第二話 鏡像
薄暗い森の中は昼間の熱が引いておらず、蒸し暑い。吹いていた風はいつの間にか止まっている。無風状態になった森林内は不快さだけが増していた。
草木を掻き分け先は、木々が生えていない小さな広場になっている。ゴミやボロボロの衣服、様々な鞄、金属片などが散乱していた。人が住んでいた気配もある。故に、お世辞でも綺麗な場所とは言えなかった。
海向 なぎさはそんな中心で佇んでいた。
夕方が近い事もあって、日の光は段々と弱くなり、彼女は薄暗い闇に飲み込まれそうだ。朝、撮影した彼女とは真逆だった。不安と恐怖を漂わせ、逃げ出したい衝動に駆られる。それでも名前を呼んだのは、僕自身が彼女に恐怖している現実を受け入れたく無かったからだ。
情け無いけど、呼んだ声は震えていた。音量も嘘みたいに大きく、森に響いていた。多分、音量機能が恐怖で馬鹿になっていたんだ。
海向 なぎさは声に気付き、僕と視線を重ねた。
彼女の様相は朝と全く同じ、制服だった。
だが、決定的に違う箇所があった。
白いワイシャツが血で汚れていた。
それだけではない。口元にも、べっとり血が付着していた。ホラー映画みたいだった。主人公ではなく、人々を襲う化け物側。
口元の血が重力に負け、ゆっくりと地面へ落下する。時間を超越したみたいで、コマ送りに感じた。
血は音を立てず、地面に吸収され、消える。
何も無かったみたいに。ただ恐怖だけは置き去りにして、不気味さを更に増幅させた。
いつの間にか、混乱と恐怖で足がすくんでヘナヘナと座り込んでしまった。
彼女自体も恐怖の対象だったが、彼女の傍でゆっくり揺れているモノは、さすがに直視出来なかった。
紺色の制服。
OLさんが好んで着衣するような制服だった。
首元は紫に変色し、そこにロープが巻かれ、その端は頭上の太い枝に括られていた。首吊り自殺だという事は容易に想像出来る。しかし、不思議な事に、右腕が千切れ、地面に転がっている。
野生動物に食い荒らされたんだろうか? それにしても、自ら命を絶った結果が、無残過ぎる。
この時点で、村本くんが言っていたOLさんだったという事は明白だった。時間は18:00と言っていたが、時間通りに決行はせず、この世とお別れをしたみたいだ。
結局、間に合わなかったんだ。
助けられたかもしれないのに。
自分の無力さに涙が溢れた。人が死んだ恐怖よりも助けられなかった事が心底、悔しかった。
村本くんは、こんな光景を撮影したかったの?
こんな無残で切なく、恐怖しか無い画角をカメラに収めたかったの? カメラで保存してしまえば、恐怖をずっと保存してしまう事を意味する。あんまりだ。辛くて、悲しくて、痛い事を永遠に繰り返す様な写真は本当に芸術なんだろうか?
僕には分からない感覚だ。
海向 なぎさを除去しても、こんな狂った世界が認められるんだろうか?
僕はその場に、座り込んだ状態から自分を抱き締めた。勿論、震えが止まらない。
悲しくて、涙も止まらない。ここから逃げ出したい筈なのに、怖くて動けなかった。
海向 なぎさに血が付着している事も気になる。だが、言い出せない。これ以上の恐怖はお断りだ。海向 なぎさがあのOLさんと関わっていても、聞かなければ関係ない。数秒単位で、悍ましい想像が頭を駆け巡っているが、それも真実を知らなければ関係ない事だ。
けど、関係ないと虚勢を張っても、思考は止まらない。人間は起きている間、思考停止を出来ない様になっている。
状況も状況だ。目から飛び込む情報が強烈し過ぎて、停止なんて不可能だ。
あのワイシャツの血は?
口元の血は?
脳ミソがフル回転しているみたいに眉間あたりが痛い。頭痛もする。考え過ぎて、酸欠状態になっている。自分でも分かる位に呼吸も荒く、泣いているから鼻水が鼻から入る酸素を阻害されている。
「泣いてるの?」
彼女は、不思議そうに歩み寄りながら言う。
ゴミなどが散乱する足元を気をつけながら、ゆっくりと近付いて来る。足取りからして、森林を歩いた事が無いと思われる。
僕が、このまま黙っていると、触れる範囲まで近寄られそうだったので、拒否反応の様に急いで口を開く。
「………泣きたいよ! こんな状況、泣く以外にやるリアクションってあるの?」
若干ギレ気味に言う。
いや吠えた。
事実、泣いているのでヤケクソになって言う。僕が泣いている事を理解しているのに、聞くのは意地悪だ。だって、泣いている事は事実だし、それ以上でもそれ以下でも無い。
子供みたいに泣く。正しい行動なのか、恥ずべき行動なのか、僕にはもう分からない。だけど、どうしようも無く、涙が流れた。人の死が目の前に転がっている。助ける為に来たのに。こんな無力なことはない。
「橘。知らない人だよ。それ」
海向 なぎさは、指を指して言った。
単調な口調だった。「それ、ゴミだよ?」みたいに軽い注意を促す様に。その発言に感情が無い事は理解出来る。僕だって、家でテレビを見ている時、ニュースで殺人事件が報道されても泣かない。
気の毒に。とは、思考する。けど、それだけだ。
直ぐに頭の中では、希薄し消える。
だが、テレビと現実に目の前で起きた事を並べて比べるなんて無理だ。
頭に焼き付いて離れない。
死に顔が、血の色が記憶容量を圧迫して、オーバーヒートしてしまう。
「怖いの?」
怖い?
怖いさ。
当たり前じゃないか!
君も怖いよ。なんで、ここに居るのかも分からない。情報過多で僕の中には恐怖のみが支配している。
「あ、、」
彼女は閃いた如く、自分の衣服に付着した血を見た。
視線はワイシャツの血に向けられている。口元に付着している血は乾燥したのか、瘡蓋みたいになっていた。
「これか。そっか、油断してた。もう少し明るい時に来たら良かったな。失敗失敗」
「何が失敗なのさ?」
恐怖で制御が効かない。聞かなくて良い事なんだろうけど、口が勝手に開く。沈黙していると目の前の恐怖に押し潰されそうだった。会話をしていれば、幾分か楽だ。
「見て。最悪でしょ?」
白いワイシャツを指で指す。そこには血がベッタリ付着している。まだ乾いておらず、夕日を反射していた。その反射具合がとても不気味だった。けれど不思議と人間の血には見なかった。夕日の光に起因してるのか定かではないけど、淀んだ色だった。最初は赤々しい、生々しいと感じたけど、違うのかもしれない。
試しに聞くてみるのも悪くない。
希望的観測だけど、ホットドッグのケチャップが付着してしまった可能性だってある。あと〜。なんだ? 自殺現場に遭遇して、気が動転。胃に過度のストレスを感じ吐血。っていう可能性だってある筈だ。無いとは断言出来ない。僕はその可能性に賭ける事にした。
「そ、そ、その赤いのは……な、なに?」
聞いてしまった。
「なにって、この人の血。見れば分かるでしょ?」
うん。分からない。
会話が噛み合っていない。僕が恐怖におののく事が間違っている様な口ぶりだ。
いや、辞めよう。
今は彼女に付き合ってる時間はない。人が死んでいる。彼女の血がどういう意味があり、重大な事でもやる事がある。救急車だ。状況は絶望的。思考回路なんて既に焼き切れ、正常な判断も出来ない。逃げ出す理由なんて並べれば、幾らでも並べれる。心情的には逃げ出したいけど、彼女と話していると恐怖していた自分がバカバカしく思えた。
責務を全うしよう。出来る事をやるべきだ。運良くスマホは使える。
日も落ち掛けて、木々の間から差し込んでいたオレンジ色の夕日が弱々しくなっていた。影になっていた場所は、既に夜となり、闇が侵食していた。
フッと自分が見ていた事が嘘だった様に思え、OLさんの死体を見た。いや、嘘ではない。現実だ。僕はスマホを操作する。早く救急車を呼ばないと。
「…ねぇ? もしかして警察呼ぶ?」
「? 警察じゃないよ。救急車を呼ぶんだよ」
暗がりになっている現状、彼女の表情は詳細には分からなかったけど、驚いている様子だ。それに呼ばれたら、不味いみたいなニュアンスがあった。
「やめよ? もう帰ろう?」
「はい? 意味が分からないよ?」
心底、疑問だった。
ここで帰る意味が分からない。いや、来るべきではないと思うよ僕も。村本くんの発案で、ここに居る。全て村本くんが悪いとは言わないけど、結果としては死体を見る事になった。もしかしたら、自殺を止める事が出来たかもしれないけど、結果論だ。間に合っていないのだから意味はない。
無意味なのに、僕は来てしまった。
なら、ここで帰るのは、違う。しっかり救急車を呼んで、OLさんをこんな山の中ではなく、ちゃんとした病院で眠らせたい。二度と起きないかもしれないけど。
「海向さん、何故ここに居るの?」
僕の質問に呼応する様に風が吹いた。熱を帯びた不快な風で、汗ばんだ身体に少しも涼しさを感じさせない。夏特有な湿度を含んだ雑草の匂いがした。風に気を取られて、一瞬だけ彼女から目を逸らし、再び彼女を見た。
何度目だろうか? 偶然に重なった瞳。意図的に自分勝手に重ねた視線。どんだけ近くても、遠い場所に彼女は立っている。僕と景色を共有しても、まるで存在する次元が違うみたいに、彼女は不思議そのもの。
でも理解する。
彼女は僕の問いに答える様に、首を傾げ笑った。妖麗で冷徹を孕んだ笑顔。残り少ない、沈み掛けたオレンジ色の夕陽が暖かい筈なのに、そこには冷たい冬の空気がそこにはあった。
あーそうか。彼女は死体を目の前に、笑顔を見せる。
そういう人種なんだ。
「ねぇ? 橘。君、笑っているよ?」
「え?」
思わず、両手で口元を触った。確かに笑っていた。口角が上がり、満面の笑みをした後に起こる若干の痛みがあった。
僕が笑う?
死体の側で? 何で?
「一緒だね」
「いやいや、違 ―――――――――――― 」
「おおおっ!!!!! 発見! 発見でござるよ! ムムムっ!? 橘氏! 何故、カメラを向けないでござる! コンテストの優勝、出来ないでござるよ?! あそこまで切望していた優勝が眼前でござる! シャッターを切るでござるよ」
草木を掻き分け、村本くんが飛び出て来た。まるでポケモンみたいな登場の仕方だった。頭には葉っぱや、埃や蜘蛛の巣を付け、別れた時以上に薄汚れていた。
息も上がり、制服が破れて膝から血が滲んでいる。
「……」
僕はなにも発せれないまま、
「さぁ橘氏が撮らないなら、撮らせて貰うでござる」
村本くんは
あ、そうだ。救急車を呼ばないと。
僕は村本くんを片目にスマホを操作して、救急車を呼んだ。村本くんにも何か言いたかったけど、色々な疲労が一気に来て、地面に座り込んでしまった。
そのまま眠りに落ちてしまったらしく、救急隊員に起こされるまで爆睡だったみたいだ。形式だけの質問をされ、その日は解放された。家に着いたのは、0時を回っていた。お風呂に入る気力も無く、ベッドに転がった。
疲労困憊で、精神的にも参っている筈なのに僕は、自分の一眼レフにある写真データを見ていた。
昼間の写真だ。
登校している時に撮影した夏の一コマ。
今日は色んな事が一気に有り過ぎた。思い出しただけで目眩がする。それに
まるで恋人同士じゃないか。
いやいや、そんな事はない。僕には恵という彼女が居る。そうだ。彼女が居るのに
彼女は神下 恵なんだ。そしてずっと放置していたスマホを見る。
「やばい」
恵からラインが山の様に来ている。しかも通話もチラホラ。そうだよね。昼間にあんな事があったんだ。話したいよね。他人事の様に、頷き、僕はそのまま恵へ返答は後回しする。
ひとまず今は風呂だ。家に帰り着いた時は、お風呂に入らず寝ようと試みたけど、汗だくで乾いた肉体はお世辞にもいい匂いとは言い難い。控えめに言って、臭い。疑問過ぎるけど、この状態でベッドに飛び込んだのは、まだ気が動転している証拠だ。熱いシャワーを浴びて、スッキリすれば、幾分か楽になる筈だ。そうと決まれば、1階に降りてシャワーを浴びよう。
僕は階段を降りる。
築何年か分からないけど、階段は降りる度に軋む。0時を回った家の静けさをぶち壊すには度が過ぎた音量だ。気を遣えば良いんだろうけど、僕のそのまま1階に降りた。そこでリビングの電気が付いている事に気が付いた。椅子に座り、テーブルを枕代わりにして母さんが眠っていた。手にはビールの缶が握られ、カピカピに乾いた食べかけの野菜炒めが置いてあった。
僕が帰り着いた時には、母さんの姿は無かった。この数分間の間に仕事から帰り付き、大好きなビールを呑んで就寝したみたいだ。幸せそうな背景だけど、寝顔は苦しそうだった。それはそうだろう。全て父さんの所為だ。
父さんは、真面目な人だったけど僕が高校受験真っ只中に、会社の新入社員で若い女性と駆け落ちした。それ以来、母さんは飲めないビールを飲む様になった。お酒を飲めない僕でも分かる。現実は思った以上に残酷で、想像以上に目を背けたくなる。
昼間のOLさんもそうだったのかもしれないけど、僕は分からない。僕に分かるのは、母さんが頑張っている事と必死に生きているという事だ。僕に出来る事は、無いのかもしれないけど、タオルケットくらいは掛けれる。本当だったら、掛ける言葉も一緒にあれば良いが、寝ている人を起こす方が野暮だ。母さんの寝室からタオルケットを持って来て、そっと肩から掛けてあげた。思った以上に老いを感じる背中だった。顔の小皺も増えた。眼尻の皺が愛想笑いで形成されたのは知っている。母さんのデフォルトの顔は笑顔だ。いつでもニコニコしている。怒った所を見た事が無い。だけど、それは悲しい事が多過ぎて、憤怒する事に疲れた弊害だ。絶望の結果が生み出した笑顔。こんなに悲しい笑顔はない。
「ありがとう。母さん」
僕は寝ている母さんに、そう言い、お風呂場へ向かった。かなり疲れているみたいで制服を脱ぐ行為が気怠い。遅々とした動きで、制服を脱ぎ捨て、浴室に入った。シャワーの蛇口を回す。一瞬、冷たい水に身体が反応するけど夏場なので、冷水が気持ちいい。昼間の熱気が水に溶ける様だ。しばらくすると熱い温水がシャワーヘッド吹き出し、冷えた身体を温める。
今日の事、いや昨日か。その出来事が走馬灯の様に駆け巡る。
忘れれると思ったけど、瞼の裏側に映る走馬灯は思った以上に鮮明だ。
血と夕陽がOLさんの死体。
村本くんの写真への熱望。
気絶してしまった情けない僕。
絶望したみたいな顔で手を離した神下 恵。
最悪だ。
悪魔な日だった。酷い日でもある。主に酷いのは僕だけど。恵にはシャワーが終わったら電話をしよう。ちゃんと謝れば分かってくれる筈。コンテストの事も彼女の恵に言えば、良いんだ。
シャワーをそこそこに終わらせ、また2階へ向かう。母さんはまだ寝ていた。身体が痛くなると思うがそこは自己責任だ。スマホも付近に置いていたので、目覚ましはしているだろう。今日も6時から仕事に出掛けるが、遅刻をした事が無い母さんだから大丈夫だ。予測に域を出ないけど、思春期を爆進中で年頃の僕が母さんに世話を焼くのは余り宜しく無い。出来る限りは無関心で無関係が良い。
感謝もしているし、尊敬もしている。だからこそ、
接し方は僕が決めたい。もう少し大人になれば、母さんと向き合えるだろうけど、僕だって傷がある。母さんは被害者みたいな感じだけど、僕だって被害者だ。父さんに捨てられたんだから。
後ろ髪を引かれながら、自室に戻りスマホを見る。もう1時だ。恵は起きているかなぁ?
ライン通話のボタンを押す。軽快な呼び音がする。単音で機械的な音で好きではない。聞いていると心が機械になって行きそうで、早く出て欲しい。
数秒、呼び音がするけど、恵は出ない。
深夜だから寝ているんだろうか? 深夜のバイトに行ってる事もあるから、仕事中?
僕は諦める様に、切ろうとした時だった。スマホから声がした。
「もしもし?」
眠たさ全開の声だった。不鮮明で不完全な声。夢か現実か、分からないそんな狭間を彷徨っていた人間の声だ。
母さんの眠りは思春期特有の反抗期で放置に成功したけど、彼女の眠りは堂々と妨げてしまった。
反省すべき点だ。でももう起こしてしまっている。ここでスマホを切っても、本当に嫌がらせで終わるので会話をしよう。
「神下? 寝てた?」
「ん、うん。そうだよ。深夜だもん」
少し覚醒したのか、言葉をはっきり発している。
「あのー。ごめんね。今日いや、昨日の朝と放課後」
「う、うん」
絶対に気にしている反応だ。寝起きでも瞬時に、暗くなったと理解出来た。やはり電話をしたのは、間違いだった。
「ありがとう」
「神下」
「いっぱい考えたら不安だった。寝たら、全て嘘になるかなぁって思ったけど……ならなくて、朝が来たら私から謝ろうって……ごめんね」
「…うん」
言葉にならないとは、この事だ。彼女の想いはとても重く、繊細だ。
今、考えれば、何故だろうか。本当に彼女が好きなのか分からない。
神下 恵と付き合ったキッカケは僕だった。写真を撮影する為に、僕は夜の街を徘徊していた。そこで偶然、出会ったのは恵だった。
漆黒の星の下、風も無い、静かな夜だった。夜景と冬の風景を撮影したくて、夜な夜な出歩いていた。
一眼レフを首からぶら下げ、どうでも良いプライドを引きずり、ファインダーを覗いていた。自分の技術力の無さ、焦りから正気を失った様にシャッターを押していた。画角の収まるモノは全てカメラに記録した。けど、焦りから生み出される作品は駄作だ。誰の目にも止まらない。誰にも評価されない。ずっとこんな困難が続くなら、カメラと出会いたくなかった。そこまで追い詰められていた僕が、最後の撮影しようと思ったのが自分の通う高校。御坂高校だった。
自分で勝ち取ったモノは少ない。でも高校受験だけが、僕の勝ち取った唯一の証明だ。誰が定めたか分からない合格基準を超え、合格した。落ちた人間も居る中で、努力が認められた瞬間だ。
故に、カメラを辞めるなら、その証明を残したい。僕が僕で有る為に勝ち取った証明を残したい。
そう思い、夜の学校に向かった。うんざりする坂を登り、御坂の正門を見た。闇の中で街灯に照らされる正門は恐怖の象徴みたいだ。切望して入学した筈なのに、夜が姿を変える。希望が絶望に変わる様な感覚で、それを切り取れるカメラの偉大さを噛み締め、ファインダーを覗き、良い画角を探した。
その画角に映り込んだのが、神下 恵だった。
夜の学校に来るなんて、変なヤツと思った。しかもここの生徒ではない。何を思って来たのか分からないけど、ミスマッチな感覚とインスピレーションを掻き立てれて、シャッターを切った。彼女はシャッターに気付き、振り返った。小さな女の子だった。凛として、意志が強そうな顔だった。けれど、どこまでも悲しそうで、どこまでも切なそうだった。砂上で出来た人形みたいで、触れれば崩れてしまう儚さもあった。普段は、そんな事はしないけど、続けシャッターを切った。彼女は怒った顔で「辞めて下さい」とはっきり言った。当然だ。至極当然。モラル的にも撮影を中断すべきなのに、僕の指はシャッターを切り続けた。作品としては、良い訳ない。怒ったJKが夜の学校をバックに詰め寄っている構図だ。どこのコンテストに出すんだって話だ。僕はヤケクソだった。止める気も無かった。もう最後の撮影なんだから、好き勝手やらせて欲しかった。
でも、神下 恵は言葉を続けて、こう言った。
「彼女にしてくれるなら、撮影しても良いですよ」
どんなシチュエーションだ。どんな断りの文句だ。そんな事を言われたら、僕も反応して言ってしまった。
「いいよ」
と。これが始まりだ。提案して来た彼女に僕が賛同した。付き合い方としては、正解ではないと思うけど、彼女が好きで付き合い出した訳ではない。彼女もまた同じだった。簡単に短期契約で終わると安易に考えていたけど、彼女は違ったらしい。冗談が冗談では無くなり、本気へ変化し深刻化した。僕は自分の気持ちをはっきりさせないまま、ズルズル来てしまった。
弱さだ。
相手が僕を好きになったという都合の良さを利用した卑怯者だ。
「神下」
「なに?」
彼女の緊張が伝わった。決心して言おうとした事で僕の真剣度が伝わったみたいだ。身構えているのがスマホ越しでも分かる。
彼女は確信している。次に出る言葉が「別れの言葉」と思っているに違いない。
なら、ちょっとだけ話を逸らそう。
「カメラ」
「あ、うん」
拍子抜けしたみたいな声がした。安堵したのが手に取る様に分かる。バカだなあ本当。僕の事をどれだけ好きなんだよ。
「橘くん?」
「いや、ごめん。カメラが上手く行かなくてさぁ」
「うん」
「神下と出逢った時、辞めようって思ってたんだよ」
「そ、そうなの? あんなに生き生きしてたのに?」
「ヤケクソだったよ。良い写真が撮れなくて、何が良い写真なのか、分からなかった」
彼女からの相槌はない。真剣な僕の言葉をしっかり受け止めているんだ。
優しい人だ。
そして強い人だ。自分本意の感情を彼氏である僕に押し付けない。我慢しているのは明白なのに、悟らせない。
苦悩を受け止めてくれる。カメラを辞めずに居られるのは神下のお陰だ。
「だからありがとう。神下が居たからカメラを続けられたんだよ」
「うん。嬉しいよ」
「嬉しいの?」
「好きな人の役に立てる事は嬉しいよ」
「そっか」
神下の感情は分からない。
好きな人というカテゴリーに彼女が当て嵌まらないからだろう。
僕は残酷なんだと思う。
死体を見て、血を見た後なのに、平然と僕は彼女に残酷な事を言おうとしている。傷心している筈なのに、言葉を吐き出そうとしている。
僕の身勝手だ。
レンズがヒビ割れ、像をしっかり結べないみたいに視界がボヤけている。多分、肺の空気量が不足している。
「神下」
「あ、辞めて。聞きたくない。聞いてしまって終わるなら、聞かないままにさせて。お願い」
泣き声がした。
どうしようも無い泣き声だった。聞いているだけで不安になってしまう声だ。子供が親に捨てられたみたいに無力感を呪う声だった。
辞めてくれよ。
神下。
僕の視界が歪む。
光の線が鏡像を生まず、直進するみたいに僕の瞳から涙が溢れた。
この涙は神下に?
いや、違う。
自ら命を落としたOLさんに向けて、馬鹿野郎って意味の涙だ。
………そう、思いたい。
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