応援コメント

駄洒落で戯れる」への応援コメント

  • 江戸の地口や雑俳、漢詩の踏韻、フランスのカランブール。
    ダジャレは文章を用いた軽文化だと思います。学生の頃、「クルマが来るまで待とう」といった類のベタなダジャレが好きで、よく口にしていました。あのベタさが、一周まわってむしろ面白いだろ、と周囲の友人に言ってましたが、理解してもらえませんでしたね笑。

    作者からの返信

    ちょっと前に流行った「マジ卍(まじまんじ)」なんて若者言葉も言わば駄洒落じゃんって。


  • おお、全く! と賛同したくなるような一文です。

    ただ、もう一つ外側から話をすれば、「駄洒落は広義の韻(ライム)の一形態」とも言えるわけで。さらに斜め横から言うと、「音声言語のリズム化、ないし音楽化」とかなんとか、色々前向きな解釈は可能なわけで。いずれにしろ、高度な言語的遊戯であるという括り方はできるでしょうが。

    以下、先行コメントに一部かぶったり微妙にすれ違ったりする解釈ですが。

    一昔前のおっさん系駄洒落の何がダサかったと言って、ろくにキマってもいないライムをワンペアそろえただけで、「どうだ!」とぱかり見得を切って拍手を強要するような空気を見せたのがダメだったんではないかと。その程度、聞いてる方は無意識に頭で作って即座に棄却済みなんですよ。それをドヤ顔で持ち出されてもねえ、と。
    つまりは、軽いネタに重量級の拍手を求める、今で言うパワハラ的な行動が「ダサさ」の本体ではなかったかと思います。まあ、そういうのはアメリカでもBoss's Jokeとか言うのがあって、上司のしょうもないギャグというのはそれぞれの文化にあるらしいですから、これはこれでもっと根深いものかも知れません。掘り込んでいったら面白いかもですね。誰か文化人類学とかでバカっぽい論文書いてくれないものか 笑。

    作者からの返信

    欧米、特に英語でしょうか、ラップ以前から吟遊詩人の時代から韻を踏むのは定石ですよね。そして飽くまでも語尾で韻を踏む。日本語は文章や歌詞で韻を踏む事よりも「七五調」等の音数律(と言うらしい)に心地好さを見出す時代が長かったようで、駄洒落はそれとはまた別の言葉遊びのようにも感じます。

    昨今は見過ごされていたパワハラや差別発言が問題視されるようになって、駄洒落そのものが槍玉に挙げられていた時代は暢気だったのかも知れませんね。駄洒落はアイコンとしての役割を終えたとも、解放されたとも言えるかも知れない。

    そう言えば、鳥取県の知事だったか「我が県にスタバはないけど砂場はある」みたいな発言が良い方向で話題になりました。今でも可能性を秘めている駄洒落、何だかんだで意識に残るんですな。斯く言う自分も「近況ノート」で駄洒落を試みてます。

  • こんにちは。

    僕としては、中年男性がみんな駄洒落を言いたがるものだとか、中年男性のジョークはすべてオヤジギャグとして嫌われるとか、いわゆるオヤジギャグを言うのは中年以上の男性に限られるなどとは思っていませんが、人から聞いてなるほどと思ったのは、いわゆるオヤジギャグは、発言者が口に出した瞬間に本人が満足して完結してしまうもので、そもそも相手の反応を求めていないという話です。厳しい言い方をすると、オヤジギャグ(として忌避されるジョーク)は、会話のキャッチボールではなく一人で明後日の方向にボールを投げているだけであり、その意味で、コミュニケーションではなく独り言の域を出ないのかもしれません。
    お笑いコンビ・サンドウィッチマンのコントを見ていると、片方が駄洒落を言った時点で既に観客の何人かは笑っていますが、それに対してもう片方が「面倒くせぇ」、「全然面白くねぇ」、「それはいいから話進めてもらえます?」など醒めた反応をしてみせることで、さらに大きな笑いが起こっています。おそらくこれが、オヤジギャグがコミュニケーションの一部として成立している状態です。
    もちろん、思いつきや自分の楽しいと感じたことを口に出すのは悪いことではありませんが、オヤジギャグとして忌避されるジョークは、会話の相手が共有しているつもりの文脈とは関係ないところから言葉だけを引っ張ってくることが多いように思います。というか、そうでないと嫌われないはずです。たとえば、『ダーウィンが来た』のひげじいはいつも、少々無理やりな駄洒落を言っていますが、あれが心底嫌いという人はあまりいないと思います。その理由は、先ほどまでの動物の解説にちなんだ言葉遊びになっていて、視聴者と文脈を共有できていることと、あれが彼なりの話の終わらせ方であって、誰かを笑わせたり会話を広げたりする気がないことを相手(視聴者)と共有できているからだと思います。
    世の中年男性(オジサン)が駄洒落を言いたがるものだと仮定して、もしかすると彼らも相手からツッコミを入れてもらったり、さらりと流してもらったりすることを意図しているのかもしれませんが、世間的にそれは難しい場合が多いと思います。ある程度の年齢以上の男性はそれなりに社会的な地位があったり、周りに若い人が多かったりする状況のはずで、この男性が(相手からすると唐突に)オヤジギャグを発したときに、「くっだらねぇ!」、「黙れよ!」などと威勢よく言える立場の人間(だと自分で思っている人)はなかなかいません。いきなり(いかにも楽しそうに)変なこと言い始めた、とりあえず笑っておくしかない、それでオジサンは調子に乗って駄洒落をくり返す……、だから嫌われるのではないかと思います。

    実は、僕の周りには(中高年の男性を含めて)駄洒落を言いたがる人がいないのですが、ちょっと困るのは、真面目な話をしている最中に同音異義語を捕まえて、茶化したり忍び笑いを始めたりする人です。個人的な印象では、オジサン・ご婦人ではなく圧倒的に若い人が多いです。おそらく話に退屈しているのだと思いますが、こちらが意図しないところで空気を壊されるので、正直、まず思うのは不快感ですね。駄洒落は良くも悪くも言葉遊びとして強力すぎて、時と場合をきちんと選ぶ必要があるのかな、と思います。

    長文失礼しました。

    作者からの返信

    駄洒落を熱く語る御仁が居られるとは……ありがとうございます。

    駄洒落は洒落と違って文脈無視なのは仰る通りで、知的水準が下がり「言葉遊びの自由化(誰でも参入出来る)」が起きた結果んじゃないかと、それで「駄」が付く。辞書にも「少しも感心出来ない、つまらないしゃれ」とあるようです。「気の利いた事を言いたい」という欲求の歪なアウトプットとも思います。

    若い世代に言葉尻を捕らえるようなコミュニケーションがあるとすれば、昨今の「マウント取り」「論破」に通じるような気がしますね。言葉を「噛む」事を茶化すとか、文脈無視の詭弁同然ですし。

    ヒゲじいで気になるのは、よくナレーターの説明に割って入るように登場しますね、「あぁ、またですかぁ」とか言われて。あの辺に「面倒臭い(何なら駄洒落も言う)オヤジ」のニュアンスを感じます。オヤジイメージは今でも共有されてるからなのでしょう。

    因みに、僕は近況ノートに自作駄洒落スタンプを定期的に上げてます。嫌いではないかも。