23話
前準備を終えた僕らは自信を持って岸井のところへ向かうことができた。
僕らは岸井のアートギャラリーの前で立ち止まった。
「さあ、準備はいい?」
僕はアテナに訊いた。
「もちろん」
アテナは頷いた。
僕が店に入ると、カウンターに座っていた岸井は顔を上げた。
「こんにちは。どうされましたか?」
「事件の調査で進展がありましたので、少しお話しを伺ってもよろしいですか?」
「そうですか。どうぞこちらにかけてください」
僕は椅子に座ると、さっそく資料を提示した。
「この時計は岸井さんが卸したもので間違いないですか?」
僕は岸井に腕時計の画像を見せると、彼は眉を顰めた。
「いえ。覚えがないですね。私は絵画以外には疎いもので」
岸井は言った。僕は彼の言葉に確信を持った。やはり隠していることがある。
「そんな。ご謙遜なさらないでください。絵画以外にも、質草ならなんでも取り扱っていると業界では有名らしいですね」
僕は売買契約書のコピーを岸井に見せると、一転、彼は目を見開いた。
「この時計のトップナンバーを所有していたのは、殺害された三ノ宮武蔵氏だ。証拠にこの時計の箱が、三ノ宮家から発見されています。しかし、中身は盗まれたみたいですね」
僕はスマホで撮った箱の画像を見せた。
「あらためて伺います。これはどうやって手に入れたものですか?」
「……それは言えません」
岸井は額の汗をハンカチで拭った。
「なるほど。それならこの証拠を警察に持って行っても構いませんか? そうなれば、岸井さんは古物営業法違反で、職を失うかもしれませんよ?」
僕がいうと、岸井は苦しそうな顔をした。
「……塚本さんがこの証拠を持っていったって、無駄足になると思いますけどね」
岸井は意味深な言葉を吐いた。
「どういうことですか?」
「これ以上は私の口からは言えません」
なるほど。彼が口を割らないのなら、こちらから口を割らせるしかない。
「岸井さんは芸術のためならなんだってするそうですね」
「……何が言いたいんですか?」
僕は持ってきた包みを解いて、一枚の絵画を岸井に見せた。それはアテナのために残された部屋の屋根に隠されていた絵だ。この絵からはゲルニカやモナリザのような凄そうな名画の雰囲気が伝わってこないけど、価値のある作品であってくれ。いや、アテナのためにお父さんが残したのだから、これが価値のある作品だと信じるしかない。これで岸井を落とせなかったら、再び振り出しに戻るしかない。僕は心の中で祈った。
作品を見た岸井は、目が点になっていた。まるで絵画に吸い込まれるように、茫然自失になって絵画を見つめていた。
「これは、ゴッホのケシの花……」
「タグを見る限り、そうらしいですね」
「詳しく見ても構いませんか?」
「もちろん」
僕が絵を差し出すと、岸井は丁寧に手袋をはめて、ルーペを取り出して、細部を食い入るように見つめる。
「岸井さんがこの腕時計をどう手に入れたか話してくれれば、その絵を差し上げます」
「ええっ!? マジですか!?」
僕は一瞬、アテナの方を見た。彼女はさらりと頷いた。
「もちろん。約束します。ただ、こちらとしても、この絵の出どころは聞かないことを約束していただけたらの話ですが」
僕とて、これが殺人事件の起こった脱税疑惑のある家から持ち出した絵画だと知れたら、警察のお世話になってしまうので、釘を刺しておく。
岸井は大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
「もちろんお話しさせていただきます」
その言葉を聞いて、僕は胸を撫で下ろした。岸井が絵画ジャンキーで助かった。
「それで、腕時計は誰から手に入れたんですか?」
僕が訊くと、岸井は引き出しから、背表紙に買取証明書と書かれたファイルを取り出した。
「この人からです」
岸井が一枚の証明書を抜き取って、僕に渡した。腕時計以外にも宝石類やアクセサリー類を含めて1000万円の買取が成立していた。
名前の欄を見て、
「えっ?」
思わず声に出てしまった。驚いて頭が真っ白になり、僕の中の全てが停止した。
そこには灘祐介と書かれてあった。
アテナも僕の隣で口を震わせて驚いていた。突然、彼女は店の外へ飛び出した。
「おい、何処に行くんだよ!」
僕が呼びかけても、彼女は振り返らない。
「……どうかされましたか?」
岸井は僕の挙動に驚いて、訊ねた。
「あっ、いや……突発性シャウト病っていう持病があるんですよ。ところ構わず叫んじゃう病気でして。いやぁ、今日は薬を飲み忘れたんです。驚かせてごめんなさい」
僕は苦笑いを浮かべて、荷物を纏めた。
「薬局に薬を取りに行かないといけないので、これで失礼します」
僕は店を飛びだした。
「はあ……」
岸井は腑に落ちていない様子だった。
§
クソっ。何処を探しても見つからない。駅前も、ショッピングモールも、公園も、隅から隅まで探したのに、区画も綺麗に整理されていて、わかりやすいように住所と番地が振られている都会なのに、探し始めた途端に見失ってしまう。まるで、無限の中に足を踏み入れたような錯覚に陥る。人混みから彼女を見つけ出すのは、砂漠の砂一つ一つに、数字を割り振るような途方もない作業に近い。……いや、彼女は砂じゃない。それに人間でもないのだ。心の中に芽吹く一つの確信……スマホで調べれば出てくる可能性がある。
僕はツイッターを開いて、『幽霊』で検索すると、何件かそれらしいツイートが表示される、スクロールしていくと……あった。
——駅ビルの裏路地にバケモンみたいな幽霊がウロウロしてた。かなりヤバい——
僕は急いでそこに向かった。
裏路地へ入ると、近くに砂場があるわけもないのに、足元のアスファルトがジャリジャリと音を立てる。文化住宅が並び、磨りガラス越しのテレビの光が、路上に干している洗濯物を照らしている。見上げると、近くの駅ビルが夜空を支え、隣に作り物のような三日月がぶらさがり、まるで、舞台の裏側に入ったような感覚だ。
しばらく奥に進むと、空き地があった。アテナはそこにある土管にひとりで座っていた。彼女は月を眺めていた。
僕は彼女に何て言葉をかけていいかわからなかった。どんな表情で、どんな声色で、どんなテンションで、どんな言葉をかければいい? 正解はあるのだろうか?
僕は何一つわからないまま、
「こんなところで何してるんだよ?」と言った。
アテナは静かに僕の方を見た。しばらくして、
「わからない」
そう言った。演者が次のセリフをド忘れしたような間が開いてから、
「……あけみちゃんのお父さんが実行犯だろう。彼女のお父さんは刑事で、しかも署長という立場だから、現場にあった証拠のもみ消しぐらいは簡単にできる。だから、今まで事件が解決できなかったんだ」
僕は彼女が求めた答えを話すしかなかった。それが、優しい言葉とか、慰めの言葉なら、どれだけよかったことだろう。
「たぶん上原さんと……」
「もう、聞きたくないわ」
アテナは僕の方を見て、涙を静かに伝わせた。
「……わかった」
僕は彼女の隣に座って、彼女と同じように夜空を見上げた。それが僕が彼女にできる唯一のことだ。同じようにしていると不思議と彼女の揺れる思いを感じられる。
「お前を探し出すの、結構大変なんだからな」
「……でも、漱石にしか私を見つけられないわ」
「……もっとこっちにこいよ」
「えっ?」
「いいから」
僕はアテナの肩あたりを抱き寄せる仕草をした。
「……もう、何処にも行くなよ」
「……うん」
アテナは僕の肩に頭を乗せた。
§
あの日以降、アテナは元気そうにしているが、僕は彼女がどこか無理をしているように感じた。彼女はやっすんを探すと言って家を空けるようになった。彼女はひとりで何か抱え込んで、何かを割り切ろうとしている。それは自分の気持ちか、それとも犯人のことなのか、それは、わからない。だけど、僕はそんな彼女の力になってやりたいと思った。彼女が抱えている問題や、悩みや、複雑な心境、すべてを理解したいなんておこがましいことは言わない。だけど、僕は彼女と同じ土俵に立ちたいのだ。ただ、それだけなのだ。
そして、そう思っている僕がアテナにできることはひとつだ。
——この事件の犯人を捕まえて、アテナに頭を下げさせてやる。僕は、アテナを傷つけたヤツを許せない——
来週の課外授業で、警察署の社会科見学がある。犯人に自主させて、頭を下げさせる絶好の機会だ。それは今の僕にしかできないことだ。
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