パンダの中の人

押田桧凪

第1話

「ごめんね井上くん、四月からパンダやってくれない?」


 何の謝意もこもっていない、ごめんね。有無を言わせぬ鉄壁の笑顔。今朝見たニュース番組のキャスターが発していた、「ごめんなさ〜いっ! 今日の運勢最下位は蟹座のあなた!」と星に従っているだけだから私とは何の関係もない、とでも言いたげな他人の不幸に無感情なその声に似ている。ちなみに俺は蟹座だった。嫌な予感がする。


 ありきたりな名字の社員を対象に、家族構成・個人番号制度・生命保険加入の有無などを考慮した上で、1年間姿を消したところで何の問題もなく暮らせる人から『パンダになる人』が選出されるという都市伝説がこの動物園にはあった。職員の間では『パンダ』が出世コースを示す隠語としても使われていた。


「あれ、田中さんちょっと痩せました?」


「んああぐ、んあ」


 新入社員歓迎会に出席していた二個上の先輩である田中さんの実物を見て、俺は戸惑った。おそらく人語を忘れたのだろう。爪楊枝のように痩せこけた身体、幽霊でも見てきたかのような顔面蒼白な状態は「ちょっと」でフォローできるレベルでは無かった。アイヒマン実験という言葉が一瞬脳内をちらついたが忘れることにする。


『パンダの中の人』になる伝統がいつから始まったのかは定かではない。テーマパークのキャラならまだ良かった。体温調節機能(合成毛皮でできた着ぐるみ)に身を委ね、飼育員から1日1回の流動食投与を強いられる生活。今日この日をもって俺はそちら側の世界に踏み込むことになった。脳波は常にモニターされた状態で、笹を喰う速度・時間・頻度を内蔵されたマイクの指示に従って行う。バイオリズムは当然、本物のパンダに合わせることが課せられた。排泄はおむつ代わりの着ぐるみ内に組み込まれたデバイスがパンダの糞に似せた固形物に作り変えて体外に放出する。だが、規則としてなるべく排泄の場面を見られる事は避けなければならない(これはパンダは動物園のアイドルだからという糞みたいな理由からである)。ちなみに、パンダの獣臭さを演出する上では獣膠じゅうこうを用いている。家畜化された中のヒト──それを人間は『パンダ』と呼んだ。


 床で寝るのは銀シートを忘れてソロキャンプに出掛けた際、テント内で寝た時以来だった。


「ママぁ、ぱんださんがいるよー!」


「こら起こさないのっ。パンダさんはおねむなんだよ」


 精神と時の部屋は実在した。が、食事の時間以外は永遠に惰眠を貪れるかと思いきや、その声を聞いて、忽ち起床コマンドが発動する。パンダの生態・品質に劣化が見られないかを日本パンダ擬態協会から派遣された職員、一般市民から選ばれた検査官が来園客に扮して定期的な視察に来ることもあるのだ。つまり、これは一種の試験でもある。ここで適切なリアクションを返せなかった場合、パンダ失格となる。その後の行方を知るものは誰もいない。だから1年振りに見た田中さんが生きていたことに俺は安堵すると同時に、そのシステムの実態を予感した。パンダではない、と一瞬でも勘づかれてはならない。リアル人狼(パンダではあるが)ゲームで体を張ることになるとは子供の頃の俺は思ってもみなかった。


 パンダの眼球を模したレンズ越しの視力は0.5程度に抑えられており、視界はすべて白と黒しか認識できない。昔の無声映画を見せられているような気分でもあった。なお平均体温、呼吸、脈拍は既にパンダと人間は似通っているため特に調整の必要はなし。事前研修ではパンダ座りをして、食べる方法を二週間かけてマスターした。


 絶滅の危機に瀕しているジャイアントパンダ。しかし、もはやパンダは人間にとって『守られる存在』ではなく、『みんなで守っていく存在』だった。全国各地の動物園に支部を置いて、持続可能なパンダ像を保護する取り組み。その一端を担っているのが俺だった。



 そろそろ流動食に飽きてきた頃だろうか。地面に寝転ぶのはいいとして、食べるのがいい加減億劫になってきた。数キロの竹、笹は静音ディスポーザで砕いて排出されるが、食事だけで一日の半分を過ごすことになるからだ。あとは寝るだけ。退屈であることに変わりは無い。これで、日当……いくらになるんだろうか。労働契約書にサインしたはいいが、特に条件に目を通すことは無かった。


 と、考えていたところで人間的思考を保つ上で重要になる新たな作業が与えられた。爪で石版に文字を刻むことだ。ふつう日記というのは天気を記録したりするのだろうが、ここにいる間は何の心配もない。ただ、暑いか寒いか、空が青いか灰色か。それ以外に、何も感じなくなった。



4月12日

日付は園内放送で知った。5日目。何日経ったのかはまだ覚えている。パンダになれたのは偶然だったのでパンダの飼育記録を自分で書くことになると思ってもみなかった。独房と言っても差し支えないくらいの広さの部屋に収容された。初めて、今までプライバシーが守られていたことを実感した。疲れたので寝る。


5月19日

大型連休、これはきっとNHKの言い方だろうか。それぐらいはまだ分かる。その期間は人がいっぱいやってきた。子どもの日限定で入園料が無料になるからだろう。疲れた。寝る。


6月3日

公募で俺の名前が決まったらしい。外で騒いでる親子がそんなことをしゃべっていた。凛々しいとか何とかで、「涼涼リンリン」になったらしい。風鈴みたいだ。かき氷が食べたい。


7月17日

氷がもらえた。氷の中にりんごが埋まっていてそれをとにかく掘り出そうと必死で地面に押し付けたり、近くにあった石でラッコみたく崩そうとしたが、規則に引っかかるところだった。パンダらしからぬ知識を獲得したとなれば減給になるのだろうか(良かった、まだ金という概念が自分の中で存在している)。与えられることに慣れてくるのも怖い。


8月20日

穴を掘った。システムのバグなのかわからないが鉤爪モードが搭載されていたので、それを使った。昨日の停電で夜間の監視カメラが停止したようなので、今のうちにまた掘る。家庭の電力がひっ迫とかで、節電が行われるようにもなった。暑い。向かいに見える象が憎い。水浴びがしたい。


9月5日

爪が切られた。サイの角が高値で取引されることから、密猟を逃れるために削られるのに似ている。爪は人間にあるから有用なのだろうか。監視カメラが復旧したその翌日には直径15センチほどの小さな穴だが、俺が掘ったのを見破られてしまった。人間、鋭い。なかなかこうかつ(漢字を忘れた)なやつらだと思ったが、それは俺の方かもしれない。まだ暑い。


10月20日

壁に文字を見つけた。いや、元々からそれをあったが今まで気づかなかっただけなのかもしれない。無人島で日数とかを数えるときにつける印。ここまで書いて思い出した。タリーマーク。たぶん、田中さんが書いたのかもしれない。いや、風化の程度からしてもっと昔のものかもしれない。


11月7日

顎を持ち上げようとしたら口が開かなかった。噛めない。噛む力。咬合力。こうやって自分でクイズを作って、忘れないようにするのにも慣れた。とりあえず今は話せない。歯をかちかち鳴らして、噛むトレーニングをする。タバコをやめた人がよくガムを噛んでいるがそれと同じだ。噛まないと死ぬ。そんな気がする。


12月16日

ツリーの木が飾られた。意味が同じ。むじゅん。矛盾。盾と矛。だんだん文じゃなくなってきたような気がする。石版は毎日書きたいことを書けるが回収されるので今まで何を書いてきたのかも覚えていない。保存されているのかもわからない。思い出した。もみの木。食べられそうな気がする。


1月4日

新年度からお疲れ様。なんだか偉そうだ。3日間の空腹には耐えた。年始の間はいつもと違う格好のやつらがやってきた。食事がなかった。死ぬかと思った。


2月10日

寒い。


3月11日

あったかい。園内の放送を聞いて、みんなが突然立ち止まって目をつむった。面白い光景だった。木登りが得意な猿のやつらだったら今のうちに職員の目を盗んで逃げることができたかもしれない。ラッキーだ。


4月17日

疲れた。





「い、えさん。い──のうえさん聞こえますか?」


 覆われていた視界、モノクロの世界。そこに光があった。軽くなっていく身体がすべてから解き放たれているような、あるいはここがまだ夢の中であるような気がして、この場所、匂い、空気、風、色、すべてのものをずっと前から知っているような気がして、でも知らないような気がした。声が、出ない。頑張って出してみようとするが、くぐもった腹の底から響く音が鳴るだけだった。


 んぐああ、んん。ぐ。んああぐ、んあ。ああんぐ。


 俺は、パンダだった。

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