トラウマ引き取り屋のナダカ

綿木絹

第1話 人を信じられない男

 心的外傷トラウマ

 個人で対処できないほどの圧倒される体験によって、もたらされる心の傷。


 その傷のせいで、人格が変わるだけでなく、後の生き方まで変わってしまう場合がある。

 人間とは社会的動物であり、一人では生きていけない。

 気付いていない心の傷や、時間が経って忘れてしまった傷、意図的に封じ込めた傷は誰にだってあるに違いない。


 その傷に気付かず、在り得た人生とは違う道を歩んでいる人も多いだろう。

 大小を考えなければ、全ての人間はそのせいで、在り得なかった道を歩んでいるかもしれない。


     ◇


 男が四角形の光に照らされている。


 それを照明代わりにしているのか、部屋の電気は消えたまま。

 それで生活に困らない程の光源が取れるのだし、置きっぱなしのペットボトルの位置くらい覚えている。

 彼はそのペットボトルに残った炭酸飲料を飲み干して、ゴミ箱に投げ入れようとした。


 チッ


 彼はそれを投げる前に舌打ちをして、爪で引っ搔いてラベルを剥がす。

 以前、このままの状態でゴミ出ししたら、どこぞの女が白い目を向けてきた。


「マジ、めんどくせ。どうせ、あれだろ?みんなこのまま捨ててんだろ?一人分が減ったところで大して変わんねぇよ。」


 だが、ゴミ収集先のことよりも、目先の視線の方が鬱陶しい。

 彼は、とにかく人間が鬱陶しい。


「このギャルゲーもリメイクかよ。マジで最近リメイクばっかだな。批評する俺の身にもなれっての。あれか?どのメーカーも色んな事に日和ってんのか?」


 ご近所さんの目にも日和ってしまう気弱な人間だけれども、ここは彼の城である。

 正確には城主に家賃という捧げものを出しているが、捧げものの効果のお蔭で邪魔する者は誰もいない。


 彼の名前は三井雄太、職業はギャルゲー専門の評論家。

 数多くいるゲーム批評家の中でも、彼が書く記事は比較的的を射ている、と一定数のファンがいるライターである。

 こんなゲームをやっている人間は、大抵がインターネットから情報を仕入れる。

 スレッドというものが立つ掲示板でも、彼の批評に対するアンチは驚くほど少ない。


 やっぱ三井は分かってる。

 でた、三井信者。

 っていうか、三井って俺達なんじゃね?

 三井は世相とか関係なしに、グローバルとか無視して俺らの立場に立ってるからだってさ。他の雑誌にも載せることが決まったらしいぜ。

 ↑お前、三井だろ。本人降臨してるぞ。

 ↑いや、俺が貢いだ。

 ↑誤字wお前、三井と付き合ってんのかよ。


 以前も、とある同人ゲームがコンソール機に移植された時。

 メーカーさんから、名指しでネット記事を書いてくれ、と依頼があったほどだ。


「これ、マジ?雑賀萌香のビジュ変わってんじゃん。あー、これは流石にやる気しねぇ。ま、どうせあれだろ。これもリメイクだから、同じようなこと書けばいいんだろ?」


 彼は殆ど外に出ない。

 そういう人間には便利な世の中になったものだ。

 出会いは必要ない。彼は既に結婚を諦めている。


「既に俺は結婚してんだし。既婚者だし。もうすぐ今日の分終わるから。もうちょっと待っててな、涼音。」


 運命の出会いだった。

 彼の場合の運命の赤い糸は、0か1かで表せる。

 見た瞬間に、この人だと思ったのだから、彼女が運命の女に決まっている。

 運命の女だから、性格もピッタリで、彼が思った通りの反応をくれる。

 それに彼女の我が儘にも、彼は百点満点の回答を用意できる。


 所謂、赤い糸で結ばれた運命の人、自分でも自慢の嫁だ。


 部屋の電気を付けなくとも、彼には彼女が何処に居るのか分かる。

 モニターの明かりは、彼女の彫像の全身は照らされている。

 彫像を見なくとも、彼女の明るい顔はモニター一杯に広がっている。


 そんな画面に映し出されている美少女、彼女の名は東園寺涼音。

 そして彼の嫁である。


「そだ。もうすぐアレだろ。ちょっと楽しみにしててよな」


 彼は入籍した日もちゃんと覚えている。

 ホワイトムーンシャインの発売日から数時間後だ。

 電気信号で来てもらうなど、畏れ多いこと。

 ちゃんと実家(ゲームソフト屋さん)までお出迎えに行った。


 ——その後の短時間で、彼と彼女は見事に結ばれた。


 画面内で式を開いて、この部屋でも式を開いて、画面内で新婚旅行に行った。

 画面外でも新婚旅行に行った。彼女は画面の中に居たままだったけれど。


「涼音はいつも変わらない笑顔を俺にくれる。……涼音。俺も好きだよ。」


 ゲーム画面に向かって話したのではない。嫁に話したのだ。

 先ほどから、彼女が文字で愛情たっぷりの返事をしてくれている。

 その数分前には、ボイス付きで愛を伝えてくれた。


「嘘をつかないし、絶対に変わらない。携帯ゲームに出た時はどうしようかと思ったが、殆ど外出しない俺にとっては無用の長物。……って、嘘だって。もうすぐ年度末のソフトラッシュが終わる。その後、一緒に旅行に行こうな。ちょっとだけ、涼音は小さくならないといけないけど。」


 彼はリアルの女性を愛せない。

 だって、そうだろう?現実の人間はゲームのデータにはない行動をする。

 ゲームの中の彼女たちはゲームの外には出られないから、その中で決まった行動をとる。

 そして純粋な愛をくれる。

 絶対に嘘を吐かないし、絶対に裏切ることもない。

 安心、安全、そして全力の愛をくれるから、こっちも全力で愛を注げる。


「涼音、愛しているよ。もうちょっとで仕事終わるから待っててね。」


 ネットニュースや個人体験掲示板で見るトラブルなんて、絶対に起きる訳がない。

 人間とは息をするように嘘を吐く生き物だ。

 彼氏がいるのに、他の男と関係を持つような生き物だ。


「ふぅ。とりあえずこんなもんだろ。全く。最近は同人の方もチェックしないといけないから、いつ寝ていつ起きたのかも分からない。……さ、終わったよ。涼音。今日も一緒に寝よっか。……え?分かってる。寝る時はこっちだよな。ちょっと狭いけど我慢してくれ。」


 彼は携帯機を揺らさないように両手で持って、布団へと潜り込む。

 結婚しているのだから、一緒に寝るのは当たり前だ。


 そして。


 ——そんな彼には夢があった。


 東園寺涼音との出会いは五年前。既に新婚夫婦とは呼べないかもしれない。

 でも、東園寺涼音は嘘を吐かないし、何も変わらないから新婚夫婦のままでいられる。

 今出ているゲームに比べたら、地味、古臭いビジュアルかもしれない。


 それでも、彼は彼女の夫である。

 いつまでも変わらない、いつも同じ言葉をくれる彼女のことを、彼は心の底から愛している。


 だからこその夢。


「この瞬間、俺以外の誰かも同じことをしている。確信は持てないけど、販売本数を考え、ヒロインの人数を計算に入れたら、……海外も入れたら。なぁ、涼音。涼音が好きなのは俺だけだよな。」


 すると、携帯機ならではの浅い声で少女は言った。


「うん。雄太君しかいないよ。雄太君、涼音も愛してるよ。」


 勿論、雄太君という言葉の部分は「ゆうたくん」ではなく、「きみ」と置き換わってしまうのだけれど。


 東園寺涼音を本当の意味で自分だけのものにしたい。

 ゲームに携わる仕事をしているだけに、絶対に無理と分かっているから、夢。

 夢は叶える為にある、叶える努力をするのが夢。


 彼だって、そんなことは不可能だと、ちゃんと分かっている。

 売れなければ、彼女の新しいイベントが始まらないかもしれない。

 新しい服を買ってあげられないかもしれない。


 だから、それは決して叶わないと知っている。


 ——それでも、彼の我が儘な夢なのだ。


     ◇


 最悪の出来事があった。


 別に最悪とは思わないが、先方さんにとっては最悪らしい。

 先日提出したレビュー記事がウェブ上の記事に載って、それを読んだ先方さんがブチ切れてしまったらしい。

 ならば、辛辣コメントが売りの自分に話を振るなという話。


 あの時はリメイクだから脳死でゲームプレイしたような気がする。

 だって、持ってくる時期が悪い。

 年度末だから仕方ないかもしれないが、彼にとってもその時期は大切なのだ。

 五年前の年末に発売されたホワイトムーンシャイン、彼が運命の女性と出会った月。


 彼にとっては五年目の結婚を祝う大切な時期だった。

 実際、脳死プレイでやったかも、という自覚はある。


「未プレイヤーも既プレイヤーも食いつくようなネタにしろ?ゲームやらずに書くなって?ちゃんとやったぞ。あんまり覚えてねぇけど。それに、あんなのガチャ要素付け足しただけじゃねぇか。どっかで見たことのあるパズルゲームを追加しただけじゃねぇか。今日は涼音を連れてこなくて、マジで正解だった。」


 久しぶりに外に出た気がする。

 そして、トラウマレベルの人ごみの中を歩いて、知らない奴に頭を下げた。

 それだって、十分トラウマレベルだ。

 こうなることが分かっているから、今日は嫁を連れて来ていない。


 世間一般的には携帯用ゲーム機を持ってきていないだけ。

 だが、彼が言うと意味が変わって来る。

 いつも彼女と一緒だったから、一人で歩く夜はどれくらい前かも覚えていない程。


「こんな状態を涼音には見られたくないな……。ちょっとだけアルコールで洗浄しようか。この鬱陶しいトラウマはアルコールで滅菌だな」


 そして、彼は久しぶりに居酒屋というものに入った。

 本気でむしゃくしゃするのだから、アルコールで洗い流すべきだ。

 嫁が心配ではあるが、嫁はアルコールのみならず、水分の類が嫌いだ。


 そして嫁の前で愚痴ったら、どうなる?

 うっかりグラスを倒してしまったら?

 あの子が記憶喪失になってしまう。


 だから彼にとって、久しぶりの一人酒。当然近寄ってくる者は誰もいない。

 そして、彼は久しぶりのアルコールを舐めていた。

 アルコールとはこれほどに足元がおぼつかなくなるらしい。

 それに頭も痛いし、気持ちが悪い。


 彼が店内に居たのはたったの15分。

 だから、まだ午後八時である。


「頭、痛っ……。今日はとことんついてない。酒を飲んだのなんて、いつぶり……。もう、覚えてねぇや。それもこれもリメイクラッシュが……、……ん?」


 酔った帰り道、彼は自分の目を疑った。

 酔っているから、あんなのが見える。

 酔っていない状況であれば、そう思って無視していた確率は百%。


「あれ、なんておもちゃだっけ。頭部分がくいくい動く、ゲームでも背景でよく見る……」


 この日は何故か気になった。路地裏に続く道にそれが置いてあって、先ほど誰かが頭部分を動かしたのか、手招きしているように上下に動いている。

 それに張り子の虎にしては妙なデザインだった。


「張り子の馬……ってのもあるとは思うけど、胴体はトラで頭部分は馬?なんだこれ。誰かの悪戯か?」


 普段の精神状態では恐らく考えもしなかっただろう。

 彼はなんとなく、それが気になってしまった。

 そして、近づいてみると分かったことがある。


「え?道の奥にも同じような張り子のトラ、そして頭は馬。玩具が定期的に置いてある。俺を揶揄ってんのか?」


 今の彼に怖いものは少ない。酔っているのもあるが、今日は嫁は連れて来ていない。

 だから、不気味かどうかさえ分からないおもちゃも怖くはない。

 それになんだかんだ、一番有名な飲み屋街の路地を一本歩くだけ。

 そこに怖くてそれっぽい人が居れば別だが、人は誰もいない。

 ただ、分かるのは張り子の頭が上下に揺れていること。


「ん?明かりが……。あれはお店か?飲み屋って感じじゃないし」


 彼は本当に引き寄せられたように店の中まで歩いていく。

 古風にも見えるし、最近できたようにも見えるお店。


 一番目についたのは、道に落ちていた馬が頭の張り子のトラを大きくしたものが、お店のカウンターに置かれていたこと。


 ここの店主が置いていったのかもしれない。

 もしかしたら、大昔のおもちゃを売る為、客引き用に誰かが置いていったのかもしれない。


「なんだ、ここ。誰もいないし引き返そ……」


 その時だった。


「おや。お客さんですか。ようこそ『囚迂摩とらうま堂』へ。私のお店に来られるなんて、よほどお疲れなのでしょう。ねぇ、タピ。」


 真っ黒のシルクハット、喪服のように見えるが、よく見ると3ピーススーツの男。

 スーツ姿の男なんてそこら中に歩いているが、シルクハットを被った者は全然見かけない。

 そんな男が彼の後ろから歩いてきた。

 そして、カウンターの向こう側に行ったところでクルリと振り返る。

 長身で色白、鼻筋の通ったイケメン、そして高身長の男。


「ん、タピって誰です?」

「あぁ、気にしないでください。私のちょっとした癖です。ついつい、この玩具に話しかけてしまうんですよね。」


 奇術師にも見えるし、葬儀屋にも見えるし、ただの紳士にも見える。

 でも、彼を一言で表すなら、奇妙な男だった。


 シルクハットを被ったままのせいか、前髪のせいか、目だけはよく見えない。

 通った鼻筋から日本人離れした顔立ちだとは分かる。

 帽子の隙間からは金色の髪がはみ出ているから、日本人ではないのかもしれない。

 そして奇妙だが、下顔面しか見えないのに、爽やかな笑顔をしているのが、何となく分かってしまう。


「あ、いえ……。その。そのおもちゃが気になって、フラッと入っただけというか。すみません、客では——」

「おもちゃ、気になりました?これ、面白いですよね。体はトラなのに、頭はウマ。」

「あの、ですから俺は——」

「でも、一応ウチのマスコットなんです。なんせ、ウチはお客様のトラウマを引き取って差し上げる、というのが売りですので。」

「は?」


 何を馬鹿なことを、三井はそう思った。

 ただ、酒のせいと不気味ではあるが、アレが怖そうには思えなかったから、その場の勢いで聞いてみた。

 というか、絡んでみた。こんな姿、嫁には見せられない。


「トラウマを引き取る?あー、それは流石に引くわ。あれか?このおもちゃを買って、枕元におけば幸せになれるって?こんな、観光地のお土産屋で売ってるようなものに百万だか三百万だか……。悪いけど、俺にはそんな金ない。物理的にもない。悪いな、騙される人間をちゃんと考えた方がいいぜ。もっと騙されやすい金持ちとか——」

「いえいえ。お金などに興味ありません。それに今の口ぶりだと、トラウマをお持ちのようですね。……失礼しました。説明が不足していたようです。私はお客様がお持ちのトラウマを引き取って、その対価としてお客様の一番大切な夢を頂く、という取引を生業としているのです。」


 この言葉を聞いただけで、お腹は一杯。

 どう考えても眉唾。頭のおかしな奴。

 だが、万が一にも本当だった場合も一応考える。

 


「成程な。一般人には叶えられない程の大きな夢を持っている人間。例えばスポーツ選手が心的外傷で投げられなくなった場合、そのトラウマと引き換えに、彼の夢であったプロ野球選手の夢を奪われてしまう。ま、良く出来た皮肉交じりの話だ。何処かで聞いたような、ありきたりな話だけどな。」


 ギャルゲーにもそんな展開は多い。

 いや、そうでなくともおとぎ話や昔話で良くあるパターン。


 ——ただ、今回ばかりは違う。


 男の夢は「ゲーム内の女の子を自分だけのものにすること」

 データが故に、ゲームが故に、マルチ展開されているが故に、100%叶えられないもの。


「お褒め頂き有難うございます。では、取引成立でよろしいですか?」


 褒めてはいないのだが。


 もしも本当だとしても、彼はこの後、「この冷やかしが。酷い夢を貰ったものだ」と思うことだろう。

 でも、それは知ったことではない訳で。

 っていうか、信じていない訳で。


「あぁ。よろしく頼むよ。」


 だから、この男にちょっとだけ付き合ってやろうと思った。

 どうせ叶わない夢なんだから、失ったところでバッドエンドにはならない。


「何個でもいいのか?今日、頭を下げたトラウマとか、近所のおばさんに睨まれたトラウマとか。」

「勿論です。……それが貴方の抱える本当のトラウマなら」


 今になって気が付いたが、彼は黒い皮手袋をして、茶色の革製のビジネスバッグを持っている。

 どこかで販売を行って、今戻ってきたのだろうか。

 そしてその男は、革製の長方形のカバンをカウンターに置き、そこから契約書類を一枚拾い上げた。


「ここにサインをして頂けますか?形のないものなので、ちゃんと形に残さないと取引が成立しないのです。」

「マジ?ここで契約書かよ。……どっかに小さな文字で、とんでもないこと書かれてないだろうな。」

「でしたら、虫眼鏡をお貸ししましょうか?先ほど私が申した内容しか書かれておりませんが、後悔されぬようにしっかりと目を通してくださいませ。」


 三井雄太の酔いは殆どさめていた。

 だから、という訳ではなく。


「え、表も裏もこれだけ?この一枚だけ?本当に夢と引き換えにトラウマを取ってくれるってだけ……。ま、いいや。暫く仕事もなさそうだし、遊びに付き合ってやる。金について書かれてなけりゃ、それで——」


 シルクハットを目深に被った男の口角は上がったまま。

 ただ、それは不気味に吊り上がったというよりは、本当に嬉しそうな笑顔だった。


 でも、名前を書いた瞬間。

 その男ではなく、店内に置かれた全ての張り子の上下する頭が、全て自分を向いたような気がした。




      ◇


「……君。あの、聞いてる?雄太君。今度の休み、どうしようか?」


 俺は突然、声を掛けられて肩を跳ね上げた。

 そして、見たことがある背景に目を剥いてしまった。

 どこかの大学の食堂、いや多分知っている大学の食堂。


「あー。やっぱり寝てたんだー。もうもう。雄太君は予定立てるの嫌いすぎ—!」


 ずっと俺に話しかけている誰か。

 ここ数年、目を見て話す癖を忘れてしまった俺にはきつい状況だった。

 それより、俺はどうしてここにいる?


「あ、そうだ。スマホ……。あれ?俺、なんでずっと前に機種変更したスマホを」

「え!雄太君、もう機種変更しちゃったの⁉前に私と同じのにしたばかりなのにぃ?」


 まるで意味が分からなかった。

 周りは学生ばかり、そしてその中に三十代の俺がいる。

 こんな不可思議なことが起きるとは思っていなかった。


「このカバンも俺が学生時代に使ってたやつ……」

「そうだよー。高校の頃から使ってたやつ。私が買い替えろっていっても、買い替えてないやつー。」


 確かに俺にも覚えがあった。

 大学の学生食堂で確かに俺は——


「あ、そだ。雄太がぼやぼやしてるから、こんなに時間が経っちゃった。私、玲子と待ち合わせてるの!じゃね、寝ぼけて午後の講義に遅れんなよ―!」


 女学生が立ち上がり、自分の分の食器を持って歩いていく。

 この時の俺は何が何やら分からなかったわけで。

 夢でも見ているのかと思った訳で。


 だから、あのシルクハットの黒服さえ、夢かもしれないと思った。


「全部が夢。それにしても……、懐かしいというか、なんか胸が痛——」


 だが、あの男の言っていたことが、少しずつ心に具現化していく。

 自然と追った彼女の後姿の先に居た男、今も楽しそうに話す男の顔。


「あいつ……。恭平だ。随分若い……というか、その頃のアイツしか知らないけど」


 中学の頃からの親友。

 その男が女学生に手を振った後に、俺を見た。

 そして、楽しそうな顔でこっちに来る。


「お。雄太じゃん。相変わらず、涼子ちゃん可愛いねー。マジで羨ましいよ。お前がさ。」


 俺は全身の筋肉が強張るのを感じていた。

 あの黒服男はなんて言っていた?それが俺の本当のトラウマならって言っていた。


「恭平、何の用だよ」

「何の用って、どしたの?怖い夢でも見た?君の彼女さんから、午後からの講義に連れていけって頼まれてんの。お前、単位ギリギリだろ?」


 何を楽しそうに笑っていやがる。

 思い出したんだよ。

 もう、記憶の奥底にしまってて、絶対に思い出さないように鍵をかけてたけど、思い出したんだよ‼


「お前こそ、やけに楽しそうだな。何かいいことでもあったのかよ。」


 お前と高宮涼子は裏で付き合っているんだろ?

 俺に隠れて、涼子と会っているのを、俺が気付いていないと思っているのか?

 この時はまだ、風の噂で聞いただけだったから、普通に話したんだっけ。

 もう覚えてないけど。お前らのせいで俺は——。


「おいおいー。やきもちかー。っていうか、何?その顔。冗談だっての……、っておい、雄太‼」


 そして、俺は親友だった男を無視して、このまま家に帰ることにした。

 帰りながらも、頭の中は沸騰しっぱなしだった。

 高宮涼子は嘘つきだ。そして親友だった男、品川恭介も大嘘つきだ。


「……思い出したぞ。思い出したくなかった過去だから、完全に封じ込めていた。でも、俺は二人に嘘を吐かれて、涼子に浮気されて、親友に裏切られて。そのまま俺は大学に通わなくなった。アイツらの言い訳が聞きたくなくて。いや、周りの人間にどう思われいるのかも、全部嫌になって。」


 シルクハットの男の言いたかったことが、だんだん分かってきた。

 俺のトラウマ。本当に抱えていたのは、この時代のあの出来事だった。


「俺の人間不信はこいつらから始まったんだ。大学生活は全部全部ダメになった。それから先に人生も全部そうだ……」


 っていうか、俺にまた嫌な思いをさせるつもりかよ。

 これ、詐欺じゃねぇか。


 大学時代の俺は、いやその後もだけど、一人暮らしをしていた。

 当時からゲームは好きだったけど、今ほどギャルゲーに嵌っていたわけじゃない。

 確か、この時期から……、この後からハマり始めたんだっけ。

 学校に行かなくなった時期からだっけ。


「問題は、この後俺はどうするべきかだな。二度とあんな屈辱は御免だ。だけど、俺はこの後の展開を知っている。既にあいつらはこっそり付き合ってる。んで、俺はあいつらを突っぱねて……、居づらくなって大学を中退した。」


 記憶が蘇ってくる。

 体も当時に戻っているから、頭の周りも早いのかもしれない。

 だからこそ、頭に来ているのかもしれない。


「俺が抱えていたトラウマはこれ。そして今の俺に出来ることは……、これしかない。あいつらへの復讐だ。だが、この時代に出来る復讐ってなんだ?」

 そして、雄太の顔が邪悪に歪む。


「——そうだ。俺と涼子が付き合っていることは有名だった。そして恭平と俺が仲良かったのも有名だったはずだ。……だったら、俺というものがいながら、二人がお忍びでデートしてる証拠を。写真を撮って、こっちからフッてやるってのはどうだ?大衆の面前でその写真を叩きつける。一枚じゃ足りない。何枚も一遍に出されたら、周りの奴らはなんて思う?はは、絶対にアイツらの方が居心地悪くなるよなぁ!」


 俺は親友に寝取られて、そこから逃げてしまったからトラウマを背負ってしまったんだ。

 あの後、俺は家に引き籠ってずーっと考えてた。

 あいつらが一番傷つく捨て台詞を、どうして言えなかったのかって。

 もっと酷い女だって言えたはずなのに、もっと最悪な男だって言えたはずなのに。


 ——俺はただ無視して、逃げた。


「手始めに……、これだな。この写真を切り取って……」


 思い立ったが復讐の吉日、と言わんばかりに俺は写真にはさみを入れた。

 そして、その足で学校の掲示板に向かった。

 三コマ目は終わったかもしれないが、まだ四コマ目は終わっていない。

 だから、易々と学校の掲示板にこっそりと辿り着けた。


 そこで俺の足が止まる。


「え……。既に似たような写真が張られている。そうだ……。俺はこの写真を見て確信を持ったんだ。誰かが何の為に撮ったのか分からない写真。切り抜かれた一枚の写真。誰だよ、こんなことしたやつ。こんな、誰かも分からない写真じゃ、俺しか傷つかないだろ。」


 だから、その写真は押しピンも抜かずに、ピッと破りながら回収した。


「いや、俺が持ってきたのも同じようなものだ。……やっぱ明確な一枚を、複数枚を。興信所張りに叩きつけなきゃだめだ。絶対に気付かれずに……」


 そこから俺の探偵生活が始まった。

 二人がいつ会っていたか、おおよそ予想がついていた。

 噂で回ってきた目撃時間と、俺の過去の記憶。

 心配になって何度かメールや電話をしたことがあった時間帯。

 

「俺は単位がぎりぎりだったから、四コマ目の講義を受けないといけなかった。だから、その時間帯に二人は会ってたんだ。夜は流石に電話に出ないのは不味い、と思ったんだろ。後からなんで電話に出ないのか聞いたら、講義中だったからとはぐらかされた。」


 その点、今の俺は無敵の人だ。

 だってどっちみち俺はこの後、学校に行かなくなる。

 成程、二人で会いたいが為に俺の単位の心配をしてくれていたわけだ。


「18万円と消費税になります。」

「く……。思ったより高いな。でも、あいつらが焦る顔と、周りから白い眼で見られる姿が見られると思ったら安いもんだ。」


 俺は今まで以上に、何も知らない顔で学校に通い始めた。

 ただ、単位が必要な筈の講義には出席しない。

 そこからが俺の時間。復讐のための必須単位。


「‼」


 そして、結果的にはビンゴ、大正解だった。

 二人は四コマ目の単位が必要なかったらしく、二人で歩いている姿を俺は見かけた。


「今から行って、ぶん殴るか。……いや、待て。そうやったところで俺がただ暴力をふるっただけだ。今は証拠。今は証拠だ。」


 遠くから何枚か写真を撮る。

 そして、それを家に帰って印刷する。デジカメの画面を順番に見せるんじゃあ、復讐にならない。

 やはり、みんなの前で廊下に叩きつけなければ。


「今日も喫茶店か。やけに話し込んでるな。……ってか、これって俺が夕方掛けても無視された日?大事なようがあるって言ったのはこのことかよ‼」


 二人は喫茶店で長い間話しこんでいた。

 だが、角度が悪い。

 流石に探偵ではないし、隠し撮り用のカメラではないから、店内に入れば絶対にバレるし、はぐらかされる。

 そこで事実を突きつけても良いが、ギャラリーが足りない。


「くそ。この時間も俺は暢気に聞きたくもない講義を受けて立ってことかよ。次だ、次。今度こそ決定的な……」


 ついにその日がやって来た。

 完全に窓側という訳ではないが、十分に顔が認識できる。

 俺はその一枚を写真に収めようと一歩前に踏み出した。決定的瞬間を撮るために。

 だが、その時。


「あ……あ……あ……あ。足が心臓が……、頭が……」


 突然、俺の体が拒否反応を起こした。

 もしかしたら、歴史の改変とかいうよく分からない、SFチックな何かの力かもしれない。


 それに一本前に出て瞬間に俺は気付いたんだ。


 ——あの光景を俺は知っている。


 俺はこの場面を目撃している。

 そして、俺は確信を持った。この時が俺にとっても決定的瞬間だったんだ。


「負ける……かよ。せめて……一枚」


 カシャ


 乗り越えなければ、あいつらにぎゃふんと言わせなければ、トラウマの克服になんてならない。

 トラウマが蘇ったとて、俺はこれをやり切ってみせる。


 そして、俺は走り去った。

 そして結局、よく分からないこの世界でも、俺は家に引き籠り始めた。

 スマホに何度も着信がついていた、メールが何通も来ていた。


「そうだ。俺はあそこで走り去って、それからこんな感じに……」


 どうやら、この頃から部屋の明かりを消す癖がついていたらしい。

 パソコンの画面だけが光っている中、プリンターの規則的な音だけが鳴っている。


 でも、あれ一枚じゃだめだ。


 もっともっと決定的な……


 自分でも狂い始めているのが分かる。

 過去の記憶とさっき見た記憶が重なって、胃がひっくり返りそうだった。

 何度、吐いたか分からない。


 それでも俺は絶対に。


「もっとスキャンダルな写真を撮ってやる」


 そして、ついにその日を迎えた。

 完全なるスキャンダル、いや学生時代ではこれをスキャンダルと呼ぶかは知らないが、それでもそうなるに違いないと思った。


「あっちの方向にあるのは、ホテル街だ。あいつら、そこまで……」


 完全なるスキャンダル写真だ。

 法には触れなくとも、残りの三年間の学生生活で破廉恥な写真についてをずっと言われ続けるんだ。

 そして、学校に行くのが嫌になる。

 それが復讐になるかは正直分からない。

 でも、——ただ逃げただけの、あの頃よりはずっといい。


「——‼クソ、バラバラで入るつもりか‼」


 十分に考えられる行動だった。

 警戒されていなくとも、彼らは一応18歳で大学生。

 他にやっている生徒はいるだろうが、ここはあまりにも学校から近い。

 今も涼子は俺と付き合っているし、恭平は俺の親友、そういう体裁は残っている。

 現実とはかけ離れているけれど。


 だから、俺は急いで二人を追った。

 だが、その時。


「雄太、待ってくれ!涼子ちゃんは関係ないんだ!俺の話を聞いてくれ‼」


 背後から元親友の声がした。

 そして。


「やっと捕まえた。雄太君、私。何度も連絡しようと思ったの!雄太君、絶対に勘違いしてるって‼」


 隠し撮りしていることがバレていた。

 そして、こっち方面に来たら確実に追ってくると思って罠を張っていた。

 だが、何のために?

 何を言うかと思ったら、白々しい嘘。


「俺はお前たちが付き合っているって知ってる。ずっと知ってたんだよ。」

「違う、俺は——」

「そんなわけないじゃん!私は雄太君と付き合っているんだよ!」


 どうやら、お話にならないらしい。


「クソ、こんなところで使わないといけなかったとは。俺はな、ちゃんと証拠も用意してんだよ。二人が仲良さそうに喋ってる写真。今日撮れば完璧だったのに……」


 デジカメだったから、メモリーに残っている。

 かさばるくらい大きく印刷したから、印刷した写真は持ってこなかったけれど。

 本当はもっと大舞台で、二人の悪事を裁くつもりだったのに。


「これ、私たちの写真……」

「俺の顔、ばっちり映ってる……」


 こんな雑居ビルの間で、頑張って撮った証拠写真を突き付ける。

 この程度のことで終わらせたくはなかった。

 それでも、何の証拠も突き付けられず、逃げてしまった自分よりはマシ。

 当時の俺からしたら、百点以上の点数だ。

 トラウマという赤点がどうにか消えてくれるレベル。


 そう、思っていた。


「こんなに良いカメラまで買って……、本当にごめんなさい。噂を聞いた時、もしかしたらって思ったの……」

「ゴメン。涼子ちゃん。俺の為にこんなことに……」


 泣き崩れる涼子と、青い顔の恭平。

 そう、俺はこの姿が見たかった。……本当に?


「決定的な証拠だ。俺のトラウマのな。そしてこれからは……」

「待って。本当に違うの!ほら、……これを見て。良いカメラだから拡大できるでしょ?」


 最初、何を言っているのかと思った。

 でも、涼子がデジカメの拡大ボタンを押すたびに、俺の目が少しずつ剥かれる。


「ちょっと柱が邪魔になっているけど、この子。女の子って分かるでしょう?麗美ちゃんって言って、私の中学の友達で女子大に通っているの。それで……」

「俺がさ、偶然知り合ってさ。涼子ちゃんが知っているっていうから、どうにか出来ないかって相談をしてて」


 白々しい嘘、と言おうと思った。

 でも、確かにあの時喫茶店で撮った写真には、同じ席にもう一人女が映っていた。

 あまりのショックに気付かなかった。部屋を暗くしていたから気付けなかった。

 二人のことしか頭になかったから、簡単なことを見ようともしなかった。

 でも……


「他にも……」

「雄太。ここじゃちょっと説明しにくい。それに来て欲しいところがあるんだ。」


 そして俺はいつも隠し撮りを狙っていた、あの喫茶店に連れられた。

 そこに写真では柱の陰になっていた女が待っていた。


「俺は……なんてことを……」


 これこそ、決定的な証拠だった。

 だから俺は人目も弁えずに、喫茶店の床に崩れ落ちた。


「ゴメンなさい……、涼子。ゴメンなさい……、恭平。ゴメン、ゴメン。俺……、本当に……本当に……」


 あの時、逃げた時でさえ出なかった涙が溢れ出る。

 噂を聞いて、それで疑いを持って、尾行までして、あの喫茶店で二人が話しているのを見て、それで俺は逃げ出したんだ。

 二人はあの時、多分気が付いていた。

 だから、今回は待ち伏せしていた。

 でも、当時の俺はそれから引き籠ったままで。


「あのね。直ぐに雄太に相談しようとしたの。でも、その前に変な噂が立っちゃって。それから雄太はずっと上の空で……。私の話を全然聞いてくれなくて——」


 そうだったかもしれない。

 あの頃の俺は彼女が全てだった。

 世界だってこんなにも狭くて、それにゲームという逃げ道も持っていたし。


 そして、ここで。

 美しい人だと思っていた、見知らぬ彼女が悲しそうに話し始めた。


「涼子ちゃんと彼氏さん……よね。ゴメンなさい。アタシのせいなんです。アタシが恭平君と仲良くなることが嫌だった連中が、恭平君が遊び人だっていう噂を広め始めて。」

「前、俺のこと怒って学食から出てったのって、アレを見たからだよな。……俺と涼子ちゃんのツーショット写真……。いつの間にか剥がされてたけど、あれが更に……さ。」


 俺は目を剥いた。そういえば、そうなのだ。

 アレを貼った記憶はない。過去にもない。

 過去はアレを見ることもなく、噂だけを信じていたんだろうけれど。

 誰か別の人間が貼ったにしては、意図が分かりにくい写真。

 だが、麗美と恭平が仲良くなるのを邪魔をする誰かなら、やったかもしれない質の悪い悪戯。


「うん。噂はどんどん広まるし、あの写真も何度も張られるし。雄太君、私のこと嫌いになったのかと思ってた。私は雄太君の彼女……だよ?えと……雄太君はどう思っているの……かな?」


 俺の胸のどす黒い何かが粉々に砕けた瞬間だった。

 心の奥の部屋の奥の鍵付きの引き出しが戸棚ごとぶっ壊れた気がした。


「俺も……。変わらず好き……だよ。じゃなきゃ——」

「良かったぁぁ!私、すっごく心配してたんだから。私が逆の立場だったら、絶対に同じようになっちゃうって思ってたし。……もしも、このまま雄太君がいなくなっちゃったら、私、一生後悔していたと思う。」


 ほんと、俺はなんて馬鹿だったんだろう。

 ちゃんと話を聞くべきだった。逃げちゃダメだった。


「俺も……後悔してた」


 ここから先の出来事は意味が分からなかった。

 俺は相変わらず、涼子と付き合っていて、涼子も俺とずっと一緒にいてくれた。

 俺の単位が足りないって分かったときなんか、涼子と恭平、それに麗美さんも手伝ってくれたりした。

 四人でダブルデートしたりもした。


 だから、俺はあのことを忘れて、この世界で幸せになろうと思ったんだ。


 そんな都合の良い話なんて、あるわけないのに。


「涼子、俺。お前のことを一生大切にする。だから結婚してくれないか?」

「うん。私、すごく嬉しい。私も貴方のことを一生大事にするね。」


 卒業してすぐ、俺と涼子は結婚することになった。

 両親へのあいさつにも行ったし、恭平と麗美さんもとても喜んでくれた。

 次は自分達だと、ラブラブっぷりを見せつけられもした。


 こんなに全てがうまく行くなんて、思っていなかった。

 俺がどうしてここに来たかなんて、とっくに忘れていた。

 あまりにも毎日が幸せ過ぎたんだ。


 だが、その時はやってくる。


 ステレオタイプな文言を神父が言った後。


「誓います。」

「誓います。」


 互いに愛を確かめ合った時のこと。


「涼子。すごく綺麗だよ。俺の嫁になってくれてありがとう。」


 その瞬間、全身が震え始めた。

 俺の?いや、全員の。


「東園寺涼音……」

「ん?雄太君、それ、誰?」


 いつでも気付けた筈なのに、幸せ過ぎて分からなかった。

 そして、今気付いてしまった。

 ウェディングドレスに身を包んで、世界一美しくなった彼女は。


 ——俺がゲーム内で愛した東園寺涼音、そのものだったんだ。


 俺はゲームの中に、高宮涼子を探していたんだと、こんなところで気付いてしまった。

 そして、俺は見事に高宮涼子を本当に自分だけの嫁にすることが出来た。


 夢を叶える為にトラウマを差し出して、その夢を取られてしまう。

 そんな幼稚な昔話、おとぎ話に引っかかる男なんていない、俺はあの時そう思った筈なのに。


 視界に広がっていた厳かではあるが、華やかな結婚式場が次第に崩れ始める。

 暗闇が広がり始める。いや、何かに食べられたかのようにボコボコと抉られる。


「み、み、皆……。逃げてくれ。俺だ!俺が我がままを言っただけなんだ‼全部、全部俺のせいだ。頼むから……、俺の夢を持っていかないでくれ‼俺はもう、死んだっていいんだから‼」


 そして、全てが暗闇となった。


     ◇


 男は一人、一風どころか色々変わったお店に立っていた。

 目の前には目深に被ったシルクハットの男がいる。

 真っ黒なスーツに真っ黒なネクタイ。そして真っ黒な手袋と革製の鞄を持っている男。


 そのお店はばくの形をした玩具を取り扱っているらしい。

 三井雄太はニコニコ笑っている店主とカウンター越しに見つめあっていた。

 正確には目があるかもしれない前髪の辺りを見ているのだが。


「あ、あの。すみません。そこの獏のぬいぐるみ、かわいいですね。それ、一つ頂けますか?」


 気まずいからとりあえず注文をしよう、と雄太は店員と思われる男に言ってみた。

 ただ、彼はニコニコしたまま、頭を下げた。

 どういう構造なのか帽子は落ちないらしい。


「すみません。閉店しましたので、商品はお売りできません。貴方も御帰りになった方が宜しいのでは?」


 なるほど、どうやら早く帰ってくれないか、と思われていたらしい。

 だから三井は会釈しながら、その店を出た。


「えっと。俺はなんでここに来てたんだっけ。」


 予定を確認しようと、スマホを取り出してみた。

 そもそも、今が何時なのかも分からない。


「夜の九時か……。っていうか、何だこれ。さっきからメールがどんどん送られてんだけど。しかもこれって——」


『古臭い感じじゃなくても、もっと新鮮なエロを要求しています』

『ねぇ、聞いてます?もっとエロい感じに——』


 三井は直ぐにスマホから目を離した。


「迷惑メールがこんなに来てる。今も似たような文章が送られてきてるし。なんだよ、もっとエロくなりませんかって……。スマホ会社、変えようかな。」


 その時、彼は何かの気配を感じて、振り返った。

 ただ、その先は暗闇で、何かがあった痕跡さえなかった。


「あれ。俺がさっきいたお店ってどこだっけ。」


 そして、一度大きく伸びをして、頭を左右に振って首の骨を鳴らした。


「スマホ変える前に、……電話してみようかな。番号変えちゃったら、多分誰からの着信かも分からないし。」


 親指を動かして、アドレス帳を検索してみる。

 そして、目当ての名前を見つけて、親指をそちらに動かす。

 ただ、そこで彼は少しだけ間を置いた。


「いきなり掛けたらおかしいかな。それに結婚してるかもしれないし……。ま、いいや。そうなってたら番号変えてるかもしれないし」


 えいや、という気持ちでボタンを押すが、通話ボタンを見てもう一度躊躇する。

 けれども、そこも勇気で乗り切って親指に力を篭める。


「……、……、……、やっぱり繋がら——、あ、もしもし!俺、……えっと三井雄太。分かる?——え?そうなの?あのさ俺……、——え?ほんと?あのさ、今度。……ん?俺?今、中町の……、——え?そこにいるの?うん、直ぐ行く‼」


 そして男はへたくそなステップを踏みながら、繁華街へと戻っていった。



     ◇


「うー、重くて動けないよー」


 繁華街を見下ろせる場所にある公園で、獏のぬいぐるみが地面をのたうち回っていた。

 その動物まがいを無視して、黒服の男は人が作った光を見下ろしていた。


「トラウマを失った者は、それが無かった人生を歩み始める。ただ、変わるのは本人だけで、周りは今まで在った世界が続いている。だから、人によってはトラウマを抱えたままの方が、幸せな場合もあるのですが……」


 男がシルクハットを脱ぐと、ハットは空中で平らになるまで綺麗に折りたたまれた。

 そして薄くなった帽子は、勝手に革鞄の中に吸い込まれていった。


「うー。生まれるー。僕、もうすぐ生んじゃうよー。ナダカー、今すぐ白湯とタオルをー」

「タピ。夢は一日一つまでです。私達は善人でもキューピッドでもないんですよ。」


 ナダカと呼ばれた男は半眼で睨みつつも、身を屈めてまるまると太った獏の背中を擦った。


「だってー。ナダカだってゆで卵を二つ連続で食べてたじゃん。」


 タピの言い訳に肩を竦めて、ナダカはぬいぐるみのような動物の背中をポンと叩いた。


「おぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」

「ゆで卵は美味しいんです。夢の味は知りませんが、少なくとも私は食べたいとは思いませんね。わざわざ、呼び寄せる必要があったとは思えませんが。」


 結局、タピは口からビー玉のようなものを吐いてしまった。


「相変わらず、気持ち悪いですね。下から出されても困るのですが。」


 ナダカは胸ポケットからハンカチを取り出して、獏が履いたばかりの色付ガラス玉を拾い上げた。

 そして、ビー玉を丁寧に磨き上げて、それを前髪の中に忍ばせた。


「どう?僕、頑張ったんだからもっと褒めて―!」


 どこから生えたのか、翼でパタパタしながらタピがナダカの肩に乗った。

 タピに重さはないのか、ナダカは微動だにしない。

 ただ、数秒後に軽い溜め息を吐いた。


「ダメですね。二つ分、どちらにもありませんね。」

「それじゃ、それ。タピが食べるー!」


 待ってましたと、ナダカが持つビー玉目掛けて肩から飛び降りる。

 だが、見えていた筈のビー玉はいつの間にか彼の手から消えていた。


「同じ夢を見た二人の夢玉。その融合玉です。それなりに高く売れそうなので、タピはその辺の草でも食べてください。」

「えー。僕がせっかく見つけて来たのに―‼」



 そして、一人と一匹は闇夜に消えて行った。



「やっぱり、さっきの方に売ればよかったですかね。」

「止めてよ‼」

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トラウマ引き取り屋のナダカ 綿木絹 @Lotus_on_Lotus

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