が野原に行って仕舞ったのは、私が思っていたよりもずっと前だったかも知れない訳ですね」

「まァ、そうだろうな。そうだと思うぜェ」

 柴門は歯切れ悪そうに同意する。

「なぁ柴門殿。まだお主の奥歯には何かが挟まっている様な気がするのじゃが、それは儂の勘違いかのぉ? まだ、真相は包まれたままというか、話し足りない様に見受けられるのじゃが」

 悪酔いから立ち直った博真は柴門の機微な言動から、その裏の深層心理を覗こうとする。博真は柴門を市場で案内する時も深い思慮によって行動を決定し、その構想に合う様に歩みを進めた。やはり、この博真という男、酒精が回っていなければ相当に頭が切れるのである。

と、図星な柴門は『フッ』と嘆息して、更なる推測に踏み込もうとする。

「別に隠す気はなかったンだが、博真の親爺の詮索が素早すぎてそう見えち舞ったじゃねェか。この後話すことは、何の根拠もない俺の空想話に過ぎねェんだから、マジで鵜呑みにするンじゃねェぞ」

 そう断りを挟んだ上で、

「まだまだ妙なことがあってなァ、この自然の悪戯は不自然までに出来過ぎじゃねェかってことだ。つまり、この事件に人為がまったく立ち入ってないとは思えねェんだ。何故なら、双子が同じ衣服を身に付ける、海霞さんが隣の部屋に行かない様に仕向けられる、この二つの条件が揃わなきゃならねェンだ」

「ほう、柴門殿はこの事件を双子の意思が介入したものだと考えているのか?」

 博真は泥鰌髭を梳かす。その仕草は、柴門を見定めている様に映る。

「では、柴門さんは妹に野花を届けたかった兄の意思だけでなく、弟の協力もこの事件には不可欠な要素である、そういう訳でしようか?」

「あァ。だが、部屋を隔てる硝子のせいで海霞さんが隣に読書中の兄が居る、そう錯覚したことと、兄が海霞さんに野花を不意打ち(サプライズ)で届けるために双子が結託したこと、この両者は別々のものとして考えた方が良いかも知れねェなって話もある。ツウのは、兄が隣の部屋からこっそり抜け出す機会なんぞ幾らでもあるで訳、その間、弟に気を惹いて置いて貰えば済む話だろォ?」

「成程のぉ。魔法鏡の襖が海霞を幻惑したのは偶然で、偶々兄の目論見を援助した形になったという訳か」

「まァ、それが一説。だが、俺はもう一歩踏み込んで考えていてなァ……まだ、衣服の一致が解決できていないだろォ?」

 一同が納得し、大きく頷いた処で、柴門はまだ推理には続きがあると言う。これには流石の博真も魂消た様で、眼をカッ開き眼力を籠めて柴門を凝視している。

「恐らくだが、兄は襖の硝子が鏡にもなることを知ってたンだろうな。ンで弟に『今日は海霞さんに野花を届けたいから、隣の部屋で蹴鞠をすることにする。そのことに気付かれない様に、赤子と同じ部屋で読書でもして置いて』くらいに頼んだンだろうなァ。それと、『呉々も僕の海霞さんに近付くなよ。独りで読書してね』とも伝えたかも知れねェなァ。じゃねェと、海霞さんも魔法鏡に映っち舞うし」

「成程のぉ」博真が感嘆の息を漏らす。

「まァ、仲違いは狂言かも知れねェな。海霞さんと距離を取る口実になる訳だしよォ。そンで、まったく同じ衣服を身に付けち舞えば下準備は完了だァ。弟はこの硝子が鏡になることなんて知らないモンだから、まんまと現場存在証明(アリバイ)の仕立て役にされち舞ったって訳だ」

「……柴門殿はそれが真相だと言いたいのかね…? だが、襖の硝子が魔法鏡だということは、弟が知っていても可笑しくはないのじゃないか? 寧ろその方が、この大仕掛けは成功しそうなものじゃが」

「そんなことはねェぞ。魔法鏡が硝子として機能しているか鏡に変わってるか、それは兄側でも判断できることだしよォ。ってのは、魔法鏡は明度の差が生み出す奇術な訳だから、反対側から見て硝子に見える時は此方からは鏡に見えるからであって……それにあの弟には鏡だとか硝子だとか関係ねェと思うぜ? ———なんせ、あの弟は弱視か過度な近視なんだからよォ」

 途端に海霞が引き攣った様な顔をして見せた。まさに晴天の霹靂といった具合だろうか。

「……えっと、柴門さんに弟さんの視力が良くないことって話しましたっけ? 酷い近視だから、旦那様からは特に弟さんからは眼を離すなと言われていて……。今日は距離を取られて仕舞いましたが」

「あァ、どうやらこれですべての疑問が繋がったかも知れねェなァ」

「一寸待て柴門殿!! どうして弟の眼が弱いことに気付いたんじゃ?」

 柴門が次の言葉を繰り出そうとしたその瞬間、博真は怒濤の勢いで割り込んだ。それは急流を堰き止めるかの如く強引で、急流に流されるまいと必死に岩場にしがみ付く姿を連想させた。

「図鑑を眼に擦り付ける様にして観ている仕草を見れば、そりゃ自然となァ。随分熱心に図鑑を読み込んでいると思っち舞えばそれまでかも知れねェが、その仕草は俺に違和感を植え付けた訳だ。他にも挙げ出せば際限ねェが、あれだけ兄が失踪したって海霞さんが気が動転してるにも拘わらず、その失踪に加担した弟は何も狼狽えてなかっただろォ? あれはきっと、視野が狭い余り、自分の横に俺と博真の親爺が居ることに気付いてなかったからだと思うぜェ? それに、水銀を日常的に扱う家なら、軽い水銀中毒で先天的に視覚異常を発症していても可笑しくはねェし……まァ、裏付けそんなトコだなァ」

博真は感嘆の唸りを上げて、「お見逸れした。流石じゃ柴門殿は」と、卓越した観察眼と洞察力を有する柴門に対する、ある種の降伏宣言を告げた。

「兄がどうしてそこまでして眼を忍んで野花を摘みに行こうとしたのか、その動機を俺なりに纏めるとするなら、海霞さんに対する気持ちと弟に対する思い遣りだろうなァ。ってのは、海霞さんに属魂な恋する男として、海霞さんを振り向かせる様な不意打ち(サプライズ)を仕掛けたかった。ンで、弟想いの優しい兄として、視覚異常で外出するの難しい弟のために、図鑑に載ってる可憐な野花を見せて遣りたかったんじゃねェか?」

 そこまで柴門が言い切ると、各々は柴門の推理の手順を追い直し、もう一度自分の頭の中で整理している様子だ。漸く一息付ける様になった柴門は、推論を語る最中に何度も口にしていた乾酪に三度手を伸ばす。塩味の利いた濃い味わいと、護謨(ゴム)の様な食感が癖になっていた。この際なのだからと、柴門は血圧を気にせず、種実類(ナッツ)と併せて何度も口に放り込む。

「柴門殿、実に見事な推理じゃったが、何時この推理を思い付いたのじゃ…?」

 博真は破れかぶれになって柴門に訊く。

柴門は左斜め上を見遣って、「……里花と博真の親爺に探しに行けッて命令してすぐじゃなかったかァ? 例の硝子仕様の魔法鏡を触った時にゃ、推論がある程度の確信に変わったがな」堪らず乾酪をまたひとつ舌の上で転がして、「そンで、徐々に背後関係を整理して……だったかな?」

その刹那、博真は諦観の極致に入った。

 博真は肩を落として深く溜息を付くと、酷く項垂れる。圧倒的実力差を否が応でも見せ付けられ、為す術なしに敗走したかの様な哀愁が感じられる。

「流石じゃ……柴門、殿」

 と、この表現は比喩でもなく、博真の心情を鏡映しにしたものに違いない。柴門は躊躇いなく推理を披露し、度々突っ掛かってくる博真を煙巻いて退ける。博真が柴門の推理に矛盾を見出そうと躍起になったとしても、矛盾の指摘さえ柴門の中では織り込み済みの様で、差し違いの如く精神的な激痛を伴って一蹴される。

 そんな具合で襤褸布染みてきた博真の自尊心は、木っ端微塵に砕かれた。

 博真には柴門の思考速度は信じ難かった。人智を超越した思考速度に感じた。この歴然の差は天賦の才でしか埋めることができない、そう直観した。柴門との資質の差違を埋める努力を諦めるという以前に、それに挑戦することをも撥ね除ける三行半を叩き付けられた思いに至っていた。

その瞬間、知識量だけでなく純粋な思考力に関しても柴門に敗北したことが確定した。

柴門との知識量の差違は、千年の時の差違で以て詭辯ながらも正当化できていた。しかし、知識量だけでなく、思考力に関しても辛酸を舐めることになった今、その正当化の方便は無意と化したのだ。

 博真自らの矜持を支えていた知識と思考の二本柱を、災害級の猛威に拠ってへし折られた気分だった。もう誇れる矜持はひとつたりとて存在しない。儂は賤しい高慢痴気なのだと。

「……ぁあ、柴門殿。……明日、話がある。不安になることはない、他愛もない世間話くらいに考えて居ってくれ……」

 力なくそう言い残した博真は、揺蕩う様に寝殿へ消えて行った。



【第伍話 智嚢衆】

 翌朝。

 日付が変わるまで続いた夜宴の余韻なく、平凡な朝を迎えた。鶏の鳴き声が響き、襁褓(おむつ)が濡れた母乳が飲みたいと喚き立てる赤子の泣き声も聞こえる。

 相変わらず孝行者の尊海と調理担当の海深は早起きで、忙しそうに朝餉の支度に当たっていた。柴門と守護獣少女の里花は客間に寝泊まりし、朝霧が晴れた今し方起きてきた処だった。海霞と博真は一足早く起きていた様で、既に中庭で朝の習慣を熟している。

「あら、おはようございます。良く眠れたかしら? あぁ、里花ちゃんもおはようさんね」

 朝餉の匂いに釣られて調理場に遣って来た柴門及び里花に、海深の柔らかい声が掛けられた。目元には軽く白粉が遇われ、朱唇には紅が惹かれている。竈で火加減の調整に当たっていた尊海は、慌てて煤の付いた顔を拭いながら朝の挨拶をした。

「ふわぁぁぁぁあ、おはようさん……。博真の親爺に言われたことがどうにも気になっち舞って、快眠とまでは行かねェなァ」

「あの博真(ひと)ったら、寝付きの悪くなる様なことを……お仕置き案件じゃないかしら?」

「オイオイ、止めたってくれ。彼の残存生命力(ライフ)はもう零(ゼロ)だ。でもよォ、自宅の煎餅布団と違って大分寝心地が良かったのは確かだぜェ」と柴門なりの感謝を伝えると、背後に隠れる里花の背中を引っ張り、「って、里花も俺の陰に隠れてねェで、朝の挨拶くらいはちゃんとしとけよ」

 里花は昨晩の夜宴では、饗膳に腹鼓を打ち小躍りする程楽しそうにしていたが、今朝になると借りてきた猫に戻って仕舞った。やはり、夜宴では場酔いしていたのだろうか。

「ん。おはよ……」

 身体接触(スキンシップ)の激しい海深は里花に詰め寄ると、里花の頬を豊満なそれに抱き寄せる。『きゃぁ、可愛い!! 海深大姑子(姉さん)って呼んでくれてもいいのよ。もう家族同然なんだから!!』どうしてこの家の女性はお姉さん呼びをさせたがるのだろうか。

「く、苦しい。でも、海深大姑子(姉さん)の、柔らかい」

 この里花を手懐けるのは簡単な様で、柔らかいものを里花に押し付ければすぐに懐く。もしかしたら、豊満だったという母親と重ねているのかも知れない。であるから、柴門以外の男子、無骨な博真と尊海は柔らかいものが一切ないためか、一向に懐く素振りを見せない。

「んッッッッッッ可愛いッ!! 今度一緒に湯浴みしましょうねぇ」

「オイ、俺の用心棒を窒息死に追い込まないでくれるかァ!? なァ、里花。この母性婆と湯浴みすると碌なことにならなそうだから止めて置けよ。逆上せる処じゃ済まねェぞ、きっと。湯浴みするならこの俺———」

「あらぁ、覗きは諦めて正面突破するつもりかしらぁ? でも、里花ちゃんみたいな子と一緒に湯浴みしたら、柴門さん捕まっちゃうわよぉ。想像だけで我慢してくださいな」

 そう海深に唆された瞬間、柴門の頭脳は無駄に高性能(スペック)を発揮して桃源郷の想像図を叩き出した。その想像図には湯煙に紛れた幼い少女が約一名。

「って、オイ!! 俺はそう簡単に欲情する原始的性欲動物なんかじゃ…!!」

 その瞬間、柴門槍馬の鼻からドロッとした液体が流れて来た。

 柴門はサッと手で鼻元から口を覆う様に構えると、鼻穴に接した人差し指でドロリの正体を擦り上げる。それが粘性高めな鼻水であることに一縷の望みを抱くが、海深と里花の反応を見ればそれが鼻水でないことは火を見るよりも明らかだった。

「ご主人様、やっぱり、変態……」

「柴門さんって、好漢の癖に拗らせなのね……勿体ない」

 柴門付きの用心棒兼守護獣少女である里花と、柴門に女の楽園(想像図)を煽った張本人である海深の氷よりも怜悧な視線が柴門の心を剔る。

「ちちちち、違う馬鹿野郎ッ!! これは……そうだァ!! 昨日見境無く扁桃(アーモンド)を馬鹿喰いたせいで血流が活発で、何かの拍子でキーゼルバッハ部位が刺激さたからに違いねェ!! かかかかか、勘違いすンなよッ!!」

 柴門は理知的に鼻血の原因を説明して見せるが、効果がある筈がない。指の隙間を通り抜けて、滴下痕が裸足の甲にできた。

「大丈夫、ご主人様。幾ら変態でも、わたしは見捨てない、から」

「人妻に欲情するって、拗らせが過ぎるわよ、柴門さん……」

 二人は乾涸らびた蚯蚓を見る様な賤視が柴門に向けられた。声質も雪女のそれの様で、軽く氷点下を下回る威力。

「あんなァ、名誉のためにひとつ言わせてくれやァ。……俺の偏執狂的(マニアック)に熟女に萌える趣味はねェ……幼女趣味(ロリ)だけなんやァァァ!! ———ハッ、待て違う違う違う違う!!」

 言い終えた時には既に事遅し。目の前にはプルプルと小刻みに震える守護獣少女の姿と、その少女を闇の勢力から守る母性の塊の姿があった。

「ご主人様、主従関係、解消したい、かも……」

 名誉が完全に失墜した柴門槍馬はその場で泣き崩れた。

 朝餉を無事に食べ終わると、博真から声が掛かった。昨晩、言っていた世間話の件なのだろう。

 言われるがままに客間で博真を待っていると、大きな紙束を抱えて遣って来た。顔色はどうにも優れず、歩容は弱々しさ以外の印象を与えない折腰歩であった。

「ぁあ、済まない。待たせて仕舞ったね」

「いやァ、気にすンな。転生二日目の朝にして、失った自尊心を癒やすには丁度良かったぜ。……世間話は嫌いじゃねェから、好きな時機(タイミング)で始めて貰って構わねェぞ」

「そうか。婉曲的に入るのは得意でなくてね、単刀直入に申すぞ柴門殿。———お主、智嚢衆にならんかね」

 聞き慣れない単語が飛び出した。困惑しているのは柴門。博真の酷く真面目な調子に面喰らっている。

「一寸待て。智嚢衆って何だ……?」

「ぁあ、出逢った時に一度話したと思うが、儂は朝廷で『智嚢衆首座』という役職に就いて居ってのぉ……早い話、その役職を柴門殿お主に明け渡そうと思うのじゃが、どうじゃ? 柴門殿なら楽にタンマリ稼げる見込みがあるぞ?」

「いやいやいや、悪質な職業紹介されてねェか!? 異世界の闇バイトなんぞ、特殊詐欺の受け子じゃ済まなそうじゃねェかァ!! 自慢じゃないが『高学歴プア』で名を轟かせてたこの俺に適正がある職業なんて、どの世界にも存在———」

「何を言って居る。天下一の知識人と名高い儂を完膚なきまでに捻じ伏せたのじゃ。それは天下一の誉れな———」

「いや、そんな覚えはねェぞ!? 勝手に何勘違いしてるか知らねェが、俺は無能転生者って肩書きで遣らせて貰ってンだ!! こっちの商売道具に早々と泥を塗るのは止めて欲し———」

「なんじゃ!! 柴門殿は儂を負かした覚えがないと言うのか。成程、儂は踏み潰されても気付かぬ虫螻程度の存在ということかのぉ。良き好敵手だと思っていたのは、儂だけ———」

「一旦話の筋を示してくれッ! 俺はそもそも博真の親爺と一戦交えちゃいねェし、況してや撃破した覚えもねェ。勝手に情緒不安定に語られても困———」

「まだ分からぬか!! 夜宴で儂は柴門殿に悪魔的な思考速度を見せ付けられたん———」

「マジで身に覚えがねェッツてンだ!! そうも怒鳴られちゃ———」

「一から十まで苦い記憶を語らせる気かッ!! 儂の生傷を剔り返し、無間地獄の苦しみを味わせる算段———」

「待て落ち着け。何も俺はそんなつもりはねェ。勝手に暴走してるンじゃねェ!!」

 お互いの発言に噛み付く様な会話の応酬は、柴門が博真の肩を摑んだ処で一度休憩を挟んだ。博真がそれでも激昂して暴走を止めないというのなら、額を搗ち当てる腹積もりだった。

 衝き合わせた額を離して、博真は『フゥ』と呼吸を整える。

「……済まぬ、取り乱した。柴門殿が昨晩の夜宴で披露した名推理、あのことを言っておるのじゃ」

「あァ、やっぱりそのことか。文脈から摑めてはいたが、苦い記憶やらと何の関係があン———」

「儂が矛盾を指摘しようとも、それも想定内だと言わんばかりに、塵でも払う様に煙巻いたではないか。あれは高慢痴気な儂からすると、憤死するに等しい屈辱じゃった……。柴門殿は千年先を生きる未来人だと申すから、知識量で劣るのは止むを得んと無理遣りに正当化して居ったんじゃが、天と地程の思考力の差を見せ付けられて仕舞えば、儂は何処に拠り所を求めれば良いと言うんじゃ。———その瞬間、儂の矜持は襤褸布に成り果てたのじゃ……」

「おゥ…そうか……」何と言葉を掛ければ良いのか、その正解が見当たらず曖昧な相鎚を返す。厭らしい空白が空いた処に、博真が台詞を流れ込ませる。再び俯き加減で語り出した。

「儂はのぉ、帝に寵された知識と思考力で『智嚢衆首座』としてこの国を背後から支えて来たんじゃ。国の頭脳とも言うべき儂が……こう言っては失礼に響くかも知れぬが、何処の馬の骨かも分からぬお主に徹頭徹尾遣り籠められて仕舞うとは、実に惨めじゃのぉ」

 博真は一度息を吸って、『そこでじゃ、柴門殿』と再び切り出す。

「『智嚢衆首座』は国一番の賢人でなくてはならぬ。国一番の賢人であった儂が白旗を揚げたということは、『智嚢衆首座』の職から降りなくてはならないことを意味する訳じゃ。でなくては、儂の醜い矜恃は愚か、帝の権威まで穢すことになって仕舞うわい。———じゃから、儂を討ち負かした勲章として柴門殿、お主に『智嚢衆首座』の地位を明け渡そうと思う、そういう訳じゃ」

 博真は何処か寂しそうに、しかし何処か安堵の面持ちで心の内を冗長に語り終えた。目頭を右手で押さえ、溢れそうになる感情の雫をグッと堪える。震える右手は『智嚢衆首座』という重責からの解放感に拠るものなのか、それとも『智嚢衆首座』から退かなくてはならない故の寂寥感に拠るものなのか。

 柴門は博真が感情を整理する時間を与え、ゆっくりと口を開く。

「横綱には降格がない分、残された道は引退しかねェ、そういう絡繰りか。……まァ何だ、そんな国のお偉いに褒めて貰えた俺は幸せってことだなァ。まさか、ただの娘溺愛厄介親父だと思ってた博真の親爺が国一番の賢者だとはなァ、笑いを堪えるので精一杯だぜホント」

「フッ。……まだ儂を愚弄するのか柴門殿。出逢った時から相変わらずじゃが、柴門殿には年長者に対する配慮というものが決定的に欠如———」

「デレた分だけ毒吐かねェと俺の身体はイカれち舞う、そういう設計なンだよ。甘いモンばかりじゃ口の中が気持ち悪くなって塩辛いモンが喰いたくなる……そういう具合でなァ」

 ハァと溜息を付き、『毒を吐いた分、俺の自分語りで解毒してやるか』と詰まらなそうに吐き捨てる。

「……俺は前の世界では除け者にされていてな。器用貧乏って奴なのかも知れねェな」

 ポツリと零した柴門の戯言に博真は、餌に喰い付く魚の様な興味を示す。『何だよ、俺の恥ずかしい身の上話が聴きてェか?』博真の顔は意外だと言わんとしている。

「もう少し詳しく話すとな、俺が勉学に秀でていたのは確かなンだ。だがよォ、世の中が求めてるモンは辞典級の知識宝庫でも、高飛車な司令官気質でもねェンだ。辞典級の知識宝庫は人間を宛てにせずとも、それこそ辞典で置き換えられち舞うし、専門分野の研究者になろうとも俺の『深く広い知識』は其奴には向かなかった。俺みたいな万能選手はどうしても器用貧乏になっち舞う、そういう俺が不利に回る仕掛けが社会を蹂躙してたンだ。それに高飛車な司令官気質だって、年功序列の厳しい縦社会じゃお偉いのお怒りを買うだけで、何の役にも立ちやしねェ。そンで、博真の親爺が褒めてくれた知恵を発揮して課題を解決しようとすれば、俺の高慢な態度を疎ましがる上層部が全力で邪魔しに掛かる。———そんな訳で、俺は社会の底辺を彷徨う屑みてェな生き方をして来たンだ」

「柴門殿が器用貧乏とはのぉ。儂はその世界に生まれなくて良かったわい」

 実に平凡な可も不可もない台詞を博真は挟む。自虐や誹謗などの意味を一切感じ取ることのできない、無機質かつ定型的な返答の様に感じられた。

「だがなァ、この異世界に来た途端、博真の親爺に絶賛されてよォ……俺はどうも舞い上がっち舞ったみてェだァ。しかも、平凡かと思っていた博真の親爺が国一番の賢者だって言うンだから、そりゃァ俺の鼻は天狗様のそれだわなァ。今まで貶され続けた高慢痴気が少しでも褒め囃されれば、そりゃぁ調子に乗るわなァ。元々口が悪ィ俺が、図に乗って吐いた言葉なんぞ酷ェモンだ。博真の親爺を傷付けち舞ってるに違いねェ。———だがなァ、俺の言葉には博真の親爺を馬鹿にするとか、嘲笑うとか、そういう穢れた成分は一切入ってねェンだ。配慮が足りねェ不器用な俺には、優しい言葉がそう簡単には紡げねェンだ。夜宴の時に漏らした本音は酒に助けられたって訳だ……思い出すのも悍ましいが」

「フッ……。毒舌な柴門殿の可愛らしい本音が聞けた儂は幸せ者だと思って差し支えはないかね…?」

「あァ、そんな処だな」

 柴門は照れ臭そうに顔を背けて、耳朶を掻く。その身体表現こそ、柴門が包み隠さない本心を打ち明けた何よりもの証拠だった。

「結果、遠回りして仕舞ったが、『智嚢衆首座』の任、受けてくれるかのぉ?」

 柴門は特に考える訳でもなく、即座に答えを口にする。

「博真の親爺が俺を適任だって言うンなら、そうなんじゃねェか? 用心棒の目利きは間違いなかったしよォ。……こんな腐った男を取り立ててくれる場所があるなら、喜んで」

「そうか。では支度をしろ。明日、王都に向かうぞ!」

 博真は片膝を立てて勢い良く立ち上がる。先程までの厭世人が纏う陰気な雰囲気とは真逆であり、活力に満ちている。そんな博真の姿を見ると、柴門は堪らず毒突きたい気分に駆られた。

「博真の親爺、ひとつ訂正だ。親爺の女を見る目は信用ならねェな。海深も海霞もイカれた癖してやがる」

 直後、殺意に満ちた高笑いが四合院に響き渡った。



【第陸話 謁見】

 王都。

 それは皇帝の根城である王宮と、国中の美貌を集めた後宮を中心に形成された、国一番の人口を誇る大都市である。

 そうは言っても王都自体、二重の城郭と環濠に囲まれた城郭都市であり、内郭と外郭の間には宮廷官僚の邸宅もあれば、貧民の住む負郭窮巷もあり、ピンからキリまで何でも御座れである。一方の内郭の中には、王宮関連の施設や建物が所狭しと敷き詰められており、立ち入るには格式と冠位が求められる。

 つまり、一般庶民が立ち入ることができるのは内郭の外側までで、その内部は高貴な血統を引く皇帝一族と一族に奉仕する官僚等によって満たされている。なので、寵愛戦争によって絶えず生じる瘴気が渦めく後宮に立ち入ることは勿論、皇帝の尊顔を一目拝むことすらも庶民には無縁のことなのである。

「ほれ、里花も堂々と柴門殿の用心棒然としておれ。門番に見下され兼ねぬぞ」

 平気な顔をしている柴門とは対照的に、数日前まで市民蒼生の最下層に居た里花は、腰が引けている。

 と、内郭に続く隧道(トンネル)に辿り着いた博真、柴門槍真、柴門付きの用心棒・里花は、槍を携えた門番の通行審査を受けていた。

 簡易的な身体検査と入場理由の尋問が行われた様だが、博真が何かを呟くと敬礼で返されていた。

 目の前に聳えるのは、巨人さえも跨ぐことを拒む峻嶺な城郭である。人の背丈の十数倍はあろうかという城郭の上には朱塗りの霊廟が鎮座し、多色塗りの絢爛彫刻が通行人を見下ろしている。その霊廟が何か監視機能を持っているのか否か、柴門には判断付かないが、十分な威圧効果があると感じる。これを観て仕舞うと、市場で潜った大門や外郭は赤子でさえも満足できない随分とお寒い物に思えて来る。

 更には、城郭は景色の彼方まで続き、城郭上に等間隔に設置された物見櫓からは鋭い視線が注がれているに違いない。そして、城郭を風化より守る護城坡は実に壮観な景観を形成し、艶の良い瓦が痛烈に陽光を弾き返すことでそれを一層栄えあるものにしている。

 だが、威圧感を与えているのは、豪奢な建造物群だけではない。隧道より覗く、都会らしい颯爽とした歩みで闊歩する若手官僚こそが、気後れの第一原因であった。城郭を外側から囲う環濠に掛かった橋の上では、乞食が例の如く物乞いに勤しみ、城郭内外の空気感の落差を物語っている。

 城郭内の彼等は冠から黄金の付属品(アクセサリー)を垂らし、平民を欺く様な楚々とした所作で、笏を器用に扱い言葉を交わす。耳裏や懐に仕込まれた筆で笏に備忘(メモ)を書き付けるらしい。装束に仕込まれた金箔工芸が官僚の微笑みに加勢する様にキラリと煌めく。

「博真の親爺が超お偉いだって話、嘘じゃなかったンかァ。馬車まで手配されてやがンの」

「これこれ。誇る訳ではないがのぉ、曲がりなりにも儂はこの国一番の知識人なのじゃぞ。それくらいの待遇は当たり前じゃ。まぁ、それ程の高級官僚が田舎歩きで大門を訪ねたものだから、門番は面喰らって居ったわい、気の毒なことをした」

 上東に港から王都までそれ程遠くはないが、徒歩であると十刻(二時間半)以上は要する。そのため、牛に車を引かせて王都まで遣って来たが、知り合いらしき魚問屋の主人に牛を預けて仕舞った。だから、今は徒歩なのである。

「やっぱり、博真の親爺が下官を顎で遣ってる姿は想像できねェな。海深さんに詰られてる姿が一番似合う。その卯建の上がらねェ顎髭は此如何にって感じだからなァ」

「まぁ、此の劉備玄徳も薄髭じゃったそうじゃぞ? 髭と資質は無関係なの———おい、里花は何処に行った?」

 振り返って見渡すと、「おい里花、そんなトコに隠れてねェで———」

 里花はそんな瘴気渦めく空気に完全に絆された様子で、濫觴の仔羊の様に脚を震わせ、大門の敷居にしがみ付いている。

「わたし、賤民だから、この門、潜れない」

 里花が脅えた声で小さく呟く。

厳つい無頼漢や巨軀の人攫いと対峙して、大立ち回りを繰り広げた勇壮な姿の影はない。見れば、純白の衣に紅色の胡服を着た、丁寧に結われた艶髪は柘植(ツゲ)の簪で纏められた箱入り娘然とした弱き少女が、脚を竦ませているだけである。

 柴門は敷居を再び跨ぎ、か弱き少女に近付く。主人らしく彼女見下ろし、声を張る。

「———里花はもう賤民じゃねェぞ。まず里花は顔立ちも悪くねェし、身形だけ見りゃ十分に貴族令嬢で通るぜェ? 俺の用心棒なら槍の一本や二本、加えて隠し匕首に峨眉刺くらい忍ばせて遣りてェ気持ちは山々だが、そうは問屋が卸さねェ。まァ、何にせよ堂々と振る舞っときゃ良い。これから智嚢衆首座になろうって男の一番の腹心が、情けねェ少女じゃ格好付ねェだろォ?」

「ん。……でも…」

「良く聴け里花。ただのド平民なら、大手を振ってこの門を潜る大義名分はねェかも知れねェが、生憎、この柴門様は異世界転生二日目にして平民から朝廷のお偉いに成り上がったみてェだ。俺に付いて来れば、大義名分なんぞどうとでもなる。里花にも俺の威をくれて遣るから、ドッシリ構えときゃ良い」

 里花に手を差し出した柴門は、『まァ、悪役令嬢の役割(ロール)は似合わねェか』と雑に吐き捨て、そのまま里花の手を強く引く。が、思いも寄らずその手は引き返し、柴門を軽く蹌踉めかせる。そこには直立不動の少女・里花の決意面があった。

「な、何だ…?」

「ん。国一番のご主人様と並んで、恥ずかしくない様に、する。わたしに、付いて来て」

「オウ。天下一の俺様を率いて遣ろうとは見上げた気概だなァ。それでこそ俺の立派な用心棒……いや案内役だァ」

 厩の主人に断わりを入れて此方の様子を窺いに来た博真は、泥鰌髭を弄りながら呆れ混じりに口を開く。

「オイオイ……。儂が推薦したと言うだけで、帝からの正式な任命は下って居ないのじゃぞ? この期に及んで辞めたと嘘吐かれるよりはマシじゃがな」

「気が変わらねェ内にさっさと乗り込むぞ」

 何とか里花を説得し、門番の怪訝そうな視線を振り切って大門を潜ると、用意された馬車に乗車する。どうやらこの時代、牛車よりも馬車の方が上位らしい。柴門が『牛をどうして預けち舞ったンだ?』と質問すると、『紫冠が牛車で参上とは格好が付かぬ。酒問屋と見間違えられ兼ねないわい』と返された。

 厩の老主人は博真に気を遣って、朱輪の馬車に剛健な牝馬を付けた。博真が向かって奥に乗り込み、続いて柴門、里花の順で瀟洒な客車座席に腰を沈める。御者が乗車の際に踏み台にした木箱を退けると、露払いが声を張り、巨大な扇で大路を切り裂いた。

「ここまで大仰に遣られて仕舞うと優越感よりも気後れが勝るのぉ。やはり、儂には上に君臨する者として備えるべき豪胆さが足りんのじゃな」

「いや、そンくらいの方がいいぜ。じゃなきゃ、娘さんも博真の親爺のことを慕わないだろうしよう。変に自分の性格を偽って虚勢張るくらいなら、家族想いな優しい自分を大事にして遣った方がいいぜェ」

「柴門殿も遜るくらいなら罵倒された方が爽快じゃよ? 畏まられて仕舞えば虫酸が走るわい。柴門殿は柴門殿らしく、譬え帝の前であったとしても豪胆であって欲しいものじゃ」

「流石の俺も、生殺与奪の権を握られた相手に刃向かおうとはしねェぜ。博真の親爺と同じ調子で口利いてたンじゃ、命が幾つあっても足りねェぞ」

「心配するでない。帝は建国以来、最も度量の広いお方と専ら噂じゃし、宛ての推薦状に『痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)。柴門殿に魅了された暁には、彼の不遜は愛嬌と化す可し』と記したからには問題ないじゃろう」

 柴門は左の口角だけを吊り上げた策略的な微笑を浮かべると、博真から態と眼を背け明後日の方向を見遣る。

「んじゃあ、俺にお熱な博真は豪胆な性格に恋してる、そういう訳か? 間接的な恋文をこの密室で囁かれても困るぜ? 横には幼い里花も居るンだしよう」

「ん。じゃあ、わたし、歩く。お気兼ねなく」

「おい冗談だ。昼間の往来で乱痴気騒ぎを起こす程、乱れちゃいねェぞ。……まァ、どういう訳だか知らねェが、目立った騒ぎを起こしてねェにも拘わらず、視線が俺を刺す様に感じるのは気のせいか? 知らぬ間に賞金首扱いだったら困るぜェ」

 大袈裟なまでに露払いが大声を上げるため、周囲の眼がこの馬車に集まる理由は分からなくもない。

 しかし、その目線は好奇や憧憬だけでなく、欲情や猥褻などの下世話な成分を含んだネチっこい物に感じられる。それも挙って欲求不満の若い女官ばかりが視線を釘付けにするものだから、その視線が意味する物は明確である。

「そりゃ、柴門殿が好漢じゃからのぉ。自分で申して居って虚しくなるが、好漢の官人の方が昇進は恵まれる上に、採用基準に顔面偏差値が組み込まれることもザラにある。学以外に顔の出来も必要と来れば、鉤鼻や吊り眼、出っ歯の者は生まれたその瞬間から高級官僚の道はないに等しい、そういう訳じゃ。実に世知辛いのぉ」

「んじゃあ、博真の親爺は昔は相当な好漢だったのか? 今や見る影も———」

「失礼を言うでない。儂は昔よりこの顔じゃよ。勿論、皺は増えるし肌は黒ずむからのぉ、昔は幾分マシじゃったかも知れぬが、かと言って不細工ではなかろう? 現帝は儂の才能を見抜いて重用して下さったのじゃ。まァ、柴門殿には顔は愚か、自慢の才能でも完敗じゃが」

「この世界じゃ俺はそこそこの好漢って扱いで構わねェのか? となると、この馬車には美男美女、それに風采の上がらない親爺一匹、実に滑稽だねェ」

 博真は『その手の煽りには慣れたわい』と遠吠えを吐くと、急に声の調子を変えて柴門に聞き耳を立てさせる様に声を欹てる。里花は満更でもなさそうに頬を上気させている……のかと思えば、趨る景色に気を取られている様子。

「柴門殿、欲情の視線に嫉妬が混じって居るのにお気づきか? あれは艶羨の類いじゃのぉて、キツい瘴気の根源———憎しみに近い穢れた感情じゃよ。若い官僚共は容姿端麗かつ位階の高い柴門殿に嫉妬の火花を散らして居るんじゃよ。儂のお古とは言え、上等な進賢冠を被せて置いて正解じゃった」

「ん? どういう———」

「男、特に知識人や官吏の界隈では、顔と冠で勝負するのじゃよ。冠の意匠を見ればその人物の位階が分かり、顔まで良ければ帝の寵は厚いに違いない、そういう推測が立つ訳じゃよ。じゃから、位階を訊かずとも、此処らに居る華のない輩は御目見得未満の下級官僚じゃと分かる。ほれ、儂等の冠を見るや否や慄いておるわい。里花に眼を奪われとる者は碌でもない輩ぞ」

「俺を間接的に甚振るンじゃねェ———里花は衣装と相まって一層可愛く仕上がってるから仕方ねェとも思うが、野郎共の下劣な目線に犯されてると思うと膓が煮え繰り返るなァ」

「柴門殿が冠で以て威嚇すれば済むことじゃよ。変わった趣味の者は他人と趣味を共有できない分、弱々しい処があるからのぉ、柴門殿なら視線だけで殺せるじゃろ?」

 内郭の世界では、冠こそが身分証明(ステータス)なのだ。様々な種類がある冠にはそれぞれ特徴があり、その特徴で以て朝廷内での役職を示す。博真が柴門に被せた進賢冠は文官用の冠であった。ただし、遍く文官が着用するため、生地の色や垂れ下がる玉の個数などで身分を細分化して示し、お洒落志向の者は黄金製の装飾品で飾ることも多い。

 里花に視線を送る不届き者にガン飛ばして遣ると、すぐに物陰に隠れて怯える。鴉に睨まれれば後も集(たか)られ兼ねないという様な恐ろしい感覚を得ているのだろうか。

「成程。こりゃ良いな。博真がかなり上等な冠を被せてくれたお陰で、一目置かれてる訳かァ。ンで此奴には具体的にどんな意味があるンだァ?」

 柴門は冠を突いて博真に訊く。取り外してじっくり眺めたいくらいだったが、着付けがかなり面倒だったことを思い出すと、それを留まらざるを得なかった。

「上等と言っても儂のそれには劣る。儂のは紫じゃが柴門殿のは青じゃろ? それに蜻蛉玉の数も微妙に違う。紫の冠はその役職の長を示し、鬱陶しい蜻蛉玉は数と色で役職自体の高低を表す。じゃから、儂がこれだけ豪奢な進賢冠を被って居るということは、『最上位級の文官職』に就く『首座』だということを示して回って居る様なものなのじゃよ。柴門殿の進賢冠は紫よりもひとつ劣る緋色じゃから、比較的上位の文官職って処じゃろ。しかもこの齢でこの位階(グレード)となると、相当な昇進組の証にもなるわい」

「なァ里花。お前のご主人様は結構凄いらしいぜ?」

 先程から会話に一切参加せずに居る里花に敢えて話を振ると、座席より眺める光景に注視しているせいで聞こえていない様子だった。里花の肩を揺すりもう一度問おうとすると奇天烈な返答が返された。

「ご主人様、わたし、任務に、専念中。ご主人様に、卑猥な目線を、送る女狐に、睨み返してる。だから離せな———」

 実に柴門と同じ行為をしていた様だ。

「そこまでしろとは言ってねェぞ里花……。任務遂行は暴漢が乗り込んできた時だけで十分だ。そんなんじゃ神経が殺られち舞う」

「ん。でも———」「これは俺からの命令だぞ。用心棒らしくッツウより、見た目通り貴族令嬢らしく楚々と振る舞っとけ、頼むから。里花の睨み面に身悶える被虐嗜好的幼女趣味(マゾヒスティック・ロリコン)野郎が居ないとは限らねェんだし」

 柴門は前方を指差し、『あの霊廟には何が祀られてるンだろうな』と里花の興味と視線を前方へと無理遣り誘導させる。素直で従順な里花が柴門の誘導に乗らない筈がなかった。

「なァ、博真の親爺。さっきから女性陣の目線も気にならなくねェが、彼奴等はどういう身分なんだ?」

 大門より続く大路には笏を片手に政務に励む官人や朝廷関連の業者だけでなく、そこそこ粧し込んだ女も居れば、彼女らに従う地味な衣装を纏った女も居る。何となく身分の上下が見て取れたが、完全部外者の柴門には具体的な肩書きなど知る余地もない。

「唇に紅を引いた気の強うそうな女は皆、後宮に勤める侍女じゃよ。それで、彼女等の荷物持ちになって居るのが下女———つまり、字も読めないであろう使い捨ての攫い子じゃ。女子は衣装を見れば一目瞭然、見たままの印象がその者の位階という訳じゃ」

 続けて、『後宮は瘴気渦めく女の園。お互いを慰め合うことで満足できれば幸せじゃが、恋愛小説でも読んで流離譚を夢想する者は男に飢えて居るからのぉ。柴門殿に釘付けになるのは仕方あるまい』と独り言の様に呟く。

 詳しく訊いてみると、後宮は皇帝以外の男子禁制は勿論のこと、侍女として勤めるには純潔が求められる。その上、皇帝のお手付きに遭おうとも高級官僚に下賜されようとも、一度仕えた妃に奉仕する運命は変えられないのだと言う。何かの拍子で後宮から脱出できようと、男を恋愛小説の世界でしか知らない女の運命は実に悲惨で、変に高望みして闇に消えて行く者も少なくないのだとか。

「それにのぉ、容姿・教養・度量の三拍子揃った者でなくては帝のお眼鏡には掛からぬのじゃが、こうも広い国じゃとその基準に合致する者は腐る程居る。その中でも帝の趣味に合った者、例えば、胸回りが三尺を超え、比較的気が強い……あとは盤上遊戯の素養がある者が好まれるらしいのぉ」

 言外に妻・海深を自慢する含意を感じなくもない柴門だったが、何を言うでもなく聞き流す。此方に目線を遣る女を観てみても、比較的顔立ちの良い女官は押し並べて俎板もしくは低身長であった。

「まァ、大抵の男は顰めた眉に庇護欲を誘う折腰歩、涙脆い印象の化粧でもした女にはイチコロじゃ……儂の趣味には合わぬが、それを良しとする趣味も分からないことはないがのぉ」

 高笑いをしたかと思うと、思い出した様に口を開く。「醜女が美女の真似事をしては得も言われぬ酷い様じゃろう。それを『西施の顰みに倣う』と言うんじゃよ」

「海を挟んだ島国だと、中流階級の女が一番良く、容姿や身分に気を回すよりも気楽に婚姻生活を過ごせる相手が良い———そういう話らしい様。昼と蒜(ヒル)———つまり昼と同じ発音の大蒜(ニンニク)を掛けて、主人の思いを巧みに向けさせる教養と度量の深さを備えた女も悪くはねェが、堅苦しくって仕方ねェって見方もあるとかないとか———」

 博真は『ハテ?』という顔で柴門に言葉の説明を求めたため、柴門は仕方なく詳しく説明して遣ることにした。柴門としては、故事成語を引き合いに出されたことの対抗策として、無理遣り日本の古典を引用したのであった。

 ある貴族はご無沙汰していた女の元を訪れると、「熱病に罹患したから『極熱の草薬=大蒜』を服用している。大蒜臭いまま、貴方と顔を合わせる訳にはいきませんから、大蒜の臭いが消えた頃にお逢いしましよう」と女は言伝をする。この才女は遠回しに、『蒜(ヒル)』の臭う『昼』に逢って下さらないのはどうしてかしら、と最近お通いが御無沙汰なことに皮肉を籠めている訳だ。

「———そういう訳で、才女と付き合うには頭を回さなきゃならねェから、此方も気疲れする。だから、知識人とは言え、教養溢れる女よりも気楽に話せる女と付き合った方が良いってこったァ」

 博真は柴門の説明を聞いて痛く感嘆した様子だが、ハッと何かに気付き、慌てて口を噤む。

「……妻の居る身で女の品定めをするものではないな。この辺りで止めて置こうかのぉ。それにもう直王宮の門に到着する頃じゃよ」

「あァ。品定めは五月雨の夜に遣るモンだからな」


 王宮へと続く巨大な朱塗りの門の前には、煌びやかな武装で威嚇する衛兵や侍従官の姿が多数見えた。彼等は内郭に入るための大門で見掛けた衛兵とは一線を画して見える。粒揃いの筋骨隆隆たる彼等が警邏する門は、如何なる武器を翳そうともピクリとも動かない、また武器を翳すことさえ諦めさせる様な圧倒的威厳を放っている。

 馬車がゆっくりと停車すると同時に、下車のための踏み台が露払いによって即座に準備される。位の高い博真から順に下車すると、あまりにも壮観な光景が目の前に迫る。博真は執金吾———警邏中の衛兵長に口を利くと、好意的な挨拶が、返された様で、古くからの親友であるかの様に思わせた。

 ここまで先導してくれた露払いの者と御者に、心ばかりを懐より渡すと、博真はボンヤリと突っ立っている二人の名を呼んだ。

「柴門殿、それに里花。儂に付いて来なされ。絢爛彫刻に見蕩れて迷子にでもなれば、不審者扱いに遭って獄にブチ込まれること間違いなしじゃぞ? 恐らく、儂の名前を出せば問題ないがのぉ、面倒事は増やさぬ方が良い」

 博真は執金吾に会釈すると、先駆の者は必要ないと断って、朱塗りの門を潜り躊躇うことなくズンズンと進んで行く。

 上ばかりに気を取られていて今まで気付かなかったが、地面は朱で塗り固められた丹墀(たんち)となっている。柴門は勝手に、土瀝青(アスファルト)による舗装と銀幕の名役者(スター)が歩く朱毛氈(レッドカーペット)とを比況して解釈して置いた。

 柴門等一行の横を通り過ぎて行くのは、馨しい匂いを振り撒く勇壮な武官や聡慧な文官、楚々とした振る舞いの女官などである。やはり、御目見得以上の王宮勤めなだけあって細やかな配慮にも余念がない。また、外廷では見られなかった首に印綬を提げた官吏も多い。

 その上、身分の上下関係を徹底的に意識付けられた官人は、博真の冠を見るや否や恐れ慄き一歩下がって立ち止まり敬礼をする。博真の言う様に冠の色に注目してみると碧や緑の者ばかりで、多くの下級官を連れ従えた老年の官吏は柴門のそれよりも薄い浅緋色である。

「なァ、紫の冠どころか俺と同じ深緋色の冠さえ見ねェじゃねェか。此奴はそんなにも凄ェ代物なンか?」

「そうじゃのぉ、緋色以上が帝の側近じゃから当然数は限られるわい。緋色の者は唾壺持ちや虎子持ち———所謂ところの若い有望株が当て嵌まる。深緋色以上はざっと、雄の三毛猫くらいの希少性があるかのぉ。それに、その様な者は皇帝の執務室に張り付いて居るから、廊下で擦れ違うことはまず有り得ぬ」

「そりゃ、眼を惹く訳だなァ」

 約三万分の一の希少性があるらしい柴門は、得意になってその視線を受け止める。王宮の外で向けられた視線は嫉妬や怨嗟を含む穢らわしいものだったが、王宮内でのそれは高純度の憧憬であった。これこそが王宮に立ち入りを許される御目見得以上と、宮外で燻る御目見得未満の決定的な差違なのだろう、そう勝手に柴門は理解することにした。無論、視線に籠められた感情を悟られない様にする強かさこそが、王宮に踏み込むことができる資質なのかも知れないが。

 と、視線を縦(ほしいまま)にした柴門は、一間先を歩く博真の背中を追い掛けて結構な距離を歩いた。何度、出逢い頭に下級官僚に頭を下げられ、何度、渡り回廊からその下の池を泳ぐ錦鯉を眺めたか分からない。

「博真の親爺。まさか迷ってねェだろうなァ? さっきから同じ景色が続く様に思うンだが」

「失礼な。方向音痴の柴門殿は、儂に黙って付いて来て居れば良いのじゃぞ。ほれ、欄間に埋め込まれた格子木の間隔が少しずつ狭くなって居るとは感じぬか?」

「成程。道案内に関しちゃ、俺は口を噤んでた方が良さそうだなァ」

 博真は渡り回廊を支える梁ごとにある欄間を指して、花鳥風月の彫刻の背景になっている格子木の間隔が、王宮の奥へと進むにつれてより狭くなっていることを指摘する。柴門の記憶では、最初に眼にした欄間彫刻の格子木は二本指が入りそうな間隔で並んでいたが、今丁度頭上にある欄間彫刻の格子木は嬰児の小指の先くらいしか入らなそうである。

「あと角を五つ曲がれば迎應殿じゃ。柴門殿、馬車の中で口に放り込んだ鶏舌香はまだ効いて居るか?」

「あァ、口の中がまだ相当苦いからな。良薬ツッても苦過ぎるンじゃねェか」

「まだ儂の部下である柴門殿を静かにさせるには、丁度良い代物ではないかのぉ」

 清々しい息を吐いた柴門は、そのまま黙って博真に付いて行った。


「———この先じゃよ、柴門殿。迎應殿じゃ」

階段を登り切り、直線的な渡り廻廊へと差し掛かろうかという処で博真はそう言った。これより奥が帝の生活圏に当たり、その最奥部が国の総攬者たる皇帝と御子を授かる資格のある妃達以外に、大切な物を切り取った元男性———宦官と、妃に仕える純潔女性———女官しか立ち入ることのできない『後宮』となっている。

博真が言うに、皇帝や上級官僚との謁見は、縁起の良い時刻を選んで行われるべきものらしい。なので、帝との謁見は、陰陽道が奇数のゾロ目を吉とする風潮に則って、百刻制の五十五番目の刻に設定された。およそ昼過ぎの一番眠たくなる時刻である。昼餉を摂るという習慣はない世界であるが、満腹の如何に拘わらずやはり眠くなる。

 柴門は飽くまでも暢気にひとつ猫の様に大きく口を開けて欠伸をしてから、低い声で『成程なァ』と頷き返す。

 迎應殿は常時開放されているという訳では当然なく、今も堅く門が閉ざされている。

「その内、官人が遣って来て儂等を中に入れてくれるじゃろうから、待って居れ」そう博真は言い残すと、廻廊の途中に張り出した建物———陰陽寮へと進んで行った。漏刻で時刻を確認するのだと言う。

 柴門は『先に迎應殿に入れてくれたって良いじゃねェか』とボヤきながらも、仕方ないと渡り廻廊の左右を縁取る欄干に腕を掛ける。眼を左に流せば迎應殿であるが、真正面には柏や梅の樹が数本並び、小型の野鳥を数羽集めている。

 柴門は迎應殿の外装が気になったのか、横眼でそれを眺める。確かに、朱色を基調とした外装には霊獣が跋扈する牆壁画が複数枚描かれ、どうやら迎應殿の外周を囲む様に連続した場面が並べられている様だ。だが、柴門はその大迫力の牆壁画に見入っている様子はなく、目端で何かを捉える様に見える。しかし、背後から見れば、ただ野鳥の囀りを微笑ましく眺めている様にしか思えない。

「ご主人様は、鳥が好き?」

 そっと近付いた里花が尋ねた。柴門は『……あっ、あァ』と心ここに在らずな返答をする。里花は何かの邪魔をして仕舞ったのではないかと恐縮した。

「あれは目白じゃな。鶯ではないぞ。鶯はその鳴き声とは対照的に地味な姿をして居るんじゃよ」素早く戻って来た博真が厭味っぽく言う。

「あぁそうかい」

どうでも良いと柴門は詰まらなそうにする。これを好機と見た博真は更に畳み掛け、「もしや、鶯だと勘違いして、鳴くのを待っていたのではあるまいな」と更に気性を逆撫でた。

 すると、柴門は明らかな意図を持って声を荒らげる。

「知識ってモンを見せびらかして優越感に浸るのも悪くねェが、其奴はド三流の遣り方だなァ。超一流ってのは、その莫大な知識を巧みに操って豊饒なる思考へと昇華させるンだよ」

「なんじゃ、図星じゃったか? こりゃ失礼した」

「どう捉えてくれても構わねェが、博真の親爺こそ———」

「ご主人様、喧嘩は良くない、と思う」里花が仲裁に入った。二人の間に割って入って大きく手を広げている。それは子どもらしくあって大変可愛らしい。

「まァ、俺が知識を披露して悦に浸ることをしねェのは、衒学者の下世話な趣味を邪魔しちゃ悪ィッツウ、俺なりの気遣いに溢れた対応でもあるンだぜェ。他人の趣味を否定する様な狭量な男でもねェが、知識自慢ばかりの男はきっと煙たがられるだけだと思うぜェ。同性、異性関係なくなァ」

「ほう、知識ばかりを語る輩は鼻に付くばかりで鬱陶しい。柴門殿の言う通りじゃ。じゃが、柴門殿も得意になって大蒜の話をして居ったではないか。あれは———」

「ったく、折角馬を合わせて遣ったってのに様。察せない男は厳しいぜェ、色々と」

 里花は再び『喧嘩は駄目だ』と更に大きく手を広げる。二人とも子どもの前で悶着を起こす程喧嘩っ早い性格ではなく、寧ろ博真は思慮深い性格である。であるから、ピリついた雰囲気は一瞬にして霧散して、今は将棋の感想戦に似た空気感に一変している。

「柴門殿はこれまた見事に儂を揶揄する結末を用意するのぉ」

「張り合いのある博真くらいにしか厭味は吐けねェんだ。裏返すに、俺が一目置いてる証拠だと思って貰って良いぜ。この国一番らしい俺が言うんだから、その勲章は相当な値打ちの代物じゃねェか?」

「酷く倒錯的じゃのぉ。『青は藍より出でて藍より青し』とでも言いたいのか?」

「いやァ。俺の居た世界じゃ、無名の師が誉れ高き弟子の活躍によって持ち上げられる、そんな話を将棋界やら文芸界やらで聞くモンでねェ」

そう言って柴門は再び庭の方へと身体を向けて仕舞った。

「儂が無名だと言いたいのか? 随分と挑発的な譬えをするのぉ」

 柴門は渡り回廊の欄干に肘を掛け、身を乗り出す様にして蒼穹を仰ぐ。博真から目線を逸らすことによって返答を回避した。何か訳があるのだろうか。それとも視界の先を横切る数羽の小型の野鳥に意識が移り、柴門の耳に届いていないのだろうか。博真は諦めて前へコトコトと歩き出す。何度目かの来訪になる迎應殿をじっくりと眺めることにした。

 柴門はというと、鳥をより間近で見たいのか、肘を欄干の上で擦らして屋根を支える柱に腕を回すことで身体を安定させて身を更に乗り出す。すると、柴門は何の気なしに雨樋を爪で弾き、カーンという甲高い金属音を響かせた。

 と、それと同時に迎應殿の鉄扉が開かれた。官人二人掛かりだが、その所作からは物理的な重厚感が伝わってくる。それにいち早く気付いた博真は、おっと声を上げる。

「柴門殿、暢気に野鳥を追い掛けてなどいないで、此方においでなされ。もう迎應殿の扉が開きそうじゃ。置いて行くぞ」

 博真は声を張って柴門に呼び掛ける。野鳥観察を堪能していた柴門はウザったそうに博真の方を振り返る。だが、その表情は何処か嗜虐的で、何かを悟ったかの様な不敵さ溢れる笑みに見えた。

「ご主人様を、置いて行っちゃ、駄目」

 里花が真面目に答えた。この用心棒、柴門のこととなると忠実なることこの上ない。だからこそ、軽い冗談が通じなくなるのは少々厄介である。

 場都合が悪そうに博真がしていると、柴門はサッと駆け寄り、里花を撫でる。

「野鳥の鳴き声に耳を傾け様にも、屍体の遺棄現場は愚か、何を教えてはくれねェな。鳥と話せるなんツウ噂の夷隷なんぞ、妖言で誑かす佞官に違いねェ」

「……公冶長の様な真似をしては、帝に投獄され兼ねぬぞ」

 博真は即座に柴門が引用した古典を理解し、理解したことを示しつつ言葉を返す。しかし、柴門は鳥の鳴き声を解読するなどと嘯いて何をしていたのだろうか。博真は柴門の嘘に乗った振りをして、その真意を尋ねるなどという野暮事はしなかった。

「にしても、今から伏魔殿の腹ン中に潜り込もうって剛腹の男が、野鳥の囀りに染み入ってる風流者じゃ格好が付かねェな。一切の緊張感がないのは、らしいとも言えるがな」

「帝に始めて謁見する者とは思えぬ不貞不貞しさじゃな。この由緒ある迎應殿を謀略と悪事が蠢く館と解するのは、お主だけじゃ。匕首に地図を巻き付けた刺客などそう居まい」

 流石は博真。伏魔殿が水滸伝に登場する魔物が潜む建物であることを知った上で、返答する。それに博真はある有名な古典を引き合いとして、柴門の異様さを讃えた。

 しかし、柴門という性悪な男は博真の返しを逆手に取って、それを批評する。

「まァ、会話の端々に知識自慢を忍び込ませる輩は二流って処だな。やっぱり、知識を自慢の手段で燻らせる輩は、一流にはなれねェなァ」

「誰に対する皮肉かは存ぜぬが、儂も柴門殿の意見に同調して置こうか」

「相手の知識棚を探る様な会話は疲れち舞う、お互いにな。俺がさっき言った様に、知恵比べなんぞを仕掛けてくる女と契りを結んだ男は実に不幸だろうよ。房事の時さえも行為に集中できないらしいからなァ」

 開かれた迎應殿からひとりの官人が遣って来て、博真に声を掛ける。もうそろそろ謁見の刻だから、中でお待ちくださいということらしい。

 柴門と博真は必要以上に高尚な会話を切り上げ、官人の声に従って付いて行く。里花も博真の仕草を横目で確かめながら、孤児出身とは思えない上品な手脚捌きで、下駄を揃えて端に寄せる。それは、遊女が上客にだけ見せる演舞に似た所作を思わせた。

官人はこちらでお待ちをと愛想なく告げると、奥の方へ消えていった。取り残された形の三人は、はぁと溜息にも似た返事をするしかなかった。今まで言葉を交わした官人は博真と親しげな様子だったが、この官人は一切その素振りがない。冠の色も博真と同じ紫であるから、遜る理由がないのかも知れない。

迎應殿の中を見渡すと、やはり眼に付くのは中央奥に控える至高の玉座である。黄金の背面に黄金の肘掛け、黄金の足置きと、黄金尽くしのそれは、紅蓮を基調とした空間で異彩を放つ。玉座は一段高い場所から柴門等を見下ろし、その正面と左右には数段の階段が備えられている。そして、玉座の四方を囲う様に屹立する柱には楷書の漢文碑文が掲げられ、皇帝の栄華と正統性を強調する。

 脚下に目線を落とすと、大理石の床に黒毛氈が敷かれていることが分かる。そして、三枚の敷物が等間隔で並べられている。官人が柴門等のために用意した物なのだろう。

「ふああぁぁぁぁあ」

 柴門は大きく欠伸をして見せる。そして今更畏まっても仕方がないとでも言う様に、脚を前に投げ出した箕踞の姿勢で座る。その上、用意された敷物の上に断りもなく腰を下ろした。

「こういうものは薦められてからが慣習(マナー)じゃぞ。まァ、そんなことに耳を傾けない虚け者だということは承知じゃが」

柴門は腰の斜め後ろに手を付いて身体を大きく伸ばし、「帝を俺の不遜さで酔い知らすなら、今更気張ることァねェだろう様」

フルフルと首を横に振り、諦観した博真は話題をすり替える。脚を伸ばして座っている柴門に立ちっぱなしの博真が言葉を浴びせるという構図である。

「そういえば柴門殿、どうして知識をひけらかすことで悦に入る輩などド三流だ、などと何の前触れもなく言い出したのじゃ? 儂には柴門殿が鶯を知らぬとは思えぬし、何より、無知を誤魔化すという訳ではのぉて、別の理由があって話の筋を無理遣り逸らした様に感じたのじゃが」

 流石は博真。柴門の僅かな感情の波を察知して、その違和感を語った。すると柴門は、名推理を披露する博真を窘める様に、

「その理由は直に分かるンじゃねェか? 俺は知識を自慢の道具だとは思っちゃいねェ。知識ってのは、目の前の不可解を解決する創造的な思考を養うためにあるモンだ。だから、知識ってモンは頭の中になきゃ意味がねェんだ。だってそうだろ、幾ら偉大な百科辞典を脇に抱えてようとも、その知識が頭になきゃ目の前の不可解は一向に解き明かされねェンだから様。つまり、膨大な知識を律動的(リズミカル)に運用する能力こそ、『智嚢衆首座』に求められる資質———違うかァ? 『記問之学』なんぞ、其処らに転がってる糞塗れの石と変わりねェンだ」

柴門は少しニヤけると、「知識で優越の証(マウント)を取る快感は嫌いでもねェけどな」と唾を吐いた。

「やはり、柴門殿は儂が見込んだ通りの逸材じゃのぉ。この斬れ味抜群の言葉遣いと不遜極まりない態度こそ柴門殿の魅力じゃよ!!」

 博真は柴門を挟んだ反対側に居る里花に向けて、興奮気味に共感を求める。が、用心棒らしくこの伏魔殿に刺客が潜んで居やしないかと、辺りを真剣な眼差しで眼を凝らす里花にはその声は届いていない。

「里花。用心棒も結構だが、ここは温和しく正座しとけ。その方が可愛く見える」

 案外意外、ご主人様である柴門の声はどんな緊張状態であろうとも反応できる設計になっている様で、直ぐ様振り向き、雷鳴に驚かされた猫の様にシュバッと正座に直る。

「ご主人様。わたしには、よく分からないけど、凄いんだね」

「博真の親爺からは気に入られてる様で何より、だな。ってか、博真の親爺の言葉も聞こえてるなら反応して遣れ。何時も里花に無視されるっていじけてンだから」

「ん」

 里花は海深と海霞には非常に懐くが、博真と尊海には一向に懐こうとしない。そして、博真に柴門は敢えて話題を逸らした。柴門が気を遣うなど、極めて珍しい。

「んで、帝は何時になったら顔を出すンだ? 焦らし行為(プレイ)は嫌いじゃねェがな、見られて興奮する偏執狂的(マニアック)仕様はねェンだ」

 柴門は誰かに投げ掛けるでもなく、ただこの伏魔殿の空間に声を張る。それは『お前の姿はすでに捕捉済みだ。観念しやがれ』と、物陰に隠れる犯罪者の投降を促す文句の様な含意がある様にも感じられる。

「何じゃ柴門殿。急に———」

 博真の言葉を遮る音がガタンと響く。その音源は伏魔殿の正面右奥だった。紫と緋色の冠をした官人二人を伴って、この国で最も高貴な人物が姿を現した。

 脇の下がダラリと垂れた白い縫掖に所々に金箔が煌めく深紅の袴、それに臍下で結ばれた細かい刺繍が美しい長い紺色の腰帯、爪先で威嚇する様に尖った黒光りの強い漆沓。衣装には高級素材が使用されている様で、上半身を包む縫掖は狐白裘で間違いない。袴や腰帯も、角度が変わる度に陽光を反射して輝いている。恐らく、袴の生地は細い経糸に太い緯糸を編み込む特殊技法で織られた四川産の錦———蜀錦なのだろう。帝に付き添う二人の上級官僚の衣装が地味に見えて仕舞う程、また十分に華やかな彼等が引き立て役だと思えて仕舞う程、帝は華美な服装を華麗に着熟していた。

 そして何よりも眼を惹くのは、頭を飾る通天冠。色は皇帝のみが使用することを許された黄色であり、四神を束ねる霊獣である麒麟の象った金属工芸が遇われている。慣習に反しない範囲で官僚等が決められた制服を飾ることで嗜むお洒落では、親指の爪程度の大きさの付属品(アクセサリー)をぶら下げる程度が精一杯で、帝のそれには到底及ばない。

ただの謁見の席———しかも馬の骨も分からぬ外様との面会で、最上級の衣装を身に纏う筈がないことを思うと、この様な豪奢極まりない衣装を普段着として纏うことができる皇帝権力の偉大さ絶大さが窺える。

 膝まで垂れる腰帯を勇壮に揺らし、重厚感のある一歩一歩を踏み締めて此方へとやってくる。玉座に腰を深く沈めたと同時に笏で隠していた口が開かれると、重厚かつ穏やかな肉音が聞こえて来た。

「お主が噂に聞く柴門槍馬か」

 顎を引き、顔の前に垂れる旒から覗こうとする仕草には、柴門槍馬の真価をこの眼で見定めてやろうという気概に満ちた覇気が感じられた。また、一段高い玉座台の左右に控える官人二人は、物腰柔らかな印象の老練者と規律への遵守意識の高そうな若者であり、阿形吽形の様な対の関係に見える。

 迎應殿の奥から物音が響いたその瞬間、博真と里花は立ち上がり背筋を正したが、この虚け者・柴門槍馬は伸ばした脚を折り畳み、右膝に頬杖を突いた胡座の姿勢となった。博真は皇帝の最側近というだけあって仕草に余裕があるが、里花は錻力人形の様に一挙手一投足が軋んで聞こえる。唯一、柴門だけが我が家の様なくつろぎ方で帝との謁見を迎えていたのだった。

 そんな不貞不貞しい柴門は、自分の間に持ち込む余裕を見せて漸く口を開く。

「———覗きが趣味だとは、随分と変態的過ぎはしねェか?」

 柴門は鮮烈な文句を言い放った。柔和な調子の側近はその顔を若干暗くし、厳格な方は眼を三角にして眼光を柴門に突き刺す。

「柴門殿、幾ら何でも言葉が過ぎ———」慌てて叫んだ博真の言葉はすぐに打ち消された。

「フフ……朕が多趣味であって何が悪い。———じゃが、あの仕掛けを見抜いたのは、貴様が初めてじゃ。博真に吹き込まれたという訳ではないのだろう? あの仕掛けは極秘じゃからな」

「あァ、帝はどうして待機場所も用意せずに、迎應殿の前の渡り回廊で俺達を待たせるのか。その理由を考えれば、一撃だったぜ?」

「成程。博真があれだけの讃辞を以て推薦した人物というだけはあるのぉ」

 この話、博真と里花には通じていなかった。それもその筈、一度も登場していない言葉を指示語に置き換えているのだから。

「おい柴門殿。何を言って居———」

「あァ、博真の親爺は気付かなかったかァ? 迎應殿の前で喋ってることは勿論、その身なりや仕草まで帝とその側近には筒抜けなんだぜ? 俺が急に声を張り上げて話題を変に逸らしたのには、そういう意味があったって訳だ」

「忍びの者が潜んで居った、そういう訳———」

「違げェなァ。帝自身が眼を凝らして耳を欹てて、俺等の言動を盗視盗聴してたンだよ。まったく気付いてない様だから一から説明するとな、迎應殿の外壁には連続絵の牆壁画があるだろ? あの一部は来訪者の眼を欺く偽装(カモフラージュ)でな、俺が気付いた範囲じゃ、向かって右側の二枚目には細かい網目が入ってるンだよ。内から外は覗けるが逆は無理って具合になる様に細工されてるらしく———大陸の西の方にある砂漠地帯だと、直射日光を封じて風通しを良くするための工夫として似た小細工があるらしいが、それを応用したって処じゃねェか?」

 柴門は雄弁に語る。博真は感嘆するしかない。

「んで、盗聴の疑いに関する証拠は、渡り回廊の柱に沿う雨樋に似た形状の鉄管(パイプ)だな。あの鉄管は迎應殿まで続いてるらしく、拾われた音はそのまま迎應殿まで通わる。だから、向こう側で耳を構えて置けば見事に盗み聞きができるって訳だ。此奴も複数階層の建物で直接顔を合わせなくとも伝言する手段として考案されたらしいが、この国だと狂気発明家(マッドサイエンティスト)に悪用されち舞ってるなァ。」

 柴門はここまで言い終えると、『どうだ、正しいかァ?』と採点を求める様に帝に眼を遣る。ここまでズバズバと機密事項を言い当てられて仕舞えば逆に清々しい様で、帝は天晴れの頷きを返す。

「その通りじゃよ。朕が聴いていると知って、知識について貴様の価値観を語ったと見て良いんじゃな?」

「勿論だ。謁見の席で『貴様の智嚢衆としての心意気を訊きたい』とか言われちゃ、上手く答えられる自信がなくてなァ」

「そんなことは在るまいな。それだけの豪胆さがあれば無敵じゃろ?」

「いや、殿試———面接試験の類いにはどうもトラウマがあるモンでね。それに、素の状態の俺を見て、俺の価値観と気性を知って貰った方が話が早ェだろ」

 柴門は前の世界では高学歴プアであった。その高圧的かつ不遜な態度は面接官に最悪の印象を与え、幾度となく杜撰(ぞんざい)に扱われた記憶は、柴門が味わった辛酸として身体に染み付いている。だからこそ、面接には敬遠感があった。

「成程。鉄管を響かせたことも、貴様の挑発的な性格を端的に表して居ると解釈して良いんじゃな? 今でも耳の奥であの甲高い響きが喚いて居るぞ」

「盗聴魔にはそれなりの制裁を下して殺らねェとな。目潰しされなかった分だけ、幸運だったと思った方が良いぜ?」と、頬を支える腕を解き、二本指を突き出す。

「その計らい感謝して置こう」

 帝は鷹揚に答えると、玉座から腰を上げ正面階段を下る。眼を吊り上げた実直な官人は大急ぎで帝と柴門の間に割り入ろうとするが、帝の腕が横に出されて仕舞えば、静止せざるを得ない。

 そのまま頬杖を突きながら胡座を掻く柴門に近付き、

「その類い稀な洞察力と卓越した知力、気に入った」

 更にもう一歩、柴門に踏み込み、

「———柴門槍馬、博真の言う様に、朕の頭脳の一翼を担うを以て『智嚢衆首座』に任じよう」と寛雅な声を響かせた。

 それを聞いた柴門はのそのそと脱力感を伴って立ち上がる。

「この暴れ馬の世話は大変だぜ?」

「もとより世話する気など毛頭ない。放し飼いじゃ。雇用条件も可能な限り譲歩して遣ろう」

「そうか。ならこの用心棒———里花ってンだけどな、此奴も柴門槍馬付の用心棒ってことで雇ってくれ。だから、其方でお付きの官人を用意する必要はねェ。まァ、お目付役で適当な輩を寄越してくれても構わねェが———」

「きっと噛ませ犬にすらならんじゃろうのぉ。柴門、貴様は国一番の賢者が認める逸材にして、誰の手にも負えない駻馬なのじゃから、雇用条件を譲歩して、朕の手だけは噛まぬ様にと懐柔しようという魂胆じゃ」

「賢明だ」

一度台詞を切り、横で構える里花に眼を向ける。

「これで里花も智嚢衆首座の一番の腹心だ。誇ると良いぜ?」

「ん。ご主人様、これからも、宜しく」

 そう言って上目遣いに柴門の眼を捉えた。彼女の眼は黒曜石の様に鋭く、決して燃え尽きることのない赫赫とした焔が宿っていた。その眼を見て柴門もより一層信頼感を強める。

「なァ、柴門。貴様の用心棒は随分と幼く弱々しくはないか? 朕が力を籠めれば、その細枝の様な腕はポキンと音を立てて折れて仕舞いそうじゃがのぉ。何れにせよ、彼女が貴様の女の趣味じゃと言うなら———」

「はァ? 言ってくれるじゃねェか。此奴は俺が惚れ込んだ逸材だ。里花も何か言って遣れ!!」

 突然に振られて困惑する里花。帝に楯突けと命令されて尻込みせずに実行に移す者など、振り切れた大虚け者以外考えられない。だが、里花の柴門に対する忠誠心は尋常ではなかった。

「……ご主人様の命令は、絶対…だから……えっと、大柄の、二人組の人攫い…ひとりで成敗した、こと…ある」

「この可愛らしい外見して、この里花は滅茶強な用心棒なんだぜ?」

「でも、ご主人様は、武器なしで、刃物を持った、無頼漢さんを倒した。……その方が、凄い」

「おぉ、ご主人様を立ててくれるとは、出来た用心棒じゃねェか?」

「アァ…貴様が里花に属魂なのは理解したわい。見た処、女の趣味は朕と真逆で何よりじゃよ。その好漢面を拝んだ女は夢か現か区別が付かなくなるじゃろうから」

「帝の趣味と合わねェってンなら、『間違い』は起こり様がねェだろうし……そもそも、博真の親爺に股間を蹴り上げられて以来、アレは不能になっち舞った様だからなァ」

 柴門はギロリと博真を睨む。博真は絶望的な面持ちで分かりやすく狼狽えていた。

「儂があそこで感情に任せて金的を狙ったばかりに……なんと詫びて良いのか———」

「博真の親爺、気にすンな。冗句(ジョーク)だからよォ」

 博真の肩を摑んで慰めようとした柴門は、そう言うと大笑いを爆発させた。博真は救われたことに安堵しつつも、柴門の掌で踊らされていたことに大きく憤慨する。

「お、お主ッ!! 言って良い冗談と言ってはならぬ———」

「嘘を嘘と見抜けねェってことは、俺みてェな何時でも他人を疑う冷酷人間にならなくて済むンだぜ? 幸運じゃねェか。まァ、生粋のお人好し一家は人徳が導くままに生きりゃ良いンだよ。その方が人生はきっと楽しいぜ?」

 上手く博真が丸められ掛けた処で、帝が口を挟む。

「柴門は冗談が行ける口か。それもかなりの暗黒冗句(ブラックジョーク)まで。朕は嫌いではないぞ?」

「そうか?」興味がないと柴門は切り捨てる。

「朕には柴門の様な暴れ馬を御すことはできぬが……博真だけは柴門を飼い慣らすことができる、そう朕の審美眼には映るのじゃが、狂って居るかのぉ?」

「そうかも知れねェぜ。流石の俺でも博真の読心術には舌を巻く。俺みてェな冷酷無惨な男にはできねェ芸当だ。機微な感情変化を些細な仕草から見破られちゃァ、博真には敵わねェと思う。俺が唯一、一目置く存在であることは確かだなァ」

「じゃろう? 朕も博真の読心術には心摑まれたわい。あの技術があれば、先回りして感情の暴走さえも止められる……じゃから、柴門の手綱を握るくらいは———」

 今まで柴門の見事な推理に驚嘆していた博真は、帝の発言を遮る。ただ、言葉の尻に噛み付く様な感はない。

「陛下、儂はもう引退すべき齢じゃ。それに代役が見付かり次第、智嚢衆首座の地位を辞すと宣言していたじゃろ? 儂は、国一番と謳われた儂は、完全な上位互換が見付かった以上、もう首座では居られないのじゃよ」

「では、智嚢衆次席と———」

「この頑固モンは中々言うこと聞かねェぞ。それに、俺に完膚なきまでに叩かれてンだ。今更どんな言葉を掛けようと、どんな厚遇を誂えようと、それは屍体蹴りと大差ねェなァ。剔れた自尊心を癒やす手段は、家族と穏やかな余生を過ごすこと、それしかねェンじゃねェか?」

「申し訳ないが、柴門殿の言う通りじゃ。これからは柴門殿の虜(ファン)として、陰ながら活躍を応援しようかのぉ」

「何言ってンだ。素直に溺愛してる娘と最愛の妻のために生きるンじゃねェのか? 言霊は意外に仕事するからよォ。稼いだ俸禄を妓楼の妾のために燃やす———そんな放蕩親爺よりかはマシだから、堂々と宣言して置け———」

「柴門殿の洞察力は実に鋭敏じゃが、相手の幸不幸を考えずに推論を口外するのは良くないことじゃ。それだけはどうにも好きになれぬ」

 その瞬間、帝と柴門の愉快な爆笑が迎應殿に響き渡った。温厚な老年の官人も笑いを堪えきれず、手で口を覆っている。

「まぁ、博真は博真の生きたい様にすれば良い。朕の趣味を押し付けてまで、博真を束縛して智嚢衆として朕を支えよとはもう言わぬ」

「それによォ、博真の親爺よりも頼り甲斐のある俺が手に入った今、型落ちの親爺に拘泥する理由はないンじゃねェかァ?」

「随分な皮肉じゃのぉ。じゃが、これにて儂は自由じゃ」

「家族奉仕に謳歌すると良い。偶には顔を出してくれ給え」

「そのお言葉、有り難く頂戴する」

 博真は腰を鋭角に曲げて謝意を表する。博真は帝を敬い、帝は博真に心を許すという理想的な君臣関係が見て取れる。往年の付き合いだからこそ成せる、見事な調和であった。

「それで柴門。今宵は貴様のために夜宴を開催するつもりじゃが、酒は飲める口か?」

「葡萄酒から焼酎まで。珍味もイケる口で、酒精(アルコール)にも強いぜェ?」

「おぉ、そうか!! 今宵の宴、楽しみにして居れ。特に服装規定(ドレスコード)は設けぬが、今の服装で来ると良い。何せ貴様に似合って居るからのぉ」

「袖を通した人形(俺)の出来が良いからじゃねェか? あぁそれと、勿論この里花も参加しても構わないな?」

 里花はビクゥッと身体を反応させ、破顔で喜びを表す。どうやら、良くて夜宴会場の警備、恐らく博真の屋敷で待機に違いない、奴隷身分のわたしが上級官僚ばかりの夜宴に参加できる筈がないのだから、くらいに悲観していたのだろう。

「蔬果水を用意して置くから心配せんでも大丈夫じゃよ。それに招待するのは智嚢衆の面々と朕の最側近数名じゃから、大規模な夜宴にはならない筈じゃ。貴様は多く敵を作りそうなタチじゃから、身内だけの宴の方が良いと思うてのぉ」

 柴門は『助かる』と伝えると、里花を抱き寄せて『今晩も豪華な夕餉だぞ? しっかり腹空かせとけよォ?』と頭を撫でる。

「柴門と里花の主従関係が盤石じゃということは重々承知した。じゃが、昼も夜も一心同体で過ごすことができぬことは分かるじゃろ?」

 柴門には帝の言わんとする処が理解できた。要するに、智嚢衆首座として帝に奉仕するに当たって王宮内に泊まり込む必要があるが、柴門と里花の男女が同棲するのは憚られるということなのだろう。

 多くの官僚は内郭に実家を構え、王宮内にも専用の部屋を持つ。そのため、連続勤務が求められる際は王宮に籠もるが、基本的には内郭の実家から出仕する。蒼頭(ドレイ)を向かわせる場合もあるようだが。しかし、その芸当は内郭に実家を構えることができる由緒ある官僚に限られた話で、博真や柴門の様に王宮の直轄地に屋敷を構える者は泊まり込みが原則となる。

「あァ、里花は女官等と一緒に寝泊まりで構わねェぜ。この王宮には海霞ッツウ女官が居ると思うンだが、其奴と同じ部屋にして遣れると助かる。里花は人見知り激しいモンで、心許してる相手が、俺と博真の親爺の妻———海深、娘さんの海霞だけだからな」

 と、柴門は帝に過保護なまでの要求をする。柴門と里花が同室で泊まり込むことができない以上、男に飢えて狂気した女の猛獣檻に裸一貫で里花を放り込む訳にはいかない。となると、海霞に面倒を見て貰う選択が賢明だろう。

「承知した。里花を蔑ろにしようものなら、貴様に寝首を掻かれ兼ねぬからのぉ」

「笑えねェ冗談だなオイ。生殺与奪の権は、この国で一番高貴な人物が握って置くべきだ」

「そうじゃのぉ。柴門が朕に牙を剥いた際に、命を奪うことができるのは朕だけじゃ」

 物騒な話題が飛び出した処で、温厚な官人が『そろそろお時間ですぞ』と水を差す。帝の仕事が盲判を押すだけだとしても、形式的に目を通すべき書簡は膨大に違いない。

「国一番の権力者とて女に現を抜かし、趣味に興じる……という訳にはいかぬのじゃよ。官人共が朕を引っ張り凧にするから、息着く暇もない程に多忙を極める。じゃからこそ、朕は今宵の宴を楽しみにして居るぞ。それまで王宮を博真に案内して貰うと良い」

「そりゃお疲れ様、だな。鱈腹喰える様に、この馬鹿みてェに広大な王宮を散策しとくわァ」



【第漆話 筵宴】

 王宮内を散策した柴門槍馬・博真・里花は、黄昏の刻(七時)を知らせる銅鐘の音を合図に、夜宴会場の乾清宮・玉食殿に向かうことにした。乾清宮とは王宮の後方にある後三宮のひとつであり、夜宴の他、大臣との召見や上奏文の処理などが行われる。

 根っからの方向音痴である柴門は、博真に宮殿を案内されても分かっている様子はなく、空返事を返すばかりだった。

「柴門殿、儂が居ない時はどの様にして王宮内を移動するつもりじゃ?」

「そりゃ、優秀な案内役の里花に頼るしかねェだろ。里花、今日廻った宮殿の配置と名称、全部覚えたなァ?」

「ん。勿論。わたしが居れば、ご主人様が迷子になることは、ない」

 そう力強く言って魅せた。野生児出身であるからこそ、一度通った路は忘れない脳構造になっているのだろう。

「流石だな。こりゃ、博真の親爺よりも頼りになるかもだぜ?」

「呆れた。柴門殿は案内に関しては真底他力本願じゃな。自力でどうにかしようという気概はないのか?」

「ねェな。人間は万能選手(オールラウンダー)である必要はねェンだ。自分の能力を最大限発揮できる分野で頂点を獲る努力さえしてりゃ、それで良い。苦手分野を克服しようなんツウ無駄な労力は、要領の悪い薄鈍(ウスノロ)の遣ることだ。長所を磨くことに特化して奮励した者こそが頂に立つンだよ」

「随分と壮大な言い訳じゃのぉ。じゃが、その考えからは柴門殿の哲学を垣間見ることができるわい」

 柴門は鼻を鳴らして、「あァ、そうかい。……俺の場合、頭に王宮の伽藍配置を浮かべた処で、其奴は白地図のまま。そんな奴の脳内地図を埋める作業なんぞ、放棄した方が生産的に違いねェ。まァ、地図を渡されたかと言って意味は成さないがな。俺からしたら、毎度毎度砂漠に放り投げられた感覚と変わりねェンだ」

「柴門殿の方向音痴は酷い荒野じゃのぉ。耕そうとする気が起きないのも頷ける」

 と、柴門の方向音痴について論じていると、廻廊の先に玉食殿が見えてきた。昇殿口では青色官人が畏まった様子で整列し、紫官人を出迎えている。そして、草鞋取りの蒼頭が官人の靴紐を解き、脱ぎ捨てられた漆靴を丁重に靴箱に籠め、女官が付き添って殿の中に案内している。

「彼処じゃ。夜宴の主役は柴門殿じゃから、お主が先頭で行け。宴には厳格な席次の規定があるのじゃが、主賓であり新・智嚢衆首座であるお主は、帝の御席の右横じゃろう。右が上位、北側が上座じゃじゃから」

 儒学思想が強いため、身分の上下関係は強く意識される。そのため、席次に関しては細心の注意を払う必要があり、然もなくば夜宴の雰囲気を壊すばかりか夜宴からの追放、もしくは夜宴の監視役による斬首に遭うことすらある。

「里花の席次は微妙じゃな。申し訳ないが、夜宴に女や子どもが参加することは慣例に反して居ってのぉ、当然席次も最下位じゃろう。柴門殿に礼儀を立てるとすれば、柴門殿付き世話役として背後に控えるが精一杯じゃろう。儂が掛け合ってみるが」

「まァ、男尊女卑の世界観じゃ仕方ねェな。んじゃあ、俺が背後から刺殺されねェ様に警戒して置いてくれな。宴を楽しむ余裕を残しつつで構わねェからよォ」

「ん。任せて」

「んじゃあ、乗り込むぞ。付いて来やがれ!!」

 柴門は肩を張って堂々とした脚取りで玉食殿に向かった。

 青色官人の敬礼を横眼に流し、蒼頭に沓を預ける。すると、例の通り女官が近寄り、会場まで案内すると声が掛かる。

「ようこそお出で下さいました。主賓の柴門槍馬さまで御座いますね?」

「如何にも。夜宴の勝手を知らないモンで、手取り脚取りして貰えると助かるわァ」

「畏まりました。御席は此方となります」

「あァどうも。それと、俺が無礼だという理解で構わねェが、この辺りにひとつ配膳を用意しては貰えねェか。俺の用心棒、里花の分だ」

 柴門は左後方を指差す。すると、女官はやや躊躇うが、『はい』か『畏まりました』しか言えない仕様に調教されているため、『仰せのままに』と頭をペコリと下げ退ぞいた。

 夜宴会場をぐるりと見回すと、その豪華な仕様に驚かされる。会場の中心には左右に十名程が着席可能な長机が配置され、上座の短辺には殊更華美な胡床が備え付けられている。帝のみを受け止める座席である。そして下座後方には、琵琶や箏、箜篌(ハープ)などの弦楽器、笙や縦笛などの管楽器、太鼓や銅鑼などの打楽器が置かれ、演奏者が淑やかに来たる時に向けて待機している。また、部屋の奥には、今現在は金屏風で閉ざされている舞踏台があり、傀儡劇や舞などの余興が披露されるものと推測される。

 柴門の隣の胡床を案内された博真は、既に着席している官人等と挨拶を交わし、慣れた仕草で腰を胡床に沈める。

「此方が本日の主賓、柴門槍馬じゃ。儂に代わって智嚢衆首座に就くことになる。早い内に打ち解けると良いのじゃが……此奴は儂と同じで変わり者でのぉ———」

「オイオイ。そんなんじゃ、第一印象が悪ィだろォ?」

 里花の件で女官と話し込んでいた柴門は振り向き、不敵な文句を垂れる。里花には座高の低い質素な胡床と小さい丸桌子が、柴門の背後に用意された。

「俺はこの通り口が悪くてねェ……既に印象最悪かも知れねェ———」

「お主、自己紹介下手糞か!! 儂が代行する。柴門殿はこの儂に負けたと言わしめた逸材じゃ。この不遜な性格は鼻に付くじゃろうが、その不遜さこそ彼の愛嬌。次第に彼の卓越した思考に籠絡されて、彼の虜になるじゃろう。そう、珍味と比況するのが最適かのぉ。癖は強いが、嵌まると病み付きになる……そんな具合じゃろう」

「まァ、そういうことらしい。智嚢衆首座って役職は怪態なモンらしいが、俺は身分なんぞ気にしねェ。身分が高かろうと低かろうと、友人感覚で接して貰って構わねェぜ?」

 堂々と言って退けた。官人の多くは唖然としているが、その中のひとりは明らかに怪訝な表情で柴門を睨み付けている。柴門としても計算内であるから、等閑視して置いた。

 微妙な雰囲気が流れ出した処で、ある官人———温厚な顔立ちが特徴的な齢五十程度の官人が口を開く。柴門の真正面に当たる席に腰掛けていることから、官位は柴門と同等程度なのだろう。従って、帝の再側近級であると推測が付く。

「柴門殿……いや、ここは親しみを込めて槍馬殿とお呼びした方が宜しいか。我は右大臣の羅親と申す。まぁ、智嚢衆の頭脳をお借りして政務に励む役職の頭だと、認識すればそれで事足りる」

「オウ。それじゃァ、付き合いは長くなりそうだな。宜しく頼む」

「槍馬殿は博真殿を殺り籠めたと聞いたが、如何にして博真殿を組み伏せたのか、是非お聞かせ願いたい。……平たく言えば、未来人の手管というものを拝謁したい」

「オウオウ。酒の肴を今ここで話す訳にはいかねェなァ。帝にすら大雑把にしか伝えてねェンだ。帝を差し置いて拝聴して遣ろうツウ気概があれば構わねェ———」

「成程。これが帝を眩惑させた話口か。我も蓼を好む達だから、槍馬殿の魅力に泥沼化しそうだよ」

「そりゃ光栄。末永くお付き合いできる様に、俺としても鷹派(アンチ)に命狙われねェ様にしねェとなァ」

 乾いた笑い声を上げ、目線だけを柴門に猜疑の眼を向けた官人に下す。席次からして、柴門よりは勿論下位であるが、この夜宴全体では中位以上である様だ。席次を確認すれば、その人物の権力が分かる構造(システム)は柴門にとっては好都合だった。

「何、博真の親爺いじけてンだ。名前呼びを先越されたからって悄(しょ)げるのは、ラブコメヒロインだけの特権だぜ?」

 柴門渾身の冗談は通じる筈もなく無視されたが、場の雰囲気は角が取れて丸くなってきた様に感じられる。

「あァそれと。俺の背後にいる少女は、俺が直々に採用した……世話役の里花だ。宴の場に雌餓鬼を連れて来るンじゃねェ、酒が不味くなるって批判する過激派も居るかもだが、俺の女の趣味に口出しすンじゃねェってこった。此奴も酒のツマミになる話に登場するからよォ、そン時にでも改めて———」

 話の一段落が着いた処を見計らったかの様に、奥の扉が開く。夜宴の席に揃っていない最後の人物の登場であった。

「上手い事、柴門は溶け込めて居るかのぉ?」

 二人の官人を伴って、遂に帝が顔を出した。その刹那、官人は揃って胡床から腰を上げ、等しく礼をする。

「恭しい礼はその辺でもう良い。今日の主賓は柴門じゃ、朕ではない。柴門の不遜さに酔い知れるまで夜宴はお開きにならぬぞ!」

 帝の開明的な宣誓を皮切りに、愉快な夜宴が開幕した。

 だが、目の前には食事は愚か食器すらも置かれていない。その理由はズバリ、毒殺対策である。

 帝含め、夜宴の参加者全員が揃った処で、厨房から大皿料理と銀食器が出てきた。食べ放題(バイキング)形式ではなく、懐石料理形式であるため、一品一品できたての料理が提供されるのだ。小規模な夜宴には適した形式である。

 前菜扱いの羹は、女官の手によって西方由来の持ち手の付いた銀食器に注ぎ分けられる。銀食器が採用されるのは、硫黄由来の毒———代表例はヒ素———に銀が反応して黒ずむからである。この様に、食事は大皿料理として提供され、出席者全員の面前で銀の菜箸を使って銀食器に取り分けられる。

 全員分の配膳が済んだが、最初に料理に手を付けるのは、帝でも主賓でもない。雀斑(そばかす)の浮いた毒味役の無愛想な女である。彼女が羹を啜り舌の上で転がして、『うん』と頷く。これが無毒の合図だった。毒味役の彼女と吐壺を抱えた蒼頭が額に手の甲を当てて引き下がると、漸く羹に口を付けることができる。

 この面倒な毒味は羹の次に出てきた酒や蔬果水にも行われ、無毒が証明されて以降、口にすることが認められる。何時、誰の恨みを買って殺されるか分からない時代であるからこそ、必須の仕来りであった。

 帝が銀杯に注がれた清酒を傾け、柴門に話を振る。大分仕上がっている様子で、頬が紅潮し、眥(まなじり)が垂れ下がっている。この場に列席している官人は押し並べて微醺を帯びている。

「宴も酣じゃ。柴門殿が言う酒のツマミになる話を聞きたいのぉ」

「あァ。俺も酔いが回って来た頃だから、丁度良い。素面で自慢話はキツいからなァ」

「柴門殿は何を話すつもりじゃ? 魔法鏡の一件か?」

 柴門は『あァ』と頷くと、双子の兄が失踪した怪奇現象から臨場感を際出せる様な喋り口調で話し始めた。これだけの知識人が集結したこの場では、魔法鏡の仕掛けは簡単な説明で理解された。そして、真相に行き着いた際には感嘆の声が上がる。

「お見逸れした、槍馬殿。兄の幻影に瞞されていたことを一瞬で見抜く思考力には唸らされる。千年先を生きる未来人だというのだから、我々よりも多くの知識を蓄えていることは間違いない。だが、その莫大な知識量を豊饒なる思考へと転化できる資質は我々を軽々に凌駕する。帝が惚れるのも頷ける」

「ベタ褒めした処で、この肉は遣らねェぜ?」

「囓り掛けなど要らぬ要らぬ。咀嚼嗜好(シトフィリア)の気はないぞ」羅新は賤視を柴門に向ける。蛞蝓(ナメクジ)を見る様な目線を向けられても動じない柴門は、話を展開させる。

「まァ、この事件で一番活躍したのは俺じゃねェンだ。俺は起きた事件に後講釈を加えた批評家に過ぎねェぜ。この里花が人攫い二人組に攫われた餓鬼を見つけて、奪い返したンだ。野生の勘といい、疾風迅雷の動きといい、何もかも見事だった」

「ご主人様、止めて……恥ずかしい…」

「俺のおん……じゃなくて世話役を紹介して何が悪い。武官の一人や二人は軽く手玉に取ち舞いそうな、あの刹那を切り裂く動きは見事見事」

「槍馬殿の贔屓目だとしても、それ程までに唸らせるとは相当な腕なのだろうな。今度、我の護身兵と勝負してみないか?」

「オイオイ。淑女が野郎と肉をぶつけ合う処なんぞ観たくねェぜ」

「ハハ。こりゃ失礼した。にしても槍馬殿の文句は中々、毒が効いていて面白い」

「じゃろう? 博真が言う様に、この不遜さは何時しか愛嬌と化していたわい」

 愉快な冗談が飛び交い、終始和やかな雰囲気で宴は進んで行く。料理は毒味の手順を踏むため夜宴の進行自体は鈍いが、その分、話に華が咲いている。ある官人が若い頃、夜宴に招かれて大変な目に遭った———酷く泥酔した上官に素っ裸にされた挙げ句、逸物を品評された———話をすると、別の官人が自分は竹筒で酒をしこたま流し込まれたと回想する。どの官人も緑冠の時代、酒絡みの嫌がらせ(アルコールハラスメント)を経験しているものらしい。夜宴に出向いた際には、馬車の車輪が外されていることもあるから注意すると良いと聞いた。

 この話の流れに任せて、柴門が無頼漢に糞を喰らわせて撃退した話をすると、頓智が効いていて実に面白いと大変に盛り上がった。食事は羹が登場してから、お造り・揚物・強肴と続き、今は箸休の茹で大豆を摘まんでいる。

「そう言えば、槍馬殿。謁を交換する習慣はご存知かな。名前と宛先、肩書きを記した名刺のことを謁というのだが、用意はあるか?」

 どうやら夜宴の様な官人が一堂に会する場所では名刺を交換する習慣がある様だ。それに柴門は多くの官人にとって初対面である訳であるから、その必要性は猶更である。現代の会社員が取引相手と名刺を交換する習慣と同じ感覚なのだろうと解釈すると、柴門は暫し考え込む。

「申し訳ねェが、その様な風習があるとは存じ上げなくてねェ、用意はないなァ」

「あぁ、構わぬ。どうせ顔を合わせる機会も多いだろうし、その時にでも渡して———」

 と、羅新が断るのを聞かずに、柴門は里花に声を掛け女官を呼ぶ様に指示する。

「態々、今から用意せずとも構わぬぞ?」

 柴門は招聘した女官に『———』が欲しいから寄越せと伝えると、意味不明だと表情に写しながらも『畏まりました』と引き下がる。

「あぁ、羅新殿。気にするでない。柴門殿が意味不明な行動に趨るのは珍しいことではない。きっと儂等を驚愕させるに違いないのじゃから、静観して置くのが正解じゃ」

「成程。楽しみにして置こう」

「あァ、葡萄酒でも飲んで待っていてくれ」

 厨房から出てきた女官は里花の円卓に陶製の小皿を置く。その小皿には薄茶の混濁液が注がれており、何かの煮汁の様に見えた。

 柴門は箸置きに使用されている紙を引き抜くと、名刺大に爪で折り目を付けて切り取る。そして、箸の先を寄越せと頼んだ混濁液に浸し、箸を鉄筆の様に扱って紙に書き付ける。どうやら、名刺を作ろうとしている様だ。が、肝腎の名前は薄らと見えるか見えないか程度で、まったく名刺の体を成していない。

 柴門は振り返ると、口元を若干歪ませて、「即席の名刺だ。受け取ってくれ」

 そう大胆に言い放って、白紙同然の紙屑を手渡した。

「此奴が謁だと言うのか?」

「あァ、其奴には少し変わった絡繰りを仕掛けていてねェ、その葡萄酒に放り込むとその種が浮き上がるンだぜェ」

 羅新は渋々、言われた通りに葡萄酒に紙屑を放り込む。そして、柴門が引き上げて構わないと言うまで放置する。この時、夜宴の参加者は胡床から立ち上がり、羅新の回りに集結していた。帝も上半身を乗り出し、興味津津になって見詰めている。

「そろそろ良いぜ」

 その合図を受けると、羅新は恐る恐る箸で紙屑を引き上げる。葡萄酒の残滓を滴る紙切れを、乾いた平皿の上に広げる。

「アッ!!」

 いち早くその仕掛けに気付いた官人が声を上げた。何と、『柴門槍馬』の四文字が紫背景の中に濃く浮き上がっているのだ。

「ほう。これは面白い!! 如何なる手法で名を浮き上がらせたのじゃ?」

 帝が喰い付いた。他の官人等も眼を煌めかせて、柴門の解説を催促する。

「ただ名前を大豆の茹で汁で書いただけだぜェ? もう少し親切に解説するとなァ、大豆の茹で汁には界面活性剤ッツウ液体を染み込ませ易くする成分が豊富に含まれていてだな———」

「成程。大豆の茹で汁を付けてなぞった部分には葡萄酒が特によく染み込むから、その部分が浮き上がって見える、そういう訳じゃな!」と、帝が興奮気味に叫ぶ。

「あァ、その通り。それと、上流階級のお坊ちゃまはご存知ないかも知れねェが、大豆の煮汁を掻き混ぜると泡立って石鹼代わりになる。だから、もしかしたら茹で汁を捨てずに保存してるンじゃねェかって推測したンだが、その通りみたいで助かったぜ」

「一瞬にしてそこまで慮るとは天晴れだ、槍馬殿。これは博真殿が兜を脱ぐ理由が分かる」

「柴門殿の知識量と思考力に追い付くには、千年の時では足らない気すらする。天性の資質が違うんじゃよ。そうでも結論付けない限り、この埒外は説明が付かぬわい」

 柴門が種明かしをすると、羅新の背中からは感嘆の溜息が漏れた。見事だと手を叩く者も居れば、腕組みして歯噛みする者も居る。前者は親柴門的な姿勢の者、後者は新参者に対する抵抗感がある者なのだろう。

「俺が常識知らずで謁は用意できなかったがよォ、今日の処は此奴で勘弁してくれや。後日、上等な謁を拵えるからよォ」

「いやいや、これで満足だよ。素晴らしい幻想(イリュージョン)を見せて貰った。槍馬殿の謁を頂いたからには、それ相応の謁を渡さなくてはな。困ったものだ」


 そして、この夜宴では柴門主催の勉強会が、三日に一度の頻度で開催されることが決定した。


【第捌話 密議】

 柴門は二十畳以上はある大部屋を私室として与えられ、身辺の世話を行う下官として尊海が宛がわれた。尊海は部屋の清掃だけでなく、衣服の用意や餉の配膳、出退勤の管理まで有りと有らゆる世話事を甲斐甲斐しく熟してくれている。

里花の方も、海霞と上手く遣っているらしい。朝早くに柴門の私室を叩き、柴門が私室に大殿籠ると塒(ねぐら)へと帰って行く。

 また、三日に一度開かれることになった勉強会では、柴門の頭脳に格納された多様な知識が披露され、智嚢衆の面々は勿論、柴門の知識量に感化された多くの上級官人が参加し、熱心に耳を傾ける。

「ツウ訳で、男はどの時代も上目遣い女子には弱いンだ。自分よりも小さい守るべき存在だって強く意識されち舞うと庇護欲が煽られる訳だ。眼を潤ませることを忘れなきゃ、どんな男もイチコロに違いねェ」

 勉強に一切関係のない話題が聞こえてきた。この柴門による恋愛談義こそが女官が小難しい講習に挙って参加する理由だったりする。堅苦しい学術的な話題ばかりだと飽きて仕舞うだろうという配慮から、下らない恋愛談義を挟むことにした処、その談義が斬新で興味深いと評判を呼び、瞬く間にその噂が広まった。今や、柴門の講義は政務を滞らせる副作用があるという報告まであり、講義中は王宮の渡り廻廊が静かになるらしい。

 ただ女官がこれ程までに参加するというのは、中々に珍しい。その理由は至ってシンプルでだ。

 女官は、年季が明ければ王宮を出ることが可能な『雑用下女』と、天地が引っ繰り返る程度では王宮を出ることができない運命にある『後宮妃付きの侍女』の二種類に大別される。講習に参加する女官は雑用下女ばかりかと思えば、実際は半々程度で、柴門の好漢面だけを拝みに来る不届き者を少ないだとか。

しかし、恋愛小説の貴公子に幻想を抱く女官には、柴門の好漢面は刺激が強過ぎる様である。女官の殆どは眼が虚ろだ。髭面毒舌の柴門の何処が良いのだろうか。

「だがなァ、男子諸君は気を付けた方が良いぜェ? そういう女は打算的で狡猾な女ばかり。上手く籠絡された挙げ句、金を毟られて禿げるだけだァ。狙うは可愛らしい所作を無意識に繰り出す天然物だけだ。贋物には要注意だぜェ」

 頭を抱えて懊悩に悶える者も居れば、胸を押さえて肩で息をする者も居る。大量の書簡に埋もれる毎日で女慣れしていない文人官僚は、年に三度開かれる遊園会に向けて、手頃な女官を堕とす戦略を練りたい様だ。この手の堅苦しい勉強会に偏見を持つ軍部の人間さえも参加している処を見ると、柴門の波及効果が凄まじいことを思い知らされる。

「今日はこの辺りで切り上げるか。次回は二日後。そン時まで、復習をして置く様に。次回は簡単な算術でも遣ろうかねェ」

 と、柴門の勉強会は大盛況で今日も幕を閉じた。

 勉強会の会場となった講堂から、身分・性別の異なった者達がお互いの身の丈を理解して順序良く退出して行く。柴門が身分の制限を設けずに勉強会を開催したからこその事態である。

お喋り好きな女官は今日の柴門の様子について感想を共有し、熱心な男性文官は備忘録(メモ)を見返して頭を唸らせている。

 知識人のみを集める予定だった勉強会の門戸を開放したことで帝の叱責を受けるのではないか、勉強の趣旨に関係ない恋愛談義を挟むことに関して苦言を呈されるのではないか、そう身構えた柴門だったが、至って杞憂であった。寧ろ帝h『もっと盛大にやれ』と発破を掛けた。

 どうやら講義で艶書について論じたことが契機(きっかけ)で、読み書きが儘ならない女官中心に、空前の手習い流行(ブーム)が巻き起こっているらしい。下女の識字率向上の施策に頭を悩ませていた帝からすると、棚から牡丹餅であった様だ。

「柴門さん。お疲れ様でした」

「ん。大盛況」

「あァ、そうだな。にしても日に日に受講者が増えてねェか? 特に女官の比率が」

「このままの調子ですと、確実に溢れ返りますよね。もうひとつ大きい講堂を借りても良いかも知れませんね」

「だな。誰に掛け合えば良いンだか分からねェが、謁の交換がてら羅新に訊いてみるかァ? 随分お偉い役職らしいからよォ」

 講義の参加者が増え続ける現状は、柴門としては悪くないと感じている。参加する動機が不純なものであったとしても、興味を持つ契機になれば十分である。

しかし、これ程までに柴門がカリスマ性を発揮して集客しているとなると、それを憎む者も当然現れてくるだろう。どの時代にも人気者を妬む天邪鬼が居るに違いない。柴門が台頭することで割を喰う者も居ることだろう。

大盛況の裏側には、陰湿な嫉みが犇めいていることを努々忘れない様にしなければならない。特に、夜宴の席で柴門に猜疑の眼を送った官人などには。

「まァ、他に気になることもあっから、それも含めてだなァ」

 後日、柴門は里花の案内を受けて右大臣・羅新のもとを訪れていた。

尊海は女官共から届いた奇怪な艶書の整理に当たらせているためこの場には居ない。恋文を貰えば悪い気はしないが、それが怪文書であれば話は別である。つい先日会得した文字を使って書かれた艶書など読めた物ではない。丹精込めて書いたことはその筆致から伝わって来るのだが。

「槍馬殿、勉強会というのは随分と好評な様ではないか。我も何時かは顔を出そうかと思っていたのだが、如何せん山積みの書簡を処理しないことには執務室より出さないぞと、下官共が我を軟禁状態にするものでね」

「ご愁傷様だなオイ。まァ、此方だって実際の処、講義そのものに興味を持って参加してる奴なんぞ半数も居やしねェンだ。多くは息抜きの恋愛談義目当てだって話だぜェ」

「槍馬殿の場合、その好漢面も客寄せ効果抜群だろう。まぁ、お互いデキる者なだけに辛いな」

「まったくだ。博真からは楽して稼げるッツウ触込みを受けたンだが、詐欺に引っ掛かった気分だわなァ」

「まぁ良いではないか。女子にちやほやされるのは悪い気はせぬだろう? 我なんぞ顰め面した野郎共に見詰められる毎日なのだから、羨ましいことこの上ない」

 羅新は空笑いを飛ばし、自らの境遇を嘆く。それを聞いた柴門は『それはどうかなァ』とでも言う様に、肩を竦めた。

柴門は喜劇的(コミカルな)仕草と口調だが、表情を徐々に真剣なものへと改めて行く。それに気付いた羅新は『二人だけの内密な話をしたい。だから、執務室の外で待機して居てはくれぬか?』と人払いをする。婉曲的な言い回しをした処で見抜かれて仕舞うのを分かってか、羅新は単刀直入に要求した。

 柴門が『呉々も聴き耳を立てるンじゃねェぞ』と釘を刺すと、身体を震え上がらせて世話役の官人二人は退出した。一緒に退出しそうになった里花を柴門は引き留める。用心棒として要警戒人物を把握して置いた方が良いに決まっている。

羅新が柴門に陶製の湯飲み茶托を用意し、急須(ポット)から耶悉茗茶(ジャスミンティー)を注ぐと、調子(トーン)を落とした密議が開始する。

「———そろそろ、誰かの恨みを買う頃だろ。王宮の勢力図を知るために、謁を交換するという口実で我の処に遣って来たな?」

「察しが良くて助かるぜ。早い話、誰が俺の命を狙いそうか、その見当を教えろってことだァ」柴門はズズっと耶悉茗茶を飲む。随分と洒落た茶を常飲している様だ。

「ひとり……というか、ある一家が槍馬殿を眼の敵にしているだろうな。逆にその一家以外は槍馬殿のことを恨んでいないだろう」

「その一家ってのは、この間の夜宴で俺の斜め前辺りに座ってた、あの若造か? 俺のこと睨んで来やがったしよォ」

「恐らく其奴だな。我のふたつ左で不貞腐れていた銅鑼息子———彼奴は博真殿の前に智嚢衆首座に就いていた親父さんの息子なんだが」

「親の七光りで緋色官人だって訳か」

「そういうことだ。先代の親父さんは槍馬殿までとは行かないまでも、相当優秀だったらしい。歴史が尾鰭を付けて語っている可能性はあるが、当時の国一番の知識人であったことは間違いない。だが、ひとつだけ問題があってね、中々子宝に恵まれなかったという話だ」

「成程。爺さんになって生まれた我が子を、孫の様な扱いで溺愛したってことか」

「だが、溺愛する理由も境遇を聞けば同情できると思うぞ。どうやら母が急死したり流産したりと、祟りとでも考えない限りは解決できない不可解な事変が連発して、そんな中生まれた息子があの銅鑼という訳だ」

 羅新は長い台詞を言い終えると、耶悉茗茶で口を湿らせる。『まぁ、我が父から聞いたことなのだがな』

「銅鑼息子の発生条件としては十分過ぎるな。だが、どうして其奴が俺を恨む? 何か因縁でもあるンか?」

 柴門にはある程度の想像は付いているが、敢えて無知を装って問う。ここで推論を提示した処で意味はない。柴門は胡床を引いて上半身を乗り出す。

「あぁ、先帝は智嚢衆首座をあの銅鑼に継承させるというつもりだったのだろう。勿論、本人も生まれた瞬間から高位高官が約束されている訳だから、その気で居たに違いない。だが、先帝が御隠れになって現帝が即位すると、方針が転換してな。———詰まるところ、血統重視から能力重視へと方針が変更すると同時に、銅鑼に継がせるという従来路線が見直されたのだよ。まぁ、当時から銅鑼を智嚢衆首座に置いて仕舞えば、地位低下は避けられない上に、由緒ある智嚢衆首座が置物化するに違いないと議論はあったそうだ」

「智嚢衆首座って役職は、職制の中でもかなりの上位に階級(ランク)付けされてるンじゃ———」

「夜宴の席次からも推測が付いたかも知れぬが、智嚢衆首座は文官の最高職のひとつにも数えられる重要職。その上、職務は国政に直接的に関わる訳だから責務も相当だ。だから、現帝は先帝の寵が厚かった前々智嚢衆首座———銅鑼の父親であり、博真殿の前任者に、『銅鑼は年齢が足りて居らぬから、首座に就かせるのは時期尚早である』と打診して、上手い具合に銅鑼を一時的に首座から遠ざけたのだよ」

「成程。平たく言えば、溺愛親父がこの世を去って後ろ盾を失う瞬間を待ったって訳か」

「歯に衣着せぬ物言いだな、槍馬殿は。まぁ、そういうことだ。銅鑼の代わりに、知識人と呼び名高く人望も厚かった博真殿を首座に抜擢したのだよ。智嚢衆首座は智嚢衆の構成員の投票で選出されることが常らしいのだが、見事に銅鑼以外は外部の博真に票を投じたという伝説を打ち立て———」

「道理で博真の親爺に対する信用が馬鹿高ェ訳だ。博真のお墨付きがここまでの効力を帯びる理由が漸く理解できたわァ」

「そう。あの博真殿が太刀打ちできぬという触込みの槍馬殿は、我々からすれば化物級なのだよ。……話が逸れた。そういう次第で博真殿は智嚢衆首座に就いたのだ。だから、銅鑼は博真が退任する機を虎視眈眈と狙っていた。そんな中に槍馬殿が現れては、待ちに待った油揚げを攫われたと憤慨する理由も分からなくはないだろう?」

「こりゃ傑作だな。銅鑼としては無能が露呈しなくて助かったンじゃねェか?」

「相変わらず容赦ない。銅鑼は、年齢を満たせば智嚢衆首座に就任できると何処まで信じていたか分からぬが、智嚢衆の構成員全員が自分が適任でないと判断していたと知った時は、どれ程の屈辱だっただろうか」

 柴門は『フン』と鼻で笑う。羅新が用意したお茶菓子の包み紙が微かに揺れる。

「となると、智嚢衆の面子は基本的に俺に友好的だと見て良いのかァ? 夜宴の時に俺を睨む眼は二つじゃなかったと思———」

「ほう、そこまで読みが優れて居るとは……まぁ、驚くことでもないか。銅鑼の親父は智嚢衆の中にひとり刺客を送り込んでいるという話だ。銅鑼の無能を案じて、何時か銅鑼息子が首座に就いた際に困らぬ様にと、頭の切れる参謀役を仕込んだ様だぞ。博真に賛同して置きながら、腹は銅鑼と決めている隠し球———その正体は我にも分からぬが」

「こりゃ厄介だ。俺も二種類の視線を感じていたッツウだけで、もう一方の出処は摑めなかったからなァ。相当デキる参謀らしいなオイ」

「槍馬殿なら敵ではなかろう。国一番の策略家なのだから。細心の注意を払うに越したことはないが」

「銅鑼が無能なら無策で挑んでも問題ねェと高を括った処だが、有能な参謀、しかも正体不明となると色々と手を打って置かねェとなァ。忠告助かったわァ」

「惚れた相手にはトコトン尽くす気質でな、何時でも頼りにすると良い。今度は珍味で饗そう」

「それじゃァ、早速ひとつ良いかァ? 例の勉強会が酷く好評でな、そろそろあの講堂じゃ収容し切れねェって処まで来てンだ。もう少し広い講堂は手配できねェか?」

「可能だ。官人を戻したら早速、我の印璽付きで手配させよう。だが、あの勉強会にそれ程までに力を入れる理由は何処にある? 定員制限を設ければ幾分楽になるだろう?」

「あァ、俺の虜(ファン)は多い方が良いに決まってるだろ?」

「案外詰まらぬ理由じゃな」

 柴門は落ち着いて胡床から腰を上げると、里花を手招きする。里花は立ちっぱなしで密談に耳を傾けていた様だ。その里花に桌子の上に用意された残りのお茶菓子を渡す。こういう饗しの菓子類はどうぞと言われてから持ち帰るのが礼儀だが、豪胆な柴門には妙に気を遣う慣習など関係ない。

「羅新。俺が此処に来ることを見込んで情報を集めてくれていたとは、感謝しなくちゃなァ」

「やはり気付いて居ったか。……だが、『雄弁は銀、沈黙は金』だぞ、槍馬殿」

「フッ。俺の『ありがとう』は大盤振る舞いしてねェンだ。羅新こそ、黙って感謝の辞を有難く受けって置けや」

 柴門はいつも通り勉強会を開き、閑話休題としての恋愛談義で受講生のウケを獲る。幼馴染み路線(ルート)はボツり易いと伝えると、予想外だと驚きの反応が返ってきた。伊勢物語にある『筒井筒』の様な成功体験物語(サクセスストーリー)は現実ではそう起こり得ない。

 羅新が手を回してくれたお陰で、さらに大きい講堂が勉強会の会場として宛てがわれた。規模二割増の会場に並べられた長机にはビッシリと備忘録(メモ)が並び、敷き詰められた座布団では足りなかった。その上、聴講生が講堂奥に並び、立ち見で講義に参加した。

「今日はこんな処だァ」

柴門は講義終了の合図を出し、板書を記した木板を取り外す。板書と言っても、西方の文字で書かれた文献と著者名が記されているだけであり、実質的な意味など殆ど無い———筈だった。

「なァ、柴門の旦那。一寸、お時間良いで御座ェやすかい? オイラ、錬丹術師を遣っとります燈炎と申しやす」ある田舎臭い男が柴門に声を掛けて来た。講義後の質問は受け付けない筈の柴門が声を掛けられるとは、実に珍しい出来事である。

「何だァ? 俺に何か用かァ…?」

「旦那ァ。ご自分でオイラを呼んで置いて、その突っ慳貪は酷いですぜェ? なになに『錬丹術師を求む』ですかい?」

「そうか。お前遣るじゃねェかァ、あの暗号を解読するとはよォ」

 柴門は板書で参考文献の著者名“Amilec Peter(アレミック=ピーター)”と記していた。この極自然な人名には秘儀(カバラ)が隠されていた。前半部分の“Alemic”は『錬丹術』を示す“Alcmie”の『偉大なる芸術(アナグラム)』であり、後半の“Peter”は『求める』という意のラテン語“Pete”と『人』を示す接尾語“er”がくっ付いた言葉である。

 それを燈炎は見抜いたというのである。錬丹術師は難解な言語で書かれた術書をこの様にして解読するのだが、あの短時間でそれと示されずに解読したのは流石である。

「闇仕事に脚を踏み入れたって自覚はあるかァ? あるンなら黙って付いて来い。ねェなら、今此処で記憶を消して遣る」

「物騒は良くねェですぜェ? 仰せのままにしやす、旦那」



【第玖話 不穏】

 ある日の夜。夕餉。

 帝の執務室にある最高級の寝椅子(カウチ)から追い返された柴門は、整理整頓された私室で寛いでいた。部屋の清潔度は柴門の努力に拠らず、すべて尊海の功績である。

 日入の刻(十七時)を知らせる銅鐘が聞こえて来ると、尊海は艶書を整理する手を止めて、厨房へと向かった。柴門と里花の分の夕餉を取りに向かったのである。

「柴門さん。夕餉をお持ちしました」

 半刻程度で戻ってきた尊海は恭しい動作で部屋の中に夕餉を運び込む。どうやら尊海以外にも官人が数人居る様で、部屋の外からは複数人の声色が漏れ聞こえる。

 柴門は里花にケチャップアートを教え込むのを止め、緩りと立ち上がる。ケチャップアートとは言っても、三重の豚腸に味噌を詰め込んだ物を搾るだけだが、即席にしてはそれなりの機能性がある。里花は識字が覚束無いからケチャップアートを通じて文字を覚えさせようという魂胆であり、決して欲望を満たすためではない。

「おう、何時も助かる」

「いえいえ、私は柴門さんの世話役ですから、何なりとお申し付けください。こうして柴門さんにお仕えできるだけで、途轍もない僥倖です」

 尊海は正座の姿勢で額を畳敷きに付ける。この様に、尊海は旅籠屋の女将の様に丁重に柴門を饗す。

「本日の夕餉は春野菜の撒拉托(サラダ)に蕗之薹のお浸し、川魚の煮付けと鵞鳥の炙り肉……ですかね。春らしい御馳走です」

 尊海は饗膳に乗った料理を告げる。それ以外にも当然、黍飯に薄味の羹がある。夕餉も一汁三菜様式(スタイル)が定番で、官位に応じて黍なのか稲なのか粟なのかが決まり、副菜の内容や品数が変化する。柴門級の最上級官人となると、柑橘と苺も甘味として追加される。

「だな。里花も尊海も、少し摘むかァ? 昼餉に執務室で包子(バオズ)を摘み喰いしち舞ったから、あんまり腹が減ってなくてな」

「ん。欲しい。食べたい」

「宜しいのですか? ですが、好き嫌いということなら、お召し上がって頂かないと———」

「そんなんじゃねェよ。第一、そんなに動いてねェから腹も減らねェンだ」

 朝そこそこの時間に起床して朝餉を摂り、日中帝の執務室と私室で横になっていた挙句、間食で空きっ腹を補って仕舞えば、そう腹も空かない。

 里花は質素な膳と柴門の饗膳を見比べて、物欲しそうに指を咥えている。里花は夕餉の時間になると海霞の処へと戻って仕舞うことが多いので、柴門の饗膳に眼を輝かせるのもわからなくない。

「里花は何が欲しいかァ? この甘味なんてどうだ、甘い物好きだろ」

「ん。ご主人様。蔬果も好きだけど、蕗之薹、食べたい。それ、わたしの好物」

「随分渋い趣味してンな。良いぜほら———」

 が、蕗之薹のお浸しが入った陶製の器を里花の膳に移そうとするその動作は、不自然な時機(タイミング)で停止した。柴門はその器を眼に近付け、穴が空く程凝視する。すると、やはりかと呆れ調子で頷くと、自分の饗膳に戻す。

「どうしたの、ご主人様。食べたいなら、わたし、要らない———」

「いや、此奴は蕗之薹に見えて蕗之薹じゃねェンだ。それも実に厄介な贋物だ」

「何を言ってるの? これはどう見ても、蕗之薹、だよ」

 里花は覗き込む様にして柴門の虚ろな表情に訴え掛ける。尊海も何か失態をして仕舞ったのではないかと、顔を青ざめ訝しんでいる。

「早速動いて来るとはねェ。里花、今日の夕餉は喰うンじゃねェぞ。———毒入りなんだからなァ」

 柴門は眦をキッと吊り上げ、強い語調で言い放つ。その目線は決して尊海を睨むものではない。何故なら、尊海が毒殺に加担している筈がないからである。それは柴門の審美眼が証明している。

里花は陶器から手を離し、ガタンと陶器が漆膳に落下する衝撃音を奏で、尊海は身震いする身体を柴門の方へ向ける。

「申し訳ありません! 私の手違いで……」

「いや、尊海は悪くねェ。というより、尊海の犯行な訳がねェわな。そもそも手違いだって言うなら、俺以外の誰かが狙われてた訳だろ。———なァ、尊海、何で今日は別の官人に配膳を手伝わせてたンだ?」

 柴門が私室で夕餉を摂る際には何時も尊海単独が厨房よりできたてを運ぶのだが、今日に限っては珍しく別の官人を伴って私室まで運んだ。どうやら、その過程に仕掛けがありそうである。

「…あっ、柴門さんの饗膳を含めて三膳運ばなくてはなりませんでしたので、それを善意で手伝うと申し出て下さった方が二人居まして……」

「だがよォ、何時も配膳車に載せて此処まで運んで来てねェか? 特段手伝って貰う必要はねェぜ?」

 柴門は今日は配膳車で運ばれていないことを把握した上で、その理由を問う。その理由についても大方察しが付いているが、尊海に説明する様に促す。柴門は確度の高い推測を持ち合わせながら、推測を明かさずに正解を相手に語らせる弄(ひねく)れた手法を執るが、会話を潤滑に進行させるには適した方法である。

「はい。手伝って下さった官人が言うには車輪のひとつが破損して仕舞ったらしく、暫くは使えないということで、三往復もするのは大変だからと———」

「ほォ、善意に満ちた殺意って訳だなオイ」

 そこまで尊海に喋らせると柴門は納得の暗黒微笑を漏らす。それに慄く尊海は、蝉の様にジリジリと身体を震わせ、矮小な虫螻に変身するかの勢いで縮こまっている。

「ご主人様。毒って一体?」

 里花が端的に問う。この深刻(シリアス)な雰囲気に合わない可愛らしい声音が響いた。

「あァ、この蕗之薹紛い。此奴は走野老(ハシリドコロ)ッツウ猛毒の山野草だ。蕗之薹と形が良く似てるのは芽が出たばかりの頃だけで、成長しち舞えば蛍袋(ホタルブクロ)みてェな紫の花を咲かせる別物に変身する。だから、蕗之薹が芽吹く季節と走野老のそれが被る今の時期は誤って採集しち舞い易いンだよ。それに食味も蕗之薹と似た具合に独特の苦みがあるせいで、口にしても違和感を覚えにくい。中毒症状が現れるのは食後数刻後だから、苦しみ悶えるまでは蕗之薹に完全に擬態する、実に陰湿だな」

「どうして、そんなものが…? 料理作る人が、間違えた、の?」

「そんな優しい世界だと良いンだが、実際は違うだろォなオイ。何処の馬の骨かも分からねェ外様野郎の俺は、帝の寵を受けて王宮の権勢を一挙に取得した人気者ってことになってるらしいじゃねェか。三日に一遍開く勉強会なんて大盛況だろ? 世の中にはなァ、里花や尊海みてェに素直に褒めることができる純粋無垢な人間ばかりじゃなくてよォ、人気者にケチ付けたがる天邪鬼が居るンだよ。きっと其奴等の仕業だろォなァ」

「鷹派(アンチ)勢力に柴門さんの命が狙われている、そういうことですか?」

「あァ。だが、これは小手調べ程度だろうな。本気で俺を殺したければ、銀にも反応しない鴆毒を仕込めば良いだろ? 例えば、河豚毒(テトロドトキシン)でも致死性の高い毒茸でもな。その上、お浸しみてェな食材に原型が残る料理を選んだ辺り、蕗之薹じゃねェことを見抜けるか試して遣ろうツウ意図(メッセージ)が籠もってる様にしか感じられねェな。走野老だってことを隠したきゃ天麩羅にでもすりゃ良かったよなァ」

「確かに。じゃあ、どうして、こんなことしたの?」

「挑戦状って奴だな。今からお前を殺して遣る、だから首を洗って待って置け、そういうことだ」

 柴門は唾を吐き捨てる様に嘆息する。『こんな程度の前哨戦(ジャブ)に引っ掛かってる様じゃ、智嚢衆首座として物足りねェ、そう言いてェンだなァ?』

 柴門は走野老を使った挑発行為には、『お前の寝首を掻いて殺る』という宣戦布告だけでなく、『調子に乗るな新参者がッ』という牽制攻撃も含まれていると解析している。

 というのも、柴門が広い講堂を確保してまで集客を増やそうとした理由は此処にあるからだ。柴門は勉強会に身分制限を設けず、自由な参加を奨励した。そして、集客のために恋愛談義まで取り入れた。

 このような一連の陽動作戦の目的は以下の通りである。

潜在的な反柴門勢力を能動的に炙り出し、感情的にさせて柴門に噛み付かせる、そして、顕在化した敵対勢力が柴門に牙を剥いた処を返り討つ、そこまでが柴門の仕組んだ大仕掛けだった。言わば、敵対勢力は柴門の掌で簡単に躍らされていたのだ。

「ですが柴門さん、敢えて引っ掛かった振りをするというのはどうでしよう? それで相手が少しでも油断すると考えるのは安直過ぎる———」

「いや、悪くねェな。国一番の謀略家を敵に回そうとしてる身の程知らず野郎は、この俺を煽り散らす余裕があるみてェだ。まだまだ俺の掌で遊ばせて置くのもアリだァ。極限まで興奮して沸き立った血液が、悪魔の輪舞曲に翻弄されていたと知った刹那、極限まで凍り付く痛快さと言えば、格別だわなァ!! こりゃ、どっちが悪童か分からねェぞ」

「ご主人様、悪い人の顔、してる」

「はァ。頭ン中で宿敵を幾ら嬲ろうと犯そうと、其奴を実行しなけりゃ犯罪になりゃしねェ。まァ、其奴を実行しようとしてる俺は今現在、犯罪者予備軍だがな」

「ご主人様、捕まるの?」

「どうだろなァ? 世論は裏切りたくねェなァ」

 柴門は勝ち筋を完全に見切っているのか、まだ成駒すら一駒もない盤面で意味深長な言葉を紡ぐ。そこで里花が幾ら顔を近付けキョトンとしようとも口を割らない。

「柴門さん。私は後先考えず引っ掛かった振りをしてはどうか、と提案して仕舞いましたが、走野老が猛毒だとすると、誰かが死ななくては引っ掛かったことに———」

「大丈夫だ。誰も死ぬ必要はねェよ。確かに猛毒ではあるが、あの量じゃ致死量に達しない筈だ。精々、神経が麻痺して幻覚を見るくらいだな」

 柴門は蕗之薹擬きを箸で摘み上げて、視線で舐め回す。明らかになった全貌は子どもの親指程度である。里花もそれをマジマジと眺めるが、『こっちの方が、紫かも』と本家蕗之薹との差違を実況している。事実、走野老は葉の裏側が赤紫に染まり、如何にも毒々しい。

「だがなァ、この走野老。面白い中毒症状を引き起こすことで有名でなァ。———眩惑に魘されながら、精魂尽きるまで延々と趨り続けるンだよ」

「「なッ」」

 柴門の猟奇的な表情とは対照的に、里花と尊海は揃って顔を引き攣らせている。まるで凄惨な殺人現場でも目撃したかの如く。

「あァ、驚くよなァ。背筋を凍らせる様に語って悪かったな。だが、その中毒症状は誇張でも何でもないンだぜ? 自然毒特有の幻覚症状が表れると、途端に爆走したい衝動に駆られて体力が尽きるまで趨り続ける。しかも、その疾走速度は有り得ねェくらしいからなァ」

「そ、そんな奇妙な症状が出るなんて……」

「だからこそ、走野老ってンだ。趨り続けた挙句、コロって死んじ舞う。言い得て妙な命名だろォ? って、俺は名付け親じゃねェがな」

 柴門は『フン』と鼻息を荒立て、肩を怒らせる。何処か得意気なのはどうしてだろう。

「そんな、危ない食べ物、わたし、食べなくて、良かった」

 時間経過により呪縛から解放された里花は平らな胸を撫で下ろす。尊海も接着剤で固化させた様な顔を弛緩させる。

「可愛い里花が食べでもして、俺の傍から趨り去っち舞ったら———」

「大丈夫。ご主人様の傍に、ずっと居るから」と、よく分からない甘い雰囲気が漂った処で、

「柴門さん。どう引っ掛かった振りをするのですか?」

「ぁぁあァ。そりゃ柴門の世話役官人が渡り廻廊を爆走したッツウ噂を流すンだよ。まァ、具体的なに誰が奇行をしたかは伏せるがなぁァ。……尊海、実際に趨ってみるかァ? 『廊下を趨ってはいけません』なんツウ餓鬼臭ェ規則は、俺に免じてなかったことにして遣るから様」

 里花との濃密な空気感を壊された怨みをぶつける様に、尊海に迫る。が、里花が『それなら、わたしが』と名乗り出るので、尊海からプイと顔を背ける。

「勿論、冗談だ」ビクつく尊海を宥めてから、「だがなァ、他の官人に俺の命が狙われてるって思われち舞うのは、作戦として不出来なんだよなァ」

「どうして柴門さんの命が狙われていることが漏れてはならないのですか? 援護して下さる味方を増やして敵対勢力に立ち向かった方が———」

「まだその訳は言えねェなァ。まァ兎に角、『ある官人が何かに取り憑かれた様に、消魂しい喚き声を立てて渡り廻廊を駆け摺り回った』とでも噂を流して置こうかァ。そうすりゃ、その噂を聞いた醜聞(ゴシップ)好きな女官共が、禁欲生活で逞しく育った想像力を無駄に掻き立てて『幽霊を見たに違いないわ』だの『いいや、悪霊に取り憑かれたのよ』だの好き勝手に誇大妄想を膨らませてくれるさァ。犯人以外は誰も猛毒の走野老を口にした中毒症状だとは思わねェだろう様。走野老を仕掛けた方も、女官共の噂話を『走野老の中毒症状だ』ツッてご丁寧に訂正するとは思えねェし」

「柴門さんなりの企みがあるのですね。分かりました、中毒症状を実演するのは躊躇いますが、噂を流すなら任せて下さい」

「あァ、頼む。だが、くれぐれも噂の出元が分からねェ様にしろよ。上手いこと噂が女官共に伝播すれば成功だがな。そうすりゃ、噂の出元なんぞ有耶無耶になるだろうし、噂に尾鰭を付ける仕事は女官が指示されなくともやってくれるだろうからなァ」

「妹の海霞を宛にするのはどうでしよう? 柴門さんとの繋がりは希薄ですし———」

「いや、海霞には関わらせたくねェンだ。特に今の段階ではなァ。それに味方陣営を増やすのは得策じゃねェ。『船頭多くして船山に登る』じゃねェが、謀略に関わる人間が多くなればなる程、綻びが生じる危険性は増幅する。だから、権謀術数の全貌を理解して置く必要があるのは、謀略家たったひとりで十分なんだよ」と柴門は持論を語る。『だから、支援者を増やすことは自分の首を絞めるかも知れねェンだ』支持者を突き放す様な怜悧な論調だが、そこには柴門なりの思い遣りが含まれていた。

「まァ、この謀略が自分に牙を剥く危険性があると感じりゃ、何時でもこの船から降りて貰って構わねェし、譬えそれが裏切るみてェな真似になっち舞っても、眼の仇と看做して地獄まで追い掛けて殺るみてェな鈍臭い真似はしねェから安心してくれ。———この世界の楽しさを教えてくれたお前等が理不尽な不幸を被ることは絶対ェにしねェから、安心して俺の背中を見て黙って付いて来れば良い」

「ご主人様は、口は悪いけど、根は良い人。素直になれない、だけ。本当は、仲間思い」

「柴門さんが裏切るなんて考えられません。それに、私が尊敬する父が畏怖するお方なのですから、当然信頼しています!」

「この冷酷非道な柴門さんが善人間だって見えるなら、眼鏡掛けた方が良いンじゃねェかァ…?」

「またまた、私は父親譲りの見る眼を備えている筈ですよ?」

 尊海という男は、柴門に対して常時恐れ慄いている訳ではない。柴門の厳しい言葉や威厳溢れる態度には半歩退いて対応し、それ以外の場面では少し戯けた対応で返す。その結果、尊海独特の厭味が一切含まれない礼儀正しい人好きのする性格が形作られているのだ。

「ご主人様は、変態で、変人だけど、良い人。お母さんが、里花が懐く相手は、みんな良い人だから、人を見る眼には、自信を持ちな、って言ってた」

 里花という女は、柴門に対して極めて従順である。だが、媚び諂う様な日和見ではなく、ご主人様に物申すべき場面ではしっかりと自分の気持ちを伝える。歯に衣着せぬ物言いは柴門に感化されてのものなのかも知れないが、その様な素直な態度が二人の堅い絆を醸成しているに違いない。

「ったく。お前等、俺に媚び売ったって意味ねェぜェ? しゃあねェから、今日はこんなこともあろうかと蓄えて置いた保存食でも食べるかァ? 目の前に並ぶ夕餉よりかは味は落ちるだろうが、空腹を押し堪えて鑛に包まるよりはマシだろ」

 柴門は、食欲が湧かずに残して仕舞った黍飯を数日天日干しにした糒や、残った調味料で保存処理を行った御菜(おかず)の類いを押し入れから取り出し、里花と尊海の眼下に並べる。

「さァ、一風変わった晩餐で反撃前夜の祝杯といこうじゃ———里花!! 触るんじゃねェ!!」

 柴門は里花の手を凄まじい勢いで叩く。それは眼を掛けている里花だからこその遠慮や手加減など一切ない、痛烈な一撃だった。

「えっ…? ———痛いッ!!」

「オイ。まさかその箸に触れてねェだろうなァ!!」

 柴門は脅迫でもする様に里花に詰め寄る。直ぐ様叩いた里花の右手を取り、炎症がないか熟視する。その指は柴門が叩いたせいなのか、それとも箸に気触れたのか、じんわりと赧らんでいた。

「どうした……の…………」キョトンと首を傾げると、「———うわァァァァァァァァッ!!」

 刹那。獣の咆哮の様な爆音が耳を劈いた。

途端に頭を強く押さえて、里花は畳敷きの上を転げ回り出す。頭に取り憑いた悪霊を物理的に引き剥がす様に、艶やかな髪を暴力的に引っ張り、無惨な毛玉に変える。胸は傍から見ても、心臓内部で爆破寸前の爆弾が激しく膨張と収縮を繰り返しているかの如く、激しく上下しているのが分かる。両耳も熱した鋼の様に真っ赤に腫れ上がり、危機事態であることを強く主張していた。

「どうした里花ッ!!」「里花しっかりしろッ!!」「里花さん!! しっかりして」「落ち着いて里花さん!!」

 柴門や尊海が幾ら介抱の言葉を掛け様と、それが耳に届いている様子もなく、手脚のバタつきを一層激しくするばかりである。

「柴門さん!! 彼女はどうしたのですかッ」

「分からねェ!! だが、ひとつ言えることは、里花が触れたその箸は夾竹桃(キョウチクトウ)製なんだよ。触れただけで手が火傷したかの如く熱を帯びて気触れる。超絶厄介な植物、それが夾竹桃だ。漆の気触れよりも数段酷いらしい」

 夾竹桃。

それは咲かせる桃色の可憐な華とは裏腹に、花・葉・枝・果実など全身に猛毒を蔓延らせている危険植物なのだ。野営の際に燃料や箸、串として利用された夾竹桃は軍隊を崩壊へと誘い、強い毒性は堕胎薬として胎児が陽に曝される機会を奪う。

夾竹桃は棘で分かりやすく威嚇する薔薇(そうび)よりも格段に悪質なのである。

「里花さんの奇行はその箸が原因なのですかッ?」

「……否。恐らく違うだろォよ。夾竹桃の中毒症状には触れた場合の炎症や気触れ、口にした場合の下痢や嘔吐、焼却煙を吸い込んだ場合の非回転性眩暈や錯乱。幻覚症状は普通考えられねェンだ」

 柴門は自分の失態を噛み締める。臓器が刃物で切り裂かれたかの様な鋭い痛みが全身を巡った。

箸が夾竹桃だと前々に気付いて置きながら、余裕振って戒厳令を敷かなかったのは余りにも迂闊だった。押し入れから保存食を取り出した時機(タイミング)で、種明かしをする奇術師気分で喜劇風(コメディテイスト)で語る算段だった。

 やはり、知識を自慢の武器にすると碌な事にならない。さながらすべてを見通した『因果律(ラプラス)の悪魔』気取りで、最後の最後に知識を披露して優越感に浸る必要性など、里花や尊海に身の危険が及ぶことを差し置いて、微塵もある筈がなかった。

 知識は大切な人を助けるためだけに使うべきなのだ。決して即物的な私欲や一瞬の優越感を満たすための駄物にしてはならない。

「俺が馬鹿野郎だった。すまねェ里花」

 風に煽られて焔をすぼめる蝋燭の様に、柴門は力なく言う。視線の先には過去から逃避する様に蹲る里花の姿がある。

「では、里花さんはどうして……?」尊海は眼を細めて問う。

 何が引き金だったのか、柴門が手を叩いてから数刹那空いて里花は突然悶え出した。それはもしかすると、柴門が把握していない夾竹桃の珍しい中毒症状だったのかも知れない。だが、この場合、柴門が里花の手を叩いたことに起因する症状であると考えた方が自然である。

何故なら里花は母親の処刑を網膜に焼き付けた過去を持つ『孤児』なのだから。

 柴門はそれについて言及する。

「もしかしたら、俺が手を叩いたことで、過去に封印した記憶の傷口を開かせち舞ったのかも知れねェな。禁断の箱を迂闊にも開いち舞ったンだろうよ。可哀想なことをした。女の子に手を出すなんて真似、男の俺が一番しちゃならねェ最悪の行為なんだから。女に対する暴力はどんな理不尽な理由があったとしても、正当化できねェンだ」

 柴門は瞳孔を限界まで開いて肩で息をする里花を抱きしめて、気障な台詞を口にする。柴門の温もりを感じたのか、氷が融解する様に里花は心臓の拍動を穏やかにして行く。

「柴門さん、どうします? 里花さんを医局に持ち込みますか?」

 現在時刻は黄昏の刻(十九時)に近付こうとしている。

そのため、医局は比較的空いているだろうが、里花は医局の薬で対処が効く類いの症状ではない。里花の症状が夾竹桃の猛毒由来だとしても、夾竹桃には解毒剤が存在せず、自己免疫による自然治癒を待つしか手立てがない。

しかし、柴門の推測に過ぎないが、里花の症状の根本原因は柴門が手を叩いたことにあると考えられる。たったひとつの行為で剔り返された精神的な古傷は、東洋医学では解決不可能である。

「里花の症状は高名な医官だろうと治癒は不可能だ。当然、医官でもない俺では手が負えない。———だが、里花を癒やすことができるのは、この世界でたったひとり。他でもねェ俺しか居ねェンだ」

 頓珍漢な発言だ。堪らず尊海は矛盾をぶつける。『それは里花さんが医局に運ばれると、柴門さんの計画が頓挫するか———』

「馬鹿言ェ!!」柴門は獰猛に噛み付いた。「里花の指の気触れは医官だろうと俺だろうと対処できねェって言ってンだ。だがなァ、里花が悶え苦しむ原因は彼女の過去にある、俺はそう見た———」

「どうしてそうも言い切れるのですか? 柴門さんは先程から冷静さを欠いている様———」———バチンッ。

 鞭で馬の尻を叩く様な鋭い打撃音が響いた。柴門の右頬は、季節を無視した赤紅葉が浮かび上がる。

「あァ、確かに俺は熱くなっち舞ってるなァ……落ち着こう」頬に叩き付けた二本指をゆっくりと下ろす。

 柴門は肺に溜まった穢れた二酸化炭素を追い出し、綺麗な酸素を取り入れる。頭にも酸素が行き渡った処で、再び大きく息を吐く。尊海が沸騰した柴門を忌憚なく諭したことで、感情論が暴発することが防がれた。

「……俺は市場の処刑台で里花の曇った双眸を見たンだよ。精気を失った虚ろな瞳を。里花は言ってたぜ、『何か思い出しちゃならねェことが、頭の奥に眠ってる気がする』ってな。どうやら俺が其奴に掛けられた鋼鉄の南京錠をブチ壊したせいで、処刑場で目覚め掛けた苦い記憶を深い眠りから覚醒させち舞ったみてェだ」

「でも、もしそうだとするのなら、柴門さんが里花さんに働き掛けるのは逆効果かも———」

 柴門は絶対的な自信を持って口を開く。

「そんな訳あるかよ。俺は里花と堅い絆で結ばれてンだ。里花が大事に想う母親に変わって、俺が里花を癒やして遣るしかねェンだ。そうでもしなきゃ、里花は何時爆発するか分からねェ爆弾を抱えて生きることになるンだよ。———その記憶に再び蓋をするだけの藪医者染みた方法じゃなくてなァ、新しい記憶を一緒に積み重ねることで心の傷を癒やすしかねェンだ」

 尊海は承服為兼ねると、首を横に振ろうとすると、

「……ご、ご主人様。わたしは、大丈夫」

 荒い息を押し堪え、柴門の広い胸から顔を離して顔を上げる。涙で湿った睫毛を上下させて、「ご主人様が言うなら、間違いない…から。お母さんが居ない、この世の中で……ご主人様が、一番、だから」

「おい、里花。大丈夫なのか?」

「うん。わたしがどうして、こんなに暴れちゃったのか、分からないけど、今は取り敢えず大丈夫。張り裂けそうだった胸も、収まった」

「そうか」

 暫くすると、里花は枝の上で温和しく翼を休める小鳥だ。開き切った瞳孔も収縮し、頬も子どもらしい林檎の様な紅潮に戻っていった。

「なァ、里花。さっきも言った通り、俺はお前を絶対ェに見捨てねェ。お前と一緒に心の傷に向き合って行こうじゃねェか!! その古傷を俺の手で完治させて遣るからよォ!!」

 大船に乗れとでも言う様に、里花を腕に抱き込む。先程まで怪訝な眼で見ていた尊海は、ご隠居が孫を見る眼付きで眺めている。この態度を見ると、尊海は敢えて心を鬼にして柴門を叱ったのではないかと勘繰って仕舞いそうである。

「うん。ありがと。さっきの苦しみは、わたしの傷が、治る方へ向かってる、証拠だと思う。どうしてだか分からないけど、ご主人様が、わたしの手を叩いた時、お母さんの声が、聞こえた気がした」

 里花は脳裏の疼きを快方の予兆だと解釈した。脳腫瘍を摘出するには痛みが伴うことと同じ様に、里花を深層心理で苦しめる心の傷を治すにはそれ相応の痛みを伴わなくてはならない、そう覚悟する様に里花は力強く言って退けた。

 今、里花の症状が収まっているのは、悪魔的記憶が再びこじ開けられた禁断の箱に引き籠もって仕舞ったからだろう。引き籠もった悪魔的記憶は、里花を蝕む瞬間を待って着実にその準備を進めているのかも知れない。根本的に解決するには、柴門が語った様に、爆破時刻不明の時限爆弾をどうにか処理しなければならないのだ。

それは悪魔的記憶を完全に解体することなのか。それは悪魔を天使に更生させることなのか。

『悪魔的記憶が眠ってるだろう禁断の箱には、果たして災厄しか入ってねェのかァ? 希望(エルピス)は底に眠ってねェのか?』

 何れにせよ、里花の傷はジリジリと快方へ向かっているに違いない。今の時点では、そう前向きに解釈するしかなかった。

 ただ、里花の運命が動き出したことは、柴門という超越的知性を誇る人物との邂逅に原因の端緒があるに違いない。

 だが、彼女の機械仕掛けの運命は幸不幸、どちらの方向へ舵を切り出したのか、それは柴門にも分からない。



【第拾話 腰斬】

 里花が過去の記憶に嘖まれて暴れる予想外があったが、柴門の権謀術数は支障なく進行している。里花もあれ以降、取り乱すことなく平穏な日常を送っている。里花と寝床を同じくする海霞にはそのことは伏せてあるが、海霞から特に里花についての連絡は来ない。

 ただし、柴門の近辺では不審事が連続して発生している。夕餉への蠍混入、大量の奇怪文書、普段着用の腰帯の紛失、格子戸の小火騒ぎ、晨夜の異音騒音などなど。連発する事件は柴門単独への嫌がらせなのか、魔の手が迫っていることの暗示なのか、背後で蠢く柴門への反撃の布石なのか。

 柴門は敵対勢力との激突が間近に迫っていることに精神病質(サイコパス)的な興奮を覚えつつ、里花や尊海、海霞に危害が及んでいないことに安堵していた。

 とは言え、裏を返せば柴門の挑発作戦が功を奏している証拠でもある。事実、『走野老の中毒症状』についての噂は狙い通りに拡散していた。

 例えば、女官共。彼女等は専ら『晨夜、奇声を発しながら渡り廻廊を駆け巡る悪霊に取り憑かれた人獣が出没するらしい』『それを目撃した官人は、幻覚症状に魘されて精魂尽きるまで渡り廻廊を暴走する』『精魂尽きると、悪霊に乗り移られて尽きた魂を探し求めて再び廻廊を暴走する』『その姿を目撃すれば人獣に変えられて仕舞うせいで、渡り廻廊を駆け回る人獣は増加する一方だ』の噂で持ち切りである。顔を合わせればその噂話ばかり。

 怪奇現象の類いを否定したがる頭の堅い文人官僚も、その噂にしっかり慄いている。噂の種である人獣を目撃したという者まで現れ、本人曰く『眼が合わなかったから助かった』とのことだ。注目を集めるための狂言なのか、噂に洗脳された視覚が投影した幻覚のか不明だが、この域まで達すると下ない怪奇騒動も真実味を帯びてくる。であるため、日が沈み渡り廻廊が不気味な雰囲気を醸し出すと、めっきり人出が減っている。帝も夜伽を躊躇っているらしい。

「なァ、尊海。噂が随分と尾鰭を纏って羽ばたいてる様だが。お前、どんな風に噂流したンだァ?」

「柴門さんに言われたそのままですよ。ただ、裏の火葬場で話したのが悪かったですかね」

 実は王宮にも火葬場は存在する。数万にも上る女官や蒼頭は結構な速度(ペース)で命を落とす。死因は過労なのか第三者の陰謀なのか過失致死なのか分からないが、そんな彼等の屍体を何時までも肉体を伴った状態で放置して置く理由など何処にもない。所詮使い捨ての命なのだから、使い物にならなければ灰にして仕舞うのが最適である。

 神聖な王宮からできるだけ遠い場所———日の当たらない北の最果てに火葬場が設けられ、其処では五日に一度、死者の魂と狼煙が天上界に昇っているのである。

「まァ、『走野老の中毒症状』だって分からなきゃ問題ねェがな。兎に角、渡り廻廊を爆走する化物が居るってことだけは良く伝わってきたわァ。にしても、女官共は噂の中で上手く筋が通る様にするモンだねこりゃ感心感心」

「その部分は強調しましたからね」

「まァ、それさえ向こう方に伝わりゃ十分だからな。……ァあ、ちゃんと噂の出所は曖昧にしただろうなァ?」

「勿論ですとも。架空の官人から私が『内密に』伝え聞いたことにしましたからね。私が口軽男になって仕舞ったのは残念ですが」

「上等だ」

 柴門は一瞥を投げると、クルリと振り返る。すると、柴門はお供しようと付いて来る里花と尊海を追い払って、鴨居を潜って私室から出て行った。

「柴門さん。最近、様子が可笑しくありませんか?」*

 柴門が私室に単独で戻って来るのは決まって晨夜。それも満身創痍の様子で、尊海が敷いた鑛に筋力を失って倒れ込む。そのまま深い睡眠へと誘われる。

 勉強会が終わって一息着いた晡時の刻(十五時)に部屋を出てから、戻る未鶏鳴の刻(二十五時)まで、何処で誰と何をしているのか、里花も尊海も知らない。幾ら尋ねようにも、『蔵書室に籠って読書してたンだよ』『ひとりで裏庭を散策したくなってね』などと下手な誤魔化し文句を返されて仕舞う。柴門も上手く誤魔化す様子が一切ない辺り、言外で『踏み込むな、察してくれ』と語っているのではないかと捉えられる。

 恐らく、柴門が言う権謀術数のための手配なのだろうと里花等は想像しているが、具体的なことは一切分からない。柴門が極秘にしたがる理由を尊重して、周囲の官人に目撃情報を訊いて回る訳にもいかない。

 二人は悶々とした数日を過ごしていた。

 柴門の命が狙われていると判明した今、二人は心底心配である。

「ご主人様に、限って……」

 里花の騒動から十日程が経過したある日、柴門は帝から主敬殿に昇殿する様にと勅旨が下った。主敬殿において帝が日中政務に当たり、上級官僚のみが拝殿を許される格式高い宮殿である。使用用途としては、政務以外に上級官僚との謁見や内密の会食などが挙げられる。以上は里花の受け売りである。

 柴門は『案外手回しが早ェなオイ』と柴門以外の誰にも意味の通じない独り言を呟き、背中を丸めて主敬殿に向かった。

 主敬殿を正面に望む渡り廻廊に差し掛かった処で、柴門は唐突に里花に問う。

「里花。呼び出された理由にまったく心当たりがねェンだが、里花は何だと思うかァ? 俺は———」

「ご主人様。最近の隠し事と、関係ないの?」

 眼を真ん丸にしてすぐに里花は喰い付いた。その表情は予想外を語っている。

「何のことだァ? 俺は帝に後ろ指刺される様な疚しい事はしてねェし、かと言って賞讃される様な善行も積んでねェがな」

 そう柴門は堂々と打ち明ける。そこには一切の嘘成分は含まれていない様に里花には感じられた。だが、如何なることでも遣って退ける柴門は、覆面の技術さえも天下一品なのかも知れない。よって、柴門の態度を額面通りに受け取って良いのだろうか。

「オッと」

 柴門が脚を滑らせて蹌踉めくと、その勢い余って蹈鞴を踏む。それ同時に、ピシャッと水音が奏でられた。今日は珍しく雨天であり、風の勢いも木葉を撒き散らす程であるから、渡り廻廊の両側には雨水によって吹流し(ドリッピング)画法で歪な模様が描かれている。

 柴門は水滴の付着した袴の裾を手で払うと、上半身を起こして次の様に吐き捨てる。

「この情景描写から察するに、余り良いことが起きる気配はしねェなァ」

 柴門の背後では丁度、天帝の怒りを象徴する雷霆が閃光を放っていた。


「里花殿はご遠慮下さい」

 主敬殿の大門を潜ろうとすると、里花だけが呼び止められた。緋色官人は『里花殿は彼方でお待ちください』と主敬殿の脇に構える倉庫に人差し指が向けられる。里花の官位は前例に乏しいため一概に決め付けることはできないが、少なくとも埃舞う倉庫に押し込まれる様な蒼頭身分でもなければ、緋色官人に丁重に対応される様な高貴な身分でもない。

 柴門は里花に一瞥を下して、官人の言うことに従えと目線だけで伝える。ご主人様のことが心配な里花としては、今後の成り行きを肉眼で見届けたい衝動に駆られたが、二人の官人に指示されて仕舞えば、首を縦に振る他なかった。

「こりゃ、ますます雲行きが怪しいぜェ?」

 柴門は消魂しく轟く雷鳴に紛れて仕舞う様な小声でボソリと呟く。雨で濡れた朝服が背中に触れ、背筋を冷やした。

「柴門殿。此方でお待ちください。直に帝がお見えになります」

 柴門は初めて帝と謁見を果たした時の経験を思い出して、敷物が置かれた位置に腰を下ろす。が、すぐに肌寒さを感じたため、部屋隅に配置された火鉢に駆け寄り、雨風に曝されて冷えた身体を温める。

「こっちの方が伏魔殿らしいじゃねェかァ」

 この主敬殿は迎應殿よりも造りが幾分質素であるが、それでも十分なまでに華美である。しかし、意匠の方向性が宣伝(プロパガンダ)目的ではなく機密性目的であるという点が、宮殿の第一印象を大きく『禍禍しい』へと傾ける。と言うのは、天井の高さは十尺(三メートル)程度であり、壁際に置かれた什器は虫螻一匹と通さない密閉性と威圧感を纏っている。什器が作り出すあらゆる影や釁隙が悪魔を宿している様に感じられた。

 そのため、雪室の様に外観から得られる内部構造よりも随分と堅苦しく感じられる。

 そして極めつけは、玉座の前に据えられた桌子。その上では、黄金に粧し込んだ二個の曝頭 (しゃれこうべ)が計四つの虚ろな眼を向けている。瀟洒な桌子の上だけは、油絵に描かれた西洋の錬金術師を彷彿とさせた。

 背中を向けて濡れた朝服を乾かすものの、背筋には冷たい感覚が残り続ける。やはり、これは悪兆を身体が鋭敏に感得している証拠に違いない。柴門はそう観念して、敷物の横に屹立して腕組みをしながら待つことにした。

「これにて、俺は詰み…か」

 その言葉が妙に木霊する。

 雷撃で浮かび上がった柴門の顔はらしくない哀愁を帯びていた。


 暫くすると帝は『待たせたな』と数人の緋色官人を伴って姿を現した。動きやすさ重視の普段着であるが、午前中の寒さを嫌って分厚い裘を纏っている。

 心做しか帝は窶れて見える。

 白髪混じりであった立派な顎髭は、白狐の様に白毛が九分九厘を占めている。朝冠から飛び出る毛髪も同様である。若々しい溌剌とした雰囲気は失われている。それでもやはり、柴門の気の所為なのだろうか。

 鷹揚な足取りで玉座に腰を沈めると、帝は柴門の顔を捉えて眉を顰める。その表情から読み取れる感情は大きくふたつ。『失望』と『疑念』である。ますます、帝の口からは賞讃が飛び出すとは思えない。

 先手を打ったのは柴門だった。帝の怪訝な面持ちを察して耐え切れず、といった感じか。弱者が最初に挑発を仕掛ける心理状態と酷似している。

「なァ。最近、王宮を騒がせてる怪奇事件を解決してくれって話じゃねェよなァ。『解決せぬことには、朕の夜伽も満足にできぬわ』ってな。俺に言わせりゃ、『幽霊に脅えて勃つモンが勃たなくなる様じゃ、皇帝位の威厳が損なわれ兼ねねェぜ』」

 飛び出す話題が陰気(ネガティブ)なものと分かっての喜劇的(コミカル)な話し口調だった。

「柴門に解決できる見込みはあるのか?」

「ねェな。七十五日を待つ以上の有効打はねェだろう様。そもそも幽霊騒ぎなんぞ大概、根も葉もねェ噂に脚色が加えられたまったくの空想(フィクション)なんだからなァ」

「まったくじゃ。怪談なんぞ、蒸し暑い夏夜を乗り切るためだけに存在すれば良いものを、どうしてこうも季節外れに囁かれるのか……実に忌々しい。貴様の処まで朕の夜伽事情が広まって居るとは、女官共の噂の伝播は侮れぬがのぉ」

「醜聞(ゴシップ)に餓えた女官が噂の気配を嗅ぎ付けち舞えば、広まるのは刹那の速さ。帝も情報統制には細心の注意を払った方が良いぜェ? 女官共の嗅覚は軽く鮫のそれを凌駕するだろうから、至難の業だろうがなァ」

 柴門も女官等の広域情報網(ネットワーク)を活用して噂を広めた前科があるため、その脅威と有効性は十分に理解している。ただ、柴門は噂の出元であることを伏せた鉄仮面(ポーカーフェイス)を貫いているが。

 と、ここで話が途切れた。前談(アイスブレイク)は此処までである。

「柴門。朕がその様な下らぬことを尋ねるために、貴様ひとりを呼んだと思うか?」

 ひとつの鈍重な咳払いと共に、本題へと切り込む開幕弾が投下される。前談で緩んだ表情は、この宮殿に姿を見せた時のものに戻って仕舞っている。

「雰囲気からして、良さげな話ではなさそうだなオイ。特に俺としては心当たりねェンがァ?」

「貴様の胸に手を当てて良く思い返してみると良い。朕の信頼を欺く様な真似をしたのではないかのぉ!!」

 途端に語気が強まる。柴門が白化っくれたことで、帝の感情を逆撫でた。

「さァ、何のことだか? 俺が帝に無礼を働いたことなんぞ星の数程だろうがよォ、そんなことを咎める狭量な皇帝でもねェだろ?」

 柴門の堂々とした態度は逆に開き直りの様に捉えられる。

「惚けるのもいい加減にしろッ、貴様ッ!!」———ダンッ。

 什器が帝の怒鳴り声を共鳴させ、部屋全体が弦楽器の様に振動する。そして、帝の台パンは黄金の曝頭の歯をカタカタと揺らす。

「帝は俺に吐かせてどうするよォ? 自白の強要とは帝も情けねェなァ!! 証拠が挙がらねェことには俺を追い詰められねェぜェ?」

 柴門は挑発する。否、図星を衝かれて只管に反撃しているだけだ。

「持って来い!!」鋭い目線で緋色官人を睨み、指示を出す。箪笥の上に置かれた黒光りのある平箱が帝の眼下に差し出された。そのまま平箱に寝かせられた証拠品を摑み、柴門のドンと眼前に曝す。

「この腰帯に見覚えはないか?」

 そう言えばと柴門は思い出す。それは紛失した腰帯であった。

「……俺の手元から失くなってた奴だが、其奴がどうしたァ?」

「まだ白を切るのか貴様は。この場面では貴様お得意の豪胆さは、ただの往生際の悪さでしかないのじゃぞ? まぁ良い。———この腰帯は上級妃の床から見付かったのじゃよ」

 帝の言わんとすることは明確だ。

最も高貴な男以外の立ち入りを禁ずる後宮で、絶対にあってはならない目合(まぐあ)いが行われた。そして、その禁断の目合いを行った人物こそ柴門槍馬だと言うのだ。

「分かりやすい証拠だな」

「じゃろう? 朕も貴様に対する信頼は厚いからのぉ、その証拠が偽証でないか側近に確かめさせたのじゃが———貴様が過ちを犯す筈がないと偽証である証拠を集めよと命じれば命じるだけ、貴様が黒だという証拠ばかり集まるのじゃよ。朕も根も葉もない噂や告げ口は信じぬと心に決めて居るがのぉ、ここまでの次々と証拠を見せられて仕舞えば信じない訳にも行かぬだろう? 極めつけは、貴様の私室で見付かった肌襦袢。上等な口紅の擦れ痕が見付かった時は、朕の貴様に対する信頼が地に墜ちた瞬間じゃった」

 帝は非常に残念だと涙を滲ませながら、眉間に怒りの皺を寄せるという、相反する感情が入り交じった表情である。『その肌襦袢もじっくり見せた方が良いか?』

「フン。その必要はねェな」

 柴門は遂に諦観した。組んだままの腕を解き、重力に任せてブラ下げる。

「そうか。貴様の口からは朕を欺く様な無実の証拠が出るかと期待したのじゃが。———柴門、貴様とはこれでお終いじゃ」

「そうだな。俺としても残念だ。どうして趣味に合わねェ女に手を出しち舞ったンだろうなァ」

 帝の女趣味とは、男の眼を惹く胸囲を持ち合わせる豊満な美女である。従って、後宮には帝の趣味に合った極上の女が取り揃えられているのである。

「なァ、俺の悪事はどうしてバレち舞ったンだ? 女の方にも秘め事を明るみにして得することはねェと思うンだが。———俺を告発することが生じる損失を上回る程、利益を産むンかねェ」

「柴門。妃の方から告発したのではないぞ。朕の夜伽を管理する宦官から知らせがあったのじゃよ」

 帝の夜伽については、間違いを犯しようがない宦官によって厳格に管理されている。具体的には、夜伽の相手となる後宮妃の体調や月経周期の把握、房事を捗らせる部屋の手配と下準備(セッティング)、房事内容と日時の細かな記録などなど。つまりは、帝は寵妃ばかりと夜を過ごすことはできず、政治関係やお相手の体調などの諸事情の関連で、苦手な相手ともヤることをヤらなくてならない。また、夜伽の回数を調整することで、後宮妃を送り込んだ家同士の待遇差が生む軋轢を緩和することも珍しくない。

悲しいかな、後宮(ハーレム)生活は意外にも不自由で、男が夢想するヤりたい放題の楽園とは程遠いのである。

「三日前の昼時じゃったかのぉ———」

 帝が言うには、宦官が後宮妃にお伺いを立てに出向いた際に、男物の腰帯を発見したことが契機(きっかけ)だった。宦官が『帝のお忘れ物ですか?』と問うと、妃は仕舞ったという表情を浮かべたらしい。不審に思った宦官は問い詰めると、柴門槍馬と一晩を共にした時の忘れ物だと判明したという訳だ。

「悔しいが、その妃も貴様の容姿に籠絡されたと言って居ってなぁ。貴様の様な好漢に迫られては已む無しか。同情は決してできぬがのぉ」

帝は随分と落ち着いている。一度激昂したが、それ以降は感情が乱高下することはない。柴門槍馬という帝自身が惚れ込んだ存在に裏切られたことで茫然自失しているからか、それとも心の何処かで柴門の無実を願っているからか、帝は必要以上を語る。まるで、語ることで気持ちを整理する様に。

「未遂だから隠蔽することもできる訳じゃが、一瞬の気の迷いで朕以外の男と夜を過ごしたことは当然、背徳行為にも当たる。じゃから、告白するか否かの葛藤でずっと藻掻いて居た様じゃよ。そんな中、宦官に証拠を見付けられて仕舞ったのじゃから、天命だと定めて観念するしかないじゃろうのぉ」

 すべてを語り終えると、ガクンと膂力を失って落胆する。

「成程。上□い△ナリ○描□×ゃ▽ェ○」

 柴門の呟きは雷鳴に混じって、その波形が乱される。よって帝には届かなかった。

「なァ。あの妃はどうなるンだ?」

 柴門は犯した事の重大さを理解していないのか、自身の処遇の心配よりも相手の身を案じる。それは柴門の男としての矜持なのか、ただの興味本位なのか。

「未遂じゃから、後宮には残るじゃろう。否、残すしかないじゃろう。貴様はそれと知って手を出したか分からぬが、あの妃は先帝の寵妃の家柄から出された上級妃じゃし、寵もそれなりに厚かったそうじゃ。じゃから、そうも簡単に無碍にはできぬ。無論、妃の方から誑かしたというのなら問答無用で打ち首じゃが」キッと猛獣が獲物を狩る様な鋭い眼で柴門のそれを剔る。

「ほォ……」柴門は興味深さを示す音を上げた。暢気なものである。

「美貌と知性だけで後宮に捻じ込まれた妃なら、一家諸共死罪に処すことは厭わぬが。先帝の寵妃の家系を引き寵を受けているとなれば、政治的な軋轢さえも孕むこととなる。それに、あの妃は権力関係の渦中にあってのぉ———」

 夜伽の頻度さえも政治関係に気を回すのだから、後宮妃を後宮より追い出す、もしくは刑に処するとなると、政治的な衝突や軋轢を避けることは不可能に等しい。

 従って、上級妃を中級妃に格下げする程度が精一杯で、死罪は愚か後宮追放すらにも踏み込めない。

「じゃから朕は、家柄や血縁に囚われぬ能力主義を志したのじゃ。家柄の柵みに付き纏われて居る内は、朕の思いの儘には行かぬからのぉ。能力を重んじて貴様を重用した結果がこの有様とは、実に皮肉じゃ」

そう言って眼を細める。『先帝の教えに背いた報いかのぉ。やはり、能力主義は時期尚早じゃったか』

 帝は柴門に対する未練がまだまだ残っている様子で、柴門が帝を裏切ったという事実を受け入れることができていない。頭では理解しているが、行動が伴っていない。先程から柴門が考案した光の乱反射を利用した紅燭灯を物悲しそうに見詰めている。

「なぁ、柴門。不在証明(アリバイ)を証言してくれる様な人物は居らぬのか?」

 別れ際、往生際悪く妓女を引き留める放蕩男の様に、柴門に言葉でしがみ付く。

後宮妃に手を出したとなれば、普通、即刻残虐刑は免れない。また、嫌疑が掛かった時点で黒と看做し、有無を言わせずに首と胴体を別つ判断を下す皇帝も歴史上では多数居ることだろう。

ただ、現帝が心の底から柴門に属魂であり、有史以来最も寛容な皇帝であるからこそ、なかなかその言葉———『死刑宣告』が出て来ない。

「残念ながら。最近の幽霊騒動のせいで、夜間は人っ子ひとりと渡り廻廊を出歩いてねェンだ。———まァ、裏を返せば、俺が後宮の渡り廻廊を歩いていたッツウ証言も同じく、得ることは厳しいだろうがなァ」

 柴門は完全に開き直った。怖い物なしの柴門は隠さずに、すべての魂胆を語る。『噂のお陰で、帝の夜伽が途絶えがちだッツウ今の時期を利用したンだが、逆に不在証明(アリバイ)工作に苦心するとはなァ。まったくの想定外だったなオイ』

 柴門は帝に未練はないとでも言う様に、冷たく突き放す。すると、稲妻と豪雨が織り成す轟音に負けない大声で、

「オイ里花。そこで聴いてるンだろ? ご主人様はここ最近、晡時の刻(十五時)に私室を抜け出しては内密に何処かに出掛けてますって証言しとけ。ンで、決まって私室に戻ってくるのは未鶏鳴の刻(二十五時)を過ぎてから。その間、ご主人様が何をしてるか、わたしは一切知りませんってな」

 すると、不自然な高さに掛けられた牆壁画がパックリとふたつに割れる。その隙間からは、里花とひとりの緋色官人が出てきた。どうやら、この主敬殿での言動はすべて隣接する倉庫から盗視盗聴可能な仕様になっている様だ。仕掛けは迎應殿のそれとまったく同じで、額縁に埋められた絵画は細かい網目の入った布である。

里花は風が吹けば簡単に飛ばされて仕舞い兼ねない覚束ない脚取りである。瑞々しい若木の様に見えた体軀は立ち枯れした老木の様である。

 顔面蒼白の里花は渾身の力を振り絞って柴門に抱きつくと、操り糸が切れた傀儡の様に崩れ落ちる。

「ご主人…様。わたしを、絶対に……裏切らない、って言った…のは、嘘…だった、の? ご主人様の、服装が……乱れてたの、って———」

「ごめんな、里花。嘘を吐くのは女の専売特許でもねェンだ。男も当然嘘を吐く。女は嘘で着飾って妖艶に見せるが様、男の嘘は醜い上に穢れてンだ。だから、男の嘘は他人を容赦なく傷付けち舞う」

「お母さんが、言ってくれた……わたしの、人を見る眼って……本当は、駄目…なのかな……」

「馬鹿言うな。お前の目が節穴かどうか判断するには、ちょいと急ぎ過ぎだ。———いけねェ、余計なこと言った。……俺がどうなろうと、里花と過ごした鮮やかな日常はずっと変わらねェ。それを霞ませることをしち舞って、申し訳ねェ」

「わたしの…大切な、人は……すぐ、わたしの眼の、前から…消えちゃ、うぅ」

「すまねェな、里花。此処に来る前、俺は里花に『どうして帝に呼ばれるのか、皆目見当が付かねェ』って嘘吐いちまってた。里花のご主人様で居られるのがあと少ししかねェって思うと、中々本当のことは言えなくてな。———今日で俺は里花のご主人様じゃなくなる。今までありがとうな」

 柴門は決まり悪そうに目線を斜め上に向けて別れの挨拶を交わす。『まァ、里花をすっかり騙せてたンなら、俺は就く職業を間違えたのかも知れねェな。俺には、こんなにも素晴らしい少女のご主人様なんか似合わねェ。結婚詐欺師……良い処で、悪役鉄板の舞台俳優がお似合いだろうなァ』そう言ってみるも、気を紛らわせることはできない。

 里花は滅多刺し屍体の様にグチャグチャになった顔を腕で覆い隠すことすら放棄して、号泣し慟哭する。瀑布の様な滂沱の涙は緋毛氈に血の様な滴下痕をつくり、銅鑼の音に近い喚き声は部屋全体を震わせ地鳴りを錯覚させる。走野老の事件で里花が嘖まれた発作よりも症状が酷かった。

「女の子を二度も泣かした時点で、俺は男失格だ。それに他人の女に手を出すのは、疑い様がねェまでの禁忌だ。———帝。俺はどうすれば良い…? どう処されれば俺はこの罪に釣り合うか?」

 重い沈黙を挟む。

 その沈黙は漏刻の目盛りをひとつさえない僅かな時間だったが、この主敬殿が纏う空気感はそう感じさせなかった。一刻とも一日とも、そう漏刻が示せば疑いなく信じて仕舞うだろう。

「———朕を裏切る行為は、如何なる罪よりも重い———拠って、死刑じゃ」

 帝は下唇を前歯で噛み切って、遂に死刑宣告を述べた。白毛の筆の様な顎髭には、涙と血液が混じり合った血涙が筋を作り、肉食獣の食べ残しが雪山に散る様である。

『柴門が朕に牙を剥いた際に、命を奪うことができるのは朕だけじゃ』

 そう帝が柴門に冗談めかした時、まさか本当に柴門の生殺与奪の権を行使するとは、誰しもが考えなかった。言霊とは実に恐ろしい。

「あァ……分かった」

 ゴクンと迫り上がる胃液を食道に押し戻す。身体が焼ける様に痛いのは、柴門だけではない。

涙を枯らした里花は重篤な熱病に罹患したかの如く、肌を上気させている。里花もご主人様が死刑を免れぬことを予期していたに違いないが、宣告を以て現実となると受け入れ難い。商隊(キャラバン)すら通らぬ乾涸らびた灼熱地獄に取り残されれば、涙さえも乾き果てて暑さに悶える他ない。里花の症状はまさにそれだった。

帝は柴門の精悍な顔付きが崩れて行くのを見て、思わず口を滑らせる。

「じゃがのぉ、貴様はこの朕を魅了した事実は変わらぬ。じゃから、朕の情けじゃと思うて、死刑の執行方法は貴様に選択の余地を残して進ぜ様。まぁ、残虐な光景を目の当たりにしたくないからのぉ」

 死刑は罪の重大さに応じて、執行方法の残虐性により差別化される。代表的な残虐刑には、死ぬまで甚振り続ける『陵遅』、四肢と首を馬で引き千切る『車裂』、快楽殺人狂・紂王が絶世の美女・妲己を楽しませた『炮烙』などが挙げられる。その他にも、烹煮や剖腹、剥皮などがあり、斬首や毒殺、銃殺や絞首などは為政者の容赦が感じられる生温い死刑である。

「そうだなァ。何処かの薬師は死ぬなら毒殺が良いと世迷言を宣った様だが、俺には特に志望死刑はねェなァ。帝の憐憫に敬意を払いつつ、事の重大さを鑑みれば……そうだなァ、『腰斬』が妥当って処じゃねェか?」

「……分かった。死刑執行は三日後の日昳の刻(十三時)とする。それまでは、私室ではなく地下牢で過ごすことになる。無論、身形は罪人らしく囚人衣、脱走は為ぬと思うが、足枷と腕輪が仕掛けられるじゃろう」

「あァ。あと三日の命、引き籠もり部屋みてェな薄暗さと埃っぽさに浸りながら過ごすとする様。その心地良さげな牢獄に棲み着けねェのが勿体ないくれェだ」

「無理に強がらぬでも良いぞ。……その変わりと言っては難じゃが、執行前日の晩には貴様のために饗膳を用意しよう。西じゃと『最後の晩餐』と言うそうじゃな。食べたい物をそれまでに考えて置け、高価だろうと躊躇う必要はないぞ」

「……あァ。最期にふんだくって遣るか」

「はぁ、ここまで罪人に眼を掛ける君主など、古今東西を見渡して居るものか。その甘さのこそが、政治の軋轢を朕の一言で解消することができぬ所以なのじゃろうな。今更嘆いたとて、遅いかも知れぬが」

「そんな寛容な帝だから、俺は好き勝手できたンだ。この高慢痴気な態度は至極煙たがられてなァ……博真が上奏文に『柴門殿に魅了された暁には、彼の不遜は愛嬌と化す可し』って書いてあるのを見た時なんて、初めて他人に俺の性格を認めて貰えた気がしてな、偉く快感だったわァ。俺の癖強い性格を気に入ってくれる奴に出逢えて、俺は十分に幸せだったぜ?」

「貴様の不遜さは朕を確かに魅了した。この国で唯一、朕に敬語で接しない貴様との馬鹿騒ぎは、青春小説の世界に朕が融け込んだかの様な充実振りじゃった。朕に初めて兄ができた気分じゃったよ」

「そうか。だが、随分と出来の悪ィ兄で悪かったなァ。……里花も、出来の悪いご主人で申し訳ねェ。俺は里花みてェな優秀で可愛い用心棒を持て———」

「ご主人様。……そんなこと、言わない、で。わたしに、とっては……ずっと、凄い、ご主人様の、まま」

 里花は口から飛び出す嗚咽を押さえながら、必死に語る。けれど、眼はずっと寂しそうなまま。涙が涸れ果てた眼には潤いがないが、その分、露出した眼球が寂しさで溢れている。

 そんな顔を見せられて仕舞えば、柴門の涙腺は堪えが効かなくなる。目頭から顔の凹凸に沿う一滴が零れ落ちる。柴門が眼を強く閉じた時には、その水滴は笑窪まで達していた。

「嬉しいこと言ってくれるじゃねェか。里花は博真の親爺達と、俺のことなんぞ忘れて楽しく生きろ。博真の親爺の顔に泥を塗る真似をしち舞って申し訳ねェ、俺がそう言ってるって伝えて置いてくれよな」

「忘れることなん———」

 途端に柴門の顔は鬼のそれに豹変する。そして狼の様に凶暴に噛み付いた。

「これ以上、俺はお前と話すことはねェ。俺はお前とは赤の他人。お前はその辺の虫螻と変わらねェ、有象無象の女のひとり。俺はあと三日と命が続かねェ罪人だァ。金輪際、俺と関わるなよ。俺の私室にも絶対ェに入るなよ。何度も言うが、お前は『赤の他人』なんだからよォ」

 一度台詞を切ると、帝を真っ直ぐ見詰める。

「ってな訳だ。生憎、俺には血縁者も居なけりゃ配偶者も居ねェ。……この言葉の意味、帝は分かるよなァ」

 帝はコクンと頷く。

 柴門は蹲る里花などには眼もくれず、官人に付き添われて王宮北側にある地下牢へと向かった。


 牢獄生活一日目。

 博真が遣って来た。

 当然、複数の監視役付での接見である。柴門の腕は鉄格子に繋がれていた。

 博真に事の顛末を話し、信用を無碍にして仕舞ったことを深く詫びた。既に赤の他人なのだから謝る義理など存在しないのだが、心の何処かでそれは許すことができなかった。

 海霞や海深には趣味に合わないと切り捨てたにも拘わらず、どうして後宮妃に手を出したのか、博真は深く問い詰めた。柴門は只管に気の迷いだったと証言する。

 この赤の他人は、罪人を実に良く褒めた。罪人が赤の他人の信頼を裏切ったことなど関係なしに、兎に角良く褒めた。難のある性格さえも大好きだと、絶賛した。

 赤の他人の焦点の合わない眼は、何時も果てない遠くを曖昧(あやふや)に指していた。その眼は、心の何処かで罪人の無実を信じている様だった。


 牢獄生活二日目。

 実質、その日が異世界生活最後の日に当たる。

 朝餉は蒼頭のそれと大差ない、低級な粟飯に具のない羹。当然、付け合わせの調味料もなければ、食後の水菓子もない。流石、王宮の食事というだけあって味自体は悪くない。毒味の工程が挟まれないからか、朝餉は珍しく温かかった。

 牢獄を照らすのは、たったひとつの矮小な燈明。

 薄暗い部屋に燈明ひとつという状況(シチュエーション)は、つい先日のことを思い出させる。質の高い硝子杯があれば、この牢獄全体を明るく灯すことができる。硝子杯を寄越せと頼もうかと頭を過ったが、無論その様な頼みなど聞いてくれる様な見張り番ではない。如何にも堅物そうな杓子定規な人間ばかりであった。

 部屋に置かれているのは、低い桌子と筆墨硯紙の文房四宝。

 死刑執行の前に形式だけでも辯明文を書けということらしい。期限は本日の日付が変わるまで。まだ締め切りまで半日以上も時間があるにも拘わらず、柴門は朝餉を食べ終わるとすぐに桌子に向かっていた。偉く頭を捻って、推敲に推敲を重ねている。

 辯明文を試行錯誤して書いている中、見張り番の男から声が掛けられた。最早、監視役を胴像(トルソー)と変わりないと思い込んでいたらしく、柴門は甚だ驚いていた。

「おい、夕餉は何が食べたい」

 見張り番の男は柴門が事情を知っているものと見て、必要最小限の言葉を掛ける。この様な仕草からも堅牢な印象が伝わって来る。

「そうだなァ。さっきから此奴を書き認めつつ考えてたンだがな、俺の一番の好物はやっぱり秋刀魚じゃねェかって思うンだわァ。———俺は秋刀魚の塩焼きを所望しよォかァ。勿論、檸檬と大根おろしを忘れるなよォ。そう料理長に伝えとけ」

「秋刀魚なんて、季節が違うじゃないか。そんなモン———」

「今の時期でも秋刀魚は漁れるンだよ。確かに旬は秋だが、あれは夏場に鄂霍次克(オホーツク)海で過脂を肥やした秋刀魚なんだよ。今の時期はちょうど暑い夏場を過ごすために北上してる頃。ツウ訳で、秋のそれと比べりゃ味は落ちるが、秋刀魚が一切漁れねェってことはねェンだ。誰も痩身の魚なんぞ見向きもしねェだろうが」

 柴門の言う様に、極東地域では秋刀魚は年に二度漁れる。鄂霍次克海で夏場を過ごし、脂肪を蓄えてから、産卵のために東支那海へと南下する。つまり、秋刀魚は春と秋の二度沿岸域を通過するのである。産卵を終えて腹を空かせた秋刀魚など相手にされないため、旬として周知されていないが。

 しかし、柴門がこれほどまでに秋刀魚に拘る理由は何処にあるのだろうか?

「かと言って、そんなモン用意できるか分からぬぞ」

「秋刀魚の乾物でも構わねェさァ。俺は兎に角、秋刀魚の上に檸檬と大根おろしを掛けて喰いてェンだ」

 柴門は態とらしくジュルリと涎を音を立てて吸い込み、眼を瞑って口を緩ませる。

 その表情からは、命があと一日で尽きて仕舞うことに対する恐怖など一切読み取れない。この男は一体、何処まで大胆不敵なのだろうか。

 遠くの方から『あの柴門とかいう男。脅えひとつ見せねェって、どうにかしてやがる。処刑日時が近付けば近付く程、嬉嬉とするとはどういうことなんだ?』と、柴門を訝しむ声が聞こえて来た。


 待ちに待った夕餉が運ばれて来た。やはり、出来たてを象徴する湯気が立ち昇っている。

 採光用の格子戸ひとつとないこの牢獄では、今が何時頃なのか知る手段が皆無であった。唯一あるとすれば、夏季休暇半ばの小学生の曜日感覚の様に狂った、柴門の腹時計だけである。朝餉と夕餉の到着と見張り番の交代だけが時間を知る手段であった。

 何時もの様に見張り番の男ひとりが、海老錠とも弾機(バネ)錠とも呼ばれる錠前を慣れた手付きで取り外す。開く部分は仔豚がギリギリ通り抜けられるか否かの、一と半寸四方だけ。ガチャンと金属の衝撃音が反響すると、木製膳に載った食事が差し出される。

 饗膳は柴門の注文通り、秋刀魚の塩焼きであった。その上、大根おろしに檸檬も添えてある。

 本旬ではないため、丸太の様に肉付きは良くないが、口先の黄色が鮮度の良さを主張する。柴門としては至極満足であった。

 勿論、饗膳は秋刀魚と薬味だけではなく、柴門が智嚢衆首座時代に食べていた、干し肉の炙りや生野菜の撒拉托(サラダ)も追加されている。黍飯に根菜入りの羹も添えられている。

 明日死ぬという罪人に高級食材で饗す意味はあるのだろうか。

 明日地獄に堕ちる罪人に栄養を与える意味はあるのだろうか。

 柴門は冷めない内にと、箸を忙しなく動かして綺麗に食べ尽くした。すると、柴門は再び辯明文の執筆に取り掛かった。

 そしてその夜、緋色官人が辯明文を皇帝の元へと持って行った。それを見届けると、柴門は泥の様に眠った。余程、辯明文の執筆に神経を使ったのだろうか。


 牢獄生活三日目。

 最終日。死刑執行日。

 柴門が起床したのは偶中の刻(九時)であった。柴門は不安に駆られて厠に立つことなど一度もなかった。処刑を翌日に控えた罪人とは思えない落ち着きと緊張感のなさである。恐怖のあまり異常行動に趨る者も居る中、柴門の平静はある意味で異常だった。

 朝餉が喉を通らず戻して仕舞う……などということも当然なく、何時もと変わらぬ朝を過ごす。ただ、牢獄には暇潰しになる書籍などある筈もないから、只管に暇を持て余すだけなのだが。

 胡座を掻くなり、うつ伏せで寝転ぶなり様々に体勢を変えて、見張り番の男から声が掛かる時を待つ。勿論、その声とは処刑台への誘い、もしくは堕地獄への秒読み(カウントダウン)である。

 しかし、たったひとつの燈明が照らし出す天井の染みを数えていても、その声は中々掛からない。

 何度空欠伸を漏らしたことか。何疋の蜚蠊(ゴキブリ)と挨拶を交わしたことか。何本の顎髭を引き抜いたことか。


「おい、そろそろ時間だ。此奴に着替えろ」

 投げ込まれたのは、上半身だけを覆う白い袢纏と、股間のみを隠す粗い生地の褌。これら一式が死装束ということらしい。

 柴門は待ち草臥れたとでも言う様に大欠伸と伸びをする。ガチャンガチャンと手枷が賑やかに騒ぎ、柴門は横着する。その気の弛みは簡単に見張り番の男の癇癪を起こさせた。

「早くしろ、罪人身分がッ!!」

———ガチャコーンッ

 借金を毟り取る無頼漢の様に、見張り番は藁草履で鉄格子を蹴り上げる。

 つい先日までは講義に多くの官人や女官の人気を集めていたというのに、罪人となってからは対応が豹変した。『スタンフォード監獄実験』に近しいものを感じる。

「へいへい。ならさっさと、此奴を外してくれ」

 柴門は啄木鳥の真似で手元の手枷を示す。見張り番は『五月蝿い』と一喝すると、鍵束を懐から取り出して手際良くそれを外す。

 柴門は漸く自由になった両手を曲げ伸ばしして、束縛が解けたことを甘受する。手枷を纏っての書翰の執筆は非常に大変であった。今まで痒くても掻き毟ることができなかった頭皮に爪を立てる。埃か垢か区別の付かない塵がパラパラと舞う。

 見張り番の苛立ちなど我関せずの態度で、随分のんびりと着替えを済ませた。

 牢獄より出された柴門は前後左右に見張り番の屈強な男に囲まれて、処刑場を目指す。後ろを歩く大丈夫に背中を預けながら気怠そうに進む。

 柴門は久し振りに陽光を浴びた。洞窟の様な閉鎖的空間で過ごした柴門には、そとの世界は眩し過ぎた。柴門は眩暈がして、視界の端には季節外れの陽炎がチラついた。

「此処だ、薄鈍」

 柴門を凌ぐ悪口雑言が呟かれた。

 そこは王宮の北側。屋外ながら、年中殆ど陽が当たらない黴(カビ)臭い場所である。見るからに怪しい茸が木製の手摺から生えている。

屈強な見張り番四人衆は『下がれ』という上官の司令を受けて、首筋を平らにした姿勢で引き下がった。

「柴門槍馬で間違いないな」

 柴門を囲んでいた男達よりも顔面偏差値の高い官人が声を掛けた。額に趨る木目の様な横皺が年期を感じさせる熟年の官人であった。その背後には似た様な身形の若い官人がひとり控えている。彼等が刑務官なのだろう。

「あァ、帝の妃を寝取り掛けた柴門槍馬で間違いねェぜ」

 柴門は見覚えのある官人の顔を見ると、何かを噛み締める様に表情筋を微妙に緩ませた。その表情が語るのは、『屈辱』や『諦観』ではなく、『———』。

「では、柴門槍馬。この上にうつ伏せで寝転べ」

 柴門は指示された通り断腰台に腰掛けて、そのまま腹臥位になる。

 その動作に一切の横着はなかった。


 柴門は車輪の付いた断腰台に載せられて、会場まで運ばれる。会場は、尊海が走野老についての噂を広めた火葬場の近く。要するに火葬場周辺というのは、王宮で排出された屍体と死者の霊魂が集まる場所なのである。

 断腰台は車輪を外され、四本の脚は会場の留め金に寸分の余裕なくガッチリと固定された。これで断腰台は床と一体になった。

当然、柴門は断腰台で俎板の鯉状態にされている。

 首・手首・脚首の五カ所は鉄製の金具に摑まれ、一寸幅の鋼鉄の腰巻きが腰回りをキツく縛っている。そして、上半身と下半身を別つ刃は紙裁断機の要領で腰を噛み砕く位置に設置され、その刃が振り下ろせるだけの釁隙が鋼鉄の腰巻きに施されている。これで柴門は俎板で暴れることは愚か、微動さえもすることができない。

腰斬は刃を振り下ろす箇所が少しでもズレれば、刃は軟骨に滑り込まないため、腹側まで貫通せずに骨盤もしくは脊椎が刃を突き返す。つまり、微動の余地すらも与えないことは、腰斬を成功させるための重要な鍵なのである。

 すべての準備が完了した処で、横たわる柴門を衆人環視から隠していた垂れ幕が退けられる。三方を黒い陣幕で囲まれた空間のド真ん中に安置された柴門が曝された。

 その刹那———何とも形容し難い騒めきが会場中を席巻した。

 観衆は柴門の講義に出席していた女官が大半———彼女等は現実を直視できないと顔を覆う者、切り裂く様な悲鳴を上げる者、ただ只管に大声で喚く者と様々。この状況から分かる様に、女官の多くは未だに柴門の虜である様だ。

 また、疏らに見える官人は相識同士で固まり、腕組みをして観察眼を光らせている。当然、その中には柴門槍馬の元同僚である智嚢衆の面々や、歓迎の筵宴で見た顔も複数ある。

 そして、寝殿造で言う釣殿の様に処刑場に向かって突き出した渡り廻廊には、高貴な身分の方々が胡床に腰掛けている。中央は帝、その左右を緋色官人が囲う。その後ろでは王宮に所縁のある人物二名———博真と里花が立ち見で控えている。

 しかし、柴門の顔は断腰台の天板に強く押し付けられているため、観衆の様子は視界にまったく移り込まない。辛うじて生きている聴覚だけが、場の臨場感を音声として伝える。

 誰が悲しもうと、誰が失神しようと、誰が勝利の美酒を傾けようと、その表情は一切、柴門には伝わらない。

「これより、国賊———柴門槍馬の処刑を始める」

 高らかな宣誓は観衆をもう一度ざわつかせる。貴賓席に控える里花は、既に白眼を剥いて何度となく泡を吹いていた。そんな里花を片腕で支える博真は、眼の奥で爆発しそうな巨大な痼りを親指と人差し指二本で何とか押し込めようと、鼻骨を砕き兼ねない圧力を眉間に掛けている。

 柴門の不遜さや甘い好漢面に骨抜きにされた面々が深い懊悩に苦しんでいる間に、柴門槍馬の罪状が読み上げられた。

そして、慣例主義が示すがまま、着々と腰斬執行のための準備が進んで行く。形式だけみれば祭祀のそれと大差ないが、死刑執行独特の緊張感と重苦しさがある。

準備が進むにつれて、観衆達の騒めきは次第に収まって行く。目の前で人がひとり———それも王宮中を虜にした稀代の智嚢衆首座が、公開処刑に処されるというのだから、横の人間と会話をする心的余裕など徐々に削られて行く。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

そんな中、ある見知らぬ女官・甲が群衆から飛び出した。その後ろには、乙・丙・丁・戊と四人続く。

震える両手には血の滲んだ簪が握られていた。女官の持ち物の中で武器らしい物と言えば、簪くらいである。眼は彼岸花の様に血走り、肩は岩の様に角張っている。

「私達の柴門様がそんなことをする筈ないッ!!」乙が叫ぶ。「だから、早く私達の柴門様を解放してッ!!」戊も叫んだ。

 当然、その女官四人は直ぐ様、腕を腰に回して待機していた三人の衛兵に囲まれた。だが、その四人は反逆行為(テロ)を中止しようとはしない。簪を縦横無尽に振り回し、衛兵共に強制的に距離を取らせる。そして、十五寸(四メートル半)前で固定された柴門の載った断腰台に迫ろうとする。

「馬鹿!! 止めろッ!!」

 頓珍漢な文句で静止を促す男声が、断腰台と女官五人衆の間を割り込んだ。取り敢えず、女官の脚を一時的に留めることに成功する。

「この簪の先端には———草鳥頭(トリカブト)の毒が塗られているのよッ!!」

 それが外連(ブラフ)なのか、事実なのか分からない。女官が言う様に、その先端には液体が付着している様に見える。

しかし、衛兵は数的不利だからと言って躊躇いはしない。再び断腰台との距離を詰めようとした女官・甲の間に身体を滑り込ませ、耐切創腕を填めた腕で振動する簪を払い退ける。

簪を取り上げて仕舞えば、後は簡単だ。赤子の手を捻る様に瞬時に女官・甲を制圧する。甲が陥落すれば、乙・丙・丁・戊は背中を合わせて対抗姿勢を見せるが、為す術なく撃沈した。

「連れて行けェ!!」

 神経質そうな若い上級官人が衛兵の長に怒鳴り散らす。衛兵は女官の手首を縛った麻紐を強引に引っ張り、処刑会場から闖入者を排除した。

「これにて準備は整った。おい、柴門。最期に言い残すことはないか?」———ゴチャン

 今まで首を締め付けていた金属環が外され、柴門は背筋を鍛える体操の様に、首を背中側に反らせることができる様になった。しかし、両脚首と両手首は固定されたままであるから、城砦を飾る黄金の鯱の様にはなれない。

「フン」顎を断腰台に突き立てて、鼻息を散らす。

「今更命乞いなんてしねェよ、馬鹿馬鹿しい。さっき突撃してきた女官共はどういう処遇になるンだ? 俺がこの世で最期にできることッツたら、この俺様の肩を持つあの愚かな使い捨て共の命を絶やさねェことくらいだなオイ。俺に免じて鞭打ちくらいで勘弁して遣ってはくれねェかァ?」

「世迷言はそれだけで十分か、柴門槍馬。向こうには、お前を深く慕う者共———用心棒と師匠が控えているそうだが、連れて来て遣ろうか? 今生の別れさえも伝えさせて遣らないのは、柴門お前に一瞬でも籠絡された者として、明日の目覚めが悪くなりそうだからな」

「はァ? 赤の他人と死ぬ間際に喋る義理はねェぜェ?」

「一瞬でも智嚢衆首座であった者が、『人の将に死なんとする其の言や善し』の訓辞を知らぬか? 死ぬ間際の言葉には、駆引きなしの真実のみを籠めれ———」

「五月蠅ェなァ。うつ伏せの姿勢で顔上げるって結構しんどいンだぜ? さっさと息の根止めて、楽にして遣ってくれよなァ。これ以上の生殺しは御免だぜェ?」

「その豪胆さは天然物だな、柴門槍馬。それじゃお望み通り」熟年の官人はすぐに引き下がった。

 柴門は事もあろうか、腰斬を催促した。死ぬ運命は変えることができないのだからという諦めの境地に達したため、その様な発言が飛び出たのか。その割には、柴門の顔は挑戦的な微笑を湛えているが。何れにせよ、この柴門槍馬という男は最期まで不敵である。

 すると、陣幕を背にして待機していたもうひとりの官人が遣って来た。この陣幕内の作業は、老年と弱年の官人二人によってのみ進行している。

そして、柴門の太腿に被さる様に跨る。断腰台の向こう側———観衆側で屹立する、柴門を二分するための刃に手を掛けた。やはり、軟骨部分に刃を滑り込ませるとは言え、力を相当要するのか、柴門に最期の言葉を尋ねた官人は万歳の姿勢で固定されている柴門の両腕に臀を載せ、同じく手を掛ける。

そして、その刃を手前に徐々に引き倒す。

 キリキリと耳障りな金属の折衝音が耳の感覚を麻痺させる。肉切り包丁が豚肉を切り裂く際には、この様な不協和音は奏でない。その猟奇的な響きに多くの観衆が耳を塞いだ。

「ふぅ。痛ェな……景気良く行かンかッ!!」痺れを切らした柴門が怒鳴る。

 腹式呼吸で脇腹が膨張すると、また新たに鮮血がドッバッと吹き出す。実に惨い絵面である。

身体内部の堅い部分に突き当たったのか、刃の持ち手が南中時刻を数刻前に過ぎた太陽を指す位置で停止した。

「では……いくぞ」

 次の瞬間、二人の官人の全体重が刃を襲い———グシャッ———ガンッ

 人肉を切り裂く切断音、刃が断腰台を打ち鳴らす衝突音。

「ウッアァァッ!!」

 柴門槍馬の断末魔。そして、その背後で鳴る観衆の呻き声。

 大量の残響音がこの処刑場を支配した。

 観衆の多くは怖い物見たさなのか、刃が柴門の下腹部を剔る瞬間までは狂瀾怒濤の光景を網膜に映し出していたが、刹那空いて血が爆発すると堪らず眼を覆った。観衆は揃って、断腰台から眼を背けている。

 だから、痛みに悶えて頭が天に向かって反った光景も、手指足指が何かを摑もうと空気を掻く様子も、誰の眼にも映っていない。

「うっ……ウウッ…」低く柴門が唸る。

 腰斬は斬首の様に、胴体が断たれたとほぼ同時に絶命することはない。約数刻の間———脳に血が巡る間、地獄と等しき痛みに苦しみ藻掻きながら、血をゆっくりと吐き捨てて冥界に堕ちて行く。それこそが残虐刑である所以だった。

 そのため、痛みで気絶して仕舞った方が寧ろ楽に死ねる。

 しかし、残念ながら柴門は楽に死ぬことができなかった。持ち前の図太い神経は、柴門の感覚系が断たれることを拒んだのだ。

「ふぅ……ウゥ」

 柴門を切断した官人は容赦なかった。柴門の身体がふたつに切断されているかを確かめるために、もう一度刃を振り下ろした。

 あまりの惨い仕打ちに観衆は皆、絶句した。

 多重の残響音が占めていたこの空間には、瞬間的な寂寞が訪れた。

 その静かなる釁隙に、まるで凄腕の狙撃手の様に言葉を滑り込ませた男が居た。それは実に柴門槍馬であった。

「———『人の将に……死なん、とする…其の言や、善し』———里花の…ことは……絶対…ェに、悲しま…せねェよ」

 その言葉は観衆に届く筈がなかった。

 何故なら、幾ら静寂だろうと、血飛沫に塗れた光景に犯された観衆の脳は、耳が受け取る『雑音』を『言葉』として解析しないのだから。否。そもそも雑音が柴門の口から発せられたことさえも認識していないかも知れない。

 しかし、どういう訳だか里花だけは反応した。

 顔を博真の脇腹に埋めていた里花は、磁石の同極同士が弾く様に顔を突き放し、途端に破顔させた。里花だけには柴門の言葉が届いたのだ。

 それもその筈。

 柴門の言葉は、絶対に切り裂くことのできない『絆』という回路を通じて里花だけに宛てられた、秘密約束(ダイレクトメッセージ)だったのだから。

 しかし、眼の前に広がる光景と、里花の耳に届いた確かな秘密約束は大きく矛盾している。

 断腰台には、既に血液供給を断たれて動かなくなった下半身と、まだ辛うじて藻掻くことだけを許された上半身が、独立して転がっている。ふたつに切断された柴門は、南瓜の様に接木ができる訳でも、蜥蜴の様に尻尾が再生する訳でもない。

 柴門に残された運命は死に行くだけだ。

 里花を悲しませない———つまり、里花の前に、里花が望む形で再び姿を現すことなど、絶対に有り得ない。

 里花は幾ら眼を擦っても、幾ら頬を抓っても変わらない現実を眼の当たりにして、遂に幻聴が聞こえるまでに精神が狂って仕舞ったのだと思った。再びご主人様との冒険的な毎日を過ごしたいという欲望が、夢幻的な幻聴を引き起こしたに違いない、里花はそう整理した。

 そして暫くすると、柴門は指先や顳顬(こめかみ)さえも動かなくなった。拍動に合わせて血液が流れ出すこともなくなった。これにて柴門は絶命である。断腰台の下には直径一寸弱(三十センチ)の血沼ができていた。

 その後、柴門槍馬の屍体は溶鉱炉に投げ込まれ、骨さえも残らない灼熱の業火で焼かれた。


 その晩、悪魔の高笑いが王宮内を駆け巡った。



【第拾壱話 復活】

 王宮全体は追悼雰囲気(ムード)に包まれていた。

 柴門槍馬という男は上級妃に手を出したということで腰斬に処されたが、柴門槍馬の伝説的な人気は今も尚健在であった。

 女官は蝉の抜け殻の様に魂が抜け、意識せずとも目元は涙で湿り、折腰歩である。美人だが気の強い残念女官も空蝉の様であるから、軍部の盛り男共が『こんな薄幸の美人が居たのか』と二度見で振り返る。

 気の落ち込み様は帝が最も酷い。筆を手に取るとその度に『はぁ』と溜息を漏らし、肩が崩れる様に項垂れる。あまり良く眠れていないのか、青紫色の隈取りが両眼の輪郭を型取り、『疲れ』を青色として顔色で表現している。

———まさに、王宮全体として柴門槍馬の喪失を引き摺っていた。

 その一方で、勢い付いている勢力があった。それは、柴門に代わり智嚢衆首座に就任した一派———所謂、筵宴で柴門を訝しく見た敵対勢力であった。

二度も煮え湯を飲まされた銅鑼にも、柴門槍馬の没落により、智嚢衆首座に就任する絶好機が巡ってきたのだ。そして、棚から落ちてきた『三度目の正直という名の牡丹餅』をしっかりと受け取った銅鑼は、今現在、念願の智嚢衆首座として権勢を思いの儘にしている。

「陛下、天下は今日も太平でございます。それも陛下の徳故でござい———」

「……お諂諛(べっか)など要らぬ。フゥ、単刀直入に話せ。朕は……政務で忙しいのじゃ」

 帝は弱々しい叱責で、ある官人の言葉を退けた。今日も帝は物憂げな眼を細める。カコン———右手から筆が乾いた音を立てて桌子に落下した。

「失礼しました。先日、名も口にしたくない国賊によって未遂事件に巻き込まれた上級妃のことなのですが———」

「くどいぞ、貴様。朕以外の男を床に招いた妃に厳罰を下さぬというのは……実に不条理な話、じゃろ?」

「ですが、最高級文官位にであります智嚢衆首座の庇護にある妃を、中級妃とする判断も実に不条理ではないでしようか? 時流に乗って栄える家柄がそれ相応の待遇を受けなくては、血縁主義の意義が疑問視され兼ねません」

 この佞官は帝の言葉を揚げ足に取り、粘着質な言葉遣いで苦言を呈す。口から染み出す陰湿な笑みは、傍から見ていても嗚咽を誘う。

 この男が厭味を籠めて『血縁主義』を強調したのには理由がある。

 現帝は古き威風を断つべく、血縁主義を改め能力主義を推進した。その成果として、博真と柴門槍馬という有史以来の大賢者を皇帝の智嚢の片翼として迎えることができた。

しかし、その弊害は甚大であった。博真が指名した柴門槍馬という男が禁忌を犯したのだ。

 能力主義に懐疑的な意見を述べていた派閥は勿論、肯定的な意見を述べていた派閥までも、帝の能力主義路線を痛烈に批判した。能力主義は血縁という柵みに囚われることがない分、色眼鏡を外して優秀な人材を登用することが可能となる。その一方で、何処の馬の骨かも分からぬ者を登用することは、王宮内の秩序を脅かし、今回の様な事態を引き起こすことにも繋がる。

 帝の求心力の低下は明らかであった。

 その証拠がこの男の様な愚者の台頭である。能力主義批判することで帝から政治の操舵手の役目を奪い、帝の意思を黙殺して派閥に有利な主張を通す。その上、帝の対する口の利き方も容赦ない。

「血縁主義の否定は、皇帝位の正統性さえも脅かし兼ねないことを、努々お忘れなく。万世一系こそが、皇帝位最大の後ろ盾なのですから」

 帝には嘲弄する様な愚言を咎める気力など失せて仕舞った。何を映し出しているのか不明な朧眼を緩く閉じ、『考えて置こう…か』と意に反した言葉を呟く。

 柴門を失って以降、実に帝はこの男の傀儡状態にあった。この男が何かを申し出れば、針金虫に乗っ取ら(ジャックさ)れた蟷螂の様に、それに頷く他なかった。

「陛下に失礼な口を利くでない、今すぐに下がれッ!!」

 堪え切ることができなくなった最側近が、帝に代わってその男に譴責を飛ばす。

「大変失礼しました。今度、謁見の機会に預からせて頂く際は、御気分の宜しい時を選びましよう。今日は時機(タイミング)が悪かった。次回は陛下がお好きな酸奶(ヨーグルト)や乾酪(チーズ)でもお持ちしましようかね。それで歯切れ良い御返事が聞ける……そう考えるのは安直過ぎるでしようか。頓首死刑」

 その男は尋常でない捨て台詞で執務室から颯爽と抜け出して行った。

———傀儡と化した帝の御手を握るこの男、またの名前を銅鑼、そして本名を現智嚢衆首座・俊羅(ジュンラ)と言う。

 彼こそが、現在の王宮で権勢を縦(ほしいまま)にしている人物である。

 俊羅が去った後の執務室に残された人間は、帝と官人三人である。

 官人のひとりは先程、俊羅に怒鳴った弱年の官人であり、残りの二人は呆れる顔で眺めていた壮年の官人、落ち着いた印象ながら鼻をヒクつかせ怒りを堪えていた老年の官人。

 それぞれの名前を順に、順然(シュンネン)・鎗嵐(ビャオラン)・紫釉(シユウ)と言う。

 三人の中で年中に当たる鎗嵐が、酷く参った様子の帝に声を掛ける。

「随分と演技が板に付いてきたじゃねェか。俺の演技指導も中々だっただろォ?」

 この聞き覚えのある挑発的な口調。この『俺』という特徴的な一人称。

———柴門槍馬だ。どういう訳だか、姿こそ違えど、柴門槍馬がそこに居るのである。

「なぁ、柴門。何時まで朕はあの小童に振り回されぬとならぬのじゃ?」

 しかし、帝の顔には驚きの表情はない。極当たり前として接している。

「有難く酸奶と乾酪を戴くまでにして置くかァ? まァ、殆ど準備は整ってるからよォ、何時でも構わねェぜ?」

「酸奶と乾酪の毒味は貴様が遣れよ。じゃが、あの佞官の吠え面、早くこの眼で拝みたいものじゃ」

「そうだな。奴の沸騰した血が不味くならねェ内に、さっさと狩るに越した事はねェな」

「……ほう、成程。朕が惚れ込んだのは、貴様の斬れ味鋭い文句じゃよ。あの小童のそれはただ腹が立つばかり。斬られた後の爽快感がまったくないわい」

「斬られて悦ぶとは、随分イカれた趣味してやがる、相変わらず。気の強い嬢王様型(タイプ)が好みってンなら、あの悲劇の女主人公(ヒロイン)気取りの妃は好みじゃねェ訳だ。『私は見知らぬ男に言い寄られた不幸な女です』ってか? 淑女然としてる女は悪くねェと思うがな、庇護欲を掻き立てるからなァ」

「なぁ、柴門。朕はあの小童が言う様に、あの妃は上級妃に据え置く他、術がないのかのぉ?」

「あの如何様姫なんて、俊羅一族の庇護を失ったら、ただの寵の薄い後宮妃Aだろ? 俊羅を抹殺すると同時に掃除が完了する、塵のひとつに過ぎねェンだから。第一、帝が好む胸囲には足りねェ夏蜜柑大(サイズ)なんだろォ?」

「うむ。豊満な方が壮観じゃし、色々と便利じゃからのぉ。それにあの翡翠の眼はどうにも苦手でのぉ。先帝はその翡翠の眼を大層気に入ったそうじゃが。———フン。にしても、相変わらず譬えがドギツイのぉ。如何にして俊羅を殺り籠めるか知らぬが、期待して居るぞ」

「だから、俺はもう柴門じゃねェぞ。柴門なんツウ国賊は、この世に居ねェことになってるンだからなァ」

「失礼した、鎗嵐。これからも朕をその智能で楽しませてくれ給え」

 鎗嵐は返事を聞かぬまま、奥へと退いた。それを暖かい眼で見送り、柴門の姿が見えなくなった処で鼻を鳴らす。

「フン、彼奴(きゃつ)らしい。それにしても奴は用意周到に朕を楽しませてくれたわい。奇術で朕を魅了するだけでなく、秘めたる願いさえも叶えるとはのぉ」

そして、帝・紫釉・順然は柴門の復活劇を回想した。


 時は走野老の一件に遡る。

 柴門は敵対勢力を炙り出し、噛み付かせることに成功した。それが走野老・蕗之薹混入事件であった。

 この事件から柴門は『宣戦布告』と『牽制攻撃』のふたつの含意(インヴィジブル・メッセージ)を読み取った。となると、柴門が取るべき行動は相手の癇癪をより刺激する『陽動』と、来るべき決戦に向けた『準備』である。

 柴門は『陽動』として、勉強会の会場を拡張することで、更なる集客を可能とした。その甲斐あってか、柴門の周囲では不審事が連発した。これで餌に喰い付いた獲物の喉に毒針を喰い込ませることに成功したのである。

 柴門は『準備』として、ある錬丹術師———燈炎を頼りとした。彼を頼った訳は、ある確度の高い推測に基づいていた。

 時流に乗って時代を謳歌する者を陥れる手段は限られている。

 であるから、柴門は手が打ち易かった。

 であるから、柴門が『讒言』を想定していない訳がなかった。———古代より幾度となく使用され擦られてきた超古典なのだから。

 例を挙げれば際限がない。文人官僚として名を馳せた菅原道真が藤原時平の讒言により太宰府に飛ばされた———『昌泰の変』。鎌倉殿を背後より支えた梶原景時が多くの御家人の讒言により鎌倉から追討された———『景時の変』。

 卓越した智能を武器に為政者に奉仕した権力者は、理不尽な讒言を受けて追い込まれているのだ。柴門もその例に漏れる筈がない。

 しかし、柴門槍馬という超越者は讒言に敗れ去ったとは一線を画していた。

 讒言を受けることを智嚢衆に就任したその瞬間から予期し、喰い込ませた毒針に毒を注ぎ込む準備を着々と進めて行った。

 そして、走野老・蕗之薹事件が発生した次の瞬間から、柴門は構想を練っていた計画を始動させた。それこそが、来るべき決戦に向けた『準備』である。

 反撃の狼煙・第一弾は、選り優り錬丹術師に処刑器具を製作させることだった。そのために、柴門は勉強会で才覚ある錬丹術師を見付けるべく、意味有り気に参考文献を紹介した。そして釣れた錬丹術師こそ、燈炎である。

 柴門は彼に、『上半身部分が柴門、下半身部分が別人となる』仕掛けを施した腰斬器具を造る様に命じた。

 うつ伏せに寝た柴門は腰より下を断腰台に開けられた穴より垂らし、下半身部分を別人に担当させた。つまり、断腰台の下には、柴門の臀以下と別人の腰以上が収納されていることになる。

 しかし、腰斬現場に立ち会った観衆の中で、断腰台の下から生える柴門の脚と別人の上半身を目撃した者は誰ひとりと居なかった。断腰台の下に生えていた物というと、四隅を支える四本の脚だけである。それを隠す仕掛けこそ、今回使用した大道具の肝であった。

 断腰台の下に二枚の玻璃鏡を、観衆に対して凸向きに開いた書籍の様に設置したのだ。

 この二枚の玻璃鏡は左右に貼られた陣幕を映す。そのため、観衆からは断腰台の下には何もない様に———断腰台の下にも背後の陣幕が続いている様に見えるのだ。

 この手法は生首奇術(マジック)で使われることが多い。柴門はその手法(アイデア)を拝借したのだ。

 そして、柴門の上半身と別人の下半身の間を通る様に、刃を調整する。刃を下ろした際に血飛沫が飛び散る様に、両者の間に血糊の込めた腸詰を複数挟み、下半身役の別人に血糊を地面に撒かせた。

 しかし、この奇術を成功させるには整った環境が必要であった。

 数ある条件の内、欠かせない条件が、処刑現場の背後と左右を統一色の陣幕で覆うこと。また、玻璃鏡が不自然な映像を写してはならないということも、この奇術を成功させる重要な鍵となる。

 であるから、女官四人衆が乱入した時には、柴門は大変肝を冷やした。衛兵が迅速に対応し、陣幕が囲む範囲内に立ち入らせなかったことは莫大な功績であった。

 その上、玻璃鏡の背後を官人が通り掛かってはならない。仮に通り掛かったならば、下半身不在の殭屍(キョンシー)が出現して仕舞う。当然、斜め前方の陣幕を映す二枚の玻璃鏡の前に立ち入ってはならない。然もなくば、断腰台の前に上半身透明人間が出現することになる。

 と、この様にこの大奇術は様々と制約が多いのである。

「これ程、難易度の高い奇術を良く成功させたよのぉ。もし失敗でもしたら、どうする腹積もりじゃったんじゃろうか?」帝は首を斜めにすると、投げた疑問に自身の言葉で解を与える。『「失敗する運命なんぞ見えてねェぜ?」くらい言って退けそうじゃが』

「でしようね。鎗嵐様は何時でも大胆不敵ですからね」

「朕が腰斬を認めぬ場合は、得意の辯説で無理遣りにでも腰斬になる様に仕向けたじゃろうのぉ」

 紫釉が皺の横切る額を撫でながら、そっと添える。『その展開も気になる。突飛な奇術で陛下を瞞したに違いないが』一同、首を何度も上下させた。

 では、断腰台の大奇術をどの様にして成功への導いたのだろうか。帝はその点についても、高く賞讃する。

「断腰台の奇術は勿論じゃが、隠し文字の術を圧巻じゃった。朕がその仕掛けに気付かなければ、柴門はこの世には居らぬと思うと背筋が凍るがのぉ」

 成功への布石は『辯明文』にあった。

 柴門は皇帝に対して起訴内容の辯明を行う書簡———辯明文に、暗号と秘密文書を施した。それは以下の通りである。

 柴門は帝に秘密文書の存在を気付かせるために、縦書き書簡の各行の末字を横読みすると、『水に濡らし炙れ』という意となる様に設えた。

「『擡頭』の技法でも舌を巻くというのに、柴門は横読みで秘密文書の存在を知らせて来るとは、魂消たものじゃ。奴の頭脳は殿試受験生を軽々に凌駕するわい」

 『擡頭』とは、上奏文における厳格な形式のひとつであり、殿上人である皇帝をどの文字よりも高く表記するために、各行の頭二文字を下げる技法である。行の途中で皇帝を指す言葉が登場する場合は改行しなくてはならないが、それでは空白が生まれて見た目が美しくない。そこで、『五行目と九行目の冒頭に「皇帝」を意味する語句が来ると良い』という不文律が誕生した。

 その様な上奏文を作成すべく、殿試受験生は二日間に渡って不眠不休で脳漿を絞るが、柴門は似た技巧を凝らした辯明文をたったの半日で完成させたのだ。これは科挙突破者を凌ぐ実力の証明に相応しい。

 その上、秘密文書の仕掛けは実に秀逸であった。

「鎗嵐様は夜宴で葡萄酒に浮き出る文字を披露して下さいましたが、まだ奥の手がありましたとは。あの追い込まれた状況で、妙妙たる秘策を繰り出せることが実に素晴らしいです」

「炙り出しはまだしも、大豆以外であの仕掛けを完成させるとは、鎗嵐殿の知識は無限大だ」

 柴門は夜宴で大豆の煮汁を使って文字を書いた謁を羅新に渡した。その謁には仕掛けがあり、葡萄酒に浸すと氏名が葡萄色(えびいろ)で浮き上がった。

 大豆には親水性の界面活性剤———レシチンやサポニンが含まれているため、大豆の煮汁を塗った部分は水分を良く染み込むのである。

 それらの成分は大豆にだけ含まれている物ではない。大根や高麗人参などの根菜類にも豊富に含まれているのだ。それを知っていた柴門は、秋刀魚の塩焼きを最後の晩餐として注文し、何の不自然さを孕むことなく大根おろしを持って来させた。

「しかし、柴門は秋刀魚の塩焼きという上手い晩餐を思い付いたものじゃ。薬味を余すところなく利用するとはのぉ」

「誰も饗膳の食材を使って奇術を見せるとは、誰も思わん。鎗嵐殿には如何なる遊び道具も与えてはならぬかも知れん」

「やはり鎗嵐様を飼い慣らすというのは無理なのでしよう。鎗嵐様は天災と同じですよ」

 一同は再び頷いた。

 柴門は秋刀魚の塩焼きの付け合せとして、大根おろしだけでなく檸檬も注文した。櫛形切りの檸檬三欠片も、余す処なく仕掛けに組み込んだ。檸檬汁で炙り出しを行ったのである。

 つまり、柴門は饗膳から手に入る二種類の『不可視洋墨(インヴィジブル・インク)』を巧みに使用して、秘密文書を仕込んだのである。

その文書には柴門が頼った錬丹術師の元へ行く様にという指令(加えて、この秘密計画の厳守義務)が書かれており、実際にその錬丹術師を訪れた帝の最側近が、権謀術数の全貌と腰斬奇術の注意点を指導された。そして当然の様に、柴門の現場不在証明(アリバイ)が証言され、柴門の嫌疑は晴れた。

辯明文が帝の元に届いた時間が処刑前日の晨夜だったことを思うと、帝の対応は極めて迅速であった。帝は不眠で対応に当たったのである。

「柴門が計画の全貌を知るべき人物は必要最低限の三人に限定する、と制限を掛けるからのぉ、実に難儀じゃった。下半身役は例の練丹術師に任せるとして、処刑役を紫釉と順然で回すというのは、幾ら何でも———」

「鎗嵐殿は計画の漏洩を嫌ったのだろう。関わる人数が増える程、襤褸は生じ易くなるから」

「そうじゃが……柴門はもう少し他人を信用しても良いのではないじゃろうか?」

「陛下。お言葉だが、陛下がその様に思うのは、陛下が常に人を信用する人徳の良さ故。鎗嵐殿が関係者を極限まで減らしたが理由も良く分かる。鎗嵐殿は大胆に見えて、頑丈な石橋さえも叩いて渡る慎重派なのだ」

「抜かりのない名策士というのは、鎗嵐様の様な人物を指すのでしよう。腰斬奇術の様な大胆な仕掛けで敵の眼を欺き、闖入者を予期して衛兵を配置する辺り、流石の読みです」

「そうじゃな。『陣幕内に闖入者を立ち入らせでもしたら、お前等の命はない』そう衛兵を脅せとのことじゃったのぉ。相変わらず、容赦ない。衛兵共だけじゃのぉて、柴門の命まで失くなることになり兼ねぬからのぉ」

 帝は斜め右上に眼を遣り、

「あの場面は優秀な衛兵が取り押さえたから難を逃れたが、朕は柴門の読みに舌を巻きつつ、緊張でその舌を噛み切りそうじゃったわい」

「鎗嵐殿という策士は、敵に回すと実に恐ろしい。如何なる作戦をも先回りされて仕舞いそうだ」

「間違いない。味方とする分にも扱いに苦慮しなくもないがのぉ、心強いことこの上ないわい」

 執務室で帝・紫釉・順然が柴門談義に明け暮れる中、柴門は反逆の一手を繰り出そうとしていた。



【第拾弐話 天誅】

 柴門は公には死んだことになっている。

 そのため、柴門は以前の様に勉強会を開くことは勿論、里花や尊海を伴って王宮内を散策することもできない。この世に存在しない別人に変装して、柴門は生活しているのである。

そもそも、里花や尊海さえも柴門が生きていることを知らない。里花はご主人様を失った悲しみから立ち直りつつあり、海霞の元で下級女官として扱かれている様だ。

柴門が生きていることを知っているのは、この数万の人口を抱える王宮の中でたったの五人。帝と、帝の最側近である紫釉と順然、そして錬丹術師の燈炎とその弟子である。

「ふわぁぁぁあ」

 気の抜けた欠伸声が執務室に響いた。

 その声の主は柴門槍馬改め、鎗嵐であった。

「おい柴門。貴様は朕が政務に励んでいる中、ひとり寛ぎ居って申し訳ないと思わぬのか?」

 柴門は背中を預けていた上等な寝椅子(カウチ)から半身を起こし、寝惚け眼を擦る。

「変装ってのは意外に疲れるンだよ。勉強会なんか開いち舞ったせいで俺の顔も声も売れてるから様、髭剃って鬘被っての上に声質まで変えなきゃならンってなると、かなりキツいぜェ? その上、慣れねェ敬語に上品な仕草、ムカつく上官への媚売りと何でも御座れだから、堅苦しくってなァ。こうして寛ぎでもしねェと、気が狂っち舞う」

 柴門は容姿を変えるために、腹には布を籠め四肢には布を巻き、恰幅の良い男性を演じている。であるから、その印象に合う様な口遣い———温厚かつ寛容、や身形———薄ら禿げの脂性、に努めている。

 柴門は身バレに関して、かなり神経を尖らせているのだ。

「そうかそうか。それならこの際、敬語を標準語(デフォルト)にしてはどうか?」

「あァ? 俺の自己同一性(アイデンティティ)をぶっ殺す気かァ? 死んでも御免だ」

「実に貴様らしい返答じゃ。それはそうと、此処で何時も医学書片手に寛いで居るが、小童を駆逐する策略とやらは順調に進んで居るのか?」

 徐々に苛立ち始めた帝。しかし、柴門は何も躊躇わない。

「俺がそんな無能に見えるかァ? あとは、そうだな———『果報は寝て待て』だ」

 俊羅の周囲では怪奇事件が多発していた。

 草花に水を与えたその瞬間、草花が突然燃え出す。邸宅の小屋が雨天の翌日に焼け落ちる。獅子脅し付きの水瓶の水が血色に染まる。厠で用を足した後、水が血色に染まる、などなど。

 この様な、『火』と『血』を連想させる怪奇現象が連発していた。

俊羅はこれらの事態に完全に参っている様子だ。智嚢衆の定例会議に出席することもなくなり、蒼頭を取次ぎ役として遣わすばかりの引き籠もりになった。

「最近、俊羅の回りで不審事が多発しているという噂を聞くが、それも柴門が一枚噛んで居るのか?」

「あァ勿論。この俺を讒言して貶めようと考える奴なんぞ、智嚢衆首座の地位を寸での処で掻っ攫われたあの銅鑼に違いねェからなァ。それに、あの俺に寝取られたとか嘘吐いた妃は、銅鑼一家と因縁があるみたいじゃねェか?」

「らしいのぉ。朕も紫釉から聞いたのじゃが———」

 帝が言うには、先帝の寵愛を最も受けた寵妃———件の妃の親戚筋に当たる———は、既に亡くなっている様だ。そのため、権力基盤はやや希薄になりつつあった。そこで頼った権力がその当時、権勢の絶頂にあった前々智嚢衆首座の家系であった。

 先帝が重用していた前々智嚢衆首座の家系は、血筋として優れてはいなかった。そこで、件の妃は高貴な血筋を交換条件として銅鑼に差し出し、銅鑼はその権力で妃を庇護したのである。お互いが足りない正統性を補った形であった。

 柴門はその説明を聞いて、大きく唸りを上げる。

「こりゃ面倒な密約が交わされたこった。銅鑼は……というか、今回の讒言を指南した影武者が、帝の通いが乏しい件の妃を悲劇の女主人公(ヒロイン)に仕立て上げりゃ、帝を振り向くンじゃねェかって想定した訳か。俺が失墜し、帝の政治路線が批判を浴びれば、俊羅の家柄に権力が集まる。だから、件の妃の背後権力も強まるから、帝の寵妃となることは間違いねェ、そう発破掛けたンかもなァ」

「朕も貴様の読みに賛同じゃ」

「帝が不幸な自分に酔い知れる媚態女に興味を示さねェことくらい、この作戦を組み立てる前に調べて置けってンだ。色仕掛けする相手の趣味を知らねェで、胸を痛めて眉を顰めるとは、実に間抜けなモンだ」

「まったくだ。そもそも幼女趣味の貴様が、朕の趣味を取り揃えた後宮妃を襲う筈があるまい。朕が柴門が寝取る筈ないと心の何処かで信じていたのは、この違和感があったからに違いない」

「そうだな。そうも簡単に女の色香に惑わされるようじゃ、三十年間も童貞遣ってねェぜェ? だがよォ、帝が俺に色々と猶予を与えてくれたのは、その違和感のお陰かも知れねェなァ。まァ、ただ帝が俺のこと好き過ぎて諦め切れなかっただけ———」

「あぁそうじゃ。その通りじゃ。貴様の今があるのは朕の『甘さ』故じゃぞ? 柴門、以前申して居ったではないか。生殺与奪の権は朕が握って置くべきじゃと、つまり、柴門の首は何時でも落とせるのじゃぞ?」

「脅しになってねェぜ? 死刑囚だった俺に執行方法を尋ねて、その上最後の晩餐まで用意する、そんな死刑囚に優し過ぎる皇帝なんぞ聞いたことがねェ」

「じゃのぉ」

「こりゃ、帝が俺に属魂なお陰で、色んな悪戯を仕掛けても当分首は飛びそうにねェなこりゃ。不死の霊薬と併せて、良い免罪符になりそうだなオイ」

「そりゃ困るわい」

 帝は満更でもない笑みを浮かべていた。

 俊羅が怪奇事件に悩まされているという噂は、女官等の逞しい想像力によって尾鰭が付けられていた。

 何時も事実を脚色するばかりの女官等による噂は、今回に限っては、事実を真実へと近付けていた。というのは、ある頭の切れる女官が、件の妃と俊羅の関係性と俊羅と柴門槍馬の関係性の相互を結び付けたのである。

 つまり、柴門が腰斬に処されたのは、俊羅による陰謀が背後で蠢いていたのではないか———政敵を蹴落とすための『讒言』が成されたからではないか、という噂が立ったのだ。

「柴門様は、あの厭味親爺の讒言で殺されたに違いないわ」

「きっとそうに違いないわ。あの聖人君子な柴門様が、後宮妃を襲うことなんて考えられませんもの」

「私もそう思いますわ。私達の柴門様はそんな端無いことをする筈がありません」

「だから私思うの。銅鑼の回りで起きている怪奇事件は柴門様の祟りよきっと」

「間違いない。私達の柴門様を死に追い遣ったのだから、祟られて当然よ」

「私、あの銅鑼が我が物顔で首座の地位に居ることが許せないの。首座の位は柴門様しか勝たん」

「あの銅鑼、以前から大嫌いなの。余り大きな声では言えないけれど、柴門様の祟りで寝込んでいるらしいから、清清するわ」

「そうね、私も同感だわ。でも、あれだけ素晴らしいお方が亡くなられて仕舞うなんて、幾ら何でも残念過ぎます」

「でもね、私。あの頭が切れる柴門様なら何処かで生きているんじゃないかって思うの。そうでも思わないと、私があの銅鑼を呪い殺しそうよ」

 この様に、柴門槍馬は死したことで、絶大な人気を高めると同時に、俊羅による讒言説の信憑性が益々高まっていた。

「こら、駄目じゃないか噂ばかりしていては。そういう噂は確かに楽しいものじゃが、仕事の手を止めて仕舞ってはならぬ。夕餉の時にでもたっぷりとすれば良い」

 ある恰幅の良い官人が噂話に興じる女官等を優しく諭した。腹は嬰児を孕んでいるのではないかという程膨れ、肉付きの良い身体は燃焼効率が悪いのか、額には脂汗が浮いている。

 擁わりとお叱りを受けた女官等は、再び釦鈕(スイッチ)を入れて洗濯物を擦り、乾し布団を籐(ラタン)で叩く。

 この官人は最近、女官が王宮の裏仕事に精を出す上駟院に出没するようになった。緋色の冠を見るに、高級官僚であることは間違いないが、出没する時間が不規則な上に何時も暇そうにしている。女官の間では『無能な余り、与えられる仕事がないのかしら』と専ら噂である。

「そこのお嬢ちゃん、ちょっと良いかね。暫く逢っていない女子に渡して喜ぶ物は、一体どんな物じゃろうか? 儂には女心という物が分からなくてね」

 石鹸豆を石臼で磨り潰していた女官が振り返る。

「えっと、妾への贈り物……それとも、妓女の身請けですか?」

「うむ。どちらでもないのぉ。相手の齢は丁度お前さんくらいじゃと思う」そう言うと、重そうな体軀を揺すって縁側に腰掛ける。

「もしかして、お孫さんですか?」

「そうじゃのぉ。半分正解かのぉ。まぁ、儂のことが大好きな女子じゃよ。儂も彼女のことが大好きじゃが……如何せん流行り趣味に疎い上に、贈り物の感性(センス)は死んで居るからのぉ」

 その女官は顔を顰めるが、失礼があってはならないと首を三度横に振る。この巨漢の官人は、達磨の様な見た目をしているからこそ女子の黄色い声を誘いはしないが、実に優しそうな人柄が女官受けしている。偶に珍しい食べ物———特に美味しい野生の果実を持って来るから、毛嫌いする理由など何処にもない。

「そうですね。若い女官の間では、鳳仙花の爪紅や紅藍花の口紅、それに南都産の石黛なんかも人気です。私達くらいの年齢の子は皆、大人に憧れて化粧を為出す頃ですから」

「成程。じゃが、消耗品でない方が良い。できれば手元に残り続ける様な———」

「それなら、この付属品(アクセサリー)なんて如何でしよう?」

 顔を横に向けて髪を手繰し上げ、脰(うなじ)を露出させる。すると覗いた耳朶には綺麗な色の蜻蛉玉が吊り下がっていた。それをこの官人は、片眼鏡(モノクル)の角度を傾けて凝視する。

「女官界隈ではこれがとても流行っていましてね。珥(ピアス)穴を空けていない女官は殆ど居りません」

「あの娘の耳に穴を空けるというのは、些か躊躇われる。どうせ痛いのじゃろ? それ以外に今時のお洒落道具(グッズ)はないのかね?」

「痛いのは一瞬ですが。……まぁ、その他になりますと、例えば首飾りなんてどうでしよう? 私達には高価で手が出せませんが。首飾りに填める珠の石言葉に想いを籠めれば、御相手の方にお気持ちを伝えることができますし」

「成程。それは良い!! じゃが、その首飾りは何処で手に入れるのじゃ?」

「城外の市場に出向けば手に入るかと。ですが、私達は城外に出る機会は殆どありません故、年に三度の遊園会の際に遣って来る商隊(キャラバン)から購入することが多いですね。商隊の方達は西方の珍しい珠をお持ちになりますから、きっとぴったりな石言葉が見付かりますよ。……あっ、そうだ。殿方が身に付けられても違和感のない首飾りも御座いますから、お揃いにしては如何でしよう? 女という生き物は『お揃い』という言葉に敏感ですから」

「おぉ!! それは良いことを聞いた。明日遣って来る時は、今日のお礼として飛び切りの包子を持って来よう」

「うわぁ! 楽しみにして居ります!!」愛想の良い女官は破顔した。

「裏方仕事も大変じゃろうから、せめてもの犒いじゃ。茶でも沸かして一服休憩するのもありじゃが、噂話に夢中になって仕事を懈怠るのは宜しくない。仕事には精を出し、疲れた時にはしっかり休憩を摂る。それが良い。———それじゃあ、頑張り給え」

 巨漢の官人は胸元をパタパタと煽ぎ、蹌踉めきながら上体を起こす。そして、深々と頭を下げる女官等に一瞥を投げつつ、お腹を抱える様にして縁側を後にした。『勘の良い女官には気を付けねェとなァ』

 柴門は王宮御用達である錬丹術師の元を訪れていた。そう、腰斬奇術で世話になった燈炎である。

「なぁ、柴門の旦那。薬品の戸棚から指示薬やら薬品やら消えて居るンだが、心当たりねェですかい? それに最近、痴呆症が酷いのか、薬品の並び位置が覚えられなくなって仕舞ったみたいで様。オイラ、有り得ねェ場所から失くした筈の薬品が出てきた時ァ、魂消たで御座ェやす」

 燈炎は口に含まれた護謨(ガム)を厭らしくクチャクチャと咀嚼しながら、ネチネチと柴門に突っ掛かる。

 田舎訛りっぽく品のない喋り口調こそが燈炎の特徴である。見た目の田舎者そのままで、歩き方も猫背でコソ泥の様である。『邯鄲の歩み』という言葉の由来にこの男は当て嵌まらない、外見など一切気に留めない変わり者、それが燈炎である。

「そりゃ困ったなオイ。痴呆症は錬丹術師からしちゃァ相当な痛手だろうから、大きな過ち(ミス)を起こしてねェ今のうちに、御用錬丹術師の看板下ろしたらどォだァ? それだけ稼いでりゃ、老後は妓楼通いを満喫できるだろうよォ」

「それも悪くねェでごわす。だがよォ、変なんですぜェ、柴門の旦那。失くした薬品が何なのか、はっきり分かるンですよォ? 例えば———」

 柴門は手を万歳して高笑いする。降参の印の様だ。

「バレるよなそりゃ」

「オイラに秘密で遣る必要はなかったンじゃねェですかい? 幾らでも手伝いやしたのに。それにしても、柴門の旦那の秘密主義は実に困ったモンですたい」

 柴門は俊羅の周辺で起きている怪奇事件の首謀者であると帝に打ち明けたが、怪奇事件を起こすために必要な道具を、燈炎が管轄する薬品保管庫より拝借していたのだった。

 例えば、草花の発火は、水に濡れると発熱する生石灰の性質を利用したもので、草花の肥料に含まれる木炭が自然発火温度を超えれば、草花が火を噴いた様に見える。また、血色に染まる水瓶は、酸や塩基と反応して赤く染まる指示薬を利用したのだった。

「柴門の旦那は、種も仕掛けもある怪奇事件なんか起こして、一体何がしたいンですかい?」

「俺を嵌めようとした不届き者に鉄槌を下して遣ろう、そういう魂胆だ。いきなり甚振るンじゃのォて、多少炙って遣るから料理するのが礼儀ってモンだろォ?」

「その方が精神病質(サイコパス)染みてますぜェ、旦那」

「オイ、燈炎。例の物は完成してるかァ? 鉄は熱い内に打つべし。帝の御期待に応えて、今夜決行して遣ろうじゃねェか!!」

「勿論でごわす。彼方(アッチ)に御座ェやす」

 そう言って、実験資料と書籍で足の踏み場もない床を踏み付けて、奥の鍵付倉庫へと消えて行った。


 その晩。

 満月が夜空に打ち上がり、静寂の象徴として月下界を見下ろす頃。

 柴門と燈炎は俊羅の邸宅に忍び込んでいた。

俊羅の屋敷には化け物が棲み着いている、屋敷の敷地に踏み込むと柴門の祟りに苛まれる、そんな噂が人払いするお陰で、容易に侵入することができた。

「にしてもこの屋敷、馬鹿デカいなァオイ。汚ェ金で建てた屋敷は穢らわしくて堪らんわァ」

「柴門の旦那。早いトコ、殺っちゃいやしようぜェ」

「あァそうだな。こんな汚屋敷に長居する意味はねェからなァ」

 そう柴門が小声で合図すると、燈炎は風呂敷包みの様な背嚢から、何重もの柔布で覆われた塊を取り出す。柔布を解くと現れた物は、この時代にそぐわない金属製の機械類(メカ)であった。

 その機械類とは———幻灯機(ファンタスマゴリー)である。

 大きさは小脇に抱えることができる猫程度であり、顕微鏡の鏡筒と砲台の銃身を組み合わせた様な形状(フォルム)に見える。

 構造としては至って単純(シンプル)である。

 幻灯機の重心には紅燭灯(ランプ)が据えられ、その直上から生える鏡筒が煙突代わりとなっている。銃身の根元部分には硝子製の陰画(ネガ)を差し込む隙間があり、銃身の先に取り付けられた透鏡(レンズ)が、紅燭灯に染められた陰画を幕や壁面に映し出す役目を買っている。

 つまり、幻灯機は電気を必要としない原始的な映写機なのである。

 しかし、原始的であるからこそ都合の良い部分もある。曖昧(あやふや)な映像は、それを幽霊の類いであると思い込ませるには持って来いなのである。技術力の低さが映像を幽霊たら使めるのだ。

 それに今回、柴門が作成依頼をした陰画は通常とは異なる白黒描画の白抜きであるから、画角が映し出されることは一切ない。そんな陰画を複数枚用意させたため、壁に憑依した柴門の亡霊は姿を変えることさえ可能だ。

「流石の完成度だな燈炎。錬丹術師ってこういうモン製作すンのって得意なんか?」

「まァ、実験器具を自作しなくちゃならねェことが多いですけん、慣れてねェことはないでごわすねェ」

「成程。何に使うかも分からねェいかがわしい道具を外注できる専門業者なんて、そう居る訳もねェな。それに、お前さんは随分と変わり者だからよォ、友好範囲が猫の額だろうからなァ」

「ハハッ。柴門の旦那、御自分にも打撃(ダメージ)効いてやいませんかい? 指摘して置いて、オイラに嫉妬してる自分が虚しくなりやしませんかい?」

「五月蠅ェ、俺のそれは少数精鋭部隊なだけだ。表面だけを取り繕って夜鷹の如く愛想振り撒く、似非博愛主義者よりかはマシだッツウ自負はあるぜェ? そんなことより陰画を見せてみろ。其奴の完成度次第じゃお前、縁切るからなァ?」

「少々お待ちを。オイラの数居る友人のひとり、優秀な御用絵師に陰画は発注しましたから、出来は完璧ですぜェ?」

「厭味は要らん。さっさと見せやがれ。……オイ燈炎。その御用絵師にはタンマリ駄賃払っただろうなァ? 王昭君如く、醜く描かれたモンじゃ堪らねェからなァ」

 柴門は硝子製の陰画(ネガ)に、自身の姿見を描くようにと指示を出していた。というのは、讒言と偽証により死罪へと追い遣った筈の柴門が俊羅の前におどろおどろしい姿で現れれば、それを柴門の亡霊と思い込むだろう、そして一連の不審事を柴門の祟りだと考えるだろう、そういう単純な趣意である。

「そこは問題ないですぜェ? 金持ちには眼がない筈の遊女さえ金を払ってまで追い払う、そうとまで謳われたオイラの顔をたったの一杯の酒で、見るに堪え得る肖像画にして魅せた器量ですから、王宮随一の腕と言っても過言ではないですたい。まァ、かなりの捻くれ者な上に呑兵衛な彼奴に絵を描かせることは至難の業ですがな、高い酒と肴を持って行けば上機嫌で描いてくれますぜェ。特にオイラみてェなお人好しに———」

「んじゃあ、守秘義務に関しては無問題と考えて———」

「そうですねェ。彼奴はオイラと違って殆ど友達が居ないですからねェ。宦官如く、漏れ様にも漏らすための管がねェで———」

「ったく。お前さんはすぐ下世話ネタに繋げやがる」柴門は渡された陰画を月明かりに当て、完成度の高さを確認する。そして、それを何も言わずに不躾に押し付けた。文句を言わないということは、『上出来』ということなのだろう、燈炎はそう受け止めた。

 と、二人の掛け合いには、緊張感や恐怖感などの政敵との対戦を控えた者が持つべき感情、それらの一切が微塵も感じられない。

 それもその筈、この屋敷の一族と使用人は勿論、馬や飼い犬まで麻薬を嗅がせて眠らせてあるのだから。それに、燈炎はブツブツと呟きながら、人払いに効果的という呪詛を唱えていた。後者の効き目は扨置き、対策を打った柴門は余裕綽綽なのだ。

「なァ、柴門の旦那。張り詰めた緊張感ってのは嫌いなのですかい? こんなにも良く騒ぐ剣客は聞いたことありやせん」

「馬鹿野郎。俺は殺しはしねェよ。首を絞めるお手伝いをして遣るだけ。飽くまでも首を絞めるのは奴、俊羅の意思だ。それに、この屋敷で今意識があるのは、そこで鑛に包まって脅えてる俊羅くれェだから、多少騒いだ処で大丈夫だろォよォ」

 柴門等は俊羅が引き籠もる寝殿の前で戯け合っている。そして、柴門は寝殿の中央間、引き戸の内部を指差した。

 燈炎は呆れた様に、文句を口遊む。

「まさか、眠らせて来たンじゃねェですかい?」

「薬品庫の丙棚二段目、右から五つ目の薬品を拝借させて貰ったンだが———」

「あァ、何てことしやがるンですかい!! 彼奴は中でも作用が強くてねェ、催眠だけじゃのォて催婬効果もあるンですたい。オイラがこっそり妓楼で使おうとした代物をォ…!!」

「そりゃ申し訳ねェ。だが、薬品の位置が分かるンなら、痴呆症じゃねェって証明されたじゃねェか。だがよォ、言い訳があってだな、西方の巫女を恍惚状態に陥らせるらしい『月桂樹』が、どンだけ強いンか気になってなァ」

「知的好奇心が何でも正当化してくれるとお考えなら、其奴は大間違いですぜェ?」

 そんな仕様もない御託を並べながら、柴門と燈炎は作業を進める。

 透鏡(レンズ)に蓋をしてから、黄燐燐寸(マッチ)を欄干に擦り付けて紅燭灯に火を灯す。そして、俊羅が籠もる寝間の引き戸を指三本分程度開き、そこに銃身を挟み込む様に適当な台座に載せた幻灯機を設置(セット)する。透鏡を覆う蓋を落とせば、何時でも俊羅の眼の前に幽鬼染みた柴門を映し出すことができる。

 次に取り掛かった作業は、寝間に置かれている鏡への細工である。

 流石は腐っても名家であるだけあって、鏡は銅製ではなく玻璃製。しかも姿見大(サイズ)であるから、それを傷付けでもすれば蒼頭は一生掛かっても償い切れない負債を負うだろう、そんな高価な代物である。

 柴門は何の躊躇もなく玻璃鏡を庭へと持ち出す。

 俊羅は熱病にでも冒されているのか、ウンウンと唸りながら眼を堅く閉じて眠っていた。そのため、寝間に侵入したことは勿論、多少の物音を立てようとも気付かれる心配など一切ない。

「柴門の旦那。そんな鏡、どうするンですかい? まさかここぞとばかりに、コソ泥みてェな真似するンじゃ———」

「ンな訳ねェだろォ? 此奴でもう一体、俺の幻想を創り出すンだよ」

「そんな計画ありやしたか? また、オイラに内緒かいな———」

「いや、さっき思い付いたンだよ。此奴の反射膜を薄くして透過光を増やせば、鏡の中が透けて見える、そんな二番煎じの仕掛けだ。前に魔法鏡の話しただろ? 彼奴の応用編だ」

「成程ォ。幻灯機と魔法鏡の二丁拳銃で俊羅を脅そうって訳ですかい? そりゃ魂消て、気を失い兼ねンですぜ」

「まァ、同時ッツウより交互に遣るつもりだなァ。俺の怨霊が次々と壁に襖に鏡に移り変わる。最高に恐ろしいじゃねェか!!」

 柴門は興奮気味に小声で燈炎に囁く。

「夜は長ェツっても、無限に続く訳じゃねェ。夜の帷が上がらねェ内にさっさと片付けるぞ。その道具箱ン中に紙鑢(やすり)あったよな。其奴を俺に寄越してくれ」

 柴門は寝間から担いできた鏡台を、庭の石に腰掛けた自分の膝に載せる。そして、背面を覆う木製の表装(カバー)を取り外す。

 少し紙鑢で擦った処で、柴門は詰まらなそうに燈炎に声を掛ける。

「オイ燈炎。お前の方が器用だろ。この辺りをこの鑢で丸く削って欲しいンだが」柴門は鏡の上から四分の一辺りの箇所を指し、人差し指で円を描いて見せる。

「意外と面倒だからオイラに遣らせるってかァ? まァ、便利屋扱いされてるオイラが温和しく引き受けますが。……おっと、処で柴門の旦那は何処に行くつもりですかい? オイラ、昏い場所に独りぼっちは得意じゃなくてね。枯れ尾花が幽霊に見えち舞う、霊感強めの怖がり体質なンで———」

「そんな奴が錬丹術なんかに手を染めるもんかッツウの。俺は俺で忙しいンだ、殺るべきことがあンだよ。燈炎がこの作業引き受けてくれねェことには、困っち舞う。———ほら、仕上げに俊羅を叩き起こす仕掛けを作らねェことには、この大奇術で奴の息の根、止められねェだろォ?」

 柴門はそう吐き残すと、工具などの雑貨の入った木箱を抱えて屋敷の中へと消えて行った。


「良し。後は屋根裏の仕掛けが発動して、俊羅を悪夢から解き放って遣れば、『俊羅、返り討ちざまぁ作戦』の火蓋が切って落とされる訳だ」

「その名付け、どうにかならンすゥ? 柴門の旦那は見て呉れと頭脳は国随一かも知れねェが、その思想の異質(ヤバ)さと捻じ曲がった性癖、それにズボラな性格に壊滅的な名付け感性(ネーミングセンス)、容姿と頭以外の要素が死んでるのが実に残念ですたい。旦那を創造した女媧は上手く釣り合いを取ったモンだ」

「自慢じゃねェが、勉強会じゃ女官衆に破茶滅茶な人気を誇ってたンだぜェ? 悲鳴以外の女の叫びを聞いたことがねェお前さんには、一生分からねェ感性(センス)だろうなァ。それに、俺の変装した脂性男の姿でも、女官に大人気なんだなァこれが。曰く『人柄が良さそうだから』が支持理由らしいぜェ?」

「両面人気とはねェ。まァ、あの優しそうな表情から物騒な言葉が発射されるとは、女官も思わねェでごわすからねェ。世の女は外見じゃのォて、性格で判断して欲しいですたい」

「それでもお前さんに勝機はねェだろォ? 世の中には『ギャップ萌え』ッツウ嗜好(ジャンル)も在るってこと、辨えといた方が良いぜェ? まァ、どう足掻こうにも、俺等は女媧が人間創造に飽きた末の『泥の残滓』。お互い、大元はそこらの犬の糞と大差ねェンだ。仲良くしようぜ?」

「容姿と頭脳の良さを鼻に掛ける奴とは仲良くしたくねェでゲス」

「そんな冗談、今はどうでも良い話だがな」

 緊張感のない駄弁りを一時中断すると、柴門は空気感を変える咳払いを仕草だけ行う。

「俺の読みだとそろそろ、天井の隙間から血の雨が滴り落ちて来る頃だろうォよォ。俺は鏡の裏で準備す(スタンバ)るからよォ、お前さんは俊羅が目覚めたら其奴の蓋を落として、俊羅を俺の幻影で震え上がらせろ。そしたら、俺が頃合いを見計らって鏡に憑依するからなァ」

「段取りは理解しやしたぜ。まァ、此奴の透鏡の倍率がこの部屋の大きさに丁度良さそうで助かりやした。丁度良いって言っても、ボヤけ具合が良い味出すでしようけど」

「上等だ。流石の腕前だな、お前さんは」

 そう軽く最終確認を済ませると、柴門は堂々と寝間の中に侵入して行った。『西じゃ、この幻灯機は降霊術に使われてるらしいぜェ。嘘から真が出ち舞ったらどうするよォ?』


 柴門が鏡の裏側に構え、燈炎も幻灯機の最終確認(チェック)が終わったその時、まるで見計らったかの如く天井から血が滴り落ちて来た。

 ポツン、ポツン。

 拍節器(メトロノーム)が刻む旋律の様である。

 顔に落ちる冷たい雫に気付いたのか、俊羅は眉間に皺を寄せ、益々思い詰めた表情になっている。そして、もう数滴落ちた処で俊羅は落下点の鼻筋を擦る。

「んんッ……」

 脅えた嬌声を上げて上体を起こそうとした。

 しめた。この時機(タイミング)が最良(ベスト)だと見込んだ燈炎は幻灯機の蓋を外す。するとすぐ様、壁面に曖昧な輪郭をした柴門が映し出された。

 この部屋の構図は以下の様になっている。

 俊羅は長方形の部屋の長辺に沿って部屋の中央に横になり、幻灯機は長辺を閉じる引き戸からその銃身を覗かせている。そして、鏡の裏に控える柴門は、俊羅の脚側の壁沿いに陣取っている。

 俊羅は何かに気付き出したのか、眼を擦り、何か得体の知れない物が貼り付いている右横壁を眼を細めて眺めようとする。

 漸く視界が鮮やかになり出した。

 俊羅は右側の漆喰壁に映るそれを見て、外れそうな顎を押さえる様に口を手で覆って、

「あっ、あッ———」

 声にならない啼き声を漏らした。

 壁に憑依した柴門の亡霊は指先から脚先まで、その全身から霊素を放ち、不気味な三日月形の口は俊羅の脳を喰い尽くす猟奇性を秘めている。柴門の亡霊像は夜風に揺らめく紅燭灯の明かりに乗せられて、幽鬼らしく朧気な姿を醸し出している。

 溺れ掛けた人間の様な嗚咽を漏らした俊羅は顔を鑛で隠すことすら忘れ、壊れた写真機(カメラ)の様に露光装置(シャッター?)代わりの目蓋を開き切っている。

 すると、壁で揺らめく亡霊は次第に形が崩れて行く。顔がグチャグチャになり、胴体から真っ直ぐ伸びた両脚も蒟蒻の様にグラついている。

 今度はパッと鏡周辺が閃光を爆発させた。それは蒼白い光であった。

 突然発生した人魂に、俊羅は再び腰を抜かした。床へと貫く様に杭でも腰に打ち込まれているのではないかと錯覚する程、俊羅の腰は上下左右どの方向にもその地点から離れようとしない。尻を引き摺って後ろに下がることすらできないのだ。開眼型の金縛り状態である。

「アガガガガガガガ………」

 完全に顎関節が外れた口は、油の切れた錻力傀儡(ブリキにんぎょう)に近い不快音を奏でる。

 そして、ボンヤリと明るんだ鏡台周辺は、より恐ろしい光景を鮮明にした。

———それこそ、鏡越しに映る亡霊柴門であった。

「ハァァ!!」———バタンッ

 俊羅は脳が震え短絡(ショート)した時の音を呻き声として発した。

 その破滅音が屋敷全体を震撼させるや否や、袈裟斬りされた筒状の畳表と同様に、力感なくストンと上半身を前方へと落とす。

———俊羅は泡吹いて失神した。



【第拾参話 相棒】

 翌日。

 王宮内は俊羅が柴門の怨霊に襲われたという話題で持ち切りであった。

 右の角を曲がれば女官共が俊羅に対する罵詈讒謗を吐き、左の角を折れると官人が怨霊の恐ろしさに恐れ慄く。食堂も医局も湯浴み場も、人の溜まる場所ではその話題ばかりが席巻していた。

 柴門槍馬改め、温厚そうな小太り官人鎗嵐は、宛てもなく王宮内を歩き回ってはその噂に耳を欹てていた。時折、女官が死した柴門の偉大さを語り、因果応報の理論を説くものだから、つい笑みが溢れそうになる。破顔を縫掖の長い袖口で覆い隠すので精一杯である。

「おう柴門か!!」

「オイ、声がデケェ!!」

 執務室の重厚な扉を開けた途端、飛び付いて来た無配慮な言葉に、柴門は一喝した。

「すまんすまん。つい興奮して仕舞ってのぉ」

「俺を見る度に嬌声を上げる、この年中発情期野郎には困ったモンだぜ?」

「おいおい、幾ら何でも言葉が過ぎるぞ。まぁ、朕も考えなしに真名を叫んで仕舞ったから、指摘はできぬがのぉ。トントンじゃ」

 帝は瀟洒な陶器を掲げ、お相子の合図を出す。すると、揺れた拍子に入っていた紅茶が書簡の上に蒼い染みを溢した。一寸した惨事にすぐ反応したのは、気が利くことで帝の寵を受けている若い官人———順然。懐より純白の綿紗(ガーゼ)を取り出し、サッと拭く。

「また遣って仕舞ったわい。それはそうと……ほれ柴門。紅茶片手に、朕と俊羅駆逐の後日談とは行かぬか? 朕も貴様の手管が気になって居ってのぉ」

「何だ、もしかして俺の言葉遣いが伝染ったかァ? 駆逐なんツウ斬れ味鋭い言葉、帝の子ども向けの語彙辞典(ボキャブラリー)には載ってねェだろォ? まァ、どうせ俺は暇だ。帝と勝利の美酒に浸りながら、優雅な午後を過ごすのも悪くねェがな」

「そら来た!! 順然よ、柴門のために例の紅茶を用意して遣れ」針に大きな獲物が掛かったと言わんばかりの大声を上げた。

 そして、帝は既に動き出していた順然に指示を出す。紫釉も気を利かせて、執務室の中央にある桌子と胡床を整える。

「鎗嵐様、お砂糖で宜しいでしようか?」

「あァ、檸檬用意できるかァ? なきゃ何も要らねェが、其奴があれば帝は眼を煌めかせるだろォなァ」

「畏まりました」

 丁重な対応で順然は下がって行った。

「昨晩はご苦労じゃった。聞く処に拠ると、柴門の亡霊は屋敷中の人間を昏睡状態にたら使めたらしがのぉ、一体何をしたのじゃ?」

 帝は大きな容姿(シルエット)を揺らしながら、堂々と胡床に腰を沈める。

「そのままだよ。実際に俺が亡霊になって来たンだよ」

「何を言って居る。貴様は冥界に行っては居らぬじゃろ? にも拘わらず、亡霊になったとは———」

「死んだ筈の俺が現れれば亡霊だって思い込む、其奴が今回の奇術の種って訳だ」

 柴門はそう得意気に語ると、一から十まで奇術の種明かしをして魅せた。勿論、俊羅以外の屋敷の者は麻薬で寝かせたことも。

「成程。そこまで大掛かりな仕掛けは時間を要するじゃろ? 貴様は反撃の手段まで、讒言の前に手配していたというのか?」

「まァ、『讒言』で俺を陥れ死に至ら使める線が濃厚になりゃァ、死んだことになってる俺が繰り出せる反撃の手段は『祟り』しかねェだろォ? 如何にしたら、俺が亡霊となって奴の精神を蝕めるか、其奴を考えたら、『幻灯機』が浮かんで来てなァ」

「相変わらず貴様の頭脳は無限大じゃのぉ」

「以前に言ったことがあったかも知れねェが、知識は辞典に頼るモンじゃねェンだ。知識は辞典にあるから何時でも入手(アクセス)可能、だから容量の限られた頭脳に知識を叩き込むのは無意味だ、そう考える奴は知識の本質を理解しちゃ居ねェンだ。本を読めば身に付く物、其奴は確かに知識だが、頭に刻み込むまでは知識でも何でもねェ、其処らの灰塵と大差ない。知識ってモンは頭の引き出しに収めて置かねェと使えねェンだ———」

「柴門は知識を熱く語るのぉ。これぞ、朕の頭脳として、国知の格納庫として相応しい人物の哲学じゃよ」

「少し熱くなり過ぎた……。兎に角、莫大な知識を抱えねェことには、眼の前の危機に対応できねェ上に、未知を切り拓く創造力も生まれねェ。知識こそ『生』を豊かにするモンだ、俺は知識偏重を嫌う輩にそう訴えて殺りてェなァ!!」

 そこまで言い終えると、柴門は上がった息を整えるべく、紅茶を喉に流し込む。そして、ガチャンと下品な音を立てて陶器を桌子に下ろす。ピシャンと飛沫が桌子被(テーブルクロス)に飛ぶ。

「おい、柴門!! どうして貴様の紅茶の色が———」

「あァ、この紅茶、薄紅葵茶(マロウブルー)だろ? 此奴は色が変わる紅茶って有名でなァ———」

「何を言って居る。薄紅葵でなく、青薔薇で入れた紅茶じゃと商隊(キャラバン)は言って居った———」

 柴門はフッと小さな嘲笑を挟むと、宥める声で帝に言う。

「そりゃ、騙されたな。青薔薇は『不可能の代名詞』。そもそも青薔薇の栽培が成功したのは今から千年以上先のことだ」

「そうなのか。……朕はこの青薔薇茶で貴様を驚かそうと思っていたのじゃが、まさかその逆を喰らうとはのぉ。商隊に強奪(ふんだく)られたのは悔しくないが、柴門を出し抜けなかったのは大きな悔恨じゃ。処で、どうして貴様の紅茶は色が変わったのじゃ?」

「あァ、だから檸檬をブチ込んだからだよ。何かを混ぜると途端に色が変わる、そんな摩訶不思議を起こす霊薬は結構有り触れてンだよ。例えば、血色に染まった水瓶ってのも似た様な仕掛けだ」

「そうなのか。貴様はその仕掛けを話すべく、檸檬を頼んだという訳か。それにしても、檸檬という蔬果は奇術に役立つのぉ」

「まァ、そうだな。檸檬で色が変わる紅茶の話なんぞ、余りにも仕様もねェからさっさと種明かししたかったンだが」

 柴門は場都合が悪そうに頭を掻き毟る。そして、ズズッと紅く変色した紅茶を啜る。紅茶がなくなったことに気付いた順然が、甲斐甲斐しく茶壺(ティーポット)を傾けた。

 少し間が空いた。

「なぁ、柴門。ここからは真面目な話なのじゃが———」

「ン?」

 直ぐ様、執務室の雰囲気が変わったことに気付いた。帝の表情筋が頬を縛り上げている様に見える。

「……朕は俊羅を智嚢衆首座より解任しようかと思うのじゃが、柴門、前任者として貴様はどう思う?」

「そりゃ、あんな置物さっさと始末した方が良いだろうよォ。そもそも、帝の寵臣に讒言と偽証を仕掛けた時点で、奴は帝を欺くッツウ大罪を犯してンだ」

「そうか、異議なしか。じゃが、ひとつ問題があってのぉ。どう讒言じゃと証明する?」

「そんなモン、燈炎に証言させりゃ良いだろォ?」

「貴様らしくない読みの甘い返答じゃのぉ。燈炎に証言させれば現場不在証明(アリバイ)は成立するがのぉ、また別の問題———柴門は御用錬丹術師と、夜な夜な何をしていたのだという話になるじゃろぉ?」

「まァそうだな。ということはつまり、帝は俺が讒言を受けることを予期して、色々手回ししてたことを公にしたくない。その心は何だァ? まさか、罪人に手を貸したことがバレるのを恐れてる訳じゃねェよなァ」

 柴門には帝の意思が知れているのか、柴門の台詞は酷く誘導的である。先程、読みの甘い返答で切り返したことも何らかの意図があったのかも知れない。

「燈炎に証言させれば、柴門が今も生きて居るということが明るみに出て仕舞うじゃろ?」

「それで帝はどうしたいンだ? 俺の生殺与奪の権を握ることができンのは、この国でたったひとり、最も高貴な方だけだ。俺を公に殺そうと生かそうと、俺は帝の厳命に従うしかねェンだから」

「そうか。本当に申し訳ないが、柴門は公には死んだこととする。いや、是非そうしたい」

 帝は重低音で死亡宣告を柴門槍馬に告げた。しかし、告げられた方の柴門は、蝦蟇(ヒキガエル)に水を掛けても動じないのと同様に顔色ひとつと変えない。

「だが様、そこまで俺を、柴門槍馬を殺したがる理由は何だァ? 俺を溺愛する余り、他人の眼に触れさせたくないッツウ、帝の独占欲もしくは我儘かァ?」

「その気持ちが皆無だと言い切ることは実に難しい。じゃが、真の理由はそんな朕の私情では勿論ない。柴門、貴様の尖った性格は人を虜にする中毒性がある反面、嫌われる場合は蛇蝎の如く眼の敵にされるじゃろう。それを朕は避けたいのじゃ、二度とこの様な危ない賭けに柴門を関与させたくないのじゃ!! 朕が柴門からの書翰を眼を腫らして読まなければ、貴様というこの上なき存在はこの世から消えて仕舞った、そう考えると胸が軋むのじゃ!!」

 溢れる未分化の感情を言葉として表現する。そこには皇帝らしい威厳や男としての矜持など微塵もない。思い付く言葉を頭で精査することなく、そのまま吐き出した。

「なァ、俺のこと好き過ぎだろ? 妃を寝取った疑惑を掛けられた男が書いた辯明文を、そこまで必死に読み込む皇帝が世界の何処に居る? 普通は粉々に破り捨てて紅燭灯の肥やしにでもするンじゃねェかァ?」

「この際、外聞や恥など掻き捨てて遣るわい!! 朕には貴様という存在が必要じゃ。じゃが、生憎貴様という奴は敵を多く作る厄介な性格をして居る。その上、王宮で絶対的正統性を担保する血筋も、転生者の貴様には期待できぬ。要するに、数万の使用人が犇めき合い、血縁主義が卓越した王宮の中では、貴様の能力頼りの立ち位置は極めて危ういのじゃよ。そんな中、貴様を護ることができるのは、朕の絶大な庇護だけなのじゃッ!!」

「馬鹿———」

「まだ朕の話は終わって居らぬ。途中で遮るとは不敬千万。そう、貴様は人を圧倒する頭脳があるのだから、それを駆使すればどんな難局だろうと今回の如く潜り抜けられる、だから朕の庇護など必要ない、そう豪語するじゃろう。じゃが、朕は心配じゃ、朕は柴門が何かの拍子に朕の手の届かぬ処へ行って仕舞うのではないか、とても心配なんじゃ。それに毎度、この様な綱渡りを遣られては、朕の心臓は幾らあっても足りぬ」

「やっぱり、帝は俺のこと好き過ぎる。まァ、俺はその異常なまでの寵愛に賭けた部分もあるンだぜェ? ツッても必ず成功する賭けは違法賭博だよなァ。中身が知れてる箱を開いたってなァ、中の猫も演技し難いだろ」

「何を言って居る。あれほど危ない綱渡りの何処———」

「なァ、あの書翰を読んでる時、涙流しただろォ? その涙が書翰に転がり落ちたらどうなるよォ? あの隠し文字が浮き上がるだろォがァ。それに、どういう訳だか分からねェが、俺の第六感が成功の確証を告げてなァ、確証なしには動かねェ頑固な意思を動かしたって訳だ」

「そうか。柴門も十分、朕のことを好きではないか。詰まる処、貴様は朕との『絆』に頼ったのじゃろ? 『絆』というものは眼には見えぬが、『信頼』と違ってそう簡単に千切れるものではない。じゃから『絆』を信用したのじゃろ? 第六感じゃとか朕の涙じゃとか、恥ずかしがって下らぬ御託を並べ居って。『絆』こそが間違いない証拠だったのじゃないか!!」

「『絆』かァ。其奴の正体は『絆』だって訳か。其奴は里花にしか感じねェモンだと思ってたが、まさか俺の感情を帝がそう読み取るとは様。普通、『絆』って代物は、部下に抱くモンじゃねェと思うンだが?」

「そうじゃろ。『信頼』は裏切られれば簡単に破綻するがのぉ、『絆』は譬え裏切られようともその裏に何かあったのではないか、そう思わせて相手を愛おしくさせる。朕もこの様な感覚は生まれて初めてじゃ」

 帝は妙な間を設ける。

 これから伝える言葉は既に腹積もりを決めている筈だが、どうしても間が欲しかった。これからの発言を際立たせるために。

「じゃから、柴門。———貴様は朕の初めての友となってはくれぬか?」

 柴門は思ってもみなかった帝の言葉に、一瞬声を詰まらせた。

 実に柴門らしくない。柴門という人間は、散弾銃の様に鋭利な言葉を乱れ打つ。その上、弾の装填速度も抜群であるから、その銃撃音は鳴り止むことはない。

 しかし、そんな柴門が言葉を詰まらせた。

「そうか。そうか。……そこまで俺のことが好きだって言うなら、帝を虜にしち舞った責任、取らせて貰うかァ」柴門は口笛を吹くかの様な口の動かし方で、斜め左上に言う。

「まぁ、朕の知恵袋であり続けることに変わりはない。貴様を智嚢衆首座に戻すことはせぬが、智嚢衆首座を新たに設けることもせぬ。———何故なら、国一番の知識人が就任すべき智嚢衆首座という役職は、貴様が居る限り、貴様以外に似合う人物は居らぬからのぉ」

「成程。俺は非公認の智嚢衆首座って訳か」

「うむ。無窮な存在である貴様に与える官職など存在する筈もなかろう。公には柴門という人物はこの世には居ない訳じゃ。じゃから、屍人に官職を与えてどうする?」

 帝は余韻を響かせる様に、語尾を強調する。

「そうか。分かった。これは無期限の契約延長と捉えて構わねェンだな?」

「あぁそうじゃ。貴様が朕に牙を剥くことがない限り、朕は貴様のことを友として頭脳として扱き使って遣るわい!!」

「心優しい帝には嗜虐症(サディスト)染みた台詞は可笑しいぜ? せめて、『これからも友として頭脳として、朕を詰ってくれ給え』くらい言わねェとなァ」

 柴門は嗜虐症染みた言葉で帝の脳を震わせる。

「その意気、悪くないぞ。柴門槍馬」

 帝は人徳を湛える温かい右手を、柴門の前に差し出す。

 柴門もそれを見て、顎を支えていた右手をそれに重ねる。

 ギチッ。

 両者の手に滲んでいた手汗が弾ける音がした。それこそ、両者の間に生まれた友情の証であった。

 あれから数日後。

 柴門槍馬改め、鎗嵐の具体的な処遇が決定した。

 鎗嵐としての役職は『上駟院管理使』。女官が雑務に励む上駟院の管轄を任されたという訳である。仕事内容は極めて平易であり、女官等の雑務を監視することが主である。出退勤の管理や用具の発注などの面倒な文書行政はすべて部下が行うから、鎗嵐は鼻糞を穿っていようとも問題ない。以前から、容姿・態度ともに太っ腹な官人———鎗嵐として顔を出していたこともあり、引き継ぎは潤滑(スムーズ)であった。

 柴門は以前と変わらぬ悠悠自適な生活が保障されたのだ。

 要するに、上駟院管理使とは天上の『閑職』であり、功労者が就く『名誉職』なのである。

 そして、俊羅は智嚢衆首座を追放された。

 名目上は『体調不良による職務遂行不可』であったが、その体調不良が柴門の祟りであることを踏まえれば、実質的には『偽証による大逆罪』である。事実、俊羅も柴門の祟りに相当懲りた様で、罷免を拒むことはしなかった。

 為太い俊羅は命を自分で絶つという処までは行かなかったが、政界からは潔く引退した。城内にある邸宅さえも取り壊し、実家のある南の暖かい地方へと下って行った。

 政治権力とは、極めて扱い辛い『水物』である。女官が讒言であると噂して俊羅一族に唾を吐き掛け、官人が親の七光りに胡座を掻いた鼻持ちならない俊羅の態度に白い目を向ければ、王宮内の権勢という砂上の楼閣は一瞬にして砂塵に帰す。

 柴門はこの展開まで予期して、勉強会を開き、王宮中の人気を掻っ攫っていたのである。

 加えて、俊羅を結託して寵を振り向かせようとした件の妃も、俊羅の没落を知った途端、蘇りの叶わない鴆毒を服して死んだそう。寵も権威も———も望めない憂き世に思い残すことはあるまい。

 その結果、王宮の秩序は俊羅一族と関係者を欠いたことで、より一層落ち着いた。

 一段落付いた柴門にはすべきことがあった。

「なァ、里花と海霞、尊海に揃って暇を出して遣れねェかァ」

 柴門はパチンと王将の前に銀将を指す。

「内情が落ち着いたから、そろそろ自身の正体を明かそうという腹積もりじゃな? 勿論、構わんよ。じゃがのぉ、尊海は中級官人じゃから、上官が痰でも吐き掛ければ暇を出せるがのぉ、女官共はそうも簡単に暇も出せぬ」

 この時代の共通認識として、使用人の衣服に唾を吐くという行為は、その一張羅を洗濯するための暇を与えることを意味していた。帝はそれを言ったのである。

「そこは、上駟院管理使である俺の仕事だって訳か。まァ、市中の仲卸問屋と交渉するためにお色気役が必要だ、とか適当な口実で暇を出せば、海霞にベッタリな里花も連れ出せるだろうしよう」

「随分な口実じゃのぉ」

「海霞は女官にしとくには勿体ねェくらいの容姿だかンな。それはそうと、王将動かすか飛車で銀将取らねェと詰みだぜェ」

「王手なら王手と言うのが不文律(マナー)じゃぞ」

 危うく持ち駒の歩兵を指そうとしていた帝は、柴門が言うが儘に銀将を飛車で取り、王手を回避しようと———

「陛下、その手は悪———」

「おっと、口出しは良くねェなァ。この将棋盤の脚に隠された符牒の意味知ってるかァ? 此奴は『山梔子(クチナシ)』の花を象ってンだ。だから、対局中の助言は御法度だぜェ」

 そう、横で対局を見守っていた紫釉を制止する。尊厳を重んじた帝は諦め顔を浮かべて、指し直すことはしない。

「おっ、まんまと飛車で銀将取ってくれたな。ンじゃあ、あと六手で詰みだな」

 これにて柴門は十連勝である。

 柴門と皇帝の対局は、百戦錬磨の軍師と喃語を話す赤子との決闘の様なもの。柴門は盤上遊戯に滅法強い一方で、帝は猫すら噛めない窮鼠である。

「仕方ない。夕餉の蔬果は譲って遣ろう。尊海に暇を出す件も承った。上官に上手く伝えておこう」

 柴門は腹に丸めた布を詰め込み、右眼に伊達の片眼鏡(モノクル)を填め込むと、再び恰幅も気前も良い官人・鎗嵐として執務室を後にした。

 向かう先は勿論、絶賛開催中の商隊市(マーケット)である。

 さらに数日。

 尊海、海霞、そして里花は、博真と海深が待つ屋敷に集結していた。

「みんなの暇が揃うなんて、何時振りかしら?」

「二ヶ月前でしたかね」

「ん。でも、ご主人様が、居ない」

 里花の発言で和気藹藹とした雰囲気が陰って仕舞った。里花も決して悪気はない。が、あれだけ慕っていたご主人様がこの場に居ないことは、里花には耐えられなかった。

「———……」

「……もしかしたら、柴門さん、海辺に落ちていたりしませんかね?」

 尊海は態と戯けたことを言ってみせる。陰鬱な空気は春の芽吹きの様に弛緩した。尊海は普段実直である分、戯けた時の効果は抜群である。

「そう言えば、尊海小兄が柴門さんを連れて来たのよね」

 海霞が思い返す。「ん!? どうしたの里花ちゃん?」里花は海霞の長着を強く引っ張った。

「行こう。ね。ご主人様、居るかも知れない」

 里花は何かを確信した様に、強く頷く。その眼は里花が柴門槍馬に向けていた様な、情熱の焔を宿した物であった。

 里花は野生の勘を鋭敏に発揮して、何かを感じ取ったのかも知れない。

 けれど、死んだという柴門が生き返る筈もない、ここは里花の気持ちに寄り添うべきだろう。そう海霞は思考を纏めると、「そうね。偶には家族全員で散歩でもしようかしら。こんな小春日和を屋敷の中で過ごすのは勿体ないでしよう」

 という訳で、屋敷に鍵を掛けて散歩へと出掛けた。


 その頃、ある恰幅の良い官人は、愛想笑いを浮かべて馬借と御手に礼を告げていた。そして羽振りを利かせて、彼等の握り拳に銭を数枚捻じ込ませる。

 そしてこの官人は、あるか弱い少女がしがみ付いていた敷居を跨ぐ。それは久方ぶりに脚を踏み入れた王宮城外であった。

 例の如く、城郭を縁取る環濠に渡された橋の上では、乞食少年が物乞いに励み、橋桁の下にある湿っぽい空間では、村八分に遭った癩病患者が互いを労り合っている。

「此奴等に、腹に籠めた布やら片眼鏡やら、あげち舞うかァ? いや、なしだ。女ッツウ生き物は『不意打ち(サプライズ)』が好きらしいからなァ。このまま俺だって分からねェ身形で行くか」

 柴門は小さく自問自答をする。「迷惑掛けた博真の親爺のためにも、高ェ酒でも買って行って遣るかァ。不公平は良くねェから、海霞にも海深さんにも手土産は必要だよな。……うむ。重くなりゃ、其処らの浮浪者捕まえて荷物持ちにさせりゃ良い」

 屈託のない微笑を老け顔の笑窪に宿らせて、颯爽と駆けて行った。『まァ、彼奴以外に、俺の横を歩くのが似合う「相棒」は居ねェがな』


 里花一行は暢気に市場に向かっていた。

 胡同を彩る街路樹は晴れやかな淡緑の若葉を付け、燦燦と注ぐ陽光を照り返している。そして、慎ましく咲く野花が胡同を落ち着かせている。街行く旅人も行商人も、その可憐な姿に眼を遣っていた。

「里花ちゃん。少しは気分が晴れたかしら?」

「ん。わたし、集中してる。だから、邪魔しないで」

 そんな中、里花は先程からずっとこの調子である。眼を皿にして、往来を行く人々の顔を凝視しては溜息を漏らす、これの繰り返しである。

「まぁ里花は案外意外に頑固じゃから、海霞が何を言おうと聞かぬぞ、きっと。里花が言うことを聞くのは、唯一と腹に決めた柴門槍馬だけじゃからのぉ」

「里花ちゃんを連れ出したのは逆効果だったかしらぁ…?」

 海深が艶っぽい不安の音を上げながら、一行は乞食の屯する市場の南大門を潜る。

 今回の散歩行程(コース)はすべて里花が独断で決めたものであった。ご主人様と歩いたすべての路を、砂漠に埋めた一粒の砂金を探す様に里花は歩く。野花が幾ら里花に訴え掛けようとも、里花の首回りを蝶がその鱗粉を振り撒こうにも、関係ない。里花は通行人の顔に集中する。

「里花はここで柴門と出逢ったのじゃったな。どうして数居た乞食からお主を選んだのか儂には分からぬが、きっと柴門の様な浪漫心酔家(ロマンチスト)に言わせれば、『運命の糸』がどうとか、気障っぽく語るのじゃろう」

「ん。わたしも、その『運命』、感じた。ご主人様が処刑された時、運命の声、聞いた。それが、わたしが、ご主人様を探す、理由」

 里花は南大門の屋根瓦まで眼を細めて見上げ、そこに柴門らしい影がないことを確認する。里花が博真の顔を見て喋らないものだから、傍から見れば独り言を呟く詩曲人形(ポエムドール)だ。

「ほれ、里花前を見ろ。往来が多い中で外方(そっぽ)を向いては———」

 里花は遠くに何かを望んでいる様だった。


 ある恰幅の良い官人は西瓜でも丸ごと飲み込んだのかという大きな腹を左腕で抱え、ある市場を目指していた。

 右腕には酒徳利が藁紐で吊るされ、右手には何処で摘んだのか分からない菜花が握られている。

 方向音痴なこの男は、ひとつ角を曲がる度に商店に入って道案内を乞う必要があった。薬屋に入れば風邪に効く漢方薬を買い、髪結処に寄れば毛抜きを頂戴する。お陰で手土産はもう沢山である。

 そんなこんなで漸く辿り着いたのが、見覚えのあるこの市場であった。

「この通りで、彼奴と並んで串焼き喰ったンだっけか?」

 頬に左右対称の泣き黶のある特徴的な店主の顔を見ると、かつてのことを思い出す。『彼奴は鶏腿串を御馳走だと思って喰ってたっけかァ? あの爛漫な笑顔は忘れられねェなァ』

 串焼きを注文しようかと思ったが、生憎この男の両手両腕は太鼓腹と手土産で塞がっていた。

 が、そこで時機(タイミング)良く声を掛けてきた少年が居た。顔は煤け、越冬中の落葉樹の様な貧相な痩軀である。どうやら、何か手伝えることはあるか、夕餉分の駄賃をくれりゃどんな雑用でも引き受けて遣る、との客引きらしい。

 この男は見ず知らずのこの孤児を疑いもせず、荷物持ちの役目を任せた。


 里花の過去は壮絶であった。

 母親は市場の公開処刑場にて磔刑及び斬首に遭い、父親は誰なのか分からない。里花は漠然と、父親は既に死んだものだと思っている。

 里花には、母親と死に別れる少し前、母親に手を叩かれた記憶がある。それは走野老の事件で、ご主人様に手を叩き落とされた時に思い出したことだった。あの時里花は壮絶な過去の記憶が蘇り掛け、その副作用として脳が破裂する様な悶絶が生じた。その悶絶を掻い潜り、ホッと落ち着いた時に頭から零れ落ちて来た記憶であった。

 しかし、里花の頭の中ではしっかりと整理が付いていない。何故なら、あれだけ優しく接してくれた母親が娘に暴力を振るうとは思えないからだ。

 なので里花は、自分の思い込み違いなのか、それともより思い出せない壮絶な過去が捏造したのか、そのどちらかだと踏んでいる。

「そろそろ、歩き疲れたでしょう? 少し茶屋で休みませんかしらぁ」

 海深が大きな胸と肩を上下させて、言葉を絞り出す。海深が目線で示す先には、目印となる幟と暖簾が棚引いている。餡入り包子が看板らしい。

「そうじゃのぉ。座敷もある様じゃし、ひとゆっくりするかのぉ」

 博真の賛同する声を無視して、「ん。わたし、ひとりで散策する。この市場慣れてるから、迷わない」

 里花の置かれた境遇———母親と死に別れ、慕ったご主人様に裏切られる———を思うと、言い咎める気にはなれなかった。

 里花以外からすれば、在る筈のない失くし物を探す様な行動である。しかし、里花からすれば、確実に見付かる宝物を発見するかの様な確信に基づいた行為だと感じている。

 里花がここまで柴門が生きていると情熱的に信じる理由は、里花のご主人様に対する忠誠心の様な感情論ではない。死に際にご主人様から、里花だけに届けられた『里花の…ことは……絶対…ェに、悲しま…せねェよ』の言葉があったからだ。

 逆に言えば、里花に届いた言葉は、それ程効力があったのだ。無論、里花の幻聴かも知れないが。

 勿論、里花以外の家族も柴門槍馬の生還を熱望していない訳ではない。皆、柴門と生きて再び逢いたいのである。しかし、腰斬の後、業火に焼かれた遺体をこの肉眼に収めた博真・尊海・海霞には、柴門が生きているなど、到底信じることができなかった。

「そうじゃのぉ。儂も柴門殿にもう一度お眼に掛かりたいという気持ちは同じじゃ。里花、お主ならもしかしたら柴門殿を見付けられるかも知れぬ。次の銅鐘が鳴るまで、この市場を好きに散策すると良い」

 博真は在る筈のない一縷の望みを里花に託す。その顔は観音菩薩の様な慈悲に満ちていた。

「それじゃあ、私が御供します」

「止めて置け、尊海。儂等が茶茶を入れてはならぬ」

「ん。銅鐘が鳴ったら、戻って来る。見付からなかったら、金輪際、諦める」

 里花の腹を括る台詞には『踏ん切り』を付けるための諦観は感じられない。疑う余地のない確証に突き動かされている様にしか見えない。

 刹那、飛ぶ様に里花は往来の隙間を縫って趨った。

 里花は目的地を既に決めていた。


 ある肥えた男は見覚えのある市場で買い物を済ませ、取り敢えず市場の中央に鎮座する霊廟の石段に腰を掛けていた。が、大きな問題が発生した。

「どうすりゃ、屋敷に帰れるンだ…?」そう思案して、歯間に挟まった鶏のスジ肉を爪で刮ぎ取る。

 この男の方向音痴というのは実に致命的であった。

 ズバ抜けた記憶力で貴人を唸らせるこの男も、路順を覚えることだけはどうしても不得手。城郭の大門から市場までは、角を折れる度に路を聞けばどうにかなったが、市場から屋敷までの路程(みちのり)は他人に尋ねようにも埒が明かない。

「南大門に案内してくれるか」

 スッと臀を持ち上げ、軽く叩いて砂埃を払う。

 その表情は仕方なしを意味している。取り敢えず、目的の屋敷の最寄りであったと記憶している南大門に向かおう、悩むのは到着してからだと、面倒事を未来に任せた訳だ。

 蒼頭少年は『ちゃんと駄賃は寄越すだろうな』と念押しを、キツい視線越しで物腰柔らかな風貌の男に伝える。そして、ペッと唾を吐き悪態を付く。

「心配するな、一週間は喰い逸れることのない褒美を取らせるぞ」

 鈍間なこの男などのことを意に介さず、案内役の少年はズンズンと突き進んで行った。

 青物屋の主人が繰り出すお世辞文句に叢がる御婦人方の間を抜け、流しの芸者が演じる簡単な手品に眼を奪われる餓鬼共に蹴飛ばされ、奴隷商の見世棚に飾られた幼女を吟味する変態の姿を横目に———

 そして辿り着いた先は、人気が死んだ空白地帯であった。喧噪と隔絶したこの場所では、流水の音が物悲しく聴こえて来る。

「ここは南大門なのか?」明らかな疑念を持って前を行く少年に訊く。

 悲しいかな、方向音痴なこの男には此処に遣って来るまで、その道案内が間違いであることには気が付かなかったのだ。

 無論、次第に人気が薄くなって行くことは肌で感じていた。が、土着の少年だからこそ知る、迂回経路(ルート)の類いに違いないと都合良く考えていた。

「お前。見た目通り鈍臭ェな。ここが南大門な訳ねェだろ?」

 その少年は、持たされていた荷物を茶に枯れた芝生の上に放ると、その動作の流れのまま左手で手招きする。すると、物見櫓の陰からゾロゾロと、それこそ身の毛を弥立たさせる蟻の大群の様に、大小様々な乞食が出現した。総じて装いは襤褸布の継ぎ接ぎであり、垢の浮く縮れ髪に、頬骨が迫り出た髑髏に近い顔立ち。まさに敝衣蓬髪の身形である。

 その中の親分格———肩幅が広く、丸太の様な上腕と太腿が眼を惹く、姿貌甚偉な男が集団の先頭に出た。分かり易い破落戸(ゴロツキ)である。

「今日の餌は此奴かァ? 酷く太った豚だなこりゃ。肥えてる方が旨いってモンでもねェのが、困ったモンだ」

 まんまと罠に嵌められた筈の男はその事実を理解していないのか、『これこれ、人間様を豚呼ばわりしてはならぬ。まぁ、これ以上ない形容だと思うが、暖衣飽食の日々は家畜を生み兼ねぬ』と暢気な口を聞く。それに発言内容も意味が分かり難い。

「はァ? この俺様に舐めた口聞くとは、随分と頭が高ェじゃねェか」

 脚をやや蟹股に開き、肩を怒らせる様にして距離を詰める。そして、視姦だけで甚振る。

 その他の破落戸は、この官人を市場で案内した少年が持ち帰った戦利品に眼を奪われていた。肥満症の男児が我慢ならず笹包みを引き破り、その中から露出した饅頭を下品な仕草で頬張り出す。その光景は見ていて愉快なものではなかった。

 その物音に気付いた棟梁は首を半周弱後ろへ流す。

「オイ、小僧!! 棟梁の俺様を差し置いて戦利品を漁るとは良い度胸だァ!! 手前ェ等に明日はねェかも知れねェぞ?」そう恐喝し、他の破落戸達を震え上がらせる。どうやら、この無法者連中は統率が取れていない様である。

「恐怖政治は瓦解の元。子どもは案外逞しい生き物じゃから、怒鳴り声で殴ろうと無意味じゃぞ? 益々、捻くれ———」ドンッ!!

 この厭戦的な官人が諭したその瞬間、破落戸の強烈な右拳(フック)が、大きな曲線を描いて膨らんだ腹部に炸裂する。

「グハァッ!! グフゥ」

 強制的に腹から吐き出された空気が、顎の落ちた口から漏れる。数歩後方に蹌踉めいた処で、安定性(バランス)を崩して地面に臀を強打する。

「ハハッ!! 愉快愉快!! さぞ快適な鳥籠育ちの官人さんには、どうして殴られたか分からねェかァ? 俺が治める暗黒街じゃ、俺に従わねェ野郎には俺の鉄拳制裁で分からせるツウのが道理なんだよ。頭の養分までその馬鹿デカい腹に吸われた能無しには、少々難し理論かも知れねェなァ?」

 唾を撒散らしながら、高慢に語る。

「だから、あの新入りの小僧にも、喋らなくなるまで折檻しなくちゃならねェなァ。ったく、肥満には碌な奴が居ねェ」脅える肥満児を視線だけで壊死させる。その肥満児だけ肉付きが良いことを見るに、何らかの形で稼ぎの良い両親を亡くし、無宿街(スラム)に脚を突っ込んで直ぐなのだろう。

「だから、暴力は良くないと———」バコンッ!!

 今度は脳味噌が横に揺さ振られた。顔が横からの脚薙払いを受けたことに気付いたのは、頭が地面に強打して数瞬経ってからだった。

「それだけ肥満だと動きも鈍い。防御(うけみ)も一切取れねェなァ!! それともうひとつ、暗黒街の道理ってのを折角だから教えて遣ろォ。郷に脚を踏み入れた者に躾けて遣るのが、郷中の役目だからなァ。錬磨の道場破りだろうと稀代の策士家だろうと、勝負になるのは一対三までだァ。それ以上は一方的な殺戮になっち舞うンだぜェ!!」

 破落戸は転がった曝頭(しゃれこうべ)を見下し、『微温湯育ちの手前ェには、一対一でも殺戮染みち舞うかァ?』小石でも蹴る様に、頭蓋骨を震撼させる。

 地面に滅り込んだ頭を持ち上げ、『多勢に無勢では勝機なし』の道理を受け入れ、この男は手を上げた。降参の合図だ。

「漸く命乞いかァ? だがちと遅過ぎた。俺の気性を逆撫でてから謝ろうツウ巫山戯た道理が在って良い筈あるかァ? そんな小便臭ェ命乞いを赦してりゃ、俺は烏合衆の上に立ってねェだろォなァ。た冥界(あのよ)送りだこの屑野———!!」

———バンッ!! ドドーンッ

 その刹那———亜光速で趨る大跳躍が、この破落戸の顔面右側面を見舞った。

 何が起きたのか、この場に居た誰もが理解できなかった。少し遅れて轟いた衝撃音がすべての事態を遅れて報道する。

———容貌矜厳な男が地辺田に横臥しているのである。口から飛び散った穢らわしい唾液が湿った地面に飛沫を描き、飛ばされた弾道が地面を削り取っている。

 北の遊牧民が火槍を発明したと聞くが、そんな先進技術が王都でもない辺鄙な市場で流通している筈がない。第一、人を吹き飛ばすことができる程、精度と殺傷能力が高くない。

 だが、物腰柔らかな男に詰め寄った容貌矜厳は、まるで火槍の弾丸に弾ける様に吹っ飛んだ。その飛ばされ方は火槍以外では為し得ない有様に感じる。摩擦で焼かれた枯れた草が、焦臭を漂わせているのだから。

 一瞬の出来事に唖然としていた取り巻きの無法者達は口々に騒ぎ出す。『あのお頭が倒れたぞッ!!』『何が、何があった!!』『俺等も吹き飛ばされ兼ねない!!』『逃げろッ』数人が蜘蛛の子の如く散って行った。

 容貌矜厳が地面に叩き付けられたことで舞い上がった粉塵を演出に、弾丸がその正体を明らかにした。

「ご主人様。わたしから、離れちゃ、ダメっ!!」

 聴き馴染んだ優しい声が、寸での処で危機から逃れた男の耳を撫でる。取り巻きが幾ら騒ごうと関係ない。男の耳には無条件で届いた。

「な、なんで……里花がッ!?」

 そう、その弾丸とは他でもない里花である。用心棒の登場としてはこれ以上ない絶好の時機(タイミング)であった。

「なんで、じゃない。わたしは、ご主人様の用心棒。ご主人様が危ない時は、何時でも、駆け付ける。理屈なんて、ないのっ!」

 すると、間一髪助けられた男は何を思ったのか、さっと顔を覆い、落ちた片眼鏡を填め直す。そして腹を擦り調子を整える。

「えっと、助けてくれて有難うなの———」

「惚けないでっ!! 他の人は、騙せても、わたしには、分かるもんっ。その変装、早く解いて、何時もの顔、見せて!!」

 張っていた肩をストンと落とし、『はァ、仕方ねェなァ』。突如、口調が温厚実直なそれから打っ切ら棒に変わった。そして、『痛ェ』『くっそ』などと雑言を吐きながら顔を弄る。空中には、付け眉と被鬘、頬に籠めた綿紗(ガーゼ)や鼻を潰す粘着剤、石黛や白粉の粉など、様々な変装用具が舞った。

 そして現れたのは、観る者を震え上がらせる威厳と、観る者を魅了する妖艶を兼ね備えた至上の好漢———柴門槍馬であった。

「ったく、お前さんのせいで折角の不意打ち(サプライズ)が台無しじゃねェか!! どう落とし前付けてくれるンだァ?」

 蹌踉めきながら立ち上がり、腹に詰め込んでいた丸めた布を地面に落とす。形勢逆転である。追い詰められていた物腰柔らかな男———鎗嵐が本性を現し、地辺田に蹲る破落戸は追い詰められた。

「——————やっ、ぱぱぱぱ……お、おま…おまま、お前ッ!! あの時のッ!!」擦れて声が出ていない。

「あァ何処かで見た顔だと思えば、あの時の弱味噌かァ!! 俺が糞を洗い流す暇を与えて遣ったお陰で命拾いしたみてェじゃねェか!! 良かったなァ、俺が博愛的でよォ。なァ、暗黒街の餓鬼共に詐欺の真似事させて、そんなにも楽しいかァ? 餓鬼に威張り散らすお山の大将の実力なんぞ、高が知れてるぜェ」

 形勢逆転して優位に立った男———柴門槍馬が、鷹が獲物を睨むが如く圧倒的威圧を放って、劣勢に転じた『鳥なき里の蝙蝠(コウモリ)』との距離を詰める。そして、負け蝙蝠はジリジリと臀を引き摺り後退する。

「う、五月蠅ェ!! あ、あれは虚を衝かれただけだ!! 俺の実力は、俺の実力は…俺の……」余程男の顔が恐ろしいのか、余程以前の屈辱的敗戦が心的外傷(トラウマ)なのか、威勢は虚弱へと姿を変えた。馬鹿らしくなって距離を詰めることを止めたにも拘わらず、絶えず後退りしている。

「お前、根性なしかァ? 呆れた」

 負け蝙蝠は塀まで後退すると、意を決して両脚を震わせて立ち上がる。ただ、その表情と震脚が悪役に立ち向かう英雄の様に芝居染みていて癪である。

「オ…オイ、お前等ァ!! 此奴をぶっ飛ばせェ!! 俺からの命令は絶対だァ!!」肺に残った酸素を最大限使って目一杯に叫ぶ。「お前等、言うこと聞けやァ!! 従わねェ奴は、従わねェ奴はなァ、俺がこの手で息の根止めて遣らァ!!」

 すると、鉄製農具や金物工具を手にして重い腰を上げる者が半数未満、約三割。彼等は鴨だと思い込んでいた餌が獰猛な鷹だったこと、その異常事態を飲み込めていない様だ。それ以外は消魂しい残響音を置いて散って行った。此処で逃げた者は若干の延命可能性に賭けたのだろう。その判断は賢明だ。

「オシ。これで戦いになる二対六じゃねェか。どうだ、これなら勝負になるだろォ?」

「上等だ、上等だ……。お前等、殺っち舞えェ!!」

 一同騒然。この容貌矜厳は、前に出る歩兵部隊と入れ違う形で引き下がった。それは後方指揮を執る名軍師の姿ではなく、ただの屁っ放り腰である。睥睨を効かせ威厳を放っていた大きな姿は、随分と矮小に見えた。

「何だよ親父ッ!! こんな痩軀(ヒョロがり)共に慄い(ビビっ)てんのか!! 親父の実力なら一撃で黙らせられるだろッ!」

 この棟梁の息子なのだろう。群衆の中では最も体格が良く、威勢が感じられる精悍な顔付きをしている。

 確かにこの息子が言う様に、柴門と里花は容貌矜厳と比較すると、若樹の百日紅(サルスベリ)と老樹の楠(クスノキ)の様に、歴然とした差がある。この決闘を観る者は後者の勝利に百を賭けるだろう。

「な、舐めんじゃねェぞ!! こんな顔しか取り柄のねェ弱味噌なんぞ、蚊虻同然だ呆けェ……」血気盛んな言葉と萎む語調。その言葉は形勢不利を語っていた。

「オイ親父!! 逃げ腰になってるんじゃねぇよ!!」

「おっ、いいねェ。この独活(ウド)をもっと焚き付けて遣れや。なァ、お前よォ。お前の親父の腑抜け話聞きてェかァ、聞きてェよなァ! 此奴はなァ、俺に糞喰らわされた心的外傷(トラウマ)で、俺が恐ろしいンだとよォ。糞喰らえってのが、比喩じゃのォて実話だってのが面白れェンだ。後で根掘り葉掘り訊いて———」

「オイ親父、本当かよ。あれだけ何時も威張っ———」ドガァン!!

 空中を舞った独活親父の息子は、為す術なく外壁に叩き付けられた。襟を摑むと、持ち前の膂力と沸き立つ憤懣を動力機関に注ぎ込み、投げ飛ばしたのである。それこそ、鶏を屠畜するために地面に殴り叩く様であった。

 辛うじて防御(うけみ)を取ることに成功した息子は、肋骨が剔った内臓を押さえ、明滅する視界を立て直す。そして、衝撃で肺から消失した酸素を求めて必死に掻き集めた。

「小便臭ェ子ども相手に暴力か……。なァ、健全な俺には分からねェ感覚なんだがよォ、我が子を投げ飛ばして快感かァ? 馬鹿な俺に教えて遣ってくれよなァ」

「……俺の逆鱗に触れた奴は、豚児だろうと雌餓鬼だろうと、俺の拳で分からせるだけだ。快感も糞もねェ……手前ェ等が悪党を取り締まる時にゃ、無意だろォ? 其奴と同じで、疑う余地のねェ常識だ呆け」

「腐った常識だな。俺には鬱憤晴らしに弱者を攻撃してる様にしか見えねェがなァ!!」

「愚息に威厳を振り翳さねェ親が何処に居るよォ。出来の悪ィ馬鹿息子には、言葉で諭すより殴って聞かせるのが一番だ阿呆陀羅(あほんだら)」

 少し持ち直して来た容貌矜厳は、得意の穢れた口調に戻る。やはり、息子を投げ飛ばして部下を慄き震わせたことで、威厳という名の精神力(SAN値)が若干回復できた様。ただ、『呆け』『阿呆陀羅』などの挑発文句が実に餓鬼臭い。

「成程ォ。意訳すると、俺に植え付けられた心的外傷(トラウマ)のせいで脚が竦む……んで、このまま古傷が疼くと威厳が失墜為兼ねねェから、取り敢えず自分より明らかに力量が低い子どもでもブッ飛ばして、復権して置くしかねェ……そういう魂胆だよなァ?」

「う、五月蝿ェぞ愚図野郎ッ…!!」

「そこまで分かり易い図星演技は犬も喰わねェぜェ。こういう雑魚敵は、経験値回収の序盤でしかお眼に掛かれねェモンかと思ってたンだが、こうも二度遭える設計とは珍しいモンだ。処で、少しは強くなったンかァ? ンな訳ねェよなァ!!」

 標準語が無頼漢を凌ぐ口の悪さを誇る柴門は、敵方の憤懣を延焼させるべく止め処なく油を注ぎ込む。

 怒髪衝冠に達した破落戸の棟梁(ボス)は、ダンッ!! と地面を踏み鳴らすと、壁際で息を整える息子に近付き———怒鳴る。

「オイ!! 手前ェがこんな厄介な餌を連れて来たのが悪ィンだッ!! すべては餌を見る眼のねェ手前ェが塵屑(ゴミクズ)なんだよォ!! すべて手前ェの責任(せい)だアァァァァァァァァッ!!」

 大きく振り被った豪腕は、息子の頬骨の凸部分目掛けて一直線の打擲———

 が、その一閃は慣性の法則に反して真上に打ち上がった。空気に融け込んだ透明な壁に弾かれたと錯覚させる。

「だめ。大事な子どものこと、殴っちゃだめ。お父さんのイライラ、打つけられた子ども、とっても可哀想」

 里花が豪腕の肘関節を跳躍で突き上げたのである。そして、砂埃ひとつと立てず地面に華麗に舞い降りた戦姫は、肘を押さえて悶絶する巨漢を前に仁王立ちする。

「暴力は、だめ。わたしも、お母さんと別れる時、叩かれた記憶、ずっと頭で木霊してる。その子に、わたしと同じ辛い思い、させたくない」

 仁王の口からは慈悲深いお言葉が流れ出た。以前、人攫い二人と決闘した際に、喉元に銛を衝き立てなかった様に、里花は悪人にも憐憫の情を傾けることができる、正真正銘の聖人なのである。その人柄は母親譲りなのか。

「う、うううううう五月蠅ェ!! 五月蠅ェ!! 俺には俺の遣り方ってのがあンだ!! 他人にどうこう口出しされ———」

「五月蠅ェのは何方(どっち)だ、この碌でなし。里花には、お前を殺そうとか、お前から金を巻き上げようだとか、お前等の常識とかいう穢れた魂胆は塵ひとつとねェンだ。里花はその幼気な少年を暴力から護って遣りたかっただけ。ここは、聖母里花の言葉に従って、振り上げた拳を仕舞った方が良いンじゃねェか?」

 柴門の汚い言葉遣いは鳴りを潜め、徐々に反撃の意思を弱めて行く巨漢は、『ああゥ……アぁ』と漏らす。柴門に脅えているというより、浄化されて脳内が融けている様に見える。

「拳で教え込んで来た親父に今の今まで付き従って来た息子が、今更お前さんの詫びを受け入れねェとは思えねェしよォ。そうだな———無頼漢業(ユスリ)は今日を以て店終いだな」

 フイと視線を息子の方に向けると、暴言暴力の数々を受けてきた過去など清算して、不格好な父親に穏やかな双眸を送る。それは他の残った構成員も同様である。

 力で捻じ伏せるだけでは人は集まらない。この容貌矜厳には人を惹き付ける求心力(カリスマ性)が一定以上は備わっていたのだろう。

「あァあァ、感動の復縁なんぞ見たかねェ。そういうのは俺が去ってから物陰に隠れてからにしてくれやァ。辛党の俺からすりゃ糖分過多。眩暈でブッ倒れ兼ねねェからな」

 様々な意味を含むであろう銅鐘が鳴り響いた処で、柴門槍馬と里花は市場の処刑場を後にした。

「ご主人様。そっちじゃなくて、こっち。迷子にならないで」

 里花はご主人様を呼び戻す。

 辺りは忙しなく人が行き交うが、二人には関係ない。喧噪に紛れることなく、小さな里花の声はしっかり柴門の耳に届いた。

「向こうの茶屋に、みんな居る」

「おォ、そうかァ!! 博真の親爺、俺の顔見るなり、泣き出したりしねェだろォなァ? 男の涙ほど虫唾を趨らせるモンを俺は知らねェぞ?」

「みんな、多分、驚くと思う。みんなには、ご主人様のあの声、届いてない筈、だから」

 柴門は決まり悪そうに、顔を潰して首を掻く。

「やっぱり里花には届いてたかァ。詳しい話は今日の夕餉の時にでもするつもりだが、腰斬奇術は関係者以外に絶対バラしたくなかったンだよ。だがなァ、里花にあれだけ『二度と泣かさねェ』とか吹聴して置いてだなァ、何も伝えず死んだ振りをするってのは、良心の呵責に耐えられなくてなァ。まァ、アレだ。俺の心の何処かに棲み着いてるらしい優しい柴門さんが、声を里花に届けたって訳だ。俺が練った計画の中で唯一の予想外こそ、俺に良心が生まれたことだなァ」

「うーん。わたし、あの声、幻聴なんじゃないかって……わたし、遂に、幻聴まで聞こえる様になったんだって、思ったんだから、ね」

「敵を騙すなら味方からツウ格言があるしよォ。かなり綱渡りな計画に里花を巻き込むと余計稚児(ややこ)し———じゃのォて、里花が大事なご主人様が眼の前で半分にされてンのに、涙ひとつ流さずケロッとしてちゃ可笑しいだろォ?」

 里花は低い身長を利用して、下から怪訝な視線を衝き刺す。

「あァ勿論、里花を信用してねェとかじゃなくてなァ……里花って何処までも素直で正直だから、嘘泣き演技とか下手糞だろォって思ってなァ……。その、何だ、嘘泣きさせるのが忍びないッツウか」

 里花は『わたし、全然怒ってないけど、ご主人様がわたしのこと、信用しなかったこと、全然、怒ってない、から』と、プリプリ言うと、口を突き出して首を背ける。

「やっぱり、演技下手じゃねェか。あの緊迫(シリアスな)場面で、ド下手な嘘泣き披露されたモンじゃ———」

「わたし的には、今の発言、一番の出来、かも。ちょっぴり怒ってることと、ホントはあんまり怒ってないこと、両方、伝えられた、から。それと、あの場面であの台詞、息絶え絶えで言う必要、あったの、かな」

 中々の技巧派であった。

 柴門が里花や尊海に計画を打ち明けなかったのは、腰斬場面で素の反応を期待したからである。本心としては、できれば柴門単独であらゆる手回しをしたい処であったが、帝や燈炎などは必要人員として計上したのだ。

 里花の上目遣いに籠絡されつつあることを理解しながら、その誘惑を振り切るように話題を変更する。

「なァ、里花。どうして俺が生きてる、それに、どうしてこの市場に居るってことを知ってたンだァ?」

里花はムンと薄い胸を前に衝き出して得意気に、「そんなの、女の勘に決まってる、でしょ?」

「はァ? オイオイ、お嬢ちゃん。ご主人様に隠し事はいけねェ———」

「ご主人様もわたしに、隠し事、してたでしょ。お相子、お相子」

随分と里花は物申す様になったものだ。短い言葉で最小限しか伝えようとしなかった筈の里花は、久し振りにご主人様と話すことができて気持ちが昂ぶっているのだろうか。

「俺も打ち明けたンだ。里花もだ」

 そう催促すると、里花は淑やかに語り出した。

 里花の話を纏めると以下の様になる。

 どうやら、恰幅も気前も良い官人———鎗嵐として上駟院に出入りしている姿を一目見るや否や、その変装をご主人様だと見破ったのだと言う。だが、ご主人様なりに理由があって里花に隠しているのだと解して、誰にも口外することはしなかった。

 そして、迎えたある日。海霞と揃って仲卸問屋に交渉に出向くことになったその日、里花はある違和感を覚えたのだそう。付き添いの官人が変装した紫釉だったのである。(ご主人様と一緒に迎應殿や主敬殿を訪れた際に、紫釉の顔は皇帝の最側近として見知っていた)

 そこで、里花は摑んでいる推測情報を変装した紫釉に伝え怯ませた処で、様々なことを問い詰めたのだと言う。そして、ご主人様が鎗嵐として上駟院管理使に就任したこと、ご主人様が家族全員に同時に暇を出させて一連の事件の真相を明かそうとしていること、ご主人様が今日この市場に訪れるつもりだということ、などなどを聞き出したのである。勿論、海霞には伏せた状態で。

「あちゃァ、あの紫釉の爺(ジジイ)、全部バラしやがったな。紫釉がどんな手抜き変装で里花達の前に現れたンだか知らねェが、里花の変装破りの術は凄ェな。俺なんて、随分手の込んだ変装したつもりなんだが」

「ご主人様の変装は、割とすぐ、分かる。だって、あの蒼淵の瞳、珍しいもん。わたし以外、誰も眼なんかに注目しないだろう、けど」

 ご主人様の瞳———蒙古人種として一般的な黒い瞳が、蒼い環で縁取られている———と眼を合わせる。それに映り込む里花は自分の翡翠の瞳を押さえていた。柴門は何かを言おうと思ったが、直ぐに諦めて、

「じゃァ、紫釉も里花の鋭い観察眼に見抜かれ———」

「ううん。酷い変装、だったから、直ぐに気付いた。お髭と眉、曲がってた」

「あんにゃろォ。まァこの際、不問に伏して遣る。でも様、里花。随分と名推理披露するじゃねェか。普通、あれだけ惨たらしい腰斬場面(シーン)を見せられて、それでも俺が生きてるって信じる奴、居るかァ? 敢えて、血飛沫が噴き荒れる凄惨な場面に演出して、そういう邪推を断とうッツウ意味も籠めて置いたンだがァ?」

「だって、ご主人様、言ってた、でしょ? 『明白過ぎる事実を、疑え』とか『眼に飛び込んでくる事実を、鵜呑みする、な』とか。だから、わたし、ご主人様は、そうやって眼を欺いてるの、かなって」

「何だ里花。あの話、聴いてたのかァ?」

 夜宴で魔法鏡の仕掛けについて解説した際に、推理に必要な心構えを多少話した覚えがある。しかし、その時、里花は柴門の膝の中で家猫の如く寝息を立てていた筈である。

「ん。実は、ね。途中で起きちゃって。でも、居心地良かった。だから、狸寝入り、してた」

「里花。さっきのツンデレよりも、デレだけで攻略した方が強いぞ」

 紅潮させた頬を身体で隠しつつ素直な感想を口にする里花に、柴門は惚れ直した。これで何度目になるか分からない。至上の好漢・柴門槍馬は、里花の幼気な仕草に属魂であった。

「もうそろそろ、みんな居る茶屋に、着く。だから、早くその顔、直して」

 至上の好漢の融けた表情は、往来の主婦にはどの様に映っていたのだろうか。やはり、緩んだ顔も魅力的に映るのだろうか。否、きっと主婦は目の前の新鮮な青菜と魚介に釘付けに違いない。

 と、柴門等は市場の中央部———八百屋や魚河岸の列肆が並ぶ———まで戻って来ていた。もう直、蒸した餡子の匂いと謳い文句が靡く暖簾が見えて来る。

「ご主人様。彼処」里花が柴門の前に駆け上がって、土筆の様な指で示す。

「博真の親爺、俺見たら倒れ兼ねねェから、里花気を付けとけよ」

 柴門はそう命じると、グングンと進む。あっという間に茶屋の暖簾を潜り、博真一同をその視野が捕捉する。若女将は、注文せずに座敷に進むとは失礼な客だと白眼視するが、柴門は気にしない。というより、視野が捉えていながら、認識していない模様。

 すると、柴門はすぐ様、

「よォ、博真の親爺。色々と迷惑掛けて悪かったな」博真の前で頭を下げた。

「お、おおおおおお、おおお、お主!! 儂は幻覚を見て居るのか!!」

 口に持って行こうとしていた包子をストンと自由落下させ、眼を丸くする。そして感激を言葉で溢れさせた。海深も尊海も海霞も皆、幻を疑い揃って眼を擦る。

「馬鹿野郎。博真の親爺も、そこまで耄碌しちゃいねェよ。幻想でも虚実でもねェ、実物の柴門槍馬だ。試しに親爺の頬、抓んで遣ろうかァ?」柴門は了承を取らずに、頬の皮を強く抓み上げる。情け容赦ない態度こそ、柴門の真骨頂である。

「痛い痛い痛い、痛いぞぉ!! 柴門殿、お主生きて居ったか!!」

 痛い痛いと喜びの悲鳴を上げて、眼の奥から押し寄せる津波を腕で押さえる。『儂はお主がそう簡単に死ぬ様な弱味噌じゃとは思ぉてなかったのじゃ。やはり儂の眼に狂いはなかったわい!!』身体を柴門の方に倒し、柴門の腰回りに腕を回す。もう離さぬと言わんばかりに。

「うわッ、止めろこの馬鹿親爺!! この俺が皺汚れた爺(ジジイ)とアレな関係だって思われたら、どうしてくれるンだァ!! 妙な場所に顔を埋めるンじゃねェ!!」

「今はどんな讒謗だろうと聞き逃して遣るわい。今は、もう一度お主と逢えたことがこの上なく幸せなのじゃ!! 儂は儂は、これ程人に心を鷲摑みされたのは初めてじゃ!!」

「余計なこと口趨ると、後で海深さんに殺され兼ねねェぞ!!」

 海深の脅威を大声で叫んでみるも甲斐なし。海深は博真の発言に柳眉を逆立てることなど一切なく、『これも魔法鏡みたいに、私は幻想を観させられてるの、柴門さん!?』とゆるふわ倒錯的な質問をする。

 尊海と海霞含め皆、死んだものと思い込んでいた柴門の登場に理解が追い付いていない様子。その背景には、魔法鏡の種明かしの際に、『明らかな事実を疑え』『幻想に翻弄されるな』などと気高く語ったことがあるのかも知れない。

 この様な混乱した空気を払い除けたのは、里花の緊張感のない一言だった。

「ねぇ、ご主人様。わたしも、包子食べたい」

 雪解けの様に卓袱台囲みの雰囲気は和み、博真も我に返って腰に回した腕を解く。

「そうだなァ。この良い匂い嗅がされて、腹の蟲が疼かねェ訳ねェモンな。此奴で二人分の包子買って来い。俺はひとつで構わねェが、里花は小銭入れが許すまで構わねェぞ」

 ポイと巾着型の小銭入れを腰帯から取り出して、里花に投げる。それなりの重量感を感じさせる金属音が響いた。

「ん。餡子と豚餡、両方食べる。餡子で良い?」

 里花はご主人様の『オウ』という返事を聞くと、茶屋の若女将の元へ趨って行った。

「柴門殿には色々と訊きたいことがあるがのぉ、機密事項も多いじゃろぉ。今日の夕餉を楽しみにして居るぞ。儂等は一足先に帰ることにするわい。二人同士で話したいことも積もって居るじゃろう。それに、二人の仲を邪魔しては悪い」

 博真はそう言うと、湯飲みを軽く啜って、他三人を連れて茶屋を後にした。『ゆっくりして来ると良いぞ』

 里花は相当腹が減っていたのか、手抜きのコマ送り漫画の様に、大人の握り拳大の包子ひとつを三囓りで平らげる。里花がこれ程までに食欲旺盛になるのも無理もない。全神経を注ぎ込んで市場の雑踏の中、通行人すべての瞳を判別していたのだから。

「まだ喰うか? 夕餉はあの感じだと御馳走になりそォだが、それでもまだ喰うか?」

 里花は餓えに痺れを切らした猛禽類のそれで、柴門の手元に残る包子半欠片を睨む。『欲しい』と言わんばかりに。

「ここに来て、間接接吻(キス)とはなァ。饗膳が入る余地があるンならくれて遣るが……まァ、別腹にでも押し込んで置け」

 満足そうな飛び切りの破顔を見せると、ご主人様の手から大事そうに包子を受け取る。その仕草は、名匠の逸品を取り扱う古美術鑑定士の姿にも、物珍しい玩具を羨望の眼差しで受け取る幼児の姿にも重なる。

「それ食べたら、屋敷に帰るかァ?」

「ん。少し、遠回りしながら、ね」

「成程。柴門槍馬専属の案内役として、満点の回答だ」

 今度は丸めた紙の様にクチャッと恥ずかしそうな笑みを浮かべると、栗鼠の様に包子をチビチビと齧歯だけで食べ始めた。

 柴門はこのまま里花の食餌場面(シーン)を見詰めていては、確実に理性の抑えが効かなくなると判断し、座敷を覆う刺繍布に眼を遣る。そして気を落ち着かせてから、気になっていた話題を振る。

「里花はどうして俺を見付けられたンだ。蟻の数程人が居る市場の中じゃ、探し当てる事なんぞ至難の業だろォ?」

 顎を少し引いて、咀嚼していた包子を嚥下すると「そんなの、頑張るしかない、じゃん」と、極当たり前だという顔をする。

「この人力(アナログ)時代にゃ、人海戦術以外の方法なんてそうある筈ねェモンな」

「ん。ご主人様らしい人影、見付けて、確信した。でも、見失っちゃったから、色んな人に訊いて回った、の」

「でも様、俺が屋敷に不意打ち(サプライズ)で帰って来ること知ってたンなら、屋敷で温和しく待って———」

「ご主人様らしくない。だって、市場までは、路を尋ねて来れるかも、だけど、市場から屋敷まで、ひとりじゃ帰れない、でしょ? わたし、必要でしょ?」

 里花はご主人様にしては珍しく読みが甘いと指摘したいのだろう。柴門も、鎗嵐に変装している間は思考にキレがないと自覚してはいた。それは別人格の穏やかな調子に余りにも不調和(ミスマッチ)だからだろうか。

 柴門はグイと近付けられた里花の頭を撫でると、

「だよな。取り敢えず、屋敷の最寄りだった筈の南大門までは、彼奴に案内して貰うことにして……その後は楽観(ケセラリズム)だな。里花が居なかったら様、間違って貧民窟(スラム)にでも踏み込んで、人攫いに追い剥ぎされても可笑しくはねェなァ。———続きの話は歩きながらでどォだァ? 長居しちゃァ迷惑だろォし」

 里花が残りの包子を飲み込むのを待って、柴門等は茶屋の暖簾をもう一度潜った。

 柴門は上手い理由を付けて茶屋を抜けた。小綺麗な若女将と神経質そうな餡子職人は、ふたりの親密な関係を訝しんでいた。『あの好漢、幼女趣味とは生簀かねぇよのぉ』と見定めた様である。

 市場を里花の先導で抜けると、里花はすぐに人気のない脇路へと柴門を連れて行く。草叢が路肩に茂り、時折ゴソゴソと溝鼠(ドブネズミ)の気配が聞こえる。

 柴門は後ろを振り返り、前方に眼を凝らし、この裏路地に人影が一切ないことを改めて確かめる。そして、再び視線を里花に戻した。

「なァ里花。唐突で申し訳ねェが、その翡翠の瞳って、母親譲りだったりするかァ?」

「うんん。お姉ちゃんと同じ色。けど、お母さんは、確か黒。でも、わたしは、そこそこ気に入ってる。突然、どうして?」

 柴門は敢えて『否定形』で答えさせることで、あるひとつの推論を確信の域へと昇華させた。少しの間、逡巡してから、

「———ちょいと重い話になるが、心して聴いてくれるかァ? 厭がるなら無理強いはしねェが」何時も巫山戯た調子の柴門が珍しく、面持ちを厳粛なものに改める。

「ん。それって、わたしの、過去と関係、あったりする……よね。———ん、聴く」

 柴門は草熅れを纏った空気を吸い込んで腹に溜めると、眼の奥に力を籠めて話を切り出す。

「回りくどいことは言わねェ。結末から話す。———里花の母親は、最期まで里花のことが大好きだったみてェだぞ」

 中間の論理を悉く消し去った結論を提示したに過ぎないが、安っぽい処か、里花の脳内に驚愕の渦を巻き起こしている。理由を端折って結果だけを披露する方が、より大きな感銘を与えることがあるのだから。

 里花は鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をした。戯画描法(デフォルメ)ならば、翡翠玉の瞳はただの点で描かれ、形の良い口器は幾何学的な丸に省略化されたことだろう。まさに唖然。

「どうして……そんなこと、言える、の…?」

「あァ、俺が鎗嵐として上駟院に出入りしてたのは知ってるよなァ。上駟院ってのは、醜聞(ゴシップ)愛好家共が雑務の片手間に噂話に興じる、謂わば情報の発信地。そこに潜入してりゃ、聴き耳立てずとも色んな噂が飛び込んで来る訳で……そこで聞いた幾つかの巷説と俺の推論を組み合わせた答えが、さっきの結論だァ」

 柴門は続けて、『潜入してた理由ッツウのは、里花の様子見と柴門槍馬についての風説調査が主だったンだが、ある噂を耳にしてからは里花の過去の解明、専ら其奴ばっかりに魂を焦がしてたなァ』と空に吐く。

「ん。勿体振らず、教えて欲しい」

 里花は待ち切れないと、縫掖の裾を引っ張る。

「待った。先を急がねェ方が良いだろォよォ。今から聞かせる話は、かなり稚児しい。それに辛い話を蒸し返すことにも為り兼ねねェ。———里花の心の準備ができたら、何時もみたく頷いてくれ」

 里花は頭の中で虚ろにしか面影が残らなくなって仕舞った姉の顔を思い出すと、頭を後ろに擡げて蒼穹を見詰める。そして小さく、しかしハッキリと『ん』とだけ呟いた。


———柴門、否、上駟院では鎗嵐とした方が適切か、鎗嵐が、己の薄幸を嘆くことで帝の寵を振り向かせようとした、ある後宮妃の噂を耳にしたことが事の発端であった。

 その噂は、先帝の頃の時代から後宮の事情通として鳴らしていたという、妙齢を疾っくの疾うに過ぎた遣り手の女官頭から齎された。具体的には———今回の騒動の渦中に居た妃に関して、先帝が彼女の翡翠の眼を大変気に入る余り、背後にあった妙な因縁を有耶無耶にして後宮に押し込んだ、という話である。その際に利用された方便とは、第一側室であった寵妃との血縁関係であった。聞く話に拠れば、血縁自体はかなり疎遠らしいが。

「四方八方の美女を集めた後宮でさえも、里花みたいな翠眼は相当珍しい。市場でもざっと観察した感覚だと、碧眼の女は数人見掛けたが、恐らく天竺の歌劇団の構成員(メンツ)だろォ。他の色の瞳をした奴は旅人の類いを除けば、皆無に等しいと観た。ツウ訳で、翠眼は明白な血縁関係を証明する特徴と言そうだって話だァ。何となく、この先の話の想像が付いたかも知れねェが、一旦は踏み込まないで置こうかァ」

 一呼吸置くと、再び柴門は語り出す。

 その妃の母親とされた女性が、どうやら不適格であるとの噂———長女を出産した後に不倫を働いた、もしくは妓楼に籍を置くようになった———が立ったのだそう。鎗嵐が持って来た木苺に誑かされた最古参の女官が、得意気にそう語っていた。

 その噂の出元は不明であるが、これも妃の転覆を狙う讒言の一種であったのかも知れない、そうとも推測できる。しかし、先帝はその様な不埒な噂など意に介さず、長女の血縁の正統性は担保されているのだからと、強引に押し通した。

「要するに、翠眼の妃の母親には良からぬ噂が立った、が、先帝はそれを無視して後宮に迎え入れたってことだ。まァ、そうなると、後宮内の評判は宜しくない訳で、帝の寵に縋る他術なしだわなァ」

 再び柴門は聞き囓った噂を並べた。時が経っている分、記憶は捏造の危機に曝されている可能性が高いことを考慮に入れ、確実に正しいと言える噂の根幹だけを纏めた。そして、若干の感想を挟む。

「今度は帝から窃盗ねた紅茶を持って行ったらさぞ喜んでくれてなァ、さっきの年増の女官は噂の根拠から、その母親の処遇まですべて話してくれたぜェ」

 柴門は続ける。

 不倫嫌疑の根拠とは、長女と一回り程齢の離れた次女が居るという話であった。こちらの噂は妙に現実味を帯びていたそう。つまり、次女は不倫相手もしくは妓楼の旦那との間にできた、不義の子供ではないかということである。

 勿論、後宮入りを目前に控えている長女のために、この母親はその存在を全力で否定した。『自分が腹を痛めて産んだ子ではない』と。

「ここまでは大丈夫そうかァ?」

「ん」

 里花の喰い気味の返事に安堵すると、柴門は更なる事の深淵へと突き進んで行った。

———渦中の母親は、一度嫌疑の煙が立って仕舞ったのだから、立場的には大変追い込まれることになった。それでも『私は不倫をしていない、だから、その赤子は私の子ではない』と主張し続けた。

 が、世論はその様な清廉潔白の主張は期待して居なかった。世論は『不倫沙汰と後宮事情が縺れたドス黒い結末』を待ち侘びていたのである。

 世論は遂に、次女だというある赤子を白日の元に曝して見せた。その赤子は例の母親に顔の輪郭が何処となく似通っている。そして何よりも、大変珍しいことに髪色が赤み掛かっているのである。これは長女には見られない特徴であり、次女は長女と異なり、眼は母親と同じ黒瞳なのである。

 この証拠は不倫を確定的にした。

 そして、膨れ上がった不倫騒動は奉行所の判断に委ねられた。奉行所は証拠不十分と母親側に若干の譲歩を与えつつも、『疑わしきは罰すべし』と結論を出し、世論の期待に応えたのだった。

 と、この様な城外の話は、先程の年増の女官でなく、数年前に人攫いに遭って王宮に人身売買された妙齢の女官から訊いた話である。彼女はある市場で絹織物を鬻いでいたそうで、彼女曰く王宮の上駟院と同様、市場は各地の噂が集結する要衝であるとのこと。

「あの女官は耳年増なトコがあってなァ、随分と余計な話を聞かせられたが。その女官が言うには、母親の処刑場面にも野次馬として参加していたそうでなァ———」

 母親は取り憑かれた様に、次女の存在を否定した。精神的に病んで仕舞ったのかも知れないと、その女官は持論を加える。

 そして来たる処刑当日、その母親はとんでもない行動に趨ったと言う。それは、妙齢の耳年増な女官が得意気かつ雄弁に語っていた。

「処刑当日、刑務官は『人の将に死なんとする其の言や善し』を期待して、母親に次女に違いない嬰児を手渡したのだらしいィ。まァ、自白させて冤罪事件じゃねェことを確定させるには、悪くねェ手法だ。だがな、その母親は完全に狂っち舞ったのか、その子の手を強く叩いたそうだ。———一歳になったばかりの娘に暴力を振るう筈がない、だから赤の他人だ、そう言外に示す様になァ」

 柴門は自分の感情を籠めずに、女官が語る言葉をそのまま思い起こして喋った。

 里花はそれを聞いてハッと息を飲み、言葉を口にしようとしたが、柴門がそれを遮った。

「なァ里花。里花の推測は恐らく正しいだろォよォ。俺もそう推測が付くように仕向けた部分もあるからなァ。———そうだ、里花はその母親の娘、つまり後宮妃の妹だろォ」

「でも、その子と、瞳の色も髪の色も、少し違う。それでもわたし、その子、なの?」

 柴門は力強く『あァ』と肯定する。

 瞳の色は個人差があるが、生後一年弱で決定する。例えば、乳児の頃は瞳が黒や茶褐色であったが、成長するにつれて碧や翠に変化するというら具合である。要するに、幼年期の里花と今の里花で瞳の色が違って当たり前なのだ。

 また、髪色についても変化して可笑しくない。寧ろ、外的環境や食生活などが要因で絶えず変化する物なのである。里花が孤児として物乞いにより喰い繋いで来たとすれば、栄養の偏った食事や直射日光による衝撃(ダメージ)により、髪色や髪質が変化して当然である。

 それに、実の姉だという後宮妃も現在は黒髪だそうだが、元の赤髪を男性の好みに合わせるべく、墨か檳榔(ビンロウ)でできた染料で染めただけかも知れない。

 纏めると、赤髪かつ黒瞳であった一歳程度の嬰児は、里花であったとしても不思議ではない。つまり、髪色や光彩色の違いを理由にして、父親が長女と異なるとする論法は、信憑性を失いつつあると言える。

 柴門は今の内容を科学的な事柄は抜きにして、懇切丁寧に説明した。

「ん。分かった」

「瞳の色は色水みたいなモンだと思えば良い。例えば、鳳仙花を磨り潰した赤い汁と、臭木の実を搾った青い汁を掻き混ぜれば紫色の水ができる様に、瞳の色も両親のそれが混ざり合って決まる訳だ。厳密には……というか大分可笑しな説明だがよォ、赤い汁に鬱金を垂らせば紫にはならねェことから分かるが、両親のどちらかが長女と次女で違えば、まったく同じ輝きの翠眼にはならねェってこと。要するに、里花は例の後宮妃と父親も母親も同じだろォってことだァ」

「ん。でも、大分、ご主人様の、推測、じゃない…?」

 里花は少し申し訳なさそうに柴門に問う。自身の出自なのだから、確証高いことしか受け入れたくないという気持ちは理解できる。柴門はその意図を酌んで、

「俺は推測で物を話しはしねェよ。里花は母親との最期の記憶が叩かれたことだって言ってたよな。その話は耳年増な女官が語った話と酷似してるじゃねェか。そして、何よりもその瞳の色だ。色水の譬えじゃ分かり難いが、黒い瞳の母親から翠眼の子どもが産まれるッツウことは、父親の血脈が相当珍しくねェと起こり得ねェンだ。このふたつの状況証拠を出されて、それでも『神様の悪戯(ぐうぜん)』だって言い張れる方便は、流石の俺にも見当たらねェぜ」

「確かに。わたしの思い出、それとそっくり……」

 里花は眼を閉じて、円らな頭の中でご主人様の説明を反芻する。そして、里花の艶髪を春風が何度か撫でた。日が傾き雲が出て来たからか、心地良かった春風が今では寒く感じる。

「でも、ご主人様の話、だと、お母さんは、わたしのこと、実の子どもだって、思いたくない———」

 里花は顔を曇らせる。最後は言葉を詰まらせた。

「里花。人の話は最後まで聴いた方が良いぜ。里花の母親が幼い里花の手を叩いた理由は、確かに『血縁関係がないこと』を証明するためだろうよォ。そりゃ、人はそれを表面的に『長女の保身のための絶縁』だと捉えるだろォなァ。———だったら、どうして死刑執行の直前まで血縁を否定したンだァ?」

 柴門は里花に難問を問う。一切の誘導のないそれは、里花に分かる筈がなかった。

「……流石に質問が意地悪過ぎるなァ。もう少し丁寧に説明するとなァ、死刑執行の直前で無罪を主張した処で、死刑が中止になるなンツウ巫山戯た展開が起こる筈ねェだろォ? 俺なら今生の別れだって覚悟すりゃ、外聞(エゴ)なんぞ掻き捨てて、抱き締めるだろよォ。俺だってそこまで頑固じゃねェ。まァ、俺が腰斬執行の時にそうしなかったのは、今生の別れじゃねェって分かり切ってたからだなァ。だが、どういう訳か、里花の母親はそれをしなかった。その理由ってのはなァ———」

 里花の母親が最期の最期まで、血縁を否定した理由。———それは、母親なりの愛情だったに違いない。そう、柴門は読んだ。

 不倫が事実であるかの如何に拘わらず、里花の母親には罪人の烙印が押される。しかも、その烙印は何らかの拍子で罪状が覆ろうとも、生前も死後も付いて回る厄介な代物である。男尊女卑の価値観を考慮すれば、残された血族の不遇は推して量るべきだ。今回の場合、後宮入りした姉は例外であったが。

 それに、不倫相手との間にできた不義の子となると、命の保証も怪しい。婚姻関係を重視する世では、不義の子は蒼頭として奴隷商に売られる可能性が高い。その後の運命は記すまでもない。

 つまり、里花の母親が里花との血縁関係を認めれば、里花には一生の足枷を履かせるになるのだ。それに、身の危険に曝して仕舞うことも大いに有り得る。

 それを里花の母親は、全力で防ごうとした。最期の最期まで自分の感情を押し殺して、里花の幸福を願ったのである。

「そう、里花の母親は里花のことが嫌いになっち舞った訳じゃねェンだ。そう解釈するには、説明の付かねェ行動が多過ぎる。ここからは俺の推測が混じるが様、里花が母親のことを憎もうと嫌おうと、里花に平和な未来を送って欲しかったンだろう。———だから、母親としては、里花が叩かれた記憶で苦しむのは望んでねェ筈。勘違いを晴らして遣ることで母親の冥福を祈ること、そして勘違いで苦しむ里花を救って遣ること、其奴が俺にできる最低限のことだァ」

 柴門は一通り説明を終え、里花の肩をポンと叩く。

「ご主人様の言う通り、だと思う。だって、わたしの中だと、お母さん、とっても優しい、から」

「成程ォ。しっかり里花には愛情が伝わってた訳だァ。その優しさは母親譲りなんだろォぜェ?」

 そう言って、油気のない黒髪を撫でる。里花は恥ずかしそうに、上げた肩に顔を埋めた。

 「里花がその綺麗な瞳を俺の前で輝かせてるのは、母親の自己犠牲の愛情があったからだ。———どうだ里花。頭を蝕んだ邪鬼は振り払えたンじゃねェかァ? 里花の中に居る母親が微笑んでりゃ、大成功だと思うぜェ?」

 里花の『禁断の記憶庫(パンドラボックス)』に押し込まれていたのは、災厄だけではなかった。その底の底に眠る『愛情』を邪鬼が覆い隠していたのだ。

「ん。何時も、わたしに笑い掛けてくれるお母さん、今日は何時もより、笑ってる。なんか、嬉しそう」

 屈託のない満点の笑みで、表情を爛漫の華々の様に破裂させた。———なんと、里花の表情から影や燻みが消えたのだ。

 里花は度々、笑顔でご主人様を魅せることがあった。その度、柴門は顔に出さないだけで、胸を打たれていた。が、それと同時に、里花の表情の影に残る若干の暗闇が、とても気になっていた。また、それをどうしたら晴らせるものかと思案していた。

 やはり、里花の破顔から影を取り除くには、過去に負った心の傷を治療する以外の方法はなかったのだ。柴門は予てからの念願を達成した今、それを痛感していた。

「そうか。それなら良かった。西方の神話だと、災厄の箱の底には『希望(エルピス)』が眠ってるって信じるから、人には生き延びる活力が湧くらしいィ。それに準えた訳では勿論ねェだろうォが、里花の母親もそうやって里花を陰ながら支えたンじゃねェか? ———我が子を示す、その翡翠の瞳に思いを託して」

 里花は潤った翠眼を小振りな手で優しく押さえる。そして、回想に染み入った。

「……そう言えば、ご主人様。どうして、私の瞳とその妃さんの瞳、同じ色だって、分かった、の…?」

 折った紙が起き上がる様にふわっと里花は顔を上げた。頭の中で曖昧に浮かんだ疑問を、ゆっくりゆっくり言葉に換えて質問する。

 成程、可笑しな話である。男子禁制の澱に籠もるその後宮妃と夜伽を犯した処か、顔さえ合わせたことがある筈ないのだから。里花はそのことを至極全うに疑問に感じた。

 柴門はゴソゴソと胸元を探ると、あるひとつの布袋を取り出した。形状は上流階級の女性が身に付ける匂い袋に近く、漆黒の木綿布に碧の紐が通された巾着である。

「其奴はこれを見れば分かる。開けて見ろ」

 柴門は雑に放り投げるのではなく、その巾着を掌に載せて里花の手元に差し出した。

 里花は唐突に渡された何かに戸惑ったが、柴門が目線の移動と仕草で受け取れと促す。良く分からないまま、里花は蒲公英の綿毛でも摑む様に優しく持ち上げた。

「ん。何か、重い」

 蝶結びで纏められた紐を引っ張り、キュッと締められた巾着口を開ける。そして、巾着を軽く振るって中身を掌に落とす。

 そして、里花の小振りな手には、親指の爪程の大きさの翡翠が載っかった。その翡翠には鼠色の紐が繋がれている。

「これっ……て…?」

「あァ、里花には形に残るモンを遣ったことなかったなァって思ってなァ。その上、今回の一件じゃ、随分と気苦労やら迷惑やら掛けたから、其奴のお詫びも兼ねての贈り物(プレゼント)だ」

 里花は曇りない笑顔を一層明るくして、翡翠色の双眸で翡翠の首飾りを見詰める。

「ご主人様、この色って……」

「あァそうだ。里花の瞳そっくりの色を選んだンだぜェ?」

 そして柴門は『件の後宮妃を知る女官に訊いたンだぜ。「まさか、此奴と色と瞳がそっくりだったりしねェかァ?」って冗談交じりでな』と続ける。

 翡翠にも色々ある。含有成分の差違により紫にもなれは橙にも変化し、最も馴染みのある翠色も千差万別である。柴門は数ある翡翠玉を見比べて、里花のそれの発色に最も近い翡翠玉を選び、それで首飾りを作らせたのだ。

「とっても綺麗。わたし、一生、大切にする」

「是非そうしてくれ。ほら、其奴を貸してみィ? 俺が首に掛けて遣るからよォ」

 柴門は再び首飾りを受け取ると、目線を合わせるために膝立ちになる。

「なんか、恥ずかしい」赧らめた顔を西日に反射させる。その色は、朱を紅で染め上げたと表現できる。

「それは俺も一緒だ、里花。女慣れしてねェ俺には、こんな場面は少々刺激が強過ぎだ。よし、少しだけ首を寝かせてくれ」

 柴門は紐を両手に掛けて、準備体勢に入る。が、心臓だけは言うことを聞こうとしない。

 無頼漢との悶着や腰斬執行の時でさえ平常運転を続けた驚異の強心臓は今、途轍もない速度で拍動を打っている。顳顬(こめかみ)は意識させる様に脈拍を刻み、頭蓋骨の陥没から覗く眼球を後ろから押し出している様にすら感じる。

 柴門は里花に気付かれぬ様に大きく息を吸って、身体の調子を整える。

 そして、そっと首に掛け紐を通した。我ながら変態的だと自嘲しながらも、甘い蜜の様に艷めく髪が共感覚的に鼻腔を擽るのに気付いた。紐が巻き込んだ髪を元通りにして遣ると、清流の如く髪がツルンと流れた。

「よし、顔上げていいぜ?」

「ん」

 里花は平らかな胸を彩る翡翠を手に取り、それに自身の翠眼を映し込む。お互いがお互いの煌めきに拠って、お互いを輝かせた。

「なァ、里花。この翡翠の石言葉は『幸福』らしいぜェ? ———里花は今俺の隣に居て、幸せかァ?」

「もちろん。ご主人様の隣、一番落ち着く、から」

 里花は一切の逡巡なしに、反射的に答えた。翡翠の眼に『真実』の二文字を宿して———

「そうか、それなら良かった。なァ里花。———俺は件の後宮妃と里花の関係について、最後まで言及するべきか?」

 柴門は今の今まで、決め倦ねていた。———後宮妃である里花の実の姉が、俊羅の策略の駒にされて命を自ら絶ったこと、それについて、明確に伝えるべきか否か。

 そして、里花の姉が命を絶った理由———母親と妹の関係を引き裂く原因を作ったことの報いを受けた、そのことを天命が尽きたことで悟ったから———についても、柴門の推論混じりに伝えるべきか否か。

 柴門としては、里花が自分の隣で曇りない笑顔を浮かべてくれれば、それで良い。里花の曇りを晴らすことこそ、柴門の存在意義なのだから。

 しかし、すべてを伝えないことは里花に対する裏切りに、果たしてならないのだろうか。柴門はずっと自問自答していた。

「うんん。ご主人様、前に言ってた。変えられないのは、過去。過去を、悔やむくらいなら、未来をより良くしろ、って。だから、過去の話は、これで終わり。それに、ご主人様のお陰で、わたしの過去、もっと楽しくなった、から」

 失踪事件の際にご主人様が放った発破文句を引用して、里花は堂々と語る。珍しく思い悩むご主人様を此処ぞとばかりに介抱する。

「そうか。分かった。———これからは俺が里花のことを護って遣る。二度と里花の前から消えち舞う様な真似はしねェ。それは俺がその翡翠に誓って置いた———」

 ガバッ。

 柴門は里花を強く強く抱き締めた。柴門が里花を抱き締めるのは、これが初めてである。

「ん。く、苦しい。わたしも、ご主人様が逸れない様に、しっかり、頑張る。だから、これからもよろしく、ね」

 誰も居ないある胡同で交わされた誓いは、雲間から覗いたお天道様が保証した。

『よし里花。屋敷まで案内してくれ。豪華な夕餉が待ってるぜェ!!』


 柴門槍馬を取り巻く慌ただしい日常は漸く一段落付いたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

碌でなし高学歴プアの無双世界 @Tomasatake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ