たとえば57が素数だとして

∅《空集合》

第1話

 午前9時17分、祖父の心臓が止まった。

 病室のベッドに横たわる祖父の周りを、医師や看護師が慌ただしく動いている。その緊迫した光景を、俺は離れて見ていた。

 スマホをいじりつつ。

 ようやく場が落ち着き、どうやら祖父は一命をとりとめたらしい。ただし予断は許さない、と医師が俺に説明する。

 医師たちが去り、俺は一人でベッド脇の椅子に座っている。

 意識のない祖父を眺める。もともと痩せていた祖父の顔は、長い入院で骸骨になっていた。酸素マスクやら色々と管をつながれ、何とか生かされているという風情。

 もう行くか、と俺は腰を上げる。


 その瞬間、手首に強い力を感じた。

 危うく叫びそうになる。


 祖父が筋と皮ばかりの手を伸ばし、俺の手首を固く握っていた。

 目を閉じたまま。

「リー……マン……リー………マン………」

 祖父が酸素マスク越しにあえぐのが聞こえた。


 寒気が全身を這いずり回った。

 祖父の手を振り払い、壁際に後ずさる。

 そのとき、ベッド脇の机にぶつかり、机に無造作に積んであったノートの山が床に崩れ落ちた。

『リーマン予想研究18』『リーマン予想研究92』『リーマン予想研究65』『リーマン予想研究76』『リーマン予想研究35』『リーマン予想研究41』…………

 百冊近いノートが、死骸のように床に折り重なる。

 いつの間にか、祖父はまた静かに眠っていた。

 寒気がもう一度、俺を襲った。


 リーマン予想。

 素数の謎に迫る、世紀の難問。ベルンハルト・リーマンが、1859年に提出した予想。

 そして、祖父が解こうと執着していた問題でもある。

 宇宙の真理に迫るとか、歴史に名を刻むとか、そういうのが夢だったらしい。プロの数学者ではなかったようだが。

 そのせいで、人としては色々終わってた。数学の邪魔をするなと看護師さんを怒鳴りつけるのを何度も見ている。泣かせたこともある。

 ちなみにリーマン予想は、百万ドルの賞金がかかった七つの「ミレニアム懸賞問題」の一つ。でも、何かの間違いで祖父が解いてしまったとしても、きっと賞金は受け取らなかっただろう。

 実際、同じくミレニアム懸賞問題の一つ「ポアンカレ予想」を解いたグリゴリー・ペレルマンは、受賞を断っている。単にお金に興味がないだけではなく、色々と理由はあったようだが。


 崩れたノートの山をようやく机に積み終わった。

 祖父を見る。さっき俺の手首を握ったのは、ノートを取ろうとしていたのかもしれない。

 俺はノートを一冊山から取ると、祖父の手に持たせ——

 ——ずに、また山に戻した。

 もう俺は、こいつに従う義務はない。

 病室を出た。

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