18
「おい、あまり離れて歩くな」
ギンジは前を行くマリンに声を掛け、なずなは怯えながらギンジの後ろを歩いている。
すっかり夜も深まった住宅街は、ひっそりと静かで、道沿いの街灯が煌々と足元を照らしてくれている。
「…しかし、よく引き受けたな、こんな仕事」
「え、」
「お前の事だよ、あんな化け物の住処に」
投げやりに掛けられた言葉に、なずなは何故そんな冷たい事を言うのかと困惑した。
確かに妖は人ではないが、化け物ではない。なずなは、そう思っている。なのにギンジは、自分の事まで化け物と言う。
「お前だって本当は思ってるんだろ。俺達は人間じゃない、恐ろしいって」
「そんな、」
「気にするな、あのアパートに住むのは、つま弾きにされた連中だけだ」
つま弾き。その言葉に、なずなは思わず口を噤んだ。それは、なずなも同じだったからだ。
夢に自分が不必要と言われた時、どう生きていけばいいのか分からなかった。ギンジも、そんな風に言われた事があるのだろうか。ギンジを振った恋人とは、そんな悲しい言葉をかける程、ギンジに恐怖を感じたのだろうか、狼姿になったって、ギンジの中身は変わらないのに。
とは言え、実際、なずながギンジに対して抱くのは、恐怖心しかない。先ず初対面が最悪だ。ギンジの体が狼の姿に変わったあの時、あの大きな口で、あの鋭い爪で、自分は殺されてしまうんじゃないかと思った。マリンが身を挺して止めてくれなければ、今頃…そう思えば体が震えてくる。
アパートのハウスキーパーとして働く事になったからって、恐怖が消えた訳ではない、今だってギンジは怖い、それでも、ギンジが襲ってきたのは、あの時だけだ。
なずなはギンジの背中を見つめた。
たった一週間だけど、ギンジの背中を見ていて思った事がある。彼は、怒りながら傷ついてるのではないかと。
今だって、ギンジの背中は諦めに寂しく揺れていて、それは、自分と何ら変わらないように思えてくる。
妖がどんな人生観を思い描いて生きているのか、人間のなずなには分からない。でもきっと、怖いだけの妖じゃない。もしかしたら、恋した女性に投げられた一言から、今も自分の心を守る為に、なずなを責めるのかもしれない。だとしたら、それは勿体ない事のように思う。
そんな風に、世間から背を向けて生きなくてはならないギンジが、なずなは悔しかった。
「…そ、そんな風に言わないで下さい」
「あ?」
「ひ、」
ギンジに反論すれば、案の定ギロリと睨まれ、なずなは悲鳴を上げた。だが、今回は引かなかった。悔しいのは、ギンジに自分を重ねたからだ。なずなだって、これ以上傷つきたくない、ギンジにだって、不必要に傷ついて欲しくなかった。
「わ、私は、化け物とか思ってません!もし本当に怖かったら、毎日アパートに通ったりしません、きっと逃げてると思います」
正直、ギンジの事は怖いけど、という言葉は呑み込んだ。
「私、知ってます、
「まあ、嬉しい」
「ナツメ君だって努力家だし、ギ、ギンジさんだって、きっと、」
「たった一週間飯食った位で、俺達の何がわかる!」
「わ、わからないから、話さなきゃ、一緒に過ごさなきゃいけないんじゃないですか…!」
なずなはそれから俯いて、「勝手な事言ってすみません」と続けた。
「…私、春風さんにここで働かないかって言われた時、嬉しかったんです。この人は、私の事を必要としてくれてるんだって。私、バンドをやってたんですけど、ボーカルがソロデビューして、バンドは無くなっちゃって」
「まぁ…」
「それで、目標も気力も失ってしまって。でもここに来て、新しい世界を知って、必要とされてるかもって思ったら、子供っぽいかもしれないけど、私、役に立ちたいって」
ギンジは黙って話を聞いていたが、背を向けて歩き出してしまった。
「役に立ちたいなら、今すぐ別の仕事を探せ。結局お前は、好奇心と自分の為に俺達の役に立ちたいって言ってるだけだ、利用してるだけじゃねぇか」
「ちょっとギンちゃん」と、マリンが間に入ろうとしたが、なずながそれを遮った。
「自分の為で何が悪いんですか?皆さんの役に立ちたいと思う事が、そんなに悪い事ですか?」
「人間の、それも女は信用ならねぇ」
その言い方には、さすがになずなも苛立ちを覚えた。人間だから、女だから、そのカテゴリーに人を当てはめて、上辺だけで人を決めつけるなんて。
それでギンジも傷ついたのではないのか。
なずなはぎゅっと、手を握った。本心を伝え心を開いていたなずなは、苛立ちを抑えるストッパーが外れてしまったようだ。
「一度振られた位で、女が皆同じとか、そう思ってるんですか!?」
「振られた位だと!?」
「その人が女の全てですか?違いますよ、同じ人間なんて居ません!毎日毎日嫌な事ばかり言って!」
「そう言わせる人間が悪い!」
「なら帰ったらどうです?ここは、人間の世界です!人と仲良くならないといけないのは、そっちじゃないですか!ずっと疑問でした、このままじゃ、マリリンさん達皆が犯人扱いされたままですよ!?」
「なずちゃん、」
「仲良くしてとは言いません、でも、せめてちゃんと接して下さい。私を男と思って下さっても結構なので、普通に接して下さい!お願いします!」
なずなは怒りの勢いに任せてではあったが、頭を下げた。自分の為ではあるが、これは、ギンジ達の為でもある。
人の世で妖という正体を隠し、人に溶け込みながら生きていける、それを示す為に、人と交流を持たなくてはいけない。無理なカモフラージュだとしても、人との交流の無いあのアパートに人が居ると分かっただけで、何も知らない他の妖達は、彼らへの印象を少しでも変えてくれるかもしれない。
もし、自分が役立てる事があるとすれば、そこだけだ。
それに、変えたかった。不必要と言われる自分を。そう思い込んでしまう自分を。ここでまた切り捨てられたら、そう思えば怖くなる。それこそ、底なし沼に落ちていくように、未来なんて何も思い描けなくなってしまう。
でも、まだなずなには、彼らと出会えた事で希望があった。立ち直れる希望が。未来は見えないけど、今の自分を地に立たせる方法が。
「…変わった奴だ」
「良い子なのよ」
差し出された手に、なずなは顔を上げた。ギンジがそっぽを向きながら、手を差し出していた。
「…仲良くなんてならない、これは…一時的な協力関係になるだけで、」
「ギンジさん…ありがとうございます!」
あのギンジがこちらに歩み寄ってくれた、それが嬉しくて、なずなは堪らずその手に飛びつけば、ギンジはぎょっとした様子で「触るんじゃねぇ!」と、慌てて退いている。手を差し出してきたのはギンジなのにと、そんな態度に傷つく心の余白は、今のなずなにはない。ギンジが示してくれた行動が、気持ちが、なずなの心を感激で満たしてしまったからだ。そんななずなに怖いものはなく、笑顔で迫るなずなに、ギンジが顔をひきつらせて逃げるほど。そんな二人の様子に、マリンも楽しそうに頬を緩めていた。
「なずちゃん、その辺にしてあげて。ギンちゃんが照れてどうにかなりそう」
「て、照れてねぇし!」
「だってマリリンさん!これで私も役に立てます!」
胸を感激にいっぱいにしたまま、なずながマリンを振り返れば、そんななずなの言葉に、マリンはきょとんとした顔を見せたが、やがてその表情は優しい微笑みに変わった。
「なずちゃんはもう十分、役に立ってるじゃない」
マリンにそっと抱き寄せられ、なずなは、その優しい温もりに、満たされた胸がぐっと熱くなっていくのを感じた。誰かに必要とされる、こんな自分が。そう思えるだけで、こんなに嬉しい気持ちが溢れてくる。
なずなは、溢れそうな涙に困って誤魔化すように笑ったが、マリンは、なずなの思いを許すように、優しく頭を撫でてくれる。いつもひんやりとしていたマリンの手が、今はブランケットのように温かくて、心ごと包まれてしまったように温かくて。
なずなは言葉に出来ない思いに願いを乗せ、マリンの優しさにそっと身を委ねた。
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